20 夢見た景色



『ドーゴルルマアベェ』


 さて、それよりも。とでもいうように。

 低く唸る声が喉を鳴らしているだけのようにも、何か意味のある言葉のように聞こえなくもない。



(……喋っている、のか?)


 知らない言葉なのか、ただの鳴き声なのかわからない。

 習っていない言葉なのかとフィフジャの顔を窺うが、彼も理解している様子ではなかった。


 とりあえず今の動きで、この妖魔がまともに太刀打ちできそうな相手ではないことは思い知った。

 逃げることも難しい。


 幸いなことは、北への進路にいた朱紋が南側に移動してくれたことだろうか。

 今の移動速度は部下の二匹を踏み台にしてのことだから、この配置ならすぐにはできないはず。

 本当に恐ろしいのは、その異常な速度で正確に目的を果たす反射神経と身のこなしなのかもしれないが。



「にげ――うぶぁっぷ!」

「きゃあっ!?」


 どうしようかと言おうとしたその瞬間、猛烈な突風が吹きつけた。

 叩きつけるような強烈な空気の壁。

 ヤマトたちだけでなく、石猿たちも、朱紋でさえも思わず顔を覆って防御体勢を取った。


『キュゥゥゥゥエェッ!』


 甲高い声が澄み渡った空を貫くように響く。

 強風の中、ヤマトは空を見上げた。

 ヤマトはそれを見たことがあった。小さい頃に。


 空の支配者。

 大森林の空を舞う、赤と黄色と白の巨大な鷹の姿を。三色鷹。


 片方だけでも数メートルの翼を大きく羽ばたかせて、そこにいる全員に猛烈な風をぶつける。



『ギゥゥゥゥアァァァ』

『ウギェェッ』


 石猿たちが騒ぎ出す。


『キキュウゥゥゥ!』


 三色鷹はもう一度甲高く鳴くと、羽ばたくのをやめて上空を旋回した。

 忌々しげにそれを睨む大石猿の群れと、その中で一声も発しないで見上げる朱紋。

 今なら逃げられるかもしれない。


「いまの――」


 うちに、と続く前に。


『ボオオオオオォォォォォォォゥウウウウッ!』


 朱紋が突然に雄叫びを上げた。

 開戦の合図。

 殺気が満ちる空気がヤマトの肌を刺す。


『グルァアァァァァアァァアァアアァアァアァァァ!!』


 森の木も川面も、岩でさえも震動するかのような咆哮だった。


『ウグァギェェェェェ!』


 ほぼ同時に響き渡った大石猿の悲鳴。


(悲鳴?)


 明らかな悲鳴。ヤマトたちの進みたい方向とは逆、南側から。

 そこには、大石猿の肩から食い千切った腕を咥える黒鬼虎の姿があった。

 悲鳴を上げた大石猿は、既に息絶えて転がっている。肩あたりをざっくり切り裂かれて大量の血を噴出させながら。びくびくと痙攣している死体を黒鬼虎の前足が踏み潰す。


『ウギギィ!』


 明確な敵。

 大石猿たちが突然現れた強大な敵に向かって一斉に投石を始めた。

 黒鬼虎はその強大な腕で石を振り払いながら、鬱陶しい猿に駆け寄ってその角で一匹を貫いた。猿の体を盾にいくつか投石を受けて。

 動きが止まった黒鬼虎に別の大石猿が掴みかかるが、その猿ごと黒い巨体を岩に体を叩きつけて押し潰す。



「今のうちに!」


 フィフジャが叫ぶ。

 誰も異論はない。この瞬間を除いて逃げ出す機会はないだろう。


 北に向かって走り出す。

 朱紋が追ってきたら……もうその時はその時だ。全力で迎え撃つしかない。

 今はあの黒鬼虎の出現を幸いに思うしかない。


 大石猿の群れと黒鬼虎、どちらが勝つにしてもこの時間はヤマトたちにとって生き延びる最後のチャンスだ。

 いかに朱紋といえども黒鬼虎を相手に楽勝ということはないと思いたい。

 既に部下も何匹かやられていた。あれを放置することもないはず。



「アスカ、だいじょうぶか?」

「へいき」


 後ろを気にしている余裕はない。フィフジャを先頭にして、ただ北方向に向かって走り続ける。

 グレイが時折、後ろを牽制するかのように振り返って、そしてまた駆け出してヤマトを追い越していく。


「フィフ、しゃがむ!」


 アスカの一声で、先頭をいくフィフジャが頭を下げた。

 その上を皮穿血が掠めていった。


「ありがとう!」

「いい!」


 礼など聞いている場合ではない。

 上空には先ほどの三色鷹が見えた。

 だがくるりと旋回して反対方向に向かっていったので、ヤマトの視界からは消えてしまった。


(助けてくれたのか)


 真偽はわからない。あの強風攻撃はヤマトたちも巻き込まれていたのだから、そうではないのかもしれない。

 結果的には助かったというのか。


(まだ結果は出てないけど)


 この森を無事に抜けるまでは。

 どれくらい走ったのか、途中からは走っているつもりでもなかなか足が上がらなくなってきて、早歩き程度だったかもしれない。

 とにかく後ろから何かが迫ってくるのではないかという恐怖に追われて、足を止められない。


 グレイが後ろへの警戒をすることがなくなってきた。疲れているのか、あるいは前への警戒を優先しているのか。

 それほどの警戒が必要ではないのではないかとヤマトは思う。

 視界がいい。獣の襲撃も、先ほどの皮穿血を最後にない。

 こういう油断が命取りなのかもしれないが。



「フィフ、アスカが……」


 アスカの体力が限界に近い。

 登る足に力が入っていないようだった。


「だいじょう、ぶ……」


 意固地になっているように呻くアスカ。

 だが体力の限界が近いのはヤマトもフィフジャも同じだ。むしろフィフジャの方がきつそうな様子で。


「もう少し見晴らしのいいところで……」


 フィフジャの言葉に頷く。


 かなり見通しは良い。

 木々の間隔がまばらで、代わりに足元の緑色の草が少し背が高くなってきている。

 草むらに危険な獣が隠れていたりしないだろうか。先を行くグレイの様子は平気そうだが。

 坂になっているせいで余計に体力の消耗が激しい。


「……」


 暑い。

 そういえば真夏だが、今日は特に暑い気がする。

 暑い日に上り坂はかなり堪える重労働だ。


 家の冷凍庫はコンセント抜いてきたのだったのかな。暑い日にカキ氷にシロップをかけて食べるのは最高だった。

 顔を流れる汗を拭いながら、そんなことを思い出す。


 そういえば川に落ちたりして濡れネズミだったはずだが、気温のせいか体温のせいか乾いたようだ。といっても汗だくだが。



「……のぼり?」


 いつから上り坂だったのだろうか。

 目の前にさらに鬱蒼とした緑の茂みが現れた。

 この暑苦しい時に鬱陶しい。もうなんでもいいと思いながら、その茂みを掻き分けて進む。


「……」


 誰も言葉が出てこない。

 体力、気力ともに限界に近い。

 時間の感覚もおかしくなってくる。もうどれくらい草を掻き分けてきたのか。

 まだ大した時間ではないようにも思うし、相当な時間が経過しているようにも思う。


 不意に、前をいくアスカにぶつかった。


「わっ、た……おまえきゅうに……」


 急に、茂みが途切れていた。

 そこから見渡す景色には、赤く染まる地平線が見えた。



「……」


 声が出ない。

 ごつごつした岩肌の大地と、茶色っぽい丘陵。所々に木や草はあるが、森や林と呼ぶようなところではない。

 荒野、山岳。下っていくと次第に緑の草むらも。


 西側の山脈の影に半分ほど沈みかけた太陽。赤い。

 夕日だということは半日近く休まず歩いていたことになる。

 ただ黙々と、この茂みを掻き分けて。もう後ろから追ってくる気配はとうになくて。



 特別なことはなかった。

 ただ逃げながら森を進んできただけ。


 明確なきっかけや、劇的な節目があったわけではない。

 だが世界は変わった。ズァムナ大森林の世界との境界を越えた。



「……」


 その光景は、伊田家の誰もがずっと望んで、渇望して、夢見てきた景色。

 かつて尾畑寛太が目指して、辿りつけなかった場所。


「こんな……」


 あっさりと、前触れもなく、何の説明もないまま。大森林はそこで終わりを告げていた。

 世界は何も説明などしてくれない。ただそうあるだけ。



「お父さんと、お母さんも……一緒に来たかったよぉ……」


 アスカの嗚咽。慟哭。


「ああ、あぁ……そうだな。ああ……」


 一緒に見たかった風景。

 初めて見る森以外の景色に、嬉しさよりも先に涙が溢れる。



『オオオォォォーン』


 森に向かって鳴くグレイの声と、二人の少年少女の泣き声が重なり。風に乗って空へと響いていった。

 ずっと遠くまで。



  ◆   ◇   ◆

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