12 憂鬱な職場

 ベッドに入って小一時間。なかなか眠れない。

 あれから随分経つのに、左足首のやぶ蚊に刺された跡がまだ痒い。

 結局、何故だか、縁もゆかりも雇用契約も一切ない、北山の豪邸の奥様の次男坊、やんちゃな猫の捜索に付き合わせれ、雑草の中を這いつくばる羽目になった。

 この件が済んだら、探偵、柳生順平とは一縁を切ろう。絶対切ろう。

 心に誓う咲哉だった。

 事件の進展は何もない。マスコミ報道も、探偵からの連絡も、勝山さんの情報網も、知らせは何もない。

 店の勤務体制には、いくらか進展があった。問題山積の中、何の仕事もせずに、病気療養に入った店長は、降格異動となり、新たな店長がやってきた。

 八峰店長。人呼んでミスターコンプライアンス。

 誰もが、それぞれの能力に応じて、無理する事なく、楽しく働く事を目指そう。そんなスタンスの店長。

 ギリギリまで自分を追い込んで、ベストを更新し続けなあかんのや。血吐いてからが本番や。まだまだいける。死ぬまで働け、そんなパワゴリ君とは対極に位置するスタンス。

 人望のある優秀な店長らしく、スタッフは歓迎ムード。

 中でも喜んでいるのは、頼りにしていたパワゴリ君に、あっさりと、バッサリ切り捨てられた梅木さん。

「八峰君とは飲み友達なんよ」

 長く勤めていれば、飲み会の機会くらいはあるだろう。これもまた、自分を大きく見せたい梅木さんの、人脈アピールである可能性は高い。 

 あのキツイ物言いで、同僚をイジメ抜くような人を、楽しい職場を目指す店長が許容するとは思えない。

 しかし、脅し上げてでも、梅木さんをクビにしそうだったパワゴリ君の作戦には、妨害となりそうだ。沢田さんにとっては、どちらの差配が良いのだろう。

 沢田さんのへの嫌がらせは、表面上、少し落ち着いている。

 梅木さんの顔を見るだけで、拒否反応から貧血を起こすなど、体調に変調をきたすようになった沢田さん。教科書通り、見本のような綺麗な適応障害。

 店長が状況を把握して、梅木さんに釘をさしている。沢田さんに関わる事を禁止。

 一方、沢田さんに対しては、一切梅木さんの傍によらなくていい。挨拶もいらない。そう言って、心の負担を軽くしながら様子をみている状態だ。

 それでも、何かというと、沢田さんにあてこするような皮肉を、沢田さんに聞こえるように、誰かに向かって大声で言う梅木さん。

 一日店にいても、波窪さんと雑談に興じたり、ビューティーコーナーの椅子に座ってのんびり作業をしたり、真面目に働いているようには見えないのに、細々とした嫌がらせだけは、手を抜かない。

 そんな事を考えていると、携帯が震えた。

 ドラックパピヨン京都13号店スタッフのグループラインだった。

 市井さんから、ねぎらいや感謝の言葉や、絵文字満載のカラフルなメッセージ。

 いろいろ満載過ぎて、肝心の要件がわかり難いのは、会話と同じ。

 20行を超える長文をじっくり読み解くと、店のポスカが見当たらないのだけれど、誰か知りませんか?という内容だった。

 このカラフルなメッセージ。本来なら、読みにくいと一蹴するところが、市井さんの人柄と相まって、何故か心を和ませる。

 みんなが返事をする。どうやら、誰かが持って帰ってしまったようだ。いつの間にか話は少しずつ本筋を外れて、雑談に近くなる。和気あいあいと楽しい職場。LINEメッセージの着信音が止まらない。

 しかし、ひとつのメッセージを境に、さっきまで煩かった着信音がピタリと止んだ。

 "ポスカならビューティーコーナーに、ビューティースタッフ用のがあるからどうぞ遠慮なく使って"

 梅木さんだ。

 "やっぱりPOPは手書きじゃなきゃね!手書きPOPが最高!!頑張って描いて!"

 そうとうな努力をして、iPadでの印刷POPを習得した沢田さん。完全に沢田さんへの嫌味だ。スタッフ全員が見ている前で、その功績を貶めているのだ。

 もちろん、驚異的な時間短縮に、下手な手書きよりずっと高いクオリティで、みんなその功績を認めている。ただの梅木さんの性質の悪いイジメだとみんなわかっている。気にする必要などどこにもない。

 しかし、だからと言って、名指しで貶められて傷つかないわけがない。既に、心は疲れ果てているはずなのだし。

 ”ありがとうございます。使わせて頂きます”

 しばらく経って、グループラインには、礼儀正しい市井さんの、全くらしくない装飾なしの謝意が表示された。

 


 翌日、咲哉は最低な気分でレジに立っていた。

 沢田さんは、出社すると、いつものようにビューティーコーナーを避けるようにして、大回りにバックヤードへ向かう。偶然か嫌がらせか、その通路に立ち塞がる梅木さん。そっちは危険だ。止める間もなく鉢合わせる。途端、見る見る沢田さんの顔から血の気が引き、トイレに駆け込んだ。

「あらあら、病弱は困るわ」

 そう言いながら、薄ら笑いを浮かべる梅木さん。

 結局、タイムカードを押す事もなく、沢田さんは帰って行った。小さな嫌がらせに、着実に沢田さんの心を蝕まれていく。


「いらっしゃいませ」

 波立つ心を抑えながら、淡々とレジを打つ。遠く聞こえる梅木さんの笑い声。右手が僅かに震えて、スキャンした商品を取り落としそうになった。

「本城君、どないしたん?珍しく怖い顔してるやない」

 列が途切れると、そう言って話しかけてきたのは、レジ横のパンの発注をしていた勝山さんだった。のんびりしているようで、案外、鋭いところがある。

「いえ、なんでもないです」

 咲哉の返答に、疑わし気な勝山さん。理由は薄々わかっているに違いない。苛立ちのせいか、情報通の勝山さんに、密かに意味もなく挑んでみたくなった。

「ところで、川崎店長、ここをパワハラでクビになって、その後、どうなったか知ってますか?」

 探偵に教えてもらった情報だ。この情報なら勝てる。

「そやね、確か、別のドラック行って、そこも結局あかんかって、そこから、業界に悪い噂が広がって、関西のドラックは、どこも無理ってなって、それから、どないしたんやろな…」

 最新情報はないにしても、その手前までは探偵の情報を超えている。意味のない挑戦に、意味のない敗北感。

「その後、父親のコネで無事就職されたそうですよ。苦労はしてるみたいですけど」

 情報源を聞かれたら困る。話すつもりはなかったけれど、つい負け惜しみで口を滑らせてしまった。まずいと思い焦る咲哉。本当に今日はどうかしている。

「ほんとですか!」

 予想外の勢いで、そう反応したのは、這いつくばるようにして、栄養ドリンクの補充をしていた市井さんだった。

「ま、まあ…」

 川崎氏には、市井さんも嫌な思いをしたに違いない。沢田さんがパワハラを受けたのも、最初は市井さんを庇っての事だったそうだし、市井さんも川崎氏のその後には思う所があるのだろう。そんな咲哉の想像に反して、市井さんの食いつきは、別の方向へ行く。

「無事に生活されているんですね?」

「そのようです…」

 心底ほっとした様子の市井さん。腑に落ちないでいる咲哉。

「あんなプライドの塊みたいな男の人が、いい年して仕事もなかったら、どないなるやろって、トコちゃんは、心配してたんよ。自分のせいかもしれんって、お人好しやろ」

 市井さんの心の中を解説し、半ば呆れたように笑う勝山さん。

 お人好し。そんな生易しい言葉で表現出来るレベルの人格ではない。         

 市井さんの心には悪意という物が存在しないのかもしれない。善人の見本のような人だ。

 お陰で情報源を追及される事はなかった。


 午後三時。バイトは無事終わった。荷物を取りにバックヤードに戻ると、台の上に鞄や紙袋が幾つか並んでいた。化粧品の冊子やサンプルやタオルやポーチが顔を覗かせている。明らかに梅木さんの私物だ。

 絶対辞めへんねん!その無駄に場所を取る私物が、そんな自己主張をしているように見えた。

 疲れが一気に増し、うんざりしながら見るともなしに台の上を眺めていると、扉が開いた。梅木さんだった。

「ごめんやで、仕事にいるもんやさかいな、来年も使うもんもあるし、持って帰っとこ思って」

 来年も辞めへんねん!物以上の自己主張だった。

 最近梅木さんの咲哉に対する当たりが強くなってきた。沢田さんの子分だと思われているようだ。否定するつもりはない。

「あんたは、いつまでもアルバイトしてるつもりちゃうやろ?準社員の女なんかに偉そうに命令されてんの嫌ちゃうん?ほんま情けない」

 沢田さんは、仕事の全体を把握して、的確な指示を与えてくれているだけだ。無駄に偉そうなあなたとは違う。そんな風に言おうと、意を決してひとつ息を吸い込んだところで、何かを感じたように梅木さんは慌てて出て行った。

 攻撃的な人は案外攻撃される事に弱い。

 怒りに震えた手の持っていき場を失い、仕方なくポケットに手を入れる。手に触れる厚紙の感触。

 ふと思い出す。虚ろな沢田さんの目。その目に向かって言った言葉。

「きっと、そのうち、天罰が下ると思います」

 そろそろ下るべきだ。

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