8 第三の事件勃発
諦めたように、読みかけの本を枕元に置く咲哉。
楽しみにしていたはずの物語の行方は、一向に頭に入らず、同じ行を何度も繰り返す。
その夜は酷く寝つきが悪かった。
頭に浮かぶのは、握りしめた拳を怒りで震わす母の姿だった。
150センチそこそこに小さな体で、ペン一本を武器に戦っていた。
「今度は帰れないかもね」
冗談めかして言う、出かける前のいつもの挨拶。あながち冗談ではなかったと思う。父もまた同じ。
子供時代の咲哉は、覚悟を決めて出て行く両親の背中を見る度、恐怖に震えた。
正義のため、身を挺して社会の巨悪と戦う。
自分には出来るわけがない。穏やかに生きていきたい。
そう思いながら、胸のどこかがほんの少し疼く。
その理由には、薄々気が付いていた。否定しながらも、心の片隅で憧れているから。
目の前にいつもあった格好良い大人の見本。
もう少し力を持てば、もう少し勇気があれば、もしかしたら、いつか近づけるかもしれない。
記憶の端々にうっすら残り続けるほんの僅かな希望のかけら。
妄想だった。
めっぽう気が強くて、とことん底意地が悪いだけの、一般人よりちょっとだけ化粧品に詳しい、ただのおばちゃんにも勝てなかった。いや戦いの狼煙さえあげられなかった。社会の巨悪と戦うなど笑止千万だ。
不甲斐ない自分に嘲りの言葉を吐きかけ、溜息をついては寝返りをうつ。
沢田さんの不安気な顔が頭に浮かぶ。梅木さんが暴れ出す前までは、どれ程波窪さんの卑怯で傲慢で身勝手な仕事ぶりが露見しようと、見せた事がなかった顔。
突然、稲妻が光るように、記憶が蘇った。
蘇ってみれば、何故忘れてしまっていたのかと不思議に思う程だ。
九州の田舎で過ごした高校時代。咲哉は交通事故に遭った。交通量の多い国道。あれは早朝の事だった。
同級生の話す方言は、少し聞きとり辛かった。壁を作っていたのは同級生なのか自分自身なのか、とのかくあまり馴染めなかった。そして、なんだかいろいろ嫌になっていた。
だからと言って、死にたかったわけではない。ただぼんやり歩いていた。そして、目の前に現れた車に、反応できずにいた。
体が宙を舞った。ドクドクと血は流れ、現実感が薄れていく。まるで動けず、言葉も発する事も出来ない。けれど、意識はあった。
慌てて車から降りてきた運転手は30歳くらいの男。おろおろして今にも泣きだしそうだった。流血真っ最中の咲哉と張るくらいに顔が青ざめていた。
泣いてもいいから、とりあえず、救急車を呼んでほしい。心の中で突っ込みを入れる。
行きかう車は多いのに、誰も止まってくれない。急いでいるのか横目で通り過ぎるばかり。
世の中は薄情だ。助からないと感じた時、初めて、本気で生きたいと思えた。
徐々に薄れていく意識の中。最後に耳にしたのが、あの声。そしてあの顔
「頑張れ、大丈夫やから」
不安げな顔で覗きこむ女の人。関西なまりが少し懐かしかった。
後で聞いた。腑抜けになってる運転手をよそに、通りかかったその女性が、救急車を呼んでくれた。そして、道路に横たわっている咲哉が、再度ひかれる事のないよう交通整理をしてくれた。たったひとり、手を差し伸べてくれた。お陰で大怪我は負ったけれど、無事生還する事ができた。命の恩人だ。
女性は一度お見舞いに来てくれたけれど、その時はむしろ事故直後以上に体が痛み、ろくにお礼も言えなかった。退院した時には、女性はもう九州にはいなかった。
聞いていた名前は沢田ではない。けれど、間違いじゃない。
なんとしても恩返しをしたい。
胸が高鳴るのを感じなら、明日からの活力を得るために、咲哉は大きく深呼吸をして目を閉じた。
空腹とパトカーのサイレンの音で目を覚ました咲哉。
ふらふらと立ち上がりベランダのサッシを開ける。鳴りやむ事のないサイレンの音。上空にはヘリコプター。
スマフォのニュースを検索する。傷害事件がヒットした。大手新聞社の速報記事。
未明に血を流して倒れている男性が発見された。詳しい事はまだわかっていないが、何者かに襲われた模様。被害者は意識不明の重体。
店のすぐ近く。それは、咲哉の自宅からも近く、当然先日遺体が発見された工事現場からも近い。
被害者は店の客だったのだろうか。ふとひとつの考えが咲哉の頭をよぎる。背中に冷たい物が走ったように身震いした。
転落事故の件を含め、連続殺人事件である可能性も、戯言ではなくなった。
もしも被害者がブラックリスト客“C”だとしたら。
心を落ち着かせるために、いつも通りにトーストを焼きコーヒーを入れる。あえて、いつもより豪華に目玉焼きとレタスを添える。
空腹は満たされても、胸騒ぎは収まらない。
出勤の予定はないけれど、身支度を整え店に向かう事にした。
咲哉の胸騒ぎ。半分は杞憂に終わった。被害者は旅行者でブラックリスト客ではない。しかし、客ではあった。どうやら店で買い物をした直後に襲われたようだ。
ニュースサイトにまだ続報は載っていない。勝山さん情報だ。勝山さんの情報収集能力は社内の噂話だけには留まらず、刑事事件にまで及んだ。しかも、大手新聞社の先を行っている。その情報網の凄まじさに咲哉は改めて感服する。
人の命に係わる禍事に声を潜める勝山さん。その声が一層低くなった。
「凶を引かはったんよぉ」
一瞬何の事だかわからなかった。
「スクラッチカード」
そう言われて思い出す。もうひと月以上前、元店次長の杉浦さんが、スクラッチカードの準備をしていた咲哉に言った言葉。
「凶が出たら死ぬ」
気味の悪い冗談だと思った。けれどあれは、ただの冗談ではなかったのか。
あちこちで、ひそひそと話す声。事の全貌を把握出来るまでに、1時間程要した。
1年程前にあった転落事故。所謂ブラックリスト客コードネームB。
事故の日、店でひと悶着あった。
“大吉”“中吉”“小吉”“はずれ”の4種類のはずのスクラッチカードに”凶”が紛れ込んでいた。印刷ミスのようだ。サービスのスクラッチガードに”凶”はあり得ない。しかも、それがブラックスト客Bに渡ったのだから、大騒ぎになった。
カードは全て回収された。そのはずだった。しかし、しばらくして再び”凶”が紛れ込んだ。それを引いたのが、ブラックリスト客A、つまり先日の他殺体だ。長らく姿を見せていないと言われていた。それもそのはず、死んでいたのだ。
そして、今回の重体の旅行者。襲われる直前に”凶”を引いた。とっくの昔に処分されて、決してあるはずのない”凶”のカード。
スクラッチカード連続殺人事件。ブラックリスト客を準に狙う以上に、猟奇的で、狂気的だ。背中に寒気を感じる咲哉。
ふと、目の端に、こんな時でも、必死に仕事をしている沢田さんが映った。こっそりと、沢田さんの方へ歩き出す。
「お疲れさまです」
「ああ、おつかれ、今日は休み?」
手は動かしたまま、笑顔を向ける沢田さん。少し顔色が良い。あたりを見回すと梅木さんはいない。
「はい、休みです。あの人も休みなんですね」
微妙なニュアンスを汲み取ったように、笑みを漏らす沢田さん。
「今のうちに仕事しとかな、やる事山積みやねん」
そう言って、沢田さんはふうっと肩で息をする。
「神経ズタズタやわ、時間削られるわ、もう限界かも」
その口から、とうとう弱音が吐かれる。
咲哉が身に染みているように、就職戦線はコロナ不況の真っ最中。本部はいつもの倍の新入社員を採用したらしい。優秀な人材を確保するチャンスと見たのだろう。
こんな時に、求人を倍増するのは、ある意味社会貢献なのかもしれない。しかし、そのせいで人材が溢れてしまった。
外聞の良い社会貢献の一方で、本部は各店に経費節減のため、厳しい人時制限を課したらしい。そのため準社員の勤務時間が、大した説明もなしに大幅に減らされた。生活を直撃だ。
しかも、同じ準社員の梅木さんの時間は減らされていない。薬の資格もなく、ベテランとはいえ責任者にもなれない梅木さん。ビューティーコーナーの椅子に座って、のんびり仕事をしている。たまに聞こえる雑談中の大きな笑い声は常識外れで、漏れ聞こえる愚痴と悪口は、真面目に働いている人間の気力も萎えさせる。
優遇される正当な理由は何一つ見当たらない。
それもこれも触らぬ神に祟りなし。いや触らなくても、十分祟り倒している。触ったら強烈に祟る悪魔だ。誰もが気を遣って接している。
「どうした?」
自分から近づいてきて、黙り込んでしまった咲哉の顔を心配そうに見る沢田さん。
「いえ」
確認しなければならない事があった。気を取り直す咲哉。
「沢田さんってバツイチですよね?」
急な話にポカンとする沢田さん。
「ひょっとして、喧嘩売ってる?」
「いやいやいや」
のけぞる咲哉。
梅木さんがいないせいか、少しいつもの調子が戻った様子にほっとする。
「結婚中はどこに住んでたんですか?」
「ん?」
交通事故当時と苗字が違うなら、婚姻中の事だろうとあたりを付けた咲哉。
「聞いちゃ駄目でした?」
「別にいいけど、九州の田舎だよ」
ビンゴ。
恩人はやはり沢田さんだった。確信を持つ咲哉。
「それがどうしたの?」
「僕も、高校の時九州の田舎に住んでました」
「へー、偶然やね」
沢田さんの表情に、何か思い出したような変化はない。
「あの、沢田さんって、事故現場に居合わせたりとかした事あります?」
「ああ、あるよ。よくある。何か知らんけどよく居合わせて、救助するねん」
よくあるのか…。拍子抜けする咲哉。
「ああ!」
ようやく、何かを思い出したように咲哉を見つめ指を指す沢田さん。頷く咲哉。
「ひょっとして、本城君、から揚げ好きって言うてなかった?から揚げで有名なとに住んどったんちゃう?」
「そ、そうです…」
「から揚げは、太閤やんな!」
「そ、そうですね」
「そっか、ああ、そんなこと言うてる場合ちゃうわ、急がな、発注間に合わへんわ」
咲哉は作り笑顔を貼りつけたまま、その場を後にした。
人生を変える程の人助けをして、ろくに覚えていない沢田さん。せめて、なにか手助けをするまで、このバイトはやめられない。
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