7 殺人鬼より嫌なヤツ
殺人事件勃発。日常に紛れ込むには、これ以上ないセンセーショナル。
しかし、そんな話題が、本部からの発表で吹っ飛んだ。
春、異動の季節。
パワゴリ君店長は、出世して本部に行き、パワゴリ君エリアマネージャーとなった。後任は実績のない新店長。情報は少ないが、あまり頼りになる人物ではないという噂だ。
パワゴリ君のプレッシャーに苦しんでいた沢田さん。しかし、いざという時には頼りにはなる。吉と出るか凶と出るか。複雑な表情だ。
そして、下に連なる異動発表に、沢田さんの顔が蒼白になった。
頼りの店次長、有能で働き者の杉浦さんが異動。他店の店長になるのだから栄転だ。喜ばしい事だけれど、我が店舗には大打撃。
そして、必要ならばビールケースも担ぐ、働き者のビューティー担当桃田さんまでもが、他店へ異動。
後任のビューティー担当。ベテランの準社員、梅木さん。
次々もたらされる梅木さん情報。
春には一定数動く社員の人事とは違って、準社員の異動は、あまりない。
今回の梅木さんの異動は、一緒に働いていた新人ビューティー担当の女の子をイジメて、出社不能に追い込んでしまったせいらしい。
とにかくキツイ性格で、良い話をする人は誰もいない。何度もトラブルを起こしながら、それでも続けてこられたのは、販売実績だけは上げているという。一緒に働く者としては、最悪の部類だ。
情報が集まる度に、沢田さんの顔からは、さらに血の気が引いていく。
そして、ダメ押し。
波窪は残留。微動だにしない。
沢田さんは、崩れ落ちるように膝をついた。恐らくもう血は残っていない。
「ああ、そうですか、そら、すんませんねぇ」
酷く耳障りの悪い梅木さんの声が、脳天に響く。
その言葉には、一ミリの謝罪の気持ちも感じられない。
金属質な高い声のせいなのか、人を小ばかにしたような、京都弁の独特のイントネーションのせいかのか、おそらくその両方なのだろうと咲哉は思う。
後ろ手に組んで、その物言いのビューティースタッフが、数々のトラブルを帳消しにする程の凄腕販売員だとは、にわかには信じ難い。
学生時代のバイト経験から、ビューティースタッフに偏見を持っていた咲哉。前任の桃田さんのおかげで、随分イメージアップした。それがここへきて再急降下。地中に潜り込む勢いだ。
「店長もう帰ったん?ろくに仕事してへん、あいつ、使えんわ、石坂に言いつけたろ!」
新店長をこけおろし、言いつける先の部長の名前は呼び捨てにする梅木さん。始終文句を言っている。
こきおろす相手は、本人曰く、前店から異動希望を出した理由の、使えない同僚だったり、非があるとは思えない沢田さんだったり。
言いつける先は、いずれも親しくしているという本部の重役だったり、出世した前店長だったり。
自分を大きく見せたいがための虚言ではないかと疑う一方、この働きぶりで続けられるのは、作り上げた巨大な人脈のお陰なのではないかとも考えられる。
どちらにしても、何かにつけ沢田さんにキツクあたり、細々と攻め立てているのは、言いがかり以外の何物でもない。
「どういう事!いい加減にしてくれる!」
バックヤードから、梅木さんの金切り声が聞こえてきた。
今日は、沢田さんは休みだ。あたる相手は、ターゲットと決めたらしい沢田さんだけではない。気に入らない事があれば、すぐに大騒ぎを始める。
咲哉はうんざりしながらその場を離れた。
心穏やかに美味しくご飯を食べるため、梅木さんには極力関わり合いになりたくない。
トラブルは薬局との昼食時間のバッティングらしい。
狭いバックヤード。コロナ禍の感染対策。休憩はひとりで取る事になっている。
しかし、通常の店舗と併設している処方箋薬局は違うスケジュールで動いている。どちらも客商売。予定通りの時間の休憩を取る事が出来ずに、重なってしまう事もままある。
そんな時は、少し時間をずらす。ほんの少し譲りあって調整すれば、何の問題もない。騒ぎ立てる意味がわからない。
自らは一切譲らない事で、優位性を主張したいのかもしれない。自分が一番でなければ駄目なのだ。
一方同じ準社員の沢田さんは、人を脅したり威嚇したりする事なく、下のスタッフに頼りにされている。梅木さんが沢田さんをターゲットにしている理由のひとつはそれだろう。
人間関係のいい所が、この職場の利点だった。
コロナで世の中が変わろうとしている今、次のステップに進む前に、一度自分を見つめなおしたい。そのためのこの職場がこの状態では正しい判断が出来なくなる。
もう辞めようかと思う一方、日に日に生気を失っていく沢田さんをこのまま置いてはいけない気がした。
何が出来るわけではない。バイトを始めて約半年、さんざん世話になったのに、梅木さんの迫力に気圧されて庇う言葉ひとつ口に出せずにいた。ただ味方でいるだけだ。
味方なら、咲哉がいなくともたくさんいる。ほとんどのスタッフが沢田さんの味方だ。ただあの迫力に逆らえる者は誰もいない。
望みは新店長のみ。期待薄とは言え店の問題を解決するのは店長の仕事だ。
まずは店の内情を把握する事が先だ。初の店長就任のため、店長の仕事を覚える事も必要だ。そう言って、スタッフから上がっている数々の切実な訴えは、先延ばしにしたまま、まだ仕事らしい仕事に着手していない。
それでも、期待せざるを得ない。
しかし、想像以上の期待外れだった。
翌日、新店長は来なかった。持病が悪化して入院したらしい。
働き者だった正社員は二人とも異動してしまった。
店長は不在。
形の上でトップになるのは、波窪さん。
ドラッグストアスタッフの仕事内容を知れば知るほど、波窪さんの仕事量の少なさに、むしろ驚嘆すら感じる。
いったい何をして時間をつぶしているのか。話し相手がいればずっとおしゃべりに興じているようだけれど。上から目線の自慢話。そうそう長時間付き合ってくれるとは思えない。
困った事があれば、スタッフは沢田さんを頼る。責任感から背負い込む荷物はさらに重くなる。そして、梅木さんからのイジメ。
ドラックストアには、やはり、神様はいない。たったのひとりも。
「買い物してきたから、精算してくれる」
やたらと経費の支出が多い梅木さん。ちゃんと事前の許可を取っているのか怪しい。もちろん誰も突っ込まない。
強い支配欲。自分が一番でなければならない。そんな性質が梅木さんの歪んだ行動の理由のひとつ。自由に経費を使う事も自らの力を見せつける手段。咲哉はそんな風に想像している。
「あ、はい」
沢田さんが声を詰まらせる。責任者の資格を持つ沢田さんは、店で日常的に発生する事態の対処には大抵権限を持っている。当然、経費の精算もできる。
「沢田さん、準社員やない?」
「はい」
「準社員には任せられへんわ、お金の事やさかい、あんたじゃあかん」
梅木さんの口元が若干の笑みを含んで歪む。
梅木さんの眉を吊り上げて怒り狂う表情は、本当に不快だ。しかし、それ以上に苦手なのは、意地悪をする時のこの歪んだ口元。なんて醜いんだと咲哉は思う。
「波窪君!精算お願いできる」
楽し気に波窪さんの方へ向かう梅木さん。計算された侮辱だと思う。
「沢田さん…」
呼びかけてみたもののかけるべき言葉がみつからない。
「気ぃは悪いけど、あの精算には関わりたくないから、まあ、良かったわ」
確かに、虚ろな目の中、わずかにホッとしたような表情も伺える。
「大丈夫ですよ、そのうちきっと」
「そのうちきっと?」
「天罰が下ると思います」
ようやく絞り出した慰めの言葉には、ひとかけらの説得力もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます