四_060 酸味の腹中



「他に何か気になることはありますか?」


 壮年と老年の間くらいの女性。初老と言うのだろうか。

 サナヘレムスのポルタポエナには、数名の医者とその見習いたちが常駐している。


 彼女はその長を務める立場で、本来ならフゲーレが気安く話せるような相手ではない。

 立場とすればコカロコの方が上になるが、あちらは直属の上司で頻繁に会う。

 別部署の上位者というのは、どうも落ち着かない。


「いえ、テナア様。お手間を掛けてすみません」

「コカロコ聖下からも聞いていましたので、気にすることはありませんよ」


 柔らかな物言い。



 サナヘレムスに住む教会の幹部はだいたい誰も穏やかで優し気だ。

 難しい人もいないでもないけれど、傲慢不遜と言われるような人はいない。

 ヘレムの教えを守っていれば当然のことではあるのだけれど。


 他の国から王族や高い役職の人が来ることもある。

 フゲーレはセルビタの手伝いでそれらの食事の準備に当たることもあるが、他国の貴族は結構我侭な物言いをするものだ。

 コカロコがどれだけ人格的に完成されているのか思い知ることが多い。



 聖下と敬称で呼ばれるのは三人だけ。

 ヅローアガ主教、コカロコ大司教、セスマムコーレ教母。

 コカロコ以外はよく知らないが、フゲーレは今の立場に感謝している。

 父はヘレムス教区の別の町で神職を務めていて、縁があってフゲーレはセルビタの見習いになった。


 コカロコ大司教周辺の食事の差配をするなど、とても名誉な仕事。

 仮に生まれた村に戻ったとしても、立派な仕事を務めてきたと誇りになる。


 ゼ・ヘレム教で重要視されることの一つが食事と感謝。

 大地の恵みに感謝を捧げ、日々の食事を尊ぶ。

 だから高位の神職でも案外と料理をしたりするのだが、さすがに三聖下ともなれば自分ですることはない。



 不思議なのはイルミーノラークだった。

 彼女のことはよくわからない。

 特別扱いをされていて、コカロコの様子では時折彼自身よりも尊重されているようにも見える。


 詮索は不要。ただ彼女が健やかに暮らせるよう配慮をすればいい。

 そう言われて、右も左もわからないフゲーレは素直に頷いた。


 無用に近付くことも控えるように言われていたが、それは忠実に守ってきたとは言えない。

 フゲーレは食事以外のことでもイルミーノラークと話す時間を設けたし、彼女もそれを楽しんでくれているようだった。

 イルミーノラークが健やかに暮らせるのなら、大人たちはそれを咎めるようなこともなかった。

 過多な好意を抱いたり、規則を破って淫らな行いをしないようには注意を受けたけれど。



 イルミーノラークは自由を許されていて、だけど不自由だ。

 コカロコの管理する教会南西の区画であれば、ほとんどどこにでも足を踏み入れても許される。

 管理の為、多少なり入館に制限のある書殿に出入りすることや、ポルタポエナ教会でも相当な自由が許されていた。

 巡礼者や他の教会職員に迷惑を掛けない範囲なら。


 大聖堂の中で昼寝をしていても笑って許されるなど他にいない。

 衛士たちも上からそう言われているらしく、彼女に関しては奇妙でも目くじらを立てることはない。


 余談ではあるが、書殿では他にも居眠りしている者がいるらしい。

 神職やその見習いでも結局は人間。誰かの目の届かない場所で休憩ということはあるのだとか。



 それだけ自由な振る舞いが許されているイルミーノラークだが、逆に教会管理区から出ることは許されていない。

 サナヘレムスの町に出ることも、まして町から出ることなど。


 何度かサナヘレムスの町に行きたいとコカロコに頼んで出かけたことはあったが、その際は数名の衛士や助祭長などが付き添っていた。

 警護と監視と。


 ――あれはだめこれはだめって、窮屈で全然面白くなかったです。


 今では管理区を出たいとは思わないのだと自身で話していた。

 そう思うよう仕向ける為に、わざと雁字搦めにしたのかもしれない。



 もう一つ、禁じられていたことがある。

 あった。


 調理場への出入りは禁止だと。

 確かにそう聞いていたし、イルミーノラークも駄目だと言われていたことに対して関心を示さなかった。


 ――私も料理できるかしら?


 アスカの影響だったことは間違いない。

 自分でも何か料理をしてみたい。

 アスカたちが湖に出てしまい、暇を持て余したこともあったのだろう。



 別にいいのではないか。


 簡単に考えてしまった。

 ダメだと言われていたけれど理由は聞いたことがない。疑問に思ったことも。

 漠然と、こういった雑事をさせてはいけないのかなと認識していただけ。

 イルミーノラークは日々を穏やかに過ごすだけで仕事をしなくてもいい。あるいは仕事をさせてはいけないのかと。


 アスカの作るものを食べて、自分も作ってみたいと思うのは至極自然なことだ。

 いきなりうまく出来るものでもないが、それも経験だろう。

 むしろ彼女の失敗作なら、フゲーレにとっては思い出にするのも悪くない。



 軽はずみな下心。あるいは恋心。

 ダメだと言われていたから、セルビタやコカロコのいない時間を案内した。

 この時間なら手が空くから手伝ってあげられると。


 見つかったら謝ればいい。

 イルミーノラークが望んだことであれば、コカロコを始めとして誰も強く咎めることはない。


 考えが甘かったことは間違いない。ただ、予想以上に反応が強く驚かされてしまった。




「故郷を離れて二年、でしたか」


 フゲーレの症状を聞き、何かしら理由を探すようにテナアが頷く。


「あなたくらいの年齢なら、自分でも自分の心の具合がわからなくなることもありますが」


 病気ではない。

 医者として長年患者を診て来たテナアは、フゲーレの様子が身体的な病ではないと判断していた。

 事実その通りなので、さすがだと思う。


「怪我であれば治癒術士が。病であれば私たちがある程度は解決できるものですが」


 サナヘレムスには治癒術士も多くいる。

 やや偏った価値観の人……変わり者が多く、怪我をしても安易に治癒をお願いするようなことはない。



「不安やそういった原因のようですね。フゲーレくらいの年齢なら珍しくはありませんから、特に恥じることはありませんよ」


 十代半ばで、生まれ育った環境とは違う生活。

 精神面の不安定さで失調することもある。


「原因に心当たりがあるのなら、話していただければ。多少は楽になることもあるかと」

「……」

「ここで聞いた話は他言しません。よければですが」



 心当たりはある。

 イルミーノラークを調理場に入れたことを、なぜポシトル助祭長はあれほど叱責したのだろうか。

 怒りというより焦っていたようにも見えた。


 フゲーレを叱り、イルミーノラークをすぐに外に出して。

 二度とするなと言うと、それ以降はこの話はなかったようにすぐに姿を消した。

 長時間ひどく叱られるよりは良いのだが、後になってから次第に不安が増す。

 自分はそれほど悪いことをしたのだろうか、と。


 女の子を調理場に入れただけ。

 別に寝室に連れ込んだだとかそういうわけではない。

 叱られて、当分はイルミーノラークに近寄るなとまで言われるとは。



「あの……テナア様」


 何が悪かったのかわからない。

 禁則を破ったことへの罪悪感と不安、それと反発する気持ち。

 そういえばポシトル助祭長は普段から少し冷たいところもあるような気がしてきた。


 テナアは黙ってフゲーレの次の言葉を待つ。言葉を遮らないように。


「どうしてポシトル助祭長は……」


 あまり関わることが少ない相手で、悩みを他言しないと明言してくれたから。

 つい愚痴のような言葉が漏れるのも、十代半ばの少年なら珍しいことではない。



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