1 炒飯への道は遠かった
本当にやりたい仕事はこれじゃない。
自分の働く場所はここじゃない。
日常の仕事に忙殺されながら、不意に立ち止まり、そんな思いに駆られる。珍しい事ではない。
一度の人生。勇気を出してまだ見ぬ荒野へ一歩足を踏み出そう。自分探しの旅に出よう。
しかし、大抵の場合、踏み出す前に、冷静になって思い留まる。苦労して手に入れた安定、安心。簡単に手放す事などできない。
本城咲哉もふと立ち止まった。明確な理由などなかった。
きっと些細な事だった。
書類に埋もれたデスクから、見上げた先の、物欲の象徴のようにテカテカと光る所長の後頭部が、あまりにも眩しくて直視できなかったせいだったかもしれない。あるいは、時に人に取り入り、時に見下し、成果を上げ続ける自信に満ちた野太い声が、徹夜明けの疲れた体には、酷く耳障りに感じたせいだったかもしれない。
本当にやりたい仕事はこれじゃない。
社労士の資格なら取れそうだ。出来るならば税理士試験も目指したい。
数字の羅列に辟易しながらも、世の中に必要とされる大事な仕事の一端を担っているのだという自負があった。会計事務所に就職して3年。前向きに生きてきた。
なのに、思ってしまった。
働く場所はここじゃない。
そして、決算シーズン。同僚の病欠も重なって、深夜の残業が続いたある日。たまたま立ち寄った中華屋の麻婆豆腐を一口食べた時だった。
美味しかった。衝撃だった。疲れ果て微動だにしなかった表情筋が、一瞬にしてほぐれて久しぶりに笑顔を作った。これが人を幸せにする仕事。
結局見つけられなかった得意先の売掛表の15万の誤差など、どうでもいい事のような気がした。
もちろん、良くはない。
そして、思ってしまった。
本当にやりたい仕事は料理人だ。
僕の働く場所は中華屋だ。
「大学まで出してもらって、立派に勤めてる兄ちゃんが、何考えてるだ、後悔してもしらんぞ」
勢いだけで仕事を辞め、そう言って渋る大将を、なんとか説得して弟子にしてもらった。
あの頃の咲哉はどうかしていた。
元来は地道で慎重な性格だった。
清水の舞台には命綱をつけて登る。
何の前触れもなくに訪れて、突然去っていた、あのはた迷惑な情熱は、いったい何だったのだろうか。
諦めきれない程度にはそそくさと去って行き、取り返しがつかない程度には十分に居座った、あの情熱。
今ならわかる。そもそも食通でもなければ、料理が好きなわけでもない。
おいしい麻婆豆腐は中華屋で食べるものだ。
決して、自ら作るものではない。
大将の言う通りだった。後悔している。
修業は辛い。とは言え、無理を言った手前すぐに根を上げるのは格好が悪い。辛いからと言って、向いていないと薄々気付いているからと言って、手を抜く事は出来ない真面目な性格。
一生懸命やれば、何か見つかる、
かもしれない…。
大将のように中華鍋をふってパラパラの炒飯が作れたら、ちょっとカッコいい、
かもしれない…。
昼食を終えて帰って行くサラリーマン客の背中を見送る。同系色の背中は、地味ながら確固たる自分の居場所へ戻っていく。何故か荒れた手が急に痛みを増した気がした。
しかし、そんな日々も長くは続かなかった。咲哉が根を上げる前に、もちろん、颯爽と中華鍋を振れるようになる前に、コロナが世界を震撼させ、世の中の全てを変えてしまった。
売上は急落。無理を続けて傷口を広げるよりはと、先の見えない現実に、大将は閉店を決めた。
「兄ちゃん、悪かったな」
そう言って頭を下げる大将。咲哉は何度も頭を横に振った。大将が早々に諦めた理由は、持病のヘルニアと無理するなと言う親孝行で立派な息子の存在。そして、おそらく人生迷子中の一番弟子の将来のため。
「短い間でしたがお世話になりました。本当にありがとうございます」
お礼を言って店を出た咲哉。閉まったシャッターに向かって、もう一度深く頭を下げた。
「次は絶対頑張ります」
小さく呟いた。
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