第52話   欲しがりの手②

「よし、燃やす!」


「やめてくださいって。まだこのワンちゃんの正体がわかっていませんから、もう少しだけ考えましょう」


「犬の正体など探ってどうする。おい犬! 我々をここから出せ! さもなくばキャンバスに、この足、貫通させる!」


 やれやれ、拳の次は蹴りですか。武闘派ですね。あまりダンさんを待たせてしまうと、武力行使に出てしまいます。思考を巡らせる係は、私に託されました。


「あの〜ワンちゃんは、いつからここに住んでるんですか?」


 ……小首を傾げられましたね。そもそも言葉を発せられないのかもしれません。以前ピーコックさんが、大型犬の絵が倉庫にあるとか言ってましたけど、屋敷の倉庫とは言ってませんでしたし、ここは、ピーコックさんにとっての特別な倉庫なのかもしれません。


 うーん、何もわからないので、全て憶測頼みになってしまいますね。


「ちょっとちょっと! ダンさん額縁を蹴らないで!」


 ヤバイ、早くしないと。このワンちゃんの絵を破壊してしまうことだけは、絶対に間違っていると思うんです。だってピーコックさんが大事にしまっている絵ですから。


 他に、何か手掛かりは……私は辺りを見回しましたが、見渡す限りの薄暗さ、いいえ、ろうそくの絵を燃やして回ったせいで、私たちの背後には漆黒の闇が広がっていました。


 他の誰かの声も、明かりもありません。あの暗闇は、さながらブラックホールの穴のようにも感じました。


 ん? 私たちを囲う、この黒という色、たしか図工の先生がこんなことを言っていました。「すべての絵の具の色をぐちゃぐちゃに混ぜると、黒になる」そうです。そして理科の授業で習いました、宇宙の光も音も、時間すらも吸収できるブラックホールは、「黒い穴」みたいな見た目なのです。


 今ここに、それらが揃っています。音も時間もわからないナゾの空間に、まずは意味をもたせることから思考は開始されます。考察、しましょう! 美術館の学芸員さんになりきって。画家さん視点になってもいいですね。モデルを愛し、芸術を愛し、持てる技術全てを使って、この途方もない制作時間に情熱と信念、そして愛と狂気を持って、挑みます!!


「ダンさん、私を床に下ろしてください」


「なんだ、お前だけ逃げるつもりじゃないだろうな」


「ご心配なら、私と手を繋いでいてください。私は今から、この絵を鑑定するために、目線の高い聖女様の姿に擬態します」


 少々の侮辱をも許さない狭量かつ厳しすぎる聖女様を、あれほど美しく繊細に、まるで生きているかのような瑞々しさで描き切った画家さんは、きっと敬虔な信者の一人であり、心からの自信と愛と信念をもってして、わがままな聖女様の写し絵に挑んだのです。「似てないわ」「よくもブサイクに描いてくれたわね」なんて低評価を食らおうものなら、この絵は今世まで残ってはいなかったでしょう。


 聖女様の写しは、彼女自身からの高評価がなければ、完成させることが不可能な領域。肖像画を頼まれた画家さんの筆の豪胆たるや、その自信と愛たるや、計り知れないです。


 これから私が擬態するのは、そんな画家さんの最高傑作。姿をお借りさせていただくこの私自身も、聖女様の姿で失敗は許されません! 気合いを込めて、いきます!!


 ダンさんが私を床に置きました。汚れ一つないキレイな膝をつき、ミミックの短い右手と、手を繋いだまま。


 私は巨大な絵画を見上げました。大きな人物画を見上げるのは、これで何度目でしょう、迫力があります。愛とは目に見えないものでしょうか? それは必ずしも当てはまるとは限りません。


 小さなミミックを、大きな黒いワンちゃんが、見下ろしています。背丈が足元にも及ばない私は、まだまだ赤ちゃんで、物理的に誰かの支えになることは、難しいかもしれません。それでも、あきらめるわけにはいかない。


 聖女様、どうかどうか私に、力をお貸しください――!!


「おお!」


 ダンさんが驚き声をあげて、私に右手を引っ張られるままになっていました。


 目線がみるみる高くなり、私は絵画よりも少しだけ背の高い、女性の姿になりました。


 目の前には大きなワンちゃんの、丸くて可愛いお目目が、瞬いています。ふふ、初めて観たときは不気味すぎて腰が抜けそうでしたけど、こうして見るとぜんぜん怖い感じに見えませんね。


 そう言えばピーコックさんと初対面のときも、不気味な人だと思いましたね。今は慣れましたけど、当初はあの神出鬼没っぷりに、ラズ君たちもシーンとなっていました。


 ダンさんが、感嘆したようなため息をついています。


「……聖女様だ。今のお前は、溢れる自信と闘志に満ちている。民を代表し、臆せず得体の知れぬ敵とも向き合うその勇ましい姿、まさしく書物に記されていた赤目の聖女そのものだ」


 ダンさんの手が、離れてゆくのを感じました。


「手を放そう。聖女様に選ばれしお前が、一人で逃げ出すような無様を晒すことはないだろうから」


「もちろんです」


 私は約束しました。


 さあみずからどんどんハードルを上げてしまい吐きそうです!!


「私がもしも、この絵を愛する学芸員ならば――」


「学芸員?」


「まず観覧客に、絵画の中の、双子の目の色から説明します。微動だにせずして二人並んだ双子たちは、まっすぐに前を見据え、何かを強く訴えながらも薄暗い地下室ベールに隠されていました。過ぎ去った悲劇、もう二度と戻ってこない時間……これは歪められた歴史を修正したくても、できないジレンマを抱えた作者が、ひっそりと、しかし確かな怒りと反骨心を抱いて、近年まで保管し続けていた思い執念の結晶――」


 私は消費しきった酸素を、一気に吸い込み補充しました。


「このような作品を描けるのは、ピーコックさん、あなただけです。あなたなら魔法的な技術を用いて、キャンバスに強い思いを刻みつけることができるでしょう」


 私は日記の塊である、黒いワンちゃんに語りかけました。


「何もかも、光も音も、日記の内容すら、黒くなるまでぐちゃぐちゃに……」


 いつかの私のノートも、こんなふうになったことがありました。納得のいかないことに憤ってばかりで、そのことをノートに書いたら少しは気持ちが楽になる、そんなことを毎日繰り返して。ノートをたくさん買うお金はもらえませんでしたから、使わない古いノートを誰かからもらっては、書いていました。ときにはページを細かく破ってトイレに流したり。


 ページがびっしり埋まって、どこにも書けなくなったノートは、風呂場に行ってライターで焼きました。風呂場なら水が出ますから、火事になる心配はありません。


「私は観覧者に伝えます。彼らの成長を見守り、彼らの悲劇に義憤し、残された者を支え、その旅立ちを見送った、優しい男の人がいることを……。万が一記憶を失うことに備えて、日記に残して保管するほどの執念と悲しみと悔しさを、胸に抱えて生きている人の、その生き様を」


 あなたが命のない趣向品であっても、その人柄は、今までのあなたを通してわかります。


「ピーコックさん」


 私は絵の中のワンちゃんに話しかけました。


「守りたかったモノが守りきれなくて、お辛かったですね」


 ワンちゃんが瞬きして、小首を傾げています。


「その双子ちゃんたちに送らせたかった幸せな子供時代は、もう戻って来ませんが、それでもあなたがくじけることなく、誰かの支えになり続けていることを、私たちは知っています」


 絵に向かって語りかける私を、ダンさんが無感情な顔で眺めていますが無視します。


「旦那様の商売仲間として、そして今は、ラズ君の保護を。ロゼ君とは魔物友達って感じで、よくお話していますよね」


 黒いワンちゃんは、尖り耳をじっと傾けていました。


「そして私にも、優しくしてくれましたね」


 ワンちゃんが両手をクロスさせ、その上にあごを乗せて伏せてしまいました。耳だけが、ぴくぴくと動いています。


「どこにも居場所がない私にも、衣食住が手に入る場所を提供してくれました。あなたにそのようなことをする義理も義務もありません。あなたは家族ではありませんし、これといった絆もないというのに……。あなたが扉を開いて受け入れてくれていなければ、私は今頃、生きてはいませんでした」


 きっとミミックのミイラになっていたでしょうね。転生してすぐに餓死してご臨終なんて、あまりにも悲しいです。


「お屋敷の床を落とそうと思えば、いつでも落下させられる立場のあなたが、今までそうしなかったのは、マウント取りでも脅しでもなく、友人に近しい立場で接してくれていたからだと……私は解釈しています」


 私たちはあなたの過去も知っていますし、そこからどのように生きてきたかも、なんとなく察しています。


「ありがとうございます、ピーコックさん。あなたという芸術的に素敵な人に出会えて、本当によかった」


 私はすっきりした気持ちで、深く深くため息をつきました。


「ああ、やっと言うことができました。ピーコックさんの良いところを、たくさんお客さんに紹介することができて、本当によかったです」


「何を喜んでいる。こいつは仲間のお前ごと、地下に落としたんだぞ」


「ええ、そうですね。でもきっと出してくれます」


 私は確信をこめてダンさんを励ましました。


 絵画の双子ちゃんたちは、本当にラズ君とロゼ君と、弟さんに似ています。鏡のロゼ君はともかく、ラズ君と弟さんは子孫ですから、遺伝的によく似た子供が産まれても不自然ではないのかもしれませんが……この絵がピーコックさんの抱えるトラウマそのものならば、私たちごと地下に落としてしまった原因に、推測ができます。


「きっとピーコックさんは、ラズ君たち兄弟の派手なケンカに、昔の嫌だった記憶がフラッシュバックしたんです。それで思わず私とラズ君ごと、落としちゃったんですよ」


「ここまでお前の、ただの想像だ。現実では、残された資料を史実として受け入れてゆく他はない」


「そうでしょうか? あなたは史実派ですが、私はピーコック派です。解釈違いで派閥が生まれるのは、偉大な芸術家が残した絵画にはしばしば、見られることですよ。あの有名なダヴィンチのモナリザだって、未だ全ての謎が解明されたわけではありません。今日も世界のどこかで、解釈違いと闘う研究家が、大量のレポートとともに相手を論破しようと励んでいることでしょう」


 たぶん。


「誰だ、そのモナリザとは」


「しばらく待っていれば、ピーコックさんも落ち着いてくれますよ。大丈夫です、きっと地下から出してくれます」


 以上が、ピーコックさんに対する私の解釈です。ご清聴、ありがとうございました。


 ……真相のほどは、画家本人であるピーコックさんしか、知らないんですけどね。


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