第5話
覚悟を決めて始めた栞を無視する作戦だったけれど、よくよく考えてみるとそこまで効果があることのか僕は疑問に思っていた。
そもそも栞を無視するというシチュエーションなんて、僕にはなかなか訪れないのだ。
今ではすっかりとクラスの友達と一緒にいる事が多くなった栞は、僕の所になんて滅多に来ない。
いてもいなくてもあまり関わってもらえず、まるで空気のような扱いを普段はされている。
前までは僕から話しかけていたけれど、挨拶をしただけで面倒そうな顔をされてからは、栞から声をかけられるまで、僕からは何もコンタクトは取らないようにしていた。
だから日常で僕と栞の接点なんてほとんどない。
栞から僕に話しかけて来る時は、決まって何か欲しいものがある時だけなのだから。
そんな状態で、そもそもどうやって作戦通り無視をしようかと考えていたけれど、そのチャンスは案外すぐにやってきた。
「真! なんで奈緒に付いて行ったのよ! 大事な話をしてたっていうのに」
イライラした様子の栞が近寄って来る。
反射的に「ごめん」と言いかけた口を慌てて閉じる。何かあればすぐに謝ってしまうのは僕の悪い癖だ。
危うく初手から作戦が失敗するところだったけれど、なんとか踏みとどまれた僕は、なっちゃんの言いつけ通り栞と目も合わせずに通り過ぎた。
「ちょっ、ちょっと真! アンタ聞いてんの?」
「……」
「私の話はまだ終わってなかったんだからね!」
「……」
「今日もちゃんとバイト行くんでしょうね? 売り切れる前に絶対買ってよね!」
僕が明らかに無視しているのに、栞は構わず自分の言いたい事だけを言って去って行った。
あの様子から察するに、普段から僕の返事はあまり気にしていないのかもしれない。
まるで自分の言った事は絶対叶えてもらえると思っているようだ。
こんな反応を見ると、なっちゃんが考えた作戦にあまり効果があるとは思えなかった。
それから、その日は栞が僕に話しかけて来る事はなかった。
僕への用事は、今気になっている鞄の事しかないのだろう。分かっていた事だけど少しだけ悲しい。
ただそんな栞とは違って、なっちゃんは今まで以上に僕に構ってくれるようになった。
休み時間の度に見に来てくれて、本当に心配してくれているのが分かって心があったかくなった。
学校では一人でいる事の方が多かったから、なっちゃんのおかげで久しぶりに楽しいと思える時間を過ごす事ができて嬉しかった。
放課後もバイトに行かないようにと一緒に帰ってくれて、今度こそなっちゃんの部活を見に行く約束もした。
なっちゃんと過ごした学校生活は、なんだか久しぶりに充実した感じのする一日だった。
次の日。
やっぱりというか、意外にと言うべきか、栞が朝一で話しかけて来た。
「ちょっと真! もういい加減買ってくれたんでしょうね?」
やっぱりと思ったのは、話の内容だ。
栞が一番気にしている、欲しいものが手に入ったかどうかという事。
僕が意外だと思ったのはタイミングの事。
僕が来るのを待っていたかのように、教室に入るとすぐ、朝一で栞が近づいてきたのだ。
今まではあまりこんな事はなかったから、素直に珍しいと思ったけれど、まぁそれだけ鞄が気になっていたのかなと思う事にした。
「……」
「昨日もバイトは行ったんでしょ? こんなに待たされた私の身にもなってよね」
「……」
「ホント昔からあんまり役に立たないんだから、もう少し頑張ってよね」
「……」
「……ねぇ真、アンタ私の話聞いてるんでしょうね?」
そこでやっと栞の声に棘がついた。
イライラしているのが漂ってくる空気でわかる。
思わず威圧に負けて口を開きそうになったけれど、なっちゃんとの約束を思い出して何とか踏みとどまった。
「……」
「ちょっと真! 無視してんじゃないわよ!!」
すごい声量だった。
顔を歪めて怒鳴る栞からは今まで向けられたことのないような怒りを感じる。
僕は何食わぬ顔で席に荷物を置いたけれど正直もう限界で、そのまま何事もないように教室を出てトイレに避難した。
男子トイレという安全地帯。個室に入って気持ちを落ち着ける。
あんなに感情をむき出しにして怒る栞は本当に怖かった。
けれど、どちらかというと少しだけ意外だと思う気持ちの方が強い。
僕が栞を無視して一番恐れていたことは、愛想をつかされてそのまま相手にされなくなる事だった。
今ではお金が必要な時しか相手にされていなかったというのに、こちらから無視して少なかった栞との接点を自分から捨ててしまったら、栞から嫌われそうで怖かった。
だから栞が怒ってくれた時は、怖いながらも少しだけ安心したのも事実だった。
時間を空けて教室に戻っても栞は怒ったままで、休み時間の度に詰め寄られた。
僕はその度にすぐ教室から逃げ出して、栞を無視し続けた。
僕が避ける度に怒鳴り、感情をむき出しにする栞は、なんだか少しだけ新鮮で、僕はどうしてか気分が高揚しているような気がした。
ただ、そうやって逃げ続けるのもすぐに限界がきた。
男子トイレに逃げ込む前に、僕は栞とその友達に捕まってしまったのだ。
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