20 再出発
あれから半年。権勢を誇った田中一族は、最初から存在しなかったかのように表舞台から退き、事件の事を口にする者もいなくなった。
ドラックパピヨン京都13号店も、すっかり日常を取り戻した。
ドラックパピヨン京都13号店の日常。
それは、沢田さんや市井さんが青い顔で走り回り、時にクレーム客の怒声が響き渡り、高確率でクレームの原因である波窪さんが、仕事をしているフリをしていたり、フリさえしていなかったり。そして、寄せ集めた堪忍袋の緒が、束になってぶち切れた沢田さんを、内心自分も怒りながら、なんとか宥めようと必死で取り繕う店長。
誰もが、それぞれの能力に応じて、無理する事無く、楽しく働ける職場を作ろう!就任当初、そんな理想を高々と掲げていたミスターコンプライアンス。振り上げていた腕はそろそろ四十肩で、笑顔が常に引きつっている。
こんな光景を見るのも今日が最後。ドラックスタッフ最後の日に、咲哉は大きな決意を抱いて、白衣に袖を通した。
今日こそ、沢田さんに感謝を述べる。
半人前の店員を庇い、助けてもらった事ではない。 命を助けてもらった事だ。
車に跳ねられ、おろおろするばかりの運転手と、横目で通り過ぎて行くたくさんの人。絶望の中でたったひとり、懸命に救護してくれた人。幼い甘えから、自暴自棄になりかけていた頃、生きたいという本心を、思い出させてくれた出来事。
未だにお礼が言えていない。それどころか事実を告げる事さえ出来ていない。
常に目の前の問題の解決に、全力を傾けている沢田さん。過去の事になど拘っている暇はない。
ひょっとしてあの時の高校生じゃない?なんて、不意に沢田さんが思い出してくれるなどとは、もう一切期待していない。
一瞬の事、ほんの僅かな可能性の話だったとしても、連続殺人事件の犯人説が頭をかすめた事を、咲哉は心底反省している。
沢田さんには、狂気の犯行に及ばせるまでの、積年の鬱憤を溜め込むような、そんな記憶力はない。
真犯人だった二階堂君は、岩崎さんとともに、岩崎さんの実家の島に移住した。この時代、何処に住んでいても仕事は出来る。
岩崎さんの母親も、介護の苦労を分け合う事が出来るようになった。苦労が絶えなかった人生に訪れた小さな安らぎ。
回線で繋がったディスプレイの中、親孝行の手助けをする事が出来て幸せなのだと、そんな近況報告をしてくれた二階堂君の笑顔。少し苦しそうだったけれど、本心だったと思う。
みんな幸せに暮らして欲しい。けれど、二階堂君と岩崎さんは、重すぎる罪を背負って、この先本物の笑顔を取り戻す事が出来るのだろうか。
それでも、生きていれば、いつか明るい未来が見える。
生きていれば。
黙々と働く田中さんの少し困ったような表情が、咲哉の頭をかすめる。
どこかで生きていて欲しい。
自分を苦しめた者たちへの復讐が終わって、田中さんの心は救われたのだろうか。そうだとしても、代償として失われたのだとしたら、命はあまりにも重い。
命の重さに半ば恐れを抱き、圧倒されながら、ビールのケースを大量に抱える咲哉。
重い。
けれど、手早く終わらせなければならない。
アルコールは波窪さんの唯一の担当。しかし力仕事はキツイので、決してやろうとしない。
やらせようとする店長や沢田さん。誤魔化して逃げ続けてタイムアップを狙う波窪さん。
今日は、いつものように、そんな鬼ごっこを観察している時間はない。お礼を言わなければならない。沢田さんがぶち切れる前に。
最速でアルコールの品出しを終わらせ、命じられた商品棚の整理を進めながら、沢田さんが管理する食品スペースに近づく。
猛スピードで発注機を操作する沢田さん。心なしかそのキーを叩く音が乱暴に響いている。よく見ると肩が震えている。
時すでに遅し。
今日も沢田さんはぶち切れていた。波窪さんが沢田さんをぶち切れさせる理由は、もちろんアルコールの品出しについでだけではない。
レジでクレームが発生した。
波窪さんの接客態度のせいだ。
波窪さんは「いらっしゃいませ」の一言だけで客を怒らせる事が出来る、ある意味特異な才能を持っている。
今日もそうだった。
長蛇の列。レジ応援に呼ばれる。まず、レジに入るなり、面倒くさそうに溜息をつく。そして、感じの悪い声色。それだけで、列に並んで会計を待っているお客さんは不快になる。そこへ持ってきてよくミスをする。さらに、ミスの処理をする際には、このくらいどうってことない事ないでしょ?とでも言いたげな、謎の上から目線。怒るお客さん。
「次のお客様どうぞ」
そう言われてレジから出るも、怒りは収まらず。傍にいたスタッフを捕まえて、クレームを入れる。
おろおろするスタッフ。それもそのはず、おそらく咲哉とほぼ入れ違いに戦力となる予定の新人スタッフだ。
クレームの原因の波窪さんは、ああ忙しいという風情を前面に出しながら、いつもより気持ち熱心にレジ業務を続けている。
不穏な気配を察して飛んできたのが沢田さん。
平身低頭、お客さんに謝罪して帰ってもらった頃には、レジの列も途切れ、殺意に近い念のこもった鋭い視線を送った先の波窪さんの一言。
「休憩行って来ます」
「こっちは出勤時間削られて、給料ダダ下がりで、それでも時間内に終わらそうと必死で働いてるのに、お前は田舎の縁側の年寄りかってくらい、日がな一日おしゃべりしてるアイツが、できんかった言うて残業つけとんねん。ああ大変とか言いながら。いい加減やってられへんから、異動希望出そう思ってん」
「転勤するんですか?」
ぎくりとする咲哉。この状態で沢田さんが抜けたら、大変な事になる。退職を決めた自分に心底ほっとする咲哉。
「けどな…ロシアンルーレットやねん」
「ロシアンルーレット?」
「聞く所によると、この会社には、波窪みたいなんが、3人おるらしいねん」
現場レベルではどうしようもない。本部の教育担当がきっちり教育するべきではないのか、そんな疑問を感じていた咲哉。最後になって認識を改める。
どうして見抜けないんだろう、本部の採用担当は。
今更考察しても仕方がない。不満を口にして、ほんの少しすっきりした表情の沢田さん。
言わなければならない、大切な事を。
「あの…」
「ん?」
「ありがとうございました」
「ああ、今日最後やな」
思い出したように頷く沢田さん。きっと忘れていたと思う。
「そうなんですけど、その、助けてもらってありがとうございました」
「ああ、気にせんでええで、あのオッサンに絡まれてたやつやろ?」
確かに、よく助けてもらった。どのオッサンの件を指すのかは定かではない。
「いや、そうじゃなくて、それもあるんですけど、ほんとに助けてもらって」
「何を?」
腹に力を込める咲哉。
「命」
目を見開き、咲哉の顔を見つめる沢田さん。やがて思い出したように口を開く。
「そうや、本城君って、たまに面白い事真顔で言うよな」
そう言って、爆笑する沢田さん。
面白くはない。
「そうや、大変や、広告に載るセールの米発注しとかなあかんねん」
焦ったように、お米コーナーに走りだす沢田さん。
今の沢田さんにとって、咲哉の命より5キロ1500円のコシヒカリの方が気になるようだ。
「あの!」
最後の気力を振り絞り、追いかけ、呼び止める咲哉。
「これをもらって下さい」
ポケットからカードを取り出す咲哉。
「凶カードじゃないよね?」
恐る恐る手を出す沢田さん。
「威力のある凶カードなら良かったんですけど」
それは、出来たばかりの名刺だった。
「いつか、役に立てるかもしれません」
柳生探偵事務所、よろずお助け課、本城咲哉。
「正攻法では解決しない問題も、探偵ならではの方法があるかもしれません」
思いを込めた真剣な咲哉の言葉に、真意を測りかねたように首をかしげる沢田さん。一瞬何か言いかけて、はっとしたように口を開く。
「米!」
やはりコシヒカリには勝てなかった。
お礼は次の職場で、いつか、きっと。
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