11 マスク泥棒は誰だ?

 仕事を終えた咲哉は、数日前と同じように、言い訳の百円玉を握りしめて、バックヤードの奥を捜索していた。

 今日は探偵と会う事になっている。実際に会うのは、突然家に訪ねてきたあの日以来。しかし、捜査報告という形でメールは頻繁に送っている。

 沢田さんへの恩義と真面目な性格に付け込まれ、探偵の口車に乗せられて、結局仕事をこなしている。

 時給50円。

 こうなったら、真実を知りたい。

 咲哉の中の最有力容疑者は、元アルバイトの豊川さん。もちろん報告書にも書いた。報告書の作成の度、事件について自分なりに考える。

 店への恨み。第一の被害者一家との確執。

 さらに、マスク横流し横流し事件。困窮していた豊川さんが関わっていた可能性はないのか?そんな考えが浮かんだ。それについては当時捜査をしたという探偵が詳しいはずだ。まだ詳しい話は聞いていない。

 探偵は車で店まで迎えに来る事になっている。それまで、捜索の続きをしようと思った。

 スクラッチカード。凶が出たら死ぬ。

 ポケットを探ると少しくたびれたカードがある。波窪さんに押し付けてやろうか。そんな事を考えたのは一瞬の事。

 殺人事件なんて幻で、全てはこのカードの威力。信じてはいないけれど、そんな馬鹿げた想像が頭の片隅にある。

 悪人を倒す魔法のカード。なんだかお守りのような気がして、結局持ち歩いている。

 カードの感触を確かめた時、バックヤードの扉が開いた。再び前回の捜索と同じ。不穏な空気が立ち込める。

 梅木さんに追いつめられるようにして、沢田さんが入ってきた。

「私のどこがそんなにあかんの?」

 いつもより随分穏やかな口調だった。それでも不快に響く高く尖った梅木さんの声。若干泣きが入っている。

 言葉を詰まらせる沢田さん。

 代りに答えていいのなら言いたい。だいたい全部。やる事なす事。腐った性根。心の中で呟く咲哉。

 もちろん答える事はできない。前回以上に微妙な場面に遭遇してしまった。一切身動き出来ない。

「私も、この店に転勤になってから、すごいストレスで体調もボロボロなんよ」

 あり得ない。あんなにやりたい放題なのに。梅木さんの意外過ぎる発言に、つい心の声が漏れてしまわないかと、口元を押さえる咲哉。

「これまで長い事頑張って来たんやし、今更他所で働くなんて考えられへんさかいに、まだまだここで働きたいんよ」

 パワゴリ君から退職を勧告されたのだろう。そこで一転下手に出て泣き落とし。

 悪くない策だと思う。

 あれだけイジメられてたら、謝罪されても簡単に許す事はできないだろう。それでも、目の前の人間のこの先の人生が破綻してしまうとなるとなれば、きっぱりと拒否するのは度胸がいる。この年で再就職は厳しいだろうし、年金受給にはまだ間があるし、バツイチで頼る相手がいるのかどうかはわからない。

 沢田さんの人としての情に訴える。間違いなく情には熱い人だ。被害者の沢田さんが庇い立てすれば、首の皮一枚繋がる可能性がある。

「直せるとこは直すさかいに、私の何処が悪いか言うてみて」

 明らかに涙声。

 梅木さんの悪い所。心の中で指折り数える咲哉。

 問題なくたくさん言える。しかし、正直に言うのが正解なのかはわからない。

「あの…」

 沢田さんも問題の正否に迷いながら口を開く。

「私は梅木さんに仕事を振らなあかん立場じゃないですか。なのに、どんな指示を出しても、聞いてもらえなくて、なんて非常識な事言うの、とか、ことごとく攻められて、怒鳴られて、もうどうしていいのかわからないんです」

 お題の梅木さんの悪い所。極限定的で、その中から底意地の悪さ加減を過小に加工して口にした沢田さん。

 しかし、見る見る梅木さんの顔色が変わる。

「私が悪いって言うの!」

 梅木さんの悪い所。正解は決して言っちゃいけない、だった。

 もう、梅木さんに涙の気配は欠片もない。

 やはりウソ泣きだった。

「だいたい何?ろくすっぽこっちの顔も見んと、失礼ちゃう!」

 突然の勢いに気圧され、青ざめる沢田さん。体が震えている。

「あんたのせいで、私、いろいろ言われて、ほんま最悪やねんからね!」

 次々とキツイ言葉をまくし立て、ガチャンと大きな音をさせて扉を開けて出ていく梅木さん。

 人の口から発せられる罵詈雑言は、自分に向けられなくても心を酷く消耗させる。

 茫然と力を失う咲哉。そしてもうひとりひそかに魂を抜かれた人がいた。沢田さんではない。額に手をあて、トボトボとバックヤードに入って来る。

「扉がぶつかってきました」

 そう呟いたのは市井さんだ。

 その蒼白さ加減からすると、今のやり取りを外から聞いていたのだろう。そして茫然としているとろこに、勢いよく梅木さんが開けた扉があたったようだ。

「トコちゃん血ぃ出てるやん!」

「ああ、いや、いや、その、えっへっへ」

 いつもの意味不明なリアクション。途端に張り詰めて空気が和む。どうやら大した怪我ではないようだ。

「ほんまに、もう、こっちおいで、絆創膏貼ったるわ」

「やったー!」

 嬉しそうに手当を受けている市井さんの笑顔に、なんだか沢田さんの心が癒されているようだった。


 人の気配がなくなるのを待って、バックヤードをそっと抜け出し駐車場へ。

 程なく、咲哉の隣に横付けされた一台の黄色のフィアット。

「お待たせ相棒」

 窓から顔を覗かせたのは、厄介な客コードネームJのフリした実はミステリショッパー。その実、探偵、柳生順平。

「相棒ではありません」

 必要な否定を事務的にこなし、促されるままに助手席に乗り込む咲哉。

「どこへ行くんですか?」

「う…ん」

 あやふやに返事を濁して、アクセルを踏みこむ探偵。 

「マスク横流し事件」

 大通りに出ると、突然切り出す。

「目の付け所は悪くない」

「じゃあ、やっぱり豊川さんだったんですか?」

 豊川さんが、マスク横流し事件の容疑者の筆頭に浮上する。これを端緒に事件解決に近づける気がした。

「いや、容疑者はで深夜勤務だった郷田一太、25歳。フリーター」

 事はそこまで単純ではない。肩を落とす咲哉。

「いかにも、ってヤツだ。深夜営業が始まった当初に採用されたようだ。その頃はまだ深夜勤務の応募が少なくて、早く24時間営業を開始したかった本部の圧力で、応募者は、履歴書に自分の名前を書ければ採用だった」

 さすがにそれは言い過ぎだと思う。そこまでレベルの低いスタッフがいたら、周りの人間が迷惑を被る。そして全うな人間から順に辞めていくだろう。

 ふいに、偶然と勘違いと不注意からで受けてしまった面接を思い出す。本来は別の人の面接が用意されていた。前歯の欠けた田所さん。当時の深夜勤務なら合格だったのだろうか。

「本部の指示で深追いはしなかったんだが、ちょっと違和感があった」

「違和感って?」

「それを今から探りに行く」

 

 郷田太一の家は車で10分程。2階建ての古いアパートの1階。

 探偵は後部座席から荷物を取り出し、咲哉の手に押し付ける。黒のジャケット、黒のキャップ、サングラス。

 暑苦しいコスチューム。首を傾げる咲哉。ワザとのように反対方向に首を傾げ、それっきり微動だにしない探偵。

 ただでも暑い。こめかみ辺りから汗が流れだす。しかし、装着しなげれば話が前へ進まない。いや、決して進めない。探偵の目がそう言っている。仕方なく袖を通す。

「良い子のお散歩じゃないんだよ」

 そう言うと、探偵は、咲哉の浅く被ったキャップのツバを持って、サングラスに当たる位置までずらす。

「ちょっと、らしくなった」

 らしい先が何を模しているのか見当がつかない。当惑する咲哉をよそに満足げな探偵。すたすたと歩きだす。

 玄関の前。呼び鈴を鳴らす。反応はない。

「留守ですかね?」

 咲哉の問いに、探偵は首を横に振る。

「いる」

 そう言われて注意深く観察すると、微かに人の気配を感じる。呼び鈴を連打する探偵。やがて、扉がひらく。

「うっさいな」

 不快そうな表情で出てきた若い男は、大柄で肥満、無精ひげを生やし、薄汚れたスエット姿。いかにも胡散臭い。目つきも悪く、店舗スタッフが務まるとは到底思えない。履歴書に自分の名前を書く能力。探偵が言った求める人材の合格ラインも、冗談ではないのかもしれない。

「久しぶりだな、郷田君」

 ハードボイルド気取りの時にも、ミステリーショッパーの時にも、想像もできない威圧的な探偵の低い声。

 元捜査一課刑事。冗談とも本気ともつかない、捉えどころのない探偵。その内に秘めたプロの仕事の一端を覗き見たような気がした。

 反射的にのけぞる郷田さん。しかし身に覚えがないように眉をひそめる。

「忘れたか?マスク窃盗の件で調査にあたった柳生だ」

 思い出したようにハッとした表情。それは即座に心底うんざりした物に変る。

「いい加減にしてくれや。マスクのひと箱くらいで、いつまでつきまとう気や」

 何かを察したように、探偵の右眉がピクリと上がる。

「残念だったな」

 嘲るような薄い笑い。そんな探偵の傍ら、死ぬ寸前までは呼吸を止める覚悟で、気配を消して、小さくなっている咲哉。

「ケチなコソ泥なんて、どうだっていい。警察が探しているのは連続殺人犯!」

 その語気とともに、ジャケットの後ろを引っ掴まれ、体ごと郷田さんの目の前に差し出される咲哉。

 郷田さんのデカい顔が、五センチ先にある。

 はっきり言って臭い。

「彼は既に捜査に入っている。京都府警捜査一課の潜入捜査員だ」

 突然のご指名にギョッとして探偵の顔を見る咲哉。その顔を見て大きく頷く探偵。仕方がないので頷き返す。

「店の近くであった殺人事件、知ってるだろ?正直に言わないと逮捕するぞ!。別件で引っ張って、厳しい取り調べだ!」

 目の前のデカくて怖い顔から、見る見る血の気が引いていく。

「正直に言えよ!盗んだマスクはひと箱か?」

 震えながら小さく頷く郷田さん。

「警察が本気を出したら、嘘なんかすぐわかるんだ!嘘ついたら終わるぞ!何箱だ!」

 震えが激しくなる郷田さん。その怯え方に比例して若干臭いも酷くなる。

 君はカメムシか?心の中で独り言ちる咲哉。

「二…いや三…三箱です。ほんとうです」

「間違いないな?」

 大きく何度も頷く郷田さん。素人目にも嘘がつける状態には見えない。

 

 郷田さんの家を後にして、再び車に乗り込む。事務所に戻るからついて来いという。断る理由も気力もないので大人しく付き従う。

 車は堀川通を北上する。

「嘘に巻き込むのは辞めてもらえませんか?」

 少し落ち着いたところで、控えめに抗議をする咲哉。

「嘘?」

 左手でハンドルを持ち、右手で頭を搔きながらすっとぼけた顔をする探偵。

「誰が京都府警捜査一課の潜入捜査員なんですか?出鱈目じゃないですか」

 しかも、冷静に考えると、必要だったとは思えない嘘。

「出鱈目とは失敬だな」

 探偵は悪びれる風もない。

「元京都府警捜査一課の探偵が雇った潜入捜査員だ。ほんのちょっと端折っただけだ」

 事実を把握する上で致命的な端折り方だ。

「誰かの影に隠れてたんじゃ、つまらないだろ?探偵ごっこも」

 理屈は無茶苦茶だけれど、どこか胸に刺さる。

 父の後輩だという探偵。父に何かを託されたのだろうか。

 順風満帆には程遠いけれど、家族に愛され、衣食住に困る事もなく、五体満足に生きてきた。それでも、小さな心の傷、迷い、劣等感。咲哉を悩ませる些細な障壁に対して、両親がいくらか背負っているように見える罪悪感。

 冷たく流れる空気を温めるように、本来の話を始める探偵。

「マスク盗難。三箱じゃ話にならない。ケースでごっそりだ。うまく捌けば、当時なら三十万。差し当たって豊川君の窮状を救う事は出来たかもしれないな…けどな…」

 言葉を濁す探偵。

「けど?」

 咲哉が先を促すと、迷いながら口を開く。

「当時のマスクの市場価格がバカバカしいほど高騰していただけで、店の損害額としてはそれ程でもない。けれど犯罪だ。そんな大胆な事を彼がひとりでやれたのか…」

 協力者。そう言われて浮かぶのは二階堂君。似た境遇で育ち、兄弟のような仲だったという。探偵の頭に浮かんでいるのも同じ名前。

「しかし、あの子がやるなら、もっと上手な金の工面が出来ただろう…」

 確かに、犯罪でお金を得るなど不合理もいい所だ。

 実際、二階堂君は、このコロナ禍でも容易く就職を決めている。何かの賞を取ったと勝山さんが言っていた。それだけのスキルがあるのだ。数十万のために法を犯す必要はない。

「報復」

 不意に不穏な言葉が探偵の口から洩れる。

「ひどい扱いをした店に対する報復。スタッフの盗難騒ぎ。しかも当時世間が渇望していたマスク。露見したら店のイメージダウンになる。だからこの件はうやむやにされた。けれど、当時の店長、元凶でもある川崎氏の評価には関わるだろう。部下の管理責任だ。後にクビになったのはパワハラの件だけではない。そこまで読んでいたらどうだ。表沙汰になる可能性は低い。卑劣な川崎氏に打撃を与える事ができる。店から相応の慰謝料を奪取する。それが彼らの正義だった」

 二階堂君の整った顔が浮かぶ。正義という言葉がとてもよく似合う。

 堀川通りを右折、一方通行の細い道を何度か曲がると目的の場所があった。

 

「ようこそ、柳生探偵事務所へ」

 招き入れられた部屋は、古いテナントビルの4階の一室。

 レトロ風な家具。壁面の本棚には古い洋画の図書館のように本が並んでいる。いかにも、どこかで見たスクリーンの中の探偵事務所の装い。

 薄々感じていた。格好から入るタイプに違いない。

 何気なさを装いながら、この暑いのに必要とは思えないトレンチコートをデスクの椅子に掛ける探偵。

「間違いない…」

 思わず口をついて出る。

「ん?」

 目を見開く探偵に、何でもないと首を振る咲哉。

「座ってくれ」

 微妙にビニール感のある革風ソファーに腰を下す。案外座り心地は良い。

 お湯の沸く音。やがてコーヒーの良い香りがする。

 マグカップがふたつ。コーヒーを持ってくる探偵。

「この豆は」

 非常にメンドクサイ予感がビシビシと押し寄せる。

「あ、ありがとうございます。牛乳ありますか?」

「あ、ああ」

 少し不本意そうに冷蔵庫を漁り、牛乳パックを持ってくる探偵。受け取ると、すぐさまマグカップの中にドバドバと投入する。

 少し寂しそうな探偵の表情と引き換えに、珈琲の蘊蓄は回避された。

「ここにまとめてあるが、説明しよう」

 手渡されたのは、A4のファイル。どうやらバイトスタッフ達の身上調査のようだった。


 二階堂清貴。帝都大学理工学部四回生。出身地は神奈川県。

 母親は高校を卒業後、運送会社で事務員として勤務。清隆を身籠った頃に勤めを辞めている。婚姻歴はない。両親は早くに他界し、頼れる身内もいないが、当時は生活には余裕があった模様。どこかの金持ちの愛人として囲われていたと思われる。実の父、援助していたパトロン等、詳細は調査中。

 清隆が中学年の頃、逃げるように京都へ引っ越し。借金?、あるいはパトロンのDV?理由は不明。以降、体の弱い母がパートを掛け持ちして生活を支える。無理が祟ったのか、徐々に体調を崩し、ここ数年は入退院を繰り返す状態。その母も先日亡くなり清隆は天涯孤独の身の上。

 岩崎麻衣。京都市立医療大学看護学部四回生。出身地は岡山県。

 生まれ育ったのは瀬戸内の小さな島。母親は島唯一の診療上の看護師。父は岩崎さんが物心つく前に事故死。母親とその祖父母の元で育つ。祖母が亡くなり、その直後に倒れた祖父が半身不随。母は今も島で介護をしながら懸命に働いている。 

 豊川恭太。大宝機械工業社員。出身地は大阪。

 母親は早くに他界。父親は幼い豊川さんを京都の祖父の元へ預け失踪。同じ市営住宅に住む一歳下の二階堂清隆とは、兄弟のように仲が良かった。帝都大学もドラックパピヨンのアルバイトも、兄の後を追うような形。

 アルバイトに関しては、当時の店長の川崎氏から受けたパワハラにより退職を余儀なくされている。万引き目撃を端に発した痴漢冤罪騒動により、第一の転落死被害者青木康男一家と確執。


 ファイルの文字を目で追いながら、大きく息を吐き出す咲哉。吐き出した息が目の前で重く沈んでいくような気がした。

「不幸な若者博物館の展示リストみたいですね」

「そうだな」

 頷く探偵。

 凶が出たら死ぬ。そんなあり得ない狂気的連続殺人事件。これがそのの舞台裏だとしたら、しっくりくる不幸さ加減。

「親父さんを早くに亡くして、頼れるじいちゃんは半身不随で、憧れの都会に出てきたと思ったら、コロナで鬱になった岩崎麻衣ちゃんが、ラッキーガールに見えるくらいだ」

 淡々とそう言う探知。並べ立てると、そうとう不幸だ。

「ラッキーガールは言い過ぎでしょう?」

「そうでもない。余裕はないだろうが、困窮という程ではないようだし、同じ職業を選ぶぐらいにリスペクトする母親がいて、心が病んだ時には暖かく迎えてくれる場所がある。おかげでアリバイが成立して無罪放免」

「アリバイ、成立したんですか?」

「第二の事件。日時がはっきりしているわけじゃないが、事件があったと思われる期間は、コロナ鬱のような状態で、島に帰省していたようだ。島民はみんな知り合いみたいなもんだから、都会と違って、こっそり出たり入ったりってわけにはいかない。それから、こないだの第三の事件の前から再び帰省している。研修に行った先の野戦病院みたいなコロナ病床を目の当たりにして、鬱が再発したみたいだな」

 初耳だった。同僚にも関わらず全く知らなかった事が少し気まずい。

「しっかりしろよ、潜入捜査員」

 面目なく俯く咲哉。

「岩崎麻衣ちゃんは容疑の圏外。婦女暴行の前科持ち、第二の被害者日野耕作に絡まれてたらしいから、その件では動機がある。だから共犯の可能性は残るけれど。それより怪しいのは次だな」

 そう言って、話を本題に戻す探偵。


 田中莉奈。京都桂月けいげつ女学院大学文学部四回生。東京都出身。

 父親田中昭太郎は、大手出版社の役員。母親美登里は、たまにマスコミにも登場する教育評論家で、セレブ向けの幼児教育スクールを複数経営している。

 父方の祖父、田中聡一郎は国会議員。前文科大臣。そのまた父もしかり、先祖代々文教族。

 跡継ぎと目されるのは聡一郎の次男、田中聡介。昭太郎の弟。大学卒業後に文科省に。現在は退官して、秘書として父聡一郎に仕えている。

 莉奈はエスカレーター式の私学に通い。何不自由なく育った。

 学校の成績も良く、小学生の頃までは、明るい子供だった。しかし中学生になってイジメを受け、一転、内向的になる。万引きをして警察沙汰になった事もあった。どうやら同級生から強要されたようだ。暴力を振るわれることもあったらしい。


「そんな深刻なイジメ問題を、親と教師が一丸となって立ち向かい、被害者も加害者をも決して見捨てる事無く立ち直らせる。そんな偉業が書き記されたこの一冊!」

 ポンとテーブルに置かれた単行本。“子供の声を聞くという事”著者田中美登里。教育のプロがその実体験から我が子を守る術を説く!!

 背中を丸め、俯く田中さんの姿が浮かぶ。イジメられた過去が原因だとして、完全に立ち直れたとは思えない。その華々しいオビの文字が虚しい。

「どう思う?」

 聞かれて本を手に取りパラパラとめくってみる。

「子供をネタにしてひと儲けですかね。気持ち悪いです」

「だろ。そもそも田中美登里ってのは野心家で、成り上がるために田中家の長男に取り入って結婚したようだ。子供も旦那も出世の道具」

「お父さん、昭太郎さんはどんな人なんですか?」

「弟に跡継ぎの座を奪われたようだから、出来損ないのバカ息子かと思えばそうでもない。コネもあるだろうけど、それなりに仕事も出来るし、物腰も柔らかでスマートな男前。なのに父聡一郎は、名前の一字をあげたように、昔から弟の聡介を溺愛していたようだ。妻は仕事に夢中。旦那は女遊びの噂はあるようだけれど、それでも案外夫婦仲は良好。間違えなくお金持ち。そんな家庭の娘が、もう追っかけて来るいじめっ子もいないだろうに、なんであんな暗い目をしているんだろうな」

 確かにいつも暗い顔をしている。ただ一度笑顔を見たのは、偶然見かけた下鴨神社。二階堂君とふたりでいた。ただ二階堂君は渋い表情だった。あれはいったい何だったのか。そんな思考を探偵の言葉が遮る。

「どうしても気になるのは第三の事件。渡辺栄一郎。馴染みの客でもなく、居住地も東京。生活圏もほぼ首都圏。京都に来た記録は高校時代の修学旅行まで遡る。しかし、第二の日野耕作と同じ凶器で襲われた。渡辺栄一と接点を持つものはいるのか」

「いるんですか?」

「みつからない」

 不本意そうにそう答える探偵。

「いないという事ですか?」

 さらに不本意そうに、眉をひそめる探偵。

「ただただ、スクラッチカードの凶を引いた人物を殺す猟奇殺人、もしくは」

「もしくは?」

「凶を引いたら死ぬ、デスカード」

 似合わない怪談話を口にすると、少し照れたように笑う探偵。

「そんな、わきゃぁない」

「ですね」

「非情に人を切り捨てて、のし上がって来た評判の悪い渡辺栄一郎。首都圏で暮らしていたら、どこかで出会って傷つけられる事があったのかもしれない。少年時代の二階堂君。高校までの田中さん。就職以降の豊川君。何があったと思う?」

 未遂ではあるものの、殺人に繋がるような傷。聞かれても簡単には思いつかない。

「想像でいいぞ」

 その想像ができない。黙り込む咲哉。

「乏しい想像力だな。例えば、そう、性被害に遭った。あと、親父さんが蒸発した原因は、渡辺栄一郎に騙されてホームレスになったから。あと渡辺栄一郎が実の父親で、妊娠した母親を捨てて逃げた」

 呆れる程想像力が逞しい。

 しかし、どれも、それなりに筋が通っている。

 もしも、田中さんがそんな酷い目に遭っていたとしたら、あの暗い目にも説明が付く。

 酷い仕事の仕方だったらしい渡辺栄一郎。巻き込まれた被害者は蒸発するかもしれない。そして、東京で働きだした時、ホームレスになった父と遭遇。ないとは言い切れない。

 二階堂君の父が渡辺栄一郎だったとして、捨てられたのなら、病身で無理を重ね亡くなってしまった最愛の母。仇を取りたいと思うかもしれない。

「現在調査中だ。何かあれば、そのうち出てくるはずだ」

「東京へ行くんですか?」

「もう行って来た。もう少し調べたかったんだが、急用がはいったんで帰って来たんだ」

「急用?」

「お得意様から、北山の豪邸の奥様からのご依頼だ」

「ミステリショッパー?」

 いまいましいそうに眉を上げる探偵。

「違う。家出人探し。長男慎太郎君がまた出て行ったらしいんだ」

 豪邸の奥様はとんだ不良息子を抱えているようだ。

「見つかったんですか?」

「マグロの刺身を持って、裏山をはいずり回ると、大抵出てくる」

「それって、猫かなんかじゃないんですか」

「この大切な依頼を、猫探し扱いすることは許されない。奥様にも慎太郎君にも、この私にも」

「猫なんですね」

 とんだドラ猫だった。

 あえて返事はしない探偵。

「ついでに、調査した所によると、一年前のトラブルの元凶、当時の店長川崎氏は、パピヨンをクビになって、別のドラックに勤めたものの、試用期間にトラブルを起こして正式採用見送り。今は父親のコネでなんとか潜り込んだ会社で働いている。その上司がパワハラ体質で苦労してるみたいだけど、因果応報だな」

 そう言って話をしめた時、探偵の携帯が鳴った。

「はい柳生です。はい…ああ、光二郎君、了解しました」

 電話を切る探偵。

「家出人探しなんだけど、一緒にやる?」

「次男ですか」

「そういう事だ」

「やりません」


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