四_043 ヘレムの子
何かイヤな感じがした。
鳥肌が立つような感覚を受けて、考えるより先に逃げ出してしまった。
本来ならあそこは道に迷ったとか言い訳をするところだったと思う。そのつもりだったはずなのに逃げ出してしまったのは本能的なもの。
逃げたせいでフィフジャを見失ってしまった。ヤマトは反対方向に走ったから、かなり離れてしまったように思う。
戻る道順は覚えているが、戻ったらまたあの男がいるかもしれない。
どうしようか。
ここはとにかく建物が多い。
家よりもずっと大きな建物がいくつも、いくつも。
今、走ってきただけでも十近く通り過ぎている。なのにほとんど人がいない。
「あなた誰?」
いた。
声を掛けられるまで気が付かなかったのは、その少女が植え込みの横で寝ていたからだ。
日当たりのいい場所で寝ていた。そんな人間がいるとは思ってもいなかったのでわからなかった
「見たことない子」
見覚えがあるはずもない。初めて来たのだし。
「……アスカよ」
「わたしはイルミーノラーク」
寝転がっていた場所には敷物が敷かれている。
複雑な柄が編み込まれた高級な布製品のようだが。
「イルミーノラーク? 長い名前ね」
「そう?」
アスカの感想に、気分を害したわけでもなさそうに首を傾げる少女。
年齢は、アスカと同じくらいか少し上程度。その雰囲気は危機感がないというか、何というのか。
「普通、こういう場合って……怪しい奴だとか警戒するもんじゃないの?」
「そうですか? こういうの初めてだから」
どういうのを言っているのか。侵入者のことだろうか。
まあ頻繁にあるものでもないはずだ。確かに、咄嗟にどうすればいいのかわからないかもしれない。
侵入者がアスカで良かった。悪意のある何者かだったら彼女――イルミーノラークが危険に晒されてしまう。
「イルミ……イルミでいいよね」
「そういう呼び方をする人はいないけど、いいですよ」
答えてから少しおかしそうに笑う。
「アスカは変な子」
「否定はしないけど、お互い様じゃない」
敵意はない。それが普通なのだろうが、最近は特に殺伐とした日々が続いていた。
こうしてごく普通の少女……やや普通ではない気もするけれど、初対面で笑って話せる相手というのは久しぶりな気がする。
サトナとの初対面は、あの時はボンルを見つけて噛みついていた。
ネフィサと初めてまともに話した時はあれだったし、ウェネムで会った軍人のモルガナだって最初は敵だった。
他には、魔獣に襲われて住居を失った浮浪民とか。
こんな風に穏やかに名乗り合える相手というのは記憶に少ない。
「イルミは何してるの?」
「うん、寝てたの」
見たままだ。
庭に敷物を敷いて眠っていたのだと言う。
「お天気、良かったから」
夏に近付きつつある暖かな日差しで、確かに昼寝には都合がいいかもしれないが。
「ええと、お仕事とか何かしなくていいの? 手伝いとか」
アスカと同じくらいの年頃なら、何かしら勤めがあるのではないだろうか。
アスカの問いにイルミは小首を傾げて、
「寝るのがお仕事、だから」
なんだそれ、理想郷か。
それともネコか。ネコなのか。
さすが聖地サナヘレムスとか妙な感想を抱いてみたりもするが、そうではない。
ここまで道すがら見て来た人々は、やはり何かしらの労役をしている。
働かずに生きていける世界というわけではない。
「あー、イルミは偉い人の子供?」
「偉い人?」
「お金持ちだとか」
「ううん、親はいないの」
失敗だった。
特に何を気にした様子でもなく、ただ事実としてそう告げるイルミ。
相手が気にしていなくても、余計なことを聞いてしまったとアスカは気に病む。イルミの様子からすれば、親の記憶すらなさそうではあるが。
「私はヘレムの子だから」
「……?」
ヘレムというのは、ゼ・ヘレム教会の崇める神様だ。全ての人は神の子であるとか、そういう思想的なことかもしれない。
「そうなんだ」
教会の敷地内で、明らかに高価な敷物を使って寝て過ごしている少女。
どういう事情があるのか興味も湧くが、首を突っ込んでいいのか迷って聞き流した。
「アスカはどうしてここにいるんです?」
「道に迷って」
「こんな場所に?」
間髪入れずに用意していた答えを返したアスカに、きょとんとした顔で率直な疑問をぶつけられた。
「ズァムーノ大陸の田舎から来たの。こんな大きな町は初めてだから」
「まあ、本で読んだことがあるわ。南の、海賊と戦争の大陸でしたよね?」
そこまで未開の土地ではないと思うけれど。
とりあえずイルミの興味は見知らぬ大陸のことに移ったらしい。
「ねえねえ、天曜樹って本当に空まで伸びているんです?」
「天曜樹……ああ、SEKAIJUみたいなのね。あれはズァムーノの西部にあるって話だから、見たことない」
「そうなんですか」
「ものすっごい大木なら見たけど……うん、あの水道橋に届くくらいの」
遥か上空に見える水道橋を指して、実際にはそこまでではなかったかもしれないと思いながらも話を作る。
根の大樹、と呼ばれていた。竜人の村にあった大木。
薬効のある葉があるが、劇薬になってしまうので薄めたりする配合がとても難しいのだとか。
聞いているイルミの表情がくるくると変わり、もっと話してとせがまれる。
ノエチェゼの町で見た牙城や、あの町のチンピラ海賊のような連中のこと。海皿砦や太浮顎、ネレジェフの話。
年齢の近いイルミーノラークを相手に、つい面白おかしく喋ってしまった。
「アスカはいっぱい旅をしているんですね」
「まあ成り行きで……って、いけない」
頬に黒ずみのある男との遭遇を避けるため、少し時間を潰そうと思ったのだが、つい話し込んでしまった。
そろそろ戻らないとフィフジャたちが戻るかもしれないし、ヤマトがまた迷子になっている可能性も考えられる。
「戻らないと」
「……」
浮かびかけた不満と寂しさを飲み込み、口を閉ざすイルミ。
本当は引き留めたい。だけど我慢しようと。
「そう」
もう一度会えると思ってはいないようだ。
イルミがどういう経緯でここで暮らしているのか知らないが、やはり相応の血筋なのだろう。
同世代の少女とおかしな会話をする機会などほとんどない。
「あー」
なんだか罪悪感を覚える。アスカが悪いことをしているわけではないはず……いや、少し後ろめたいところもあるけれど、それは別。
結局フィフジャとコカロコ大司教という人の話は聞けなかった。どうあっても聞かなければと思っていたわけではないが。
「イルミの都合が悪くないなら、また――」
「見つけたぞ」
はっと振り向くと同時に腕を掴まれた。
すぐ近くに迫られるまで気が付かなかったのは、イルミに気を取られ過ぎたか。いや、そんなはずは――
「イルミーノラークに何を……」
「やめて下さい、ユソー」
アスカの腕を掴んだ、頬に黒ずみのある男。教会の下働きの下男だと思うが。
「お話をしていただけです。アスカが何をしたって言うんですか」
「この娘は……」
「いましたか、ユソー」
ユソーと呼ばれた男の後ろから、灰色の貫頭衣に身を包んだ初老の男が歩いてきた。
その横にはバナラゴ・ドムローダの姿もある。
「……こんな所でなにを」
「トイレに行こうとして道に迷ったの。そうしたらこの人が怖い顔で追いかけてくるもんだから」
まだアスカの腕を掴んだままの男にきつい視線を向けた。
「……」
「ユソー、離しなさい」
貫頭衣の老父が静かに促す。
「怖がらせてしまったのでは仕方がない。お前は少し剣呑な気配が強いのだから」
「……」
老父に促されて、ユソーは渋々といった風にアスカの腕を離した。
背中で、イルミがほっと息を吐くのを感じる。
「すまなかったね、お嬢さん。フィフジャを助けてくれたというアスカというのは君のことですか?」
手を擦るアスカに対して、穏やかに語り掛ける老父。
「そうだけど……私もフィフに何度も助けられたから、お互い様よ」
「そうでしたか。助け合う関係は尊いものと言います。ゼ・ヘレムの御導きかな」
別にそんな曖昧な御導きがどうとかいうわけではないと思うけれど、ここでそんなことを言って混ぜ返すこともあるまい。
彼らは敬虔な信奉者なのだから、良いことを神のおかげと言うのは自然なこと。
「コカロコ様、アスカはわたしに珍しい旅の話を教えてくれたんです」
「それもまた良い御導きでしたね。つまりこれもまたゼ・ヘレムの御意思なのでしょう。バナラゴ殿」
「……」
難しい顔でアスカを睨んでいたバナラゴを宥めるように老父が言う。
勝手に歩き回ったアスカを苦々しく思っているようだが、どうも立場的に上になるらしい相手の言葉に溜息と共に頷いた。
「……勝手に歩き回ってごめんなさい」
「無闇に立ち入る場所ではないのですが、イルミーノラークの顔を見れば楽しい時間だったのだとわかります。ならば私から責め立てることはありませんよ。アスカ」
相手が穏やかで話を聞いてくれるものだから、素直に謝ってしまった。
なるほど、人というのは強制されなくとも頭を下げる気分にもなるのだなと実感する。
「……コカロコ大司教、様?」
「そう呼ぶ場合に様付けする必要はありませんね」
柔らかにアスカの言葉遣いを正す老父は、アスカの目でも十分にわかる。
初対面のはずのアスカが安らぎを覚えてしまうほどの包容力を持つ聖職者で、怖かった。
◆ ◇ ◆
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