二_021 初めての宿



 フィフジャの散髪はうまくいった。

 適度に短く、バランスよく切りそろえられ、二十代の青年として清潔感のある印象になっている。

 アスカの期待した結果にならなくて残念なところだった。

 しかし、成果は他にあった。


「……」


 頭を抱えて眠るヤマトの髪は、手元が狂ったのか盛大に左斜め前から耳の上辺りまで、とても短く剃りこみのように切られてしまっていた。

 の入った若者になってしまっている。だから隠している。


(やっぱりフラグは立ててみるもんね。ヤマトってば期待を良い意味で裏切ってくれちゃうんだから)


 お兄ちゃん大好き、とは言わないけれど。

 アスカが向けた鏡に映る自分を見てがっくりとうなだれる兄の姿には、笑ってはいけないけれど我慢が出来なかった。

 フィフジャやクックラの目からはそこまで奇抜に映らなかったようなのだが、その辺りは日本人的な感覚なのかもしれない。


 可哀想だが――いや、あまり可哀想だとは思わなかったので、腹を抱えて笑ってしまった。

 後でちょっとフィフジャに叱られたけれど、仕方ないだろう。

 命に関わらない些細な失敗だ。こんなことくらい何でもない。

 次は散髪してあげようと思う。自分の手でやるのは難しいだろうし。


(家では、いつもお母さんが切ってくれていたから)


 笑い転げていたのは、それを思い出して涙が溢れそうになったから。

 だから笑った振りをして涙を拭っていた。


 優しい思い出というのは困る。ふとした時に涙が堪えられなくなってしまう。

 それはヤマトも同じだった。手元が狂ったのは、やはり母親との記憶が溢れてきたから。

 風呂の中だったので涙は誤魔化せたのだけれど、動揺した手が加減を間違えたのは仕方ない。



 ――さて、と。


 心の中だけで呟いて、拳を軽く握りこむ。

 部屋の隅でうずくまっていたグレイも、耳を立てていた。


 ――グレイ、静かにね。


 心の中で念じる。テレパシーがあるわけではないが、何となくアスカの期待に沿った行動をしてくれることが多い。

 騒ぐなと宿屋の主人には言われているので、グレイには静かにしていてほしい。


 夜の闇の中でも、窓から差し込む月明かりでうっすらと見えている。

 音がしないよう、柔らかい靴底でかかと側からゆっくりと踏み込むように進むその姿も。

 きょろきょろと様子を窺っているが、微動だにしないアスカが起きていることには気づいていない。


 石造りの建物で、部屋は分かれているがドアはついていない。ついている部屋もあるが、この部屋は通路との間にドアがない。

 室内に忍び足で入ってきたその人影は、夜目が利くのか、入り口から近い場所に置いていたフィフジャの肩掛け鞄に手を伸ばした。


「AUTO」


 アスカが一足で踏み込んで、その人影の懐にもぐりこんだ。


「っ! げぶぇっ」


 鳩尾に突き刺さるアスカの拳。

 彼がそれを理解したのは、床に這いつくばってからだった。



「なんだ、気づいていたのか」

「当たり前でしょ」

「あ、あぁ……」


 何事もないように起き上がるヤマトと、やや寝ぼけたようなフィフジャ。疲れていて眠りが深かったのだろう。

 クックラは起きない。彼女はより深く眠っているようだ。


 初めての場所なのだから油断はしていない。アスカの感覚なら、よからぬ者がいくら足音を忍ばせても息遣いが感じ取れる。

 大森林で野営をする時はもっと感覚を研ぎ澄まさないと感じ取れない獣も存在するので、この程度の技術で気配を隠しきれるはずはない。



「ぼ、げふぇ……」

「泥棒よ」

「だよな、きっと」


 アスカだって少し前までは眠っていた。見張りならグレイがいるのだから、熟練の忍者でもなければ簡単に侵入させることはないだろうと。

 夜明け前のこの時間に目が覚めたのは偶然だったかもしれないが、何か予感的にこんなこともあるかと身を起こして壁を背に座って待っていたのだ。


 ヤマトはそんなアスカの気配に気づいて目を覚ました。何かやっているな、と。

 倒れて咳き込む男の声に他の客も気がついたようで、物音や話し声が聞こえてきた。



 しばらくすると宿の主人が現れた。壮年の小太りの男だ。腹は出ているが、肩周りの筋肉は隆々としていて腕っ節は強そうだ。


「なんの騒ぎだ?」

「泥棒よ」


 アスカが顎で示すのは、グレイの爪で床に押し付けられている男。

 それほど強く押さえつけているわけではないが、大きな狼であるグレイの爪を突きつけられて抵抗する様子はなかった。


「騒ぎはごめんだと言ったはずだがな」

「そっちの下働きのようだが」

「ああ?」


 宿の主人がその男を見て、ちっと舌打ちをする。


「ダタカ、てめえ」


 グレイがすっと避けると、主人は泥棒の胸倉を掴んで吊り上げる。ダタカと言うらしい。


「客のモンに手ぇ出すたあ、このどあほうが!」

「かんべ、げべぇっ!」


 弁解の言葉の途中で、容赦のない勢いの鉄拳がダタカの横面をぶち抜いた。

 厳格な刑法や民法もないこの社会では鉄拳制裁は日常の範囲なので、そこには何も遠慮はない。

 ただ、夜明け前の客室で従業員をぶん殴られても、客としては迷惑なだけだが。


「……」


 宿の主人はふらふらになっているダタカの懐を探り、おそらく財布なのだろう巾着をフィフジャに投げて寄越す。

 しゃりん、と。


「ふん」


 鼻を鳴らすと、そのままダタカを引き摺って出て行った。



「何よ、あれ。自分のところの下働きが盗みをして詫びの一つもないわけ」

「まあな、これが詫びなんだろう」


 フィフジャが巾着を拾い上げて中身を手の平に出してみる。


「それだってあの泥棒のお金じゃない」


 別に宿の主人が詫びで出したわけではない。

 憤慨するアスカに、そんなもんだとフィフジャが苦笑いする。


「ほらな、ロクに金も持ってない」


 客の持ち物に手をつけようとする輩がそうそう大金を持っているはずもない。

 二束三文の金を手にして、肩を竦めてみせる。


「怒っても仕方ないさ。もう少し眠らせてくれ」


 フィフジャは欠伸交じりに言って横になってしまった。



 彼にとっては珍しい話でもないのだろう。他の客たちの気配も、もう一休みといった雰囲気で静まっている。


(……そんなものなのね)


 郷に入りては郷に従えという言葉もある。いちいち目くじらを立てていても仕方がない。


「グレイ、次は怪我させてもいいからね」


 それでも納得したわけではないので、グレイにそう告げて眠ることにした。

 周囲の客が聞き耳立てていれば、そうそうバカな考えを実行に移そうとはしないだろうと。



  ◆   ◇   ◆



「私、思ったんだけど」


 夜が明けて井戸で顔を洗ってきたフィフジャにアスカが言う。


「あの泥棒って、宿の主人も黙認っていうか共犯だったりするんじゃないの?」

「んー、そうかもな」


 その返事は同意というより、最初からその可能性を察していたようだった。

 宿泊客の荷物がなくなったとしても、盗まれた方が間抜けなだけ。宿の主人からは厄介ごとは御免だと。

 セキュリティなんて言葉はないのだから自衛するしかない。大切なものならちゃんと管理しておけ、というわけだ。


「……今日もここに泊まるの?」

「アスカの気持ちはわかるけどな、早まるなって。今朝の騒ぎで俺たちが間抜けじゃあないとはわかっただろうさ」


 簡単に出し抜ける相手ではないと知らしめたのだから、二度も同じようなことはしてこないだろう。

 別の宿に行ったとしても、また繰り返しになることも考えられる。


「むぅー、わかったけど」

「わかってくれて助かる。まあ、その不愉快な気持ちの方が正しいな」


 よしよし、と頭を撫でられた。

 子供だから、納得できないことを納得できないと口にする。そんなアスカを好ましく感じているのか。


「だけどフィフは寝てたじゃない」

「優秀な護衛がいるから任せていたんだよ。さすがに疲れていたから」


 フィフジャとて人間なので疲労が溜まれば熟睡することもある。

 泥棒程度のことはあっても、さすがにいきなり街中で殺されたりはしないだろうと。

 グレイもいることだし、ある程度のリスクは割り切って眠っていたのだという。



「ボンルたちが来る前に何か食べよう。宿でも金を払えば飯は出してもらえるみたいだけど」

「やだよ、別のところに行こう」

「だな」


 この周りには他の宿もあるし、食堂的なものもあった。夜は酒場になっていた。

 ノエチェゼの門をくぐってからしばらく歩いた所だが、まだ海は見えない。

 五万人の人が暮らす町だというのだから、これまで見てきた竜人の集落とは規模がまるで違う。


 港に携わる人、作物などの運搬に従事する人、それらを相手にした飲食や住居、衣類などの日用品も必要になる。

 人が多くなれば色々なルールも出来るし、そういった管理をする人々も必要になってくる。

 アスカたちにとっては初めて体験する一定の文明レベルにある共同体。



「せっかくなら美味しく食べたいし」

「それは同意なんだが……一応言っておくけど、アスカが期待するほどにうまい料理は出てこないと思うぞ」

「岩千肢より美味しくないの?」


 ひく、とフィフジャの顔が一瞬痙攣した。


(おっといけない、またヤマトに叱られちゃう)


 けっこう美味しかったと思ったけれど、アスカの荷物の中のペットボトルに詰めてある大森林産塩胡椒の味付けもあってのことだ。


 そういえば、他人が作った料理をお金を払って食べるというのは初めてだ。



「うん、まあ、なんでもいいや。クックラたちも戻ってきたし、行こう」


 共同便所に行っていたヤマトたちが戻ってきたので、岩千肢のことを思い出して苦い顔をしているフィフジャの腕を取る。

 ここのトイレは水洗だった。窪みに溜まった汚物をバケツの水で流すと、建物の裏に走っている水路に流れていく。下水の用水路が整備されている町なのだ。

 流れていく先は海なのだそうで、海水浴には適さない衛生状態になる。そもそも遊ぶ目的で海で泳ぐ人はいないという話でもある。


「クックラ、何が食べたい?」

「……?」


 不思議そうに見上げてくるクックラの顔には、わずかな困惑が見えた。


「遠慮することないのよ。こんなに痩せてるより、もう少し太った方が可愛いと思うんだよね」


 そうは言ってみるが、おそらくクックラは食べ物を与えてもらうことを受け入れていいのかわからないのだろう。

 栄養状態から想像してみて、おそらくこれまでの生活は食うや食わずといった状態で、満足いく食事など経験していない。

 わずかに手に入る粗末な食べ物を分け合って生きてきたクックラに、何が食べたいと聞いても答えようがないのか。



「僕らも初めてだからさ、こういう町の食い物のお店は。一緒に行こう」


 ヤマトの言葉に少し躊躇ってから、


「おかね、ない……」

「大丈夫だよ、フィフが出してくれるから」

「今朝の犯人の金があるからな」


 フィフジャの手には四角い小さな板の金属がいくらかあった。金貨や銀貨ではない、くすんだ色の鉄のような金属板だ。

 厚みは三ミリ程度、大きさはフィフジャの親指の第一関節くらいの面積。小さなそれが数枚と、それの倍ほどの大きさの物が二枚。


「これは鉄貨、倍の大きさのは大鉄貨で鉄貨四枚分。大きさはちょうど倍になる」


 改めてみてみると、何かの花と剣のような武器が表と裏に刻印されていた。

 貨幣を丸く作る技術は難しいらしく、銅貨以上になると丸いものがあるのだとか。

 鉄貨の上に大鉄貨、銅貨、大銅貨、銀貨、大銀貨、金貨、大金貨とあるらしい。

 単位はクルト。

 鉄貨が一クルト、銅貨は百クルト、、銀貨は一万クルト、金貨は十万クルト。


(百倍かと思ったら銀貨と金貨の差は十倍なのね)


 鉄貨三枚で普通の食事一人前程度ということなので、とりあえず人数分の食事代程度は今朝の泥棒が置いていってくれたことになる。

 人の安眠を妨げた迷惑な男の残した金なんてさっさと使ってしまいたい。


「さ、ボンルたちが来る前に食べに行こう」


 まだ躊躇っているクックラの背中を押して表通りに歩き出した。



  ◆   ◇   ◆



 食事がいまいちだと感じたのは、塩以外の調味料がほとんど使われないのと、鮮度の問題だ。

 産地からトラック便で翌朝にはお届けというわけでもないし、冷凍保存が出来るわけでもない。

 海に近いためか塩味だけは惜しみないが、保存の為もあってやたらしょっぱかったりする。あるいはその逆に味気ないか。


 調理する人も料理の道を究めようとする職人ではなく、日々そこにある食材を使って適当にこしらえて出してるだけで、工夫や熟達した技術があるわけではなかった。

 それでもクックラには十分満足の内容だったし、ヤマトもアスカも意外と満足していた。


 日本で言えば、安価が売りのファミリーレストランで、子供が冷凍ハンバーグを温めなおしただけのようなお子様ランチでも喜ぶ様子と似ている。

 素直に喜ぶアスカの姿を、フィフジャは意外そうに眺めていた。



  ◆   ◇   ◆

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