第18話 湯上がりの悪人共
ロズワルドは旅館の一室で本を読んでいた。入浴前の軽い調べ物のつもりだったが、既に2時間近くずっと本を読んでいる。もっとも彼にとっての「軽い調べ物」とは大体いつもこれくらいの時間がかかるものではあったが。
本そのものは一冊だけでそれも随分と薄いものではあったが、それは彼の自宅にある書籍を写し見る媒体であり、つまり自宅にあるほぼ全ての書籍を閲覧する事が可能であった。というより便利なので自宅でもほとんどの場合はこれしか見ていない。
まず最初にバンシーの事を調べ、次いで不死生物の特性を調べ、不死生物の種類を調べ、魔法による生体結合や、召喚魔法を実施した場合の周囲の影響や特徴を調べたあたりでやっと時間の経過に気がついた。いかんいかんもうこんな時間だ。
そして彼は備え付けの寝間着とタオルを用意して共用の大浴場に向かった。風呂不精ではあるが、魔宮から帰った後だしせっかくだから頂くとしよう。
思ったほど大した施設ではなかったが、まあ自宅の風呂よりは広いからいいか。軽く身体を流して大風呂に入る。ちと温いのが丁度良かった。
──時間か──
その事を思い出して少し自分に呆れた。全く、未熟にも程がある。「品位」どころの話ではない。私は一体何をやっているのか、と思った。
ロズワルドが魔道士を目指しているのは時間魔法の研究のためである。誰でも知っている概念ながら実は極めて難しい概念であり、およそ森羅万象を司る法則と言っても過言ではない超高難易の研究課題であった。
しかし、意外にもと言うべきなのか、それ故というべきなのか、彼自身はわりと時間にはルーズであった。それは彼の興味が宇宙や光速という遠大なものに対するものだからこそかも知れない。偉大な数学研究家が初歩の計算を間違えたり忘れたりする微笑ましさとも似ていると言えば通じるだろうか。
そして時間という概念は当然生物の生死とも密接な関わりがある。そして不死という事象に対して、ロズワルドはエヌフォニ教のアプローチにあまり賛同していない。
ロズワルドの考えでは不老不死は既に実現している。子孫という形で遺伝子を伝達している限り種族としての不死性を持つと考えていた。それ以上の、例えば自身を不老不死にするというのは、まず精神が耐えられないだろうと思っている。
ロズワルドは死を望んでいる訳ではないが、ロズワルド・イジニットシュタインという個体が永遠の時間に耐えられるとは考えてはいない。仮に不老不死が可能であっても、今の自分を維持できるのは200年くらいじゃないかと考えていた。
200年。人間としては絶対にあり得ない生命の猶予であるが、歴史的に考えれば大震災よりたった50年前。大陸や世界の時間では大陸が数ミリ移動する程度の時間。星々の間を移動する想定なら光すら到達しない程度の僅かな時間。自分はそれにすら耐えられないのだ。馬鹿馬鹿しくて夢想にすらならない。
しかしだからこそロズワルドはその短い生命に価値を見出していた。この一瞬の命の猶予で可能な事を成し遂げる。この探索は寄り道ではるがこれもまた価値であった。そこに矛盾は全くない。なぜならば自分は今までさほど興味のなかった怪物だの召喚魔法だのを改めて学習し、僅かな時間で大きく学んだではないか。
ロズワルドはまだ魔道士ではなかったが、その研究意欲は本物であった。考えるのが好きであり、学習するのが好きであり、推測や実験が大好きであった。そしてそれ故に、その薄い身体には些か長過ぎる入浴で湯あたりしている事に彼が気がつくのは、もう少し後の事であった。
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うう、いかんなあ。
ロズワルドは湯あたりした赤い顔で冷たい水を飲みながら、浴場の外にある椅子にへばっていた。どうも私は考え始めると止まらなくなる。これまでも何度鍋や薬缶を焦がしたことか。情けない。
「あれ、ロズワルドじゃない」
そう言われてそちらを見ると黒髪の女性が居た。一瞬誰だか判らなかったが
「…聖女殿か」
それはウィンブルを取ったアナスタシアだった。黒髪だったのか。
「どうしたの?湯あたり?」
アナスタシアは小さなテーブルを挟んだ向かいに座った。その質問は本当の回答を引き出すためにわざと外した質問だったのだが、それが図星だった。
「典型的な学者バカだねえ」
アナスタシアは微妙な笑みを浮かべてビールを一口飲んだ。良く飲むなあ。
「君も随分と遅いな?」
ロズワルドも不思議に思って質問した。別れたのは随分前のはずだ。
「女はいろいろあるのですよ。魔術師殿」
そう言ってアナスタシアはにやりと笑ったが実は大した事はない。部屋に戻る途中で一応ロディオンの様子を見て、部屋に戻ってから酒を飲みながら彼女も調べ物をしていたのだ。もっとも彼女の調べ物は旧王家にあったはずの財宝目録だったが。そして久々の大浴場でゆっくりしてたらこの時間になっただけだ。あービールうま。
「しかし君の浄化は凄いな。噂通り、と言ったら弟君に怒られるかな」
ロズワルドはやや気を使ってそう言った。それについてアナスタシアは別に気を損ねるでもなく、むしろにやりと笑ってそれに答えた。
「法典なんて使ってナンボだからね」
ロズワルドはこの聖女殿にやや好意を持った。女としてではない。人間として。
「大聖堂の本棚にあるだけじゃあ書いた聖人だって報われないよ」
聖女らしくもない事をあっさりと言い放つアナスタシアであった。
「というか私の噂ってどんな事を聞いた?」
アナスタシアはロズワルドにそう訊いた。
「どっちから聞きたい?」
ロズワルドも面白がってそう問い返した。
「良い方から」
アナスタシアはにんまりと笑って即答した。
「若手ながら大変な勇気と実績を持つ美しい聖女の噂は良く聞くものだ」
ロズワルドの言葉にアナスタシアは満足そうにうんうんと頷いた。
「悪い方は?」
アナスタシアはむしろそっちを訊きたがっているようだった。
「…しかし、彼女には黒い噂も多い」
ロズワルドもにやりと笑って言葉を続けた。
「どう考えてもその法力は上位法典を盗み読みしたものとしか考えられない、とも」
ロズワルドはにやりとした笑顔のままそう言った。
「失礼ねえ、盗み読むなんてとんでもない事ですよ」
アナスタシアもむしろ面白そうにそう答えた。
二人の悪人は笑い話のように話しているが、法典を読む権限は大変細かく厳しく、本来ならそれを犯したら一発で破門の大戒律破りなのだ。「あり得る」ではない。確定で破門なのだ。それ程厳重なのは法典の力が非常に大きく有益だからである。
しかし彼女はそもそも尼僧として生涯を終える気は全くない。さすがに破門は嫌だが、それでも今後の事を考えている彼女にとってはさほど致命的でもないのだ。
「そしてもうひとつ」
ロズワルドはより面白そうな顔で言葉を続けた。
「どうも彼女は旧王宮にある宝石などを盗んでいるようだ、と」
それを聞いたアナスタシアは可笑しそうに声を上げて笑った。
「どこの誰だか知らないけど酷い聖女も居たものねえ」
アナスタシアは機嫌よくビールを飲み干した。
「まあ、一般論として」
アナスタシアは下目使いの人の悪そうな顔をした。
「正当な労働には対価を得る権利があるものよね。一般論として」
悪魔祓いが労働で窃盗が対価か。大した聖女殿だ。
アナスタシア・リーンという人間からエヌフォニ教という要素を取り除いても、その質量はほとんど変わらない。彼女はあくまで労働者であり、ついでに言えば宝石そのものが好きなロマンティックな女性なだけである。手段はともかく。
「そういえばロズワルドは?」
ふいにアナスタシアはそう問うてきた。ん?
「最初会った時、自分は一番の悪人だって言ってたじゃない」
ああ、そんな事を言ったな。
「私はつい去年までラウルハウゼンで
おほほお、とアナスタシアは妙な笑い声を上げた。秘密結社の構成員かよ。
「これはこれは、大変な大物の前でしょっぱい事を申しました」
アナスタシアはおどけるようにそう言った。
「でも何で?というか抜けて大丈夫なの?」
それについてロズワルドはまず4回目の試練で落ちた経緯を説明した。
「品位ねえ…」
アナスタシアは眉を上げてその言葉を繰り返した。意外すぎる理由だった。
「偏見だけど、魔道士って大釜で怪しい薬を調合してるイメージだけどねえ」
また随分と古い偏見を持たれたものだ。ロズワルドは苦笑してしまった。
「抜けた経緯は、元々私はそういう約束で組織に入ったからな」
尽力はするが正規の一員にはなれない。その代わり仕事は選ばない、と。
さすがにこの先は言わなかったが、ロズワルドが組織の一員だった時の主業務は暗殺だった。その経験こそ彼が魔道士試練から4回も帰還できた最大の理由だったのだ。つまり魔法で敵を殺害する事については彼は本当にスペシャリストなのである。
「ふーん…」
アナスタシアはそれ以上は訊かなかったが、何となく彼が何をやっていたのかは推測がついた。まさかあの術と判断の早さで売春斡旋をやっていた筈がない。
「お主も悪よのう…」
アナスタシアは少し前に流行った東方の演劇の一幕を真似てそう言った。
「いえいえ、オブケサマにはとてもとても」
ロズワルドも真似てそう返した。オブケサマというのは演劇の中での悪役なのだが、なぜか最後は謎の黒いピルケースを見せられただけで観念するというストーリーが受けもしたが、根拠も良く分からずで、そのうちに廃れてしまった。
「じゃあそろそろ私は休むよ」
そう言ってアナスタシアは立ち上がった。確かにそろそろ遅い時間だ。
「私もそうしよう。お休み、明日もよろしくな。聖女殿」
ロズワルドもそう言って立ち上がった。彼らの部屋は別の棟にあるのでここでお別れである。ロズワルドが忘れ物がないか振り向くとアナスタシアが追加でビールを購入するところが見えた。尼僧には酒犯の戒律があった気がしたが多分勘違いだろう。
二人の卓越したスペルキャスターは、男女の関係でも、友情でもなく、同じ穴の狢というとても強い共感で親睦を深めたのであった。
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