18 死闘と静寂
川の中に倒れたフィフジャ――その上を通り過ぎたバムウが、反対から向かってきた煤け鬼にぶつかった。
「え?」
その声はヤマトのものだったのか、煤け鬼のものだったのか。バムウのものだったのか。
三者ともに、自分の目標を見失っていた。
バムウは自分の口に捕らえたものは反射的に噛み砕く生物だ。
開かれた口が捕らえたのは煤け鬼の右腕、手首と肘の間あたり。
そしてバムウの咀嚼する力は異常に強い。
骨だろうが岩だろうが噛み砕くほどの咬合力で、捉えた獲物を磨り潰しながら食らい尽くす。
それがたとえ硬い外殻を持つ妖魔であっても関係はない。
『ビヨオオォオォオォシアァァ』
右腕に食いついたその生き物を振り放そうと、狂ったように腕を振る煤け鬼。
その動きを嫌がったのかバムウは尻尾の毒針を振り回した。
偶然。
悪い時の偶然というのは重なることがある。
煤け鬼にとってはこの瞬間がとても悪い時だった。
右腕を振り回す煤け鬼と、尻尾を振り回すバムウ。
その尻尾の毒針が、左腕の肘の内側――関節駆動部の内側に突き刺さった。煤け鬼にとっては数少ない柔らかい部位に。
バムウの毒は神経毒。獲物の神経を麻痺させるタイプの毒になる。
血中に入れば刺さった周辺を、量によっては全身まで麻痺することになる。麻酔のような毒。
この毒は血中では効果があるが、消化器官に入った場合には分解されてあまり毒性がない。グレイが尻尾を噛み切った際に多少は飲み込んでいるのだが、問題はなかった。
血管内に入ればその効果は存分に発揮される。
煤け鬼の左腕の動きが鈍く、力が入らないものになるのにほとんど時間は必要ない。
怒りに我を忘れたヤマトにはそんなことは関係なかったのだが。
「どけえええ!」
川の中で絡み合う二匹の敵をまとめて槍で突き刺して、足で突き飛ばし引っこ抜いた。相手にしている時間はない。
倒れたフィフジャがどこにいるのか。
暴れるように、水面を叩くように掻き分ける。
「フィフ! フィフ!」
力なく水中に漂う彼の姿を見つけた。
半狂乱になりながらその体を助け起こす。
「フィフジャ! フィフ、おきろ!」
ずるずると岸に引っ張りながら名前を大声で呼びかけた。
岸に近づいたところで自分の槍を岩場に投げ出して、両腕でフィフジャの顔をはたいたり、胸を叩いたりして。
「フィフ、おきろ……おきろ、おきろ、フィフ……」
教わった言葉が、他に出てこない。
何て言えばいいのかわからない。
「しぬ、の、だめ……だめだフィフ!」
「ヤマト!」
残ったバムウを片付けたのだろう、アスカとグレイも駆け寄ってきた。
川の中に座り込みフィフジャを抱きかかえるヤマトを見て、はっと息を呑む。
「アスカ……」
どうしたらいい、と泣きそうな顔でヤマトは妹を見上げた。
――助けて、と。
「フィフジャ! しっかりする!」
声をかけるしかない。
何が出来るのかアスカにもわかるわけもない。一緒になって呼びかける。
そもそもフィフジャに何があったのか。見る限り目立った外傷は左顎のあたりの切り傷くらいで。
「アス、カ……?」
「…………」
怪我はなかった。
左顎のあたりの切り傷くらい。
「……ん、あ?」
間の抜けた声。
ぼんやりとした目。
その黒い目には奇妙なほど澄んだ青い空と、泣き笑いのような表情の二人の兄妹が映っていた。
◆ ◇ ◆
煤け鬼。
フィフジャがそう呼んだのは、その妖魔が煙のような蒸気のようなものを体から立ち上らせていたから。
生き物の中には体内で毒物を精製して利用するものがいる。
毒物にも色々なものがある。バムウの神経毒のような麻痺効果のあるものや、血液や呼吸器に影響するもの、炎症などを引き起こすもの。他にもさまざまに。
煤け鬼の煙も、一種の毒物だった。
催眠ガスに当たるそれだが、吸い込んでもあまり効果はない。
バムウの神経毒と同じく、血中に取り込まれると即効性を発揮する。そういったものを撒き散らしつつ狩りに利用していた。
フィフジャの顎が傷ついた際に、それが近距離で血中に取り込まれた。
思考が混濁して、そのまま川の中に倒れこんでしまうほどの催眠効果。
ただこれにも欠点になる特性があった。血中に取り込まれやすいということは水に溶けやすい。そういう性質が。
水中に倒れこんだフィフジャはそれ以上催眠ガスを取り込むことがなく、また自分が吸い込んでいたガス成分も水の中で溶け出して薄まる。
だから意識の途絶がわずかな時間で済み、目覚めた時には二人の泣き顔を目にして困惑するのだった。
「……アス、カ?」
うまく呼吸ができない感じがした。
声が出ていただろうか。
二人の泣き顔が固まる。何か失敗したかもしれない。
「…………」
何をしていたんだったか、眠っていた?
こんな時に、二人が泣いているこんな時に。
「……え、っと……?」
ヤマトとアスカの顔が、泣き笑いのような表情に変わっていく。
奇妙なほど澄んだ青空だ。ここは森ではないのだったか?
そういえば、なんだか冷たい。季節は夏だったはずなのに。
「あれ?」
「フィフ、おきた」
「しぬの、だめ」
そうだな。死ぬのはダメだ。
もう少しで森を出られるっていうのに、こんなところで死んでる場合じゃない。
だというのに、なんだか体が異常に怠い。
ゆっくりと体を起こして、周囲を見回す。
「あ……えと、バムウと、煤け鬼は?」
口にしてから、そういえばそんなものと戦っていたはずだと思い出した。
気がつけば自分はずぶ濡れだ。
ヤマトも同じくずぶ濡れになっているところを見ると、川に落ちた自分をヤマトが助けてくれたのか。
情けない。また二人に助けられた。
「バムウは、やっつけた。たぶん、ぜんぶ」
「すすけおに? あれは……」
どうなったのだろうか、とアスカは見回した。
はっとヤマトも慌てた様子で周囲を見る。どうなったのか確認できていないのだ。
ふらつきながら立ち上がり、フィフジャも探す。
まるでそんな三人を待っていたかのように、川の中から泡とともに暗い灰色の妖魔が姿を現した。
『ヒオォォッフ、ビヨォォォ……』
水に濡れたせいなのか、煙はあがっていない。
川から上がろうと岸に――フィフジャたちのいる方に――歩きながら、禍々しい口を大きく開けて、激しく全身で呼吸をする。
その右腕は肘の下あたりを穿たれたように握りこぶしほど食い千切られて、ぼたぼたと赤黒い血が流れ出している。
左腕は何かのはずみで折れたのか、力が入らないようにだらりと垂れ下げられたまま。
腹に開いた穴から赤黒い血が流れている。
フィフジャを助けようと無我夢中でヤマトが貫いたもの。バムウを貫き煤け鬼の腹まで。
しかし致命傷ではなかった。
「っ!」
ヤマトが駆け出す。それより先にアスカが走り出していた。
走りこんだアスカのつま先が、全力のグレイの一線のような勢いで煤け鬼の顎に突き刺さる。
『ブゴォ』
ヤマトは手斧を握りしめ、煤け鬼の膝辺りに横から叩きつけた。
折れる。父から受け継いだヤマトの斧の柄が折れる。
だがその刃は煤け鬼の膝関節に突き刺さった。関節駆動部は他よりも柔らかい。
『ビャァァブェスァァ』
気色の悪いかすれた鳴き声が川面に響き渡り、煤け鬼が再び川に倒れこむ。
腕が満足に動かない。
足の関節を砕かれた。
その状態でも這いずって岸にあがろうとする煤け鬼を、ヤマトが捕らえた。
首を抱え込み、水の中に押し込む。
もがいて脱出しようとするその体を、アスカも一緒に水の中に沈める。
「くのおおおおおおぉ!」
なりふりを構っていられない。この妖魔は危険で、弱った今この時に仕留めなければならない。
そう思ったのだろう。
まだふらつくフィフジャは、必死な形相で煤け鬼を窒息死させようとしているヤマトとアスカを見ているしかなかった。
格好のいい様子ではない。
鬼気迫る形相で、或いは泣きじゃくるような顔で。
見知らぬ誰かが見たら、野蛮であさましい殺し合いだと思うだろう。
でもフィフジャは、その必死な姿を見ているしかできないフィフジャの目には、とても純粋な姿に感じられた。
(生きる……生き抜くためなんだ)
原始的な闘争。
彼らの瞬時の判断ではあったが、水中から出てきた煤け鬼は激しく呼吸をしていた。苦し気に。
だからこれは、この妖魔を確実に仕留めるのに有効な手段なのだと。
ヤマトは知らない。アスカも知らない。
そうしてその妖魔を押さえつけて仕留める姿が、かつて父である日呼壱が、初めてこの森で鳥を仕留める時にしていた表情と似ていることを知らない。
もがき続ける煤け鬼の体から、だんだんと抵抗が弱っていく。
動かなくなってからもしばらく、二人はそれを抑え続けた。
まだ動いているような気がしたのだろう。
それはヤマトとアスカの震えからの錯覚だったのだが、それに気づいてからもしばらくは水に沈め続けた。
自分たちの震えが収まるまで、そうして押さえ続けた。
「もう、大丈夫だ」
ぐしゃぐしゃに濡れている、泣いている二人の少年少女の背中にそっと触れた。
震えが収まる。
「……うん」
アスカが離れて、そしてヤマトも手を離して立ち上がる。
息絶えた煤け鬼の体は水から浮いてこなかった。そのまま川底を流されていく。
もう動くことはない。ただの塊になって川をゆっくりと転がっていくだけ。
何となく、その姿が見えなくなるまで見送ってしまう。
どういう感慨なのか。言葉を交わしたわけでもないのに、死闘を繰り広げた相手だったからなのか。
「よく頑張った」
「フィフも……だいじょうぶだから、よかった」
ヤマトの言葉に頷いて笑い、岸に戻る。
(心配をさせたな)
それと同じくらいにフィフジャも二人が心配なのだが。
「あ……おのが……」
岸まで戻って、ヤマトが自分の握り締めていた斧の柄を見る。
渾身の力で叩きつけて、煤け鬼の足に突き刺さった斧。
「……ARIGATOU」
ヤマトが何かを呟いて、その柄を川に流した。
役割を終えた道具を労わる気持ちか。思い出などもあったのかもしれない。
とりあえず放置した荷物を回収して水を飲む。
川の中でばしゃばしゃと戦ったが喉の渇きは別物だ。
辺りにはバムウの死骸があった。ヤマト、アスカ、グレイで倒したのだろうが、本当に大したものだとフィフジャは感心する。
一匹ならともかく、群れるとかなり厄介な魔獣なのに。
前後左右からの体当たりと毒針。熟練の戦士でも簡単に対処できるものではない。噛み付きは岩でも噛み砕くと言う。
と、そこで気づく。
「ヤマト、背中に」
彼の背中と胴は、輝くような赤い金属の板を防具にしている。その背中の金属板に丸い歯型と刺さった牙が一本あった。
「噛まれたのか」
「ああ、これあった、だから……」
ヤマトも今気がついたようで、自分の身を赤い甲冑が守ってくれたのだと悟る。
表面の滑らかな光沢で、噛み砕かれる前にバムウの歯が滑ったのだろう。
「この防具のお陰、だな」
「おかげ……うん、これのおかげ」
「わたしは、あたってない」
自慢げな様子のアスカに、口を尖らせるヤマト。
アスカはバムウの攻撃を避けきったからそんな歯型が残るようなことはない。そもそも頑強な防具をつけていないから当たったら困るのだが。
『ウォン』
自分もだと言うようなグレイの得意げな鳴き声に、ヤマトもアスカも吹き出す。
とりあえず危難は乗り切った。
一同、疲れていて食欲はなかったが、少しだけ食べ物を口にして体力を補う。
「……」
果物を咀嚼しながら、ふと周囲の様子を気にする。
そういえば。
「……」
今の騒ぎで忘れていたが、今日は生き物の気配がない。
いや、先ほどまでバムウの群れと妖魔と戦っていたわけだが。
「――後続がない?」
あれだけ騒いでいたのだから他の魔獣が気がついて当然なはず。
ここ最近だと、こんなタイミングで次の襲撃を受けることも何度かあったのだけれど。
「おとが、しない」
静寂。
戦闘を終えて、いまだに朝からの様子と同じ。
森が静まり返っている。
世界を静けさが支配していた。
◆ ◇ ◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます