コーヒーを一杯 長野県大町市 秋
9月の後半の秋口、私、
店を構えるここ、長野県大町市はアルペンルートと呼ばれる、観光の玄関口だ。その一角に位置するこの店からの眺望は良好で、よく晴れた日には眼前に雄大な北アルプスの山々が
店主の叔父はサラリーマンを辞めて東京から越し、第二の人生としてこの街で喫茶店を経営している。
何でも、ここの空気が気に入ったと言う事らしい。確かに田舎であるここの空気は澄んでいる。
叔父と、その奥さん。つまり叔母と二人で経営するその店には、登山観光の玄関口からか多数の登山客が来店する。ロッジの様な木造を基調にした建物は趣があり、店内の木の香りは、登山で疲れた体と心を癒してくれる。
そこへ、澄んだ空気と共に熱々のコーヒーを一杯。これがまた体に染みるのだ。
「おはよー美咲ちゃん、寒いねー」
「おはよー。寒いねー」
朝、店の準備の為に外に顔を出すと、薪割りの準備をしていた叔父に挨拶をされ、おうむ返しの様に私もそう返す。
まだ時期は9月であるが、標高の高いこの街は昼と夜の寒暖差が激しく、朝の冷え込みが厳しい。今ではもう慣れたものだが、最初の頃はこの環境に苦労したものだ。
「俺はこれから薪割りするから、母さんと一緒に店の準備しといてくれんか?」
「うん、分かった。じゃあ、薪割り頑張ってね?」
一言、それだけ言うと、私はまだ開店してない店へと向かう。店は11時から開店だ。
今日は平日であまり客も来ないと思うが、準備はしなければならない。
まだ9月だと言うのに、口からは白い息が見えた。
「……おー、綺麗……」
ふと、アルプスの山々の方を見ると、時期は紅葉のシーズンで、山の中腹から麓にかけて赤くなった山体が、朝日によってさらに真っ赤に染まっていた。
_________
「……暇だねー」
「……だねー」
叔母さんの気の抜けた声に、私も気の抜けた声を返す。
今は紅葉シーズンで観光客も多い時期なのだが、店内はすっからかんだ。
なので中はお店とは思えないほど静かで、窓を全開にしても聞こえるのは風に靡く木々の音と、時折聞こえる鳥の鳴き声。それと午後の薪割りとして、叔父さんが斧で木を割る音だけだ。
「……ちょっとお父さん見てくるから、お客さんみといてね?」
「はーい」
すると、余りにも暇だからだろうか、そんな叔父さんの様子を見に行くと、叔母さんは立ち上がって外に出て行く。
大丈夫かと疑いたくなるぐらい閑散としているが、別にこの店が人気がないと言う訳ではない。今日は平日のど真ん中。観光客が来ないのである。前の週末には嫌というほどお客さんは来ていたし、そこそこ繁盛はしているのだろう。
最近叔父が、"街の観光マップで紹介された"と、大喜びしてたし。
「……静かだなぁ……」
一人になった私はそんな事をポツリと呟き、窓から見えるアルプスの山をボーッと眺める。客が来る事に越した事は無いのだが、この客が来ない時間の方が私は好きだった。
見るだけで圧倒される視界の左右に連なる雄大な山脈は、どっしりとした風体でどこか安心感を覚える。
毎日見るので、何処にどの山があるのか覚えてしまった。
まず正面に見える緩やかな稜線を描くのが立山。その少し右に、対照的な切り立った山頂を覗かせるのが
そして左側に見える小刻みアップダウンしている稜線が薬師岳だ。
ここから見るだけでも美しいのだ。もしあの山の頂上から見た景色はどんなに素晴らしいものかと、あの険しい山々に登ろうとする人の気持ちも分かる。
「……今度、また登ってみよっかな?」
そして、そんな私も例に漏れず、趣味は登山だった。北アルプスの麓街で喫茶店を営む叔父さんの元でアルバイトをしようとした決め手も、山に登りたいからと言う理由だ。
「……週末は人が多いからなぁ……確か、今週はずっと晴れだったよね……」
スマホで天気予報を確認しながら、私はそう呟く。近いからいつでも登れると言うのは、強みである。元々アルバイトでシフトには融通が効くし、叔父も叔母も登山が好きなので、私が山に登る事に理解もある。
この前は3人で立山も歩いた。
「すみませーん」
するとカランコロンと、お店の扉が開かれると共に、男性であろう客の声が聞こえて来た。
「は、はいー!少々お待ちを!」
ボーッと外の景色を見ていた私は慌てて席を立ち、接客の為にお客さんの方へ向かって行った。
____________
「はい、カレーライスとコーヒー、以上でよろしいですね?」
「はい、お願いします」
そのお客さんが来たのは午後2時。ちょうどお昼時も過ぎて、店内には誰も居ない時間だった。
おひとり様の男性客。格好を見るからに、登山客である事は直ぐに分かった。底の分厚い登山靴に、スポーティーなインナーと半袖のシャツ、それと大きめの登山用のザック。
恐らく立山方面から帰って来たのだろう。その男性客は珍しく、かなり若い子だった。大学生ぐらいだろうか?
ここに来る登山客は結構おじさんやおばさんが多く、若い子もちらほら来るが、殆どがカップルだった。なのでこの様に一人で来店して来たこの青年が、新鮮に映ったのだ。
他の客もおらず、一番眺望の良い席に座るその男性客は好青年といった感じで、短く切り揃えられた髪は、飾り気を感じさせずとも清涼感があって、瑞々しさを感じる。
「コーヒーは先にお持ちしますか?」
「え?、あ、はい。お願いします」
私がそう聞くと、ニッコリと笑顔で青年も返してくれた。
そんな表情に、少し私の心拍数が上がる。
純粋そうな子だなと言うのが、彼への第一印象。少し赤くなる顔を隠す様に、私は踵を返して厨房へ向かって行った。
「お待たせしましたー、お先にコーヒーとなります」
厨房では薪割りから帰って来た叔父が料理を作り、私は先に淹れたコーヒーを青年に差し出す。
「どうも、ありがとうございます」
やはり好青年。差し出したコーヒーに丁寧にお礼をしてくれた。
「お料理の方はもう少しお待ち下さいね」
「はい」
私がそう言うと、再び青年は笑顔でそう返してくれる。
礼儀もしっかりしていて好印象だ。青年は2度3度、コーヒーの熱を覚ます為に息を吹きかける。
そして、舌を火傷しない様にゆっくりとカップに口を付けた。
「……ふぅー………」
2口ほど飲み込み、一息入れる様に青年はカップを皿に戻す。
表情はとても満足げで、それだけでも淹れた甲斐があると言うものだ。
気持ちはすごく分かる。今日一日、険しい山を体力を削って登ったのだ。
汗水垂らして働いた後に達成感を感じながら飲むビールが美味しいのと同じで、苦労して山に登ったと言う達成感を感じながら飲むコーヒーも別格なのだ。
そこに変な共感を覚えた私は、益々この青年が気になっていった。
……一人と言う事は、彼女さんは居ないのだろうか?
「……登山から帰って来たんですか?」
そんな、少し邪な気持ちから、私は思い切って話題を振ってみる事にした。
「え?、あ、はい。昨日山荘に一泊して、今日は
青年は一瞬困惑したが、直ぐに先程の朗らかな笑顔になってそう返してくれた。
良かった。無視されるという事にならなくて。
「へぇー!やっぱり!道具が本格的だったんでそうじゃないかと思ったんです!剱ですかー。今日はいい天気だったでしょ?」
「ええ!最高でした!前は天気が悪かったんで、今日は本当に良かったです!」
山の話をすると、青年は話題に食い付いて来てくれた。楽しそうに山の事を話す青年はやはり純粋で、満面の笑みを私に見せてくれた。
「人は多かったですか?」
「いえ、平日なんでそこまで居ませんでしたよ」
「そりゃ良かった。剱は足場が少ないんで、混むと結構大変なんですよね」
剱岳には、私も何回か登っている。上級者向けの山で、岩場で足場も少なく、注意しなければならない山だ。
そこに一人で登れるという事は、この青年は若いながらかなり熟練した登山技術を持っていると言う事だった。
「よく知ってますね。……実は剱に一人で登るのは今回が初めてだったんで、ちょっと不安だったんですよ」
「あはは、私も最初はガイド付きで登りました」
確かにあの山はぶっつけ本番で一人で登るのはよした方がいい。
彼は一回、経験者と登り、それで今回満を辞してソロ登山に挑戦したと言う事だ。山に対する意識も十二分に良い。
「何事もなく登れて良かったです。……あなたも登山をするんですか?」
すると、今度は青年から逆に質問をされ、私の心臓が飛び跳ねる。私に興味を持ってくれたのだろうか?そんな自意識過剰な思考に陥りながら、テンパりそうな心を何とか抑える。
「は、はい!私も登山が好きで、よく北アルプスには登るんです!」
が、少し食い気味に返答してしまった。彼への興味と山について話したいと言う感情が、前に出てしまったのである。
「そうですか、ここからだと近くていいですね」
しかし、青年は嫌な顔をする訳でも無く、にこやかにそう返してくれた。
良かった。引かれては無い様だ。そんな彼を見て、私も少しばかりか心が落ち着いた。
「はい、ここの店主が私の叔父なので、それにあやかって住み込みでアルバイトをさせて貰ってるんです」
「いいですねー。僕にもそんな親戚がいたらなぁ……」
「ふふっ、私は運が良かったんですね」
やはり、共通の話題があると心地が良い。青年はやっぱり山が好きな様で、客と店員の間柄なのに冗談を飛ばすほどオープンに話してくれた。
その後も色々会話をする。彼は松本の学校に通う大学生で、登山は父親の影響で子供の頃からいろんな場所に登っているらしい。
……住んでる場所も近いじゃないか。
「おーい、美咲ー。カレー出来たよー」
彼との話に熱中してると、叔父さんが厨房の方からそんな声をかけられた。しまった、今は勤務中、あまりにもこの青年と話が合って忘れてしまっていた。
慌てて厨房の方へ駆け寄ると、叔父さんも叔母さんもなんだかニヤニヤした顔付きでこっちを見ていた。
「な、なに?」
嫌な予感を感じた私は、顔を引き攣らせながらそう聞く。
「なーにー?美咲ちゃん。なんだかお客さんと良い雰囲気だったじゃない?」
茶化す様に、叔母さんにそう言われる。普通だったらちゃんと働けと怒るところなのだが、この人にとっては私の色恋沙汰の方が大事な様だ。
「あの子、松本の大学生とか言ってたな。……連絡先でも聞いてみたらどうだい?」
そして、店主である叔父さんにも茶化す様にそんな事を言われる。どうやらあの会話はこの夫婦に筒抜けだった様だ。
私はその羞恥心からどんどんと顔が赤くなっていった。
「も、もう!今は仕事中だから!」
そして一言、それだけ言って私は出来立てのカレーを逃げる様に青年の元へ運んでいった。
「お、お待たせしました。カレーライスです」
「はい、どうも」
料理を持って行くと、彼から再び丁寧にお礼を言われる。
……正直、顔はかなり好みだ。それに加えて話してても楽しい。性格面での相性はバッチリな様に思う。
しかし、今日初めて会った名前も知らない人に、連絡先を聞いても良いものだろうか?
そもそも、彼が私に興味があるとは限らないし、もし彼女でも居たら……
「……あの、僕の顔になんか付いてますか?」
「え?……あ、い、いえ!!何でもないです!!」
そんな考えを巡らせながらジロジロと彼を見てたのがバレたのか、青年に不思議そうな顔でそう聞かれる。
不意打ちを喰らった私は、これでもかと言うくらい慌ててぎこちない返しをする。流石に様子がおかしいと彼にも分かった様で、少し顔を引き攣らせていた。
「そ、そうですか……」
「は、はい!食事の邪魔になっちゃいけないんで、ちょっと外しますね!!」
このままでは羞恥と、混乱でどうにかなってしまいそうだ。なので私は、戦略的撤退をする事にした。
「もー、何やってんのよー美咲ちゃん!チャンスだったじゃないー」
「しょ、食事中を邪魔しちゃ悪いから……」
厨房に戻ると、少し呆れた顔で叔母さんに私の体たらくを追求される。
確かにチャンスだったが、いきなり過ぎる。彼がもし常連さんだったら色々準備も出来たのだが、今日初めましてのぶっつけ本番なのだ。彼が来るなんて心の準備も出来るはずがない。
「彼の事、気になってるんでしょー?」
「そりゃ、そうだけどー……」
こんな感覚、久しぶりだ。別に恋をして来なかったと言う訳ではない。ただ、こんなにも他人が気になる恋をしたのが久しぶりだったので、少々困惑をしていると言った方が正しいだろう。
それ程までに、私は彼の事が気になって仕方がない。ここまでの一目惚れは初めての経験だった。
「連絡先が聞けないんだったら、またお店に来てもらう様にお願いしてみたら?」
すると、叔母さんにそんな提案をされた。……確かに名案かもしれない。いきなり初めましてで連絡先を交換しましょうは、彼に尻の軽い女だと思われかねない。
「……分かった。そうしてみる」
一つ、そんなちっぽけな覚悟を決めると、私は再び彼の席に向かって歩き始めた。
「お、お皿、お下げしますね?」
「ああ、はい。お願いします」
窓の外の景色を見てた青年にそう声をかけると、彼は甲斐甲斐しくも私に食べ終わった皿を自ら差し出してくれた。
「お、お後、ご注文はありますか?」
彼に1秒でも長くこの店に居てもらいたかった私は、普段の接客では言わない様な事を聞く。
いじらしいとでもなんとでも言うがいい。それ程に、今私は目の前の青年に必死なのだ。
そして、青年は少し考える素振りをすると、私に向かってにこやかに話しかけた。
「……そうですね、じゃあ、もう一杯コーヒーを頂けますか?」
「は、はい!少々お待ちを!」
やった、これでまだ彼と会話が出来る。そんな達成感を感じながら、私は足早に食器を運んで行った。
_____________
「お待たせしました。コーヒーのおかわりです」
「はい、どうも」
空になったテーブルに再度コーヒーを置き、
流石にこの一目惚れにも慣れて、私も幾分か自然体になれた。
後はどうやって会話を切り出すかだが……
「……ここはいい場所ですね」
すると、意外な事に話しかけて来たのは青年の方だった。
「え?、こ、ここですか?」
彼から話題を振られるとは
「ええ、高台で周りに木も生えて無くて、北アルプスが一望出来ます。こんな場所でアルバイトなんて、羨ましいですね」
そう言って青年は柔らかく微笑んで、私の顔を見つめる。
表情を見て、純粋に彼が言葉通りそう思っている事は直ぐに分かった。
好きになった人の顔というのは、何を見せても魅力的に映るというもので、一瞬にして私はその表情にやられてしまった。
「………なら、また来てくださいね」
そして、ここでしか言うタイミングがないと思い、私は彼にそんな事をお願いする。
「もちろん、ここは空気も雰囲気も良いですし、それに……」
そこまで青年が言うと、少し顔を赤らめて言いにくそうにする。
焦らされたる感覚に陥ったが、それは次に彼が発した言葉によって吹き飛ばされることとなる。
「……また、あなたにも会いたいですしね」
「………え?」
直ぐには、その言葉を飲み込めなかった。今、彼はなんと言った?確かにここは良い雰囲気で空気も良い。私も毎日ここで暮らしているが、お気に入りの場所だ。
しかし、そんな事がどうでも良くなるくらいな発言を、今彼はした様な………
「〜〜〜っ!!!ごちそうさま!!お会計お願いします!」
そして、顔が真っ赤になったまま青年はコーヒーを飲み干し、伝票を私に渡して、レジに向かう。
「え?、あ、は、はい」
いきなりの出来事に混乱しながらも、私はお会計のためにレジへと向かった。
ぶっちゃけ、それどころではないのだが。
「せ、1040円になります……」
「はい!ちょうどでお願いします!!」
まだ何処かフワフワとした感情のまま会計を済ませ、青年は店を後にしようと扉に手を掛ける。
「絶対にまた来るんで、今度一緒に山でも登りましょう!」
「え?、は、はい!」
帰り際に真っ赤な顔で青年にそう言われ、私は生返事を返してしまう。ここにきてもまだ私は、状況が整理出来てなかった。
「じゃあ、ごちそうさまでした!!」
最後、それだけ言うと、青年は遂に店を後にした。
私はしばらく呆然とレジ前に立ち尽くす。いや、だって私達さっき会ったばかりだよ?それにお客さんと店員と言う関係。オマケにまだ彼の名前さえ分からない。
すると、後ろからポンと、肩を叩かれた。
「良かったわねー、美咲ちゃん」
ニヤついた顔で、叔母さんにそう言われたのを引き金に、私は遂に現実に戻った。
「〜〜〜っ!!!!!!!」
ようやく現実を受け入れた私は声にならない叫び声を上げる。
大町の9月後半は、もう紅葉も見えるほどの気温だと言うのに、今日だけは何故か非常に暑く感じた。
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