11 皮と軟骨
半刻ほど戻り、比較的視界のよい川原に出た。
川の水に皮穿血の死骸を沈めてからアスカは座り込んだ。
ズボンの裾をめくると、蹴られた左の脛が腫れている。
「いたぁ」
石猿の蹴りを受けてしまった。歩くのに支障はなかったけれど、見ると痛みが増してくるのはなぜなのだろうか。
素足になって川の水で冷やす。
ややぬるい夏の水温だが、腫れた足には心地よかった。
『キュウゥ……』
すぐ近くでグレイがか細い声を出している。ヤマトに薬を塗られて傷口が染みるらしい。背中だから自分で舐めることもできない。
牙の跡が四つあった。肉を食い千切られていなかったのはよかったが、傷口が化膿したら困る。
万能アロエは傷口を殺菌してくれると同時に傷の治りを早くしてくれる妙薬だ。これまでもずっと伊田家で使われてきた。
「ごめんね、グレイ。私のせいで」
アスカを庇わなければこんな傷を負わなかっただろう。
言い訳になるが、今までに相手にしていた石猿であれば、アスカは確実に攻撃を決められていたはずだった。
回避されたにしても、反撃まで受けることなどないと。
今日の石猿は手強かった。ボスをやられても逃げ出さなかったこともだが、何というか戦いなれていたような印象を受ける。
この辺りにきて獣との戦闘の頻度が増えた。
獣同士でも生息域が重なっているせいもあるのか。範囲内に多くの獣がいることで、争いが増えていて戦闘経験が豊富なのかもしれない。
石猿だからこれで大丈夫、という慢心があったのかと言われれば否定できない。
両親が言うにはアスカは天才肌という性質らしく、それが心配なのだともよく言われた。
(なんだったかな。同じモンスターでもレベルが高いとか、お父さんがそんなこと言ってたっけ)
個体差があって当然。そして環境も違えば特徴も異なる。
この近辺の獣は特に凶暴性が高いようだから、今まで以上に警戒が必要になる。
「大丈夫か、アスカ?」
フィフジャに声をかけられて、アスカは小さく頷いた。
「うん、だいじょうぶ。へいき。しっぱいする」
まだまだ拙い言語だが、だいぶ自然に出てくるようになった。
「失敗した、だよ。失敗するのは困る」
と思ったら、間違っていた。過去形になっていなかった。
フィフジャが苦笑いしながら訂正して、アスカは唇を尖らせた。
「つぎ、しっぱい、しない」
「そうだな」
よしよしとヘルメットの上から頭を撫でられた。
不思議な感覚だった。
他人から子供扱いされるという経験がない。今まで他人がいなかったのだから仕方ないが。
祖父母や両親、ヤマトの他には狼たちと猫たちしか心許せる相手がいなかった。
基本的に他の生き物は、食料になるものか、そうでないものの区別しかない。
本に出てくる他の人間というものを体感するのが初めてで、母が言い残したように信用していいのかどうかわからないのだ。
(今は協力しているけど、無事に森を出たら私に無理やりえっちなことしようとするかもしれないし)
微笑を浮かべてフィフジャを見上げるアスカの胸中がそんなものだと、彼は思ってもいないだろうが。
ヤマトはすっかり警戒を解いてしまっているが、アスカは自分がそんなにチョロくないという自負がある。負けん気というか。
何よりアスカは、母親に似ている自分が可愛いという自信があるのだ。自分で口にはしないが、父親からそう言い聞かされて育ってきた。
そういった本音を悟らせないように無邪気な子供を振舞っている辺りが、ヤマトに言わせれば厄介な妹ということになる。
「それ、どうするの?」
フィフジャは先ほどから気になっていた様子で、川に沈めていた皮穿血を指差して尋ねる。
「ああ、MUSASABI たべるの」
「食べるの?」
「あと、つかう」
にひひ、と笑うアスカに顔を引きつらせるフィフジャ。
いや、表情を硬くしたフィフジャが面白くてアスカは悪い笑顔を浮かべたのだが。
肉の量は大したものではないが、この生き物は骨も火を通せば食べられる。
こりこりとした食感の骨がアスカの好みだった。カルシウムとコラーゲンもあるかな、とか。
背中の皮はある程度の厚みもあってとても強く、びろーんと剥がれる。
腹の皮と違ってこちらは刃を通しにくい。ヤマトがつけている赤いプロテクターの縁にもこの皮を使っている。
ここに来て思わぬ襲撃が多いので、ちょっとアスカも用心しようと思ったのだった。
痛めた足を水につけたまま解体してしまう。
「皮穿血、って呼ばれてる。皮穿血」
「かわうがち……うん、かわうがち」
「山間の村なんかで家畜が襲われたりもするけど、探検家の間でも山や森では気をつけるように言われる魔獣だよ」
フィフジャの説明の半分以上はアスカには聞き取れなかったが、皮穿血という名前の魔獣だとはわかった。
剥いだ皮を川の水で丹念に洗う。
この皮穿血。主に他の動物の血を吸う割りに、そのものの血はあまり臭いがない。
血を主食にしているから体臭がきついとかそうでないとか、そういう理屈があるのかは知らないが。
実は雑食で、果実なども食べる。生き血を吸うのは塩分などの摂取のためではないかと、以前に父は言っていた。
よく洗った皮を、自分のヘルメットの背面に垂れるように内側にくくりつける。
首周りを守るのに適しているのではないかと思いついたので。
「ああ、それは良さそうだ」
「うん」
フィフジャが肯定したのはわかった。急所である首周りを守るのには適切だろうと。
牙や爪を防いでくれるし、矢のような飛び道具にも有効な防具になる。
「君らは本当に、何でも使うんだな」
「なんでも、つかうよ」
そうやって生きてきたのだから。
そうでなければ生きてこれなかったのだから。
「なんでも、たべるよ」
残った皮穿血の骨付き肉を突きつけられたフィフジャは、やはりちょっと頬の筋肉が痙攣していた。
◆ ◇ ◆
アスカがフィフジャをからかっているのを横目で見ながら、ヤマトは自分の槍や手斧を洗っていた。血糊がついたままで置いてはおけない。
斧の刃を柄に止めている部分が緩んでいて気になっていたので、ついでに補修しておく。
抜けないように固定する留め具の木が割れかけていた。
川原の中で、大きさと硬さの具合が良さそうな木切れを拾って、うまく柄の穴に嵌る大きさにナイフで削る。
刃の金属部分はずっと昔から使われているのだが、柄の部分は折れるたびに何度も作り直してきたのだと聞かされている。
既に四十日を越える探索の中でだいぶ傷んで、刃こぼれも見える。
今使っている柄は、父がヤマトの手を見ながら削ってくれた。
――もう少し大きくなれば、これがちょうどいいくらいの太さになるだろう。
その時は少し太くて持ちにくいと思った握りが、今ではすっかり馴染んでいる。石槍とともに、ヤマトには使い慣れた武器だ。
補修し終えて、二度ほど振ってみる。きちんと固定されて良い感じだ。
ドラゴン模様のリュックサックにナイフをしまって、代わりに目に付いたクリアファイルを取り出す。
アスカがまだ赤ちゃんの頃に、みんなで撮った写真。これは同じものをアスカも持っているはず。
ヤマトが生まれる前の写真もある。父も若いし、母が今のアスカくらいの年齢に見える。
大切なものだったから家から持ってきた。他にも宝物は入っているが、一番大切なのはこの写真だった。
感傷的な気持ちになりかけたヤマトに、グレイが鼻を擦り付けてきた。
「ああ、お前もう大丈夫か?」
『オンッ』
へっちゃらだ、とでも言うように応じたグレイの頭を撫でて、写真をクリアファイルに挟んでリュックにしまいこむ。
アスカの怪我はどうだろうか。
(あいつは色々と図太いから平気かな)
ここまで歩いてきた様子からも、無理をしている雰囲気ではなかった。
打ち身で痣になって痛いかもしれないが、歩くのに支障があるというほどでもないだろう。
ただ、あのアスカが石猿程度の攻撃を受けたという事実の方がヤマトには驚きだ。
実際に戦っていても思ったが、この辺りの獣は今までより危険度が高い。
身軽で勘のいいアスカに攻撃を当てたこともそうだし、重ねて別の種類の獣が襲ってくる。
(今日はここで休んで、明日からは気合を入れ直して進もう)
フィフジャが、アスカに言われて渋々火を起こしている。
足が痛いんだもん、とか言ってるあたり、あれは平気だろう。
皮穿血、と呼んでいたか。あれの骨と肉は別にひどい味ではない。まあ初めて食べるのに気が進まない気持ちはわからなくもない。
見た目がちょっと悪魔的な生き物だから。
手足を広げた皮膜といい、鋭く長い歯といい。体の中心側に臓器が集まっているせいでお腹周りだけが丸いという形状が気色悪い。
実際には癖がないというかさっぱりとした肉で、塩でも振って食べるのに何も問題はない。醤油をかけてもいい。
ヤマトはあまり好きな食べ物ではないので、自分の分はイノブタ……これはブーアと言うのだったか、その腿肉を確保してきた。豚肉のほうが好きだから。
だが、あれだけ渋っているフィフジャを見ると、なんとしてでも皮穿血の肉を食わせてやりたいと思う。
(兄妹だからな、協力してやらないと)
妹に似た意地の悪い笑みを浮かべて、フィフジャたちのところに近づいていくのだった。
皮穿血の肉を焼いて、食べる前にわさび醤油をつけてやった。
泣くほど喜んでくれたのが兄妹にとってはとても嬉しかった。なにやら抗議をしていたようだが、教わっていない言葉なのでわからない。
ペットボトルなどに詰めてくる調味料の中で、醤油や酢、塩と胡椒は絶対だったが、沢で採ったわさびを一本持ってきて本当によかったと思うのだった。
◆ ◇ ◆
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