伊田家 第十六話 さくらさく



「きよるぞ!」


 突進してくる大石猿。

 強靭な腕力で獲物を蹂躙しようと、その姿でボスとして揺ぎ無い地位を確立できると信じての強攻策。

 それに対して、源次郎が健一を押しのけて猟銃を構える。


「……っ!」


 源次郎の気迫。

 それを感じたのか、そうではないのか。


 突然、大石猿は突進を止めた。


「……?」

『ギッギギィィ……』


 銃口を向けられ、健一たちと三メートルといったところで足を止めて、左へ、そして右へと様子を窺うようにうろうろとする。



「なんなんだ……?」


 狼は源次郎の左斜め前で、姿勢を低くして警戒の構えを解かない。射線の邪魔にはなっていない。


 もう一歩、大石猿が踏み込んできていたら源次郎は発砲していた。



『ウッキキッキィィィ』


 左右にふらふらと値踏みするように日呼壱たちを見ながら、挑発するような声を出す。

 来いよ、来てみろよ。そういった様子だ。

 他の猿たちも近づいてくるが、ボスである大石猿の後ろで軽く跳ねて煽っているだけだ。



『ウコァッ!?』


 大石猿が、後ろの一匹を右腕で捕まえて前に押し出す。

 猿と日呼壱たちの間の防衛ライン、赤土のエリアに踏み込んだその瞬間――


『ギヒィッヒィッ!』


 悲鳴を上げて、少し前の日呼壱のように腰を抜かして後ずさる。


『ウォン!』


 その隙を、狼は見逃さなかった。

 先ほどの投石よりも素早い踏み込みと共に左前足の爪を振り下ろす。鋭い一撃は後ずさる猿のふくらはぎ辺りを縦に深く切り裂いた。



『ギャアアアァァァッ!』


 一瞬の攻撃。


(前にテレビで見た、カマキリが狩りをする瞬間みたいな……)


 カマキリが獲物を捕らえる瞬間はコンマ一秒だとかなんだとか、そういう映像のような場面だった。

 見ていた瞬間には理解できない。遅れて脳が一連の動作を処理していく感覚。


『グルウゥゥ』


 狼は一撃を加えた後はすぐに戻り、また源次郎の斜め前あたりで唸り声を上げていた。

 足を深く裂かれた猿は、大石猿にすがって立ち上がろうとして転んでいる。



『ギギィッギヒィッ』


 大石猿は足元の怪我をした猿を一瞥すると、次の瞬間には背中を向けて走り出した。


 驚くほどあっけない逃走。

 一呼吸遅れて、他の二匹も逃げ出す。片方の猿は一度だけ足を止めて倒れた仲間を見たが、やはりそのまま逃げ去った。

 その後ろを狼が追いかけていく。だが、少し走ったところで止まって逃げていく背中を見送った。追撃ではなく監視の様子だ。



 逃げ去った猿の群れ。

 残された、足を負傷した猿。


『ウキキィ……キィ……』


 見捨てられたことを悟り、日呼壱たちに向けて哀れっぽい鳴き声を上げてみせる。

 どうすると健一の顔を見る日呼壱。健一もどうしたものかという表情だったが、その健一から源次郎が白い槍を取った。


「半端にしとく方がようない」


 銃を健一に預けて、槍を両手で構える源次郎。


「うちの孫を襲ったんじゃからの、お前さん」


 そう言葉をかけてから、その言葉は猿に対してではなく見ている他の者に対してだったのかもしれないが、ためらう素振りも見せずに槍で突いた。


 逃げることも許されず、猿の目から脳に槍が突き刺さった。

 最後に猿の口からひゅっと空気が漏れたが、それだけだった。



「怪我はないかの、日呼壱」


 槍を割とあっさりと猿の頭から抜いて、源次郎が日呼壱に声を掛けた。


「う、うん……大丈夫だった。おっかなかった」

「やはり危険な生き物もいるんだな」


 健一は、猿の死体を検分するように観察しながら、戻ってきた狼の頭をそっと撫でる。


「ありがとうな、お前」


 耳の後ろを撫でられて気持ちよさそうに狼は喉を鳴らした。



「日呼ちゃん、大丈夫?」


 背中から掛けられた芽衣子の声に振り向く。

 寛太も、庭にあったのだろう草刈り鎌を手にして芽衣子と一緒に下りてきていた。


「ああ……うん、なんとかね。怖かったよ。いまさらだけど足が震えてる」


 芽衣子の顔を見たら、安全になったという実感が湧いてきて、ついでのように震えが思い出された。



「木の上に、あの小さい方の猿がいて、そっちに気を取られたら横からあのボスみたいな奴が石を投げてきたんだ。驚いて転んだから、たまたま当たらなかったけど」


 投げつけられた石の塊が、近くの地面に半ばめり込んで残っている。

 丸みのある石で、寛太が持ち上げようとして意外な重さに顔をしかめた。


「かなり重いぞ。当たってたら怪我じゃすまなかったよ、これ」

「それにしても、なんで襲い掛かってくるの止めたんだろう?」



 大石猿は、石を失って肉弾戦を決意した様子だったのに、不意に突撃するのを中止した。

 理由がわからない。


「この赤土の、何か……じゃないか?」


 健一が、先ほどの攻防を思い返して言う。猿が踏み込むのを止めたのは、森林地帯と赤土の境目だった。

 言われてみれば、犠牲にさせられた猿も、赤土を踏んだ途端に腰砕けになって逃げ腰になっていた。


「この土に毒とか、危険な何かが?」


 全員が地面に目をやる。

 そこに座って、左前足にわずかについた猿の返り血を舌で舐めていた狼が、「なあに?」という顔で一同を見返す。


「……毒とかそういうのは、なさそうじゃない」

「猿が嫌う臭いとかがあったのかもしれない」


 健一の憶測だが、少なくとも日呼壱たちの五感では何か違いを感じることは出来ない。


「ただ単に、狼と違って色の判別がつくから、赤い色を警戒したのかもしれないよ」


 寛太に言われて、なるほどと思わされる。

 五感でと言われれば、明らかに視覚的に違うのだから、警戒したとしても不思議はない。

 投石という道具を使う程度の知能がある大石猿だ。罠のようなものを警戒した可能性もある。



「さっきの猿さんたち、また来るかな?」


 芽衣子の疑問。猿さんと言うほど丁寧な呼び方は必要ないと日呼壱は思った。


「来るじゃろ。あの手合いはひつこい」


 源次郎が断言する。

 執念深い生き物。


「数が増えると厄介だな」


 再度の襲来があるとして、群れがどの程度の規模なのかわからない。場合によっては非常に脅威になる。


「一人で出歩くのは止めておこう。武器になるものを手にして、二人以上で、この狼かマクラも一緒に行動するように」


 健一の提唱したルールに全員が頷く。

 油断は出来ないが、知能や身体能力を見た限りなら、同じ数以上なら対応が可能な範疇に思えた。



 それよりも先に、日呼壱には気にかかっていることがあった。


「そのさ、って……こいつに名前、付けてやんない?」


 日呼壱は、先ほど健一がしていたように、狼の頭を撫でながら言った。

 思ったより柔らかい手触りで、つやつやの毛並みだった。飼い犬のマクラよりキューティクルのある毛艶だ。野良のはずなのに。



「俺も助けてもらってるし、もうこいつうちの一員ってことで」

「ウォルフガング!」

「なぜドイツ名?」


 迷わず言った芽衣子の命名。

 確かにドイツ語でウォルフは狼かもしれないが、日本の女子小学生が名付けるような名前ではない。


「さっきのパンチ、疾風みたいだったもん」

「叔父さん、メイちゃんの知識が偏っているようですけど」

「あはは、一緒にテレビ見てたからね」

「いいでしょ、狼でウォルフ」


 ねー、と言いながら芽衣子も狼を撫でると、狼は肯定とも否定ともつかない声で、


『グルゥゥ……クゥ』

「ほら、気に入ったって」

「仕方ないって言ってるように聞こえたけど。そもそもこの狼、メスみたいだよ」

「ええ~そうなの?」


 朝方、庭で座り込んでいる時に腹が見えていたので、日呼壱はなんとなく確認していた。

 美人な狼で、メスのようだと。

 決して特殊な趣味ではなく、何となく狼の腹が見えたついでに確認できただけだ。日呼壱は獣耳にそこまで強い関心はない。



「うーん、じゃあダメかぁ」

「女の子だし、さくらでよくない? マクラと合わせて」

「ピンクじゃないのに?」

「うちの桜の花は白っぽいだろ」


 健一は、別にいいんじゃないかと。源次郎は特にコメントもなく、猿の死骸を運ぶために猫車を取りに庭に行った。

 寛太は森の方を見渡している。また襲撃があるかもしれないと。


「さくら?」

『クゥン』


 頷くように、狼がおでこを芽衣子に擦り付けた。


「うん、さくらでいいんじゃない」

「よし決まった。じゃあ、今日からお前はさくらな」

『オンッ』


 狼は気持ちの良さそうな返事で了承を伝える。


 さくらを家族の一員に迎えて、この異世界で日呼壱たちの初めての遭遇戦は終わった。



  ◆   ◇   ◆

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る