柑橘系少女 静岡県下田市 冬
まだ俺が小さい頃、冬休みには家族といつも静岡の下田の別荘地に行っていた。
と言っても、特に自分の家が金持ちと言う訳では無い。その別荘は事業で成功したと言う、父親の友人の所有ものもので、それを冬の間少しだけ借りて、少しでも寒さを凌ごうと言うものだった。
やはり別荘。都会の喧騒から離れるとは聞こえが良いものの、周りは何も無い田舎で、あるものと言えば営業しているのか分からないボロボロの商店や、一面のミカン畑ぐらいしか無かった。
東京で生まれ育った俺はその何も無い自然ばかりの風景を、探検するかの様に走り回った。
東京とは環境が違うこの場所が、子供心ながらに新鮮だったのである。
滞在期間は1週間程、俺は毎日外に出た。東京とは違い、新しい発見ばかりだったからだ。
そして俺が小学3年生の時、そこである少女と出会った。
_________
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
ミカン畑で少女に挨拶され、僕はぎこちなく挨拶を返してしまう。
今日も別荘の周りを探検しようと、周りをうろちょろしてたら、いつの間にかミカン畑に迷い込んでいたのだ。
冬のこの時期は収穫期なのか、実は青からオレンジ色に変わっているものもチラホラあった。
そんな場所で見知らぬ少女と出会ってしまったものだから、ミカン泥棒と勘違いされるかと思ったのだ。
「……ドロボーさん?」
「ち、違うよ!ちょっと探検してただけで……」
少女は怪訝な表情でそう聞いてきたので、慌てて僕はそう返す。
この時はバレたら父親に怒られると言う焦りしかなかった。
すると、そんな僕を見て面白がったのか、少女はクスクスと笑いだした。
「冗談だって。おとーさんとおかーさんに言ったりしないから」
「ほ、ほんと?」
「うん、ホント」
ならば一安心と、僕は胸を撫で下ろす。少女はこの地域の子供なのだろうか?僕と同じくらいの年齢で、肌は透ける様に白くてしなやかな黒髪は腰の辺りまで真っ直ぐに伸びていた。
「でも、この辺じゃ見ない顔だね?転校生とか?」
すると続けて、少女がそんな事を聞いてきた。
「い、いや。冬休みの間だけここに来るんだ」
「ふーん、じゃあ、ここら辺はあまり知らないんだ?」
「うん、だから探検でもしよっかなって……」
少女は興味津々と言った感じで根掘り葉掘り僕の事を聞いてきた。
今思えば好奇心旺盛な少女で、人懐っこい性格だった様に思う。
「じゃあ、私がここら辺を案内してあげるよ!」
すると、少女からそんな提案をされた。
「え?あ、ちょ、ちょっと!」
そして僕が返事をする前に、少女に右手を握られ、僕はされるがままに少女について行く。
そんな彼女の後ろを着いて行くと、ほんのりと柑橘系の香りが鼻をくすぐった。
____________
あの出来事から10年以上、俺も晴れて大学生になった。
少女とは毎日遊んだ。たった1週間だけの関係だったが、俺は鮮明に覚えていた。
一緒に焚き火をして焼き芋を焼いたり、周りの落ちた枝を集めて秘密基地を作ったりもした。
思えば、あれが初恋だったのだろう。少女の笑う顔は朗らかで、不思議な事に出会った初日から気が合った。
名前も知らない、ミカンの香りのする純粋な少女。
名を聞いておけば良かったと後悔した事もあったが、今ではそれでもいいかと思っている。
名前を知らないからこそ、思い出として強く残っているのだと思うのは自分だけであろうか?
「車内販売はいかがですかー?」
そんな思いにふけていると、そう言いながら俺の隣を車内販売のお姉さんが通り過ぎて行った。
大学生になって暇な時間が増え、その当時の事を思い出した俺は、現在下田に向かう特急電車に揺られている。
もう一度、あのミカン畑に行ってみようと。
『まもなく、伊豆急下田、終点でございます』
車窓から見える海をボーッと見つめていると、そんな車内アナウンスが聞こえてきた。
東京から列車に揺られる事3時間。ようやくかと降りる準備をする。今回は家族は居らず、俺一人だ。
1泊のみの滞在。泊まる場所も別荘では無く、駅から近いホテルだ。
一人旅なんて初めてだが、この旅は何というか、家族や友達を連れて行く気にはなれなかった。
自分の思い出を巡る旅として、一人で物思いにふけていたかったからだ。
「やっぱ、そんなに人居ないな……」
駅舎を出て、人が疎らな観光地の様子に違和感を覚え、俺はそんな事を呟く。
と言うのも、時期が時期だ。今日は2月中旬の平日。俺は長すぎる大学の春休みを謳歌しているが、大体の人は働くか学校に行ってる筈だし、今は観光シーズンでも無い。
だが、一人で物思いにふけるには絶好のシチュエーションだ。
あの別荘、もといミカン畑まではここからバスで30分程。ここまで不便なら、車でくれば良かったなと思いつつ、俺はバス停に向かった。
_______________
「うっわ、懐っつ……」
目的地に着いた感想は、"何も変わっていない"と言うものだった。相変わらず営業してるんだか分からない商店はあったし、周りは一面のミカン畑が覆っている。
収穫はピークを迎えようとしているのか、ミカン畑は子供頃に来ていた冬休みの時よりもオレンジの色が増えていた。
「……確か、あの辺りだったかな?」
そんな独り言をつぶやき、俺は道路から少女にと出会ったであろう場所を見つけようとする。本当は中に入りたいが、それでは不法侵入になってしまう。
結局、何処が出会った場所なのかは分からなかった。
しかし、それと引き換えに思い出した事は沢山あった。
少女と焚き火をした事、秘密基地を一緒に作った事、海沿いの断崖絶壁の場所にある洞窟を見つけ、一緒に探検した事。
そんな忘れていた記憶も、次々と思い出していった。
「……まあ、居ないよな……」
ミカン畑を一通り見回し、苦笑いになって俺は残念そうに呟く。
ほんの少しだけだが、期待をしていたのだ。あの少女が、またここに居るのではないかと。
だが俺と同じくもう成長してるだろうし、同い年だとしたら、今出会ってもあの時の少女だとは分からないだろう。
女性は大人になると、別人の様に綺麗になるから。
「……はぁ……あの子は俺の事覚えてんのかな……」
そして、そんな事を呟いて俺は自分の右ポケットから"あるもの"を取り出した。
「こんな物まで作ってくれたのに……」
それは、蜜柑の絵が描かれた、自作のアクリルキーホルダーだった。
ハメパチと呼ばれるそれは、自分が描いた絵を型に合わせてはめ込むと言ったもので、滞在する一週間の最終日に、少女が記念にと手作りのキーホルダーを俺にくれたのだ。
もう長い年月が経っているので所々傷などが付いているが、それを肌身離さず持っている俺も、未練たらたらと言ったところか。
「……はぁ、戻るか……」
会えなかった残念さからか、そんな自虐的な思いになりながら、俺はトボトボとバス停にまで歩いて行った。
__________
その後は、時間も余ったので下田の街を観光する事にした。まずはロープウェイ。子供の頃は毎年乗るロープウェイに少し飽きていたが、久しぶりに来ると背が高くなって、見える景色も大分変化した様に思う。
何度も来たこの場所だが、今はどこか新鮮さを覚えていた。
次に街中を散策してみる事にした。やはり観光客は少なめで、俺はゆっくりと下田の街を観光することが出来た。
ペリーが初めて来航した港という事で、街全体がそれを全面に押し出している感じであり、随所に風情を感じられた。
友達とワイワイ騒いで旅行するのもいいが、こうやって一人でじっくり観光すると、色々気付く事もある。
喋る相手がいない分、景色や景観に意識が行くのだ。
"一人旅も悪くないな"と、自分の中で新たな発見が出来た旅でもあった。
「……腹減ったなぁ……」
そんなこんなで夢中で観光をしていると、時刻はもう18時を回っていた。
お昼は食べていなかったのでお腹はかなり空いている。せっかく下田まで来たのだ。
ご当地の美味しいものが食べたいとの感情が湧いて来た。観光地に来て浮かれているからだろうか?今ならどんな店にも一人で入れる様な気がした。
途中、観光案内所で手に取ったパンフレットを開き、何のお店があるのか見てみる。
やはり漁港という一面も強いこの街は、魚系の料理屋や居酒屋が多かった。
……写真を見るとどれも美味しそうで、何にするか迷うぐらいだ。
「……とにかく、ぶらぶら歩いて気になった店でも入ってみるか」
ここで食べログなどを見て無難な店に入るのも良いかと思ったが、俺は旅人らしく何の情報を入れないまま飲み屋街の方へ一人歩いて行った。
「お?」
しばらく歩くと、一つの店が目に入った。外に出してある看板を見る限り、海鮮系のお店だとは分かったが、もう一つ外に出してあったメニュー看板の周りに、可愛らしいミカンの絵が装飾されていたのである。
「……なんだこれ?」
海鮮系の店なのにミカンって……先程ミカン畑に行ったのもあるが、妙にミスマッチなその看板に何故だか俺は惹かれた。
「……ここでいっか」
まあ出てくるのは、普通の海鮮だろうと思い、俺はその店に入って行った。
「いらっしゃいませー!!」
中に入ると、女性の従業員さんが大きな声で迎えてくれた。
「何名様ですか?」
「一人です」
「分かりました。カウンターでよろしいですか?」
「はい、結構です」
そんなやり取りをしながら席に着く。店内はこじんまりとしていて、観光客向けというよりかは、街の居酒屋と言った感じだった。
周りを見てみると、やはり平日で観光客もおらず、客は俺一人と言う状態だ。
「こちらおしぼりとお通しになります。お飲み物は何にいたしますか?」
すると、先程の女性からそんな事を聞かれる。慌てて俺はメニューを開き、「と、とりあえず生で」と、無難な返しをした。
「はい!、生一丁ー!!」
女性は元気な声で厨房に向かい声を上げる。やはり、一人で居酒屋に入るのは早かっただろうか?あまりの自分のぎこちなさに、そんな事を思うのだった。
__________
慣れと言うものはすぐに来るもので、最初は居心地が悪く感じていたこの居酒屋も、酒が入った今ではすっかりリラックスして料理を嗜んでいた。
ただやはりこう言う居酒屋で飲む時は話し相手が欲しくなると言うもので、少々口が寂しくなってきた。
「お客さん、観光の人?」
するとそんな自分の心を見透かすかの様に、座っているカウンターの対面、厨房から大将にそんな事を聞かれた。
「ええ、今日一泊、下田の観光に」
ちょうど話し相手が欲しいと思っていたところなので、この大将と話すのもいいだろう。……失礼ではあるが、お客さんはまだ俺一人だけだし。
「珍しいね、普通は観光客向けの店にみんな行くのに」
「なんか、外の看板のミカンの絵が気になったんですよね。海鮮のお店なのに珍しいなーって」
「あははっ!!、何だい、そんな事でこの店に入って来たんかい!?」
「だって、普通無いじゃ無いですか?」
失礼な事を言ってるかも知れないが、酒が入っていると言う事で許して欲しい。
それに、大将も楽しそうだし。
「あの絵はな、俺の姪が描いたんだ」
すると、嬉しそうな声色で、大将は俺の後ろを指差した。
「ど、どうも。褒められて光栄です」
そこには後ろでお盆を両手に持ち、さっきから接客をしてくれている女性の従業員さんが恥ずかしそうにそう返して来た。
今まであまり顔は見なかったが、年は俺と同じぐらいで、髪を後ろにお団子ヘアで纏めた美人さんだった。
なるほど、確かに絵のタッチは可愛らしかったし、納得が行く。
もしアレが強面の大将の仕業だとしたら、それはそれで面白かったのだが。
「いえ、とっても可愛らしい絵だったと思いますよ?」
「そ、そんな……」
俺が手放しでミカンの絵を褒めると、女性はさらに顔を赤くした。
「おー、おー、お熱いねぇ、お二人さん!!」
「も、もう!からかわんでよ叔父さん!!」
そんな光景を見て大将が冷やかし、女性が反論する。叔父と姪の関係らしく、近しい距離の会話だった。
「あははっ、ごめんて。それで、お客さん若いでしょ?何で下田に?ここは年寄りは多く来るけど、アンタみたいな若い子はあんまり来ないからさあ」
大将がひとしきり笑うと、次にそんな事を聞かれた。
シラフなら恐らくここに来た理由を話さなかっただろうが、今はお酒も入り、この気の良い大将になら言ってもいいと思った。
「昔、小さい頃は家族でよく下田に来てたんです。それで、大学の春休みで暇なんでこうやってもう一度来ようと」
「へぇー、なるほど。じゃあご両親も一緒に来れば良いじゃねぇか」
すると、大将から至極真っ当な疑問をぶつけられた。
……まあ、この理由も話して良いだろう。
「あははっ、それは大学生になって一人旅をしようと思ったのもあるんですけど、もう一つ理由があるんですよね」
「へぇ、なんだいなんだい?」
勿体ぶる俺に対して、大将は興味津々に話の続きを待っている。
酔いも大分回っていた俺は、躊躇なくその少女について話し始めた。
「実は小学校3年生の時にここに来た時、仲良くなった地元の女の子が居るんです。ふとその子の事が気になったんですよね」
「へぇー、そりゃ本当かい?なら10年以上の大恋愛じゃないかい」
「あはは、恋なんですかね?これって。遊んだのは1週間だけですし、名前も知らないんです。……ただ。何故かその子との思い出が強く残ってて、なんか会いたくなって来ちゃったんですよね。……最後に会ったのは10年前だし、名前も知らないんで、多分会える事は無いんですけど……」
しんみりとそんな話をする俺に対し、大将は黙って聞いてくれる。
やはりこの様な話を何度も聞いて来たのだろうか?喋ってて心地が良かった。
「…………その子って、どんな子だったんですか?」
すると、そんな事を聞いて来たのは、大将ではなく、後ろで控えていた女性だった。
振り返ってみるとどこか真剣な表情をしていて、何だか面を食らってしまう。
「え、えっと……よく笑う子でしたね?東京育ちの俺に知らない事を色々教えてくれたりもしました」
「………そうですか………」
そして、何か考え込むかの様に女性は難しい顔をして、それだけ返した。
俺もどの様に返して良いかわからず、少し沈黙が流れてしまう。
「……まぁ、昔のこった。今は彼女とかいんのかい?」
そんな空気を察知したのか、大将は話題を変えてくれた。
やっぱり場数を踏んでいる感じがする。俺としてはありがたいパスだった。
「い、いやー、それが全然出来ないんですよねー」
俺もそんな話題に必死に乗っかる様に、ひょうきんに俺はそう返す。
その後は、他愛もない話題で、結構長く大将と話し込んだ。
___________
「お会計が3200円になります」
「はい、5000円でお願いします」
時刻は20時になろうかと言うところ。良い料理を食べた俺はご機嫌で会計を済ませる。
下田に来た時はまた寄るかも知れないなと、会計をしながらそんな事を考えていた。
今日は下田のホテルで一泊する予定なので、これからまだのんびり出来る。
大将からアッチ系のお店を教えて貰ったが、どうしようかな?
「………あの、お客さん?」
すると、神妙な顔つきで女性が俺に声をかけて来た。
しまった、邪な感情が表に出ていただろうか?
「は、はい?」
慌てて弛んだ表情を元に戻す。すると女性は、どこか言いにくそうに口籠る。
「……えっと、……その………」
「?」
何か言いたい事があるのだろうとは察しがついたのだが、中々女性は言おうとはしない。
そして、数秒右往左往と迷った後、
「や、やっぱりいいです!!はい!お釣りが1800円です!!」
「え?、は、はい!」
無理矢理とも取れるお釣りの渡し方で女性は俯きながら1800円を俺の目の前に差し出す。様子のおかしい彼女に困惑しながら、俺はお釣りを受け取り、財布の中に入れた。
「じゃあ、大将!、ご馳走様!美味しかったです!」
「あい、下田に来たらまた寄ってくれなー!」
「もちろんです!」
ここ数時間ですっかり仲良くなってしまった大将とそんなやり取りをして、店の扉を開ける。
外は2月で気温も寒く、自分の白い息が視認できるほどだった。
「………あ………」
そして、俺の背後で名残惜しそうにそんな声を漏らす女性に、俺は気付かなかった。
_________
「……しまった。落とした……」
取り敢えずホテルに戻り、シャワーを浴びようとした俺はある事に気付いた。
キーホルダーが、どこのポケットにも入って無かったのである。
多分あの居酒屋に置きっぱなしにしてるのだろう。
店に入る前はあった筈だし、小さめのキーホルダーだったから、飲んでる最中にあの店で落としたのかも知れない。
大事なものだが、明日も下田にいるので昼ぐらいにお店に寄って聞くのも良いだろう。
「……………」
しかし、何か引っかかった。理由は、分からない。ただ"本当に明日で良いのか?"と言う感情が、俺の中で渦巻いていた。
もう酔っ払っていて、正直シャワーを浴びてベッドに飛び込みたい。
しかし、何故かそうしてはいけないと言う謎の警鐘が、俺の頭の中で響いていた。
「………取りに行くか………」
そして、頭に浮かんできたのはあの居酒屋の女性店員さんの姿。どうして今彼女の顔が頭に浮かんでいるのか?
そんな疑問を抱きながら、俺は再びあの居酒屋に戻って行った。
__________
ホテルから居酒屋までは徒歩で10分程。そんな掛かる距離じゃない。
俺はこの寒さで酔いが覚めそうになる感覚になりながら、居酒屋へと向かう。
頭の中には、あの女性の顔がずっと浮かんでいた。間違いなく美人さんであったが、それだけでこれほど印象に残るものだろうか?
「こんばんはー」
そんな事を思いながら、居酒屋の扉を再び開ける。
「!!、来た!!!」
すると、大将からいきなり叫ばれて、自分の肩が大きく跳ね上がる。
「すれ違わなかったか!?」
「な、何がです?」
厨房から出てきた大将にそう詰め寄られ、俺はたじたじとなる。
「アンタ、キーホルダー忘れて行ったろ!?今、ちょうどアイツもキーホルダー店を出て行った!!"やっぱりあの子だった"って!!」
「あ、あの子?」
状況が飲み込めない。ただキーホルダーを忘れただけだ。何をそんなに騒ぐ必要があるのだろうか?
「まだ分かんねえのか!!アイツがお前の言ってた"少女"なんだよ!!!」
「………え?」
大将から出たその言葉は、衝撃を通り越して俺の頭の中を真っ白にした。
_____________
「はぁっ!、……はぁっ!……っふう!」
顔が痛くなるほど寒い夜の下田の街を、俺は全力で走っている。酔いなんてとっくに覚めた。
こんなドラマチックな事があって良いのだろうか。
あの女性が、天真爛漫だった少女だったとは。
あの女性が、俺の初恋の人だったとは。
「はぁっ!……はぁっ!……分かるわけねーだろーが!!」
そんな悪態を叫びながら、俺は必死に彼女を探す。見た目に関しては、殆ど変わっていた。でも、注意してみればその面影はあったかの様に思う。
女性は、大人になれば驚くほど綺麗になる。
そんな事も忘れて、俺はあの少女と再会出来れば良いななどと、夢物語を描いていたのだ。
押し寄せてくるのは、後悔。
あの子の名前を聞いておけば良かった。
あの子の家の電話番号でも聞いておけば良かった。
あの子の住所でも聞いておけば、手紙でのやり取りも出来たかもしれない。
そしてあの時、どうして気付いてあげられなかったのか。
後悔、後悔、後悔ばかり。気付けば、そんな情けない自分が嫌になって泣きそうになりながら彼女を探していた。
俺は自分が泊まってる意外のホテルを片っ端から聞き込んだ。『居酒屋の制服を着た、美人さんは来ませんでしたか?』と。ホテルに一泊するとは言ったので、彼女も何処かのホテルで俺の事を聞き込んでいると思ったからだ。
しかし、そんな説明で伝わるはずもなく、殆どのフロントの受付の人は苦笑いで受け流すのみだった。
「ミカンのキーホルダーを持っている女性は居ますかー!?」
なので、今はこの様な事を叫んで呼び掛けている。
こんなにも近くにいるのに、名前が分からないと言うのは歯痒さしか無い。
下田は観光地で、宿泊施設なんざ無数にある。その中で名前も知らない、顔だけしか知らない男を探せと言うのは、不可能に近い話だった。
このままあの居酒屋に帰って、大将と一緒に彼女が帰って来るのを待つのが、正しい選択なのだろう。
でも、俺の中でそれは違った。自分の力で彼女を見つけて、謝りたい。
"さっきは気付いてあげられなくてすみません"と。
「はぁ……はぁ……ミカンのキーホルダーを持った女性はいませんかー!?」
もう走る余力も無いが、声はまだ出る。俺は足を止めて、声掛けのみをする。
今日が観光客が少ない平日で良かった。名前も知らない女性を叫ぶ今の俺は、不審者そのものだろう。
「ここに居ますよ」
すると、背後から女性の声が聞こえた。俺は慌ててその声の主の方へと振り返る。
そこには、居酒屋で見た成長した"少女"の姿があった。
彼女も息が上がっていて、街灯に照らされた顔がほんのり赤くなっている。
「はぁ……はぁ……あの、っ!ゲホっ!!ゲホっ!!」
息も整えないまま慌てて喋ろうとして、俺はむせてしまう。
それを見た彼女は慌てて近づいて、背中をさすってくれた。
「大丈夫ですか?……一旦、そこの公園のベンチに座りましょう」
幸いにも、再開した場所は公園のすぐそばであり、走り回ってヘトヘトになっていた俺は、無言で頷いて、彼女の指示通りにベンチに座った。
「はぁ……はぁ………っふぅー………」
ベンチに座り、呼吸を整える。それと同時に、興奮していた心も落ち着いてきた。
そして、喋れる状態になった俺は、まず立ち上がって彼女に向かって頭を下げた。
「ごめん!居酒屋で気付いてあげられなくて!」
あってまず一番に言いたい事。それを言うと、彼女は左右に首を振った。
「ううん、こっちこそごめん。……実は、貴方があの席で叔父さんに話してた時、薄々気付いてたの。あの時の子かな?って。でも、自信が無かったから、私は黙っちゃった。貴方が忘れていったこれを見つけて、確信が持てたの」
そして、彼女はミカンのキーホルダーをポケットから取り出した。
所々傷が付いて、年季を感じるそれを、彼女は愛おしそうに見つめる。
「これ、私が貴方が帰る日にあげた手作りのキーホルダーでしょ?」
「う、うん。覚えてたんだね?」
「忘れるわけないよ、私も持ってるんだし」
すると、彼女は再度ポケットに手を入れて、同じくキーホルダーを出してきた。
それは、俺が貰ったキーホルダーと同じ形だが、中の絵が違った。
俺はのキーホルダーは、彼女の可愛らしいミカンの絵が描いてあったのだが、彼女のキーホルダーは、俺が描いた不恰好なミカンの絵が描いてあった。
そう、あの時、俺と彼女はお互いにミカンの絵を描き合って、それをキーホルダーにしてプレゼントとして渡し合ったのである。
彼女のキーホルダーも、10年経って年季が入っていた。しかし、大切にされている事は伝わった。
「……持ってたんだ……」
溢れ出そうになる感情を抑え、ポツリと俺はそう呟く。
正直、飛び上がりそうになるくらい嬉しい。だって、初恋の人に渡した10年前のプレゼントを、大切に持っていてくれていたのだ。
俺としてはそれだけでも満足だ。
「……ねえ、私達って、出会って10年以上経つでしょ?」
すると、二つのキーホルダーを見合わせながら、彼女はそんな事を聞いてくる。
「う、うん。でも、遊んだのは1週間だけだよな?」
出会ったと言っても、遊んだのはたったの1週間だ。そこには10年もの空白がある。
「でも、その1週間の出来事をずっと覚えてるなんて凄くない?互いに名前も知らないのに」
確かに。でも俺が覚えてたのは彼女に恋をしてたからだ。
俺は彼女の言葉に無言で頷いた。
「それで、貴方は今日私のために街中を走り回って見つけてくれたんでしょ?……1週間分の関わりしかないのに」
「うん、でもそれは……」
「……それは?」
その続きを言おうとして、俺は口籠もってしまう。ここで"初恋だったから"と言うのは、あまりにもクサイのではないだろうか?
そんな無駄な感情が邪魔したのだ。しかし、もう後悔はしたくない。俺は意を決して彼女に伝えるために口を開いた。
「……それは、俺の初恋の人だったから……」
ああ、恥ずかしい。クサい。クサすぎる。しかし、達成感があった。10年越しの初恋を、本人に伝えられたのである。
言われた彼女は、一瞬驚いた顔になって、言葉を呑み込むと同時にどんどん顔が赤くなって行った。
「………そっかそっか。"貴方もそうだった"んだね」
「あ、貴方もって……?」
意味深な発言をする彼女に、俺は疑問を口にする。俺は今、彼女に恋をしていたと伝えた。そして、今彼女が"貴方も"と言ったという事は……
「私も、貴方が初恋だったからずっと覚えてたんだよ?」
衝撃だった。彼女は、一緒に遊んでた時はそんな素振りを一切見せなかった。
だから、この恋は俺の一方通行な片想いだと思っていたからだ。
「はっ、あははは!!何だそれ?お互いに名前も知らない人同士を好きになったって事?」
ここまで来ると、何だか笑えて来た。お互いの名前を知らないまま10年以上。互いを初恋の相手として認識していたのである。
「あははっ!こんな事ってあるんだねー」
そして、俺の笑いに釣られたのか、彼女も思い切り笑う。その笑顔は、10年前に見たものと全く同じだった。
「ねえ、お互いの初恋同士、そろそろ名前を知っても良いんじゃない?」
すると、彼女から至極真っ当、そんな提案をされる。苦節10年、互いに片想い。ようやく名前を知る機会がやって来たのだ。
「うん、良いよ」
断る理由もない。俺がそう言って頷くと、互いに口を開いた。
「俺の名前は________」
「私の名前は________」
夜の下田の街は、ほんのり柑橘系の香りがした。
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