No.14:『嬉しいなあ!僕の事を覚えてくれてたんですね!ありがとうございますエフェメラさん!』
[お嬢ちゃん、悪い事は言わねぇ。スラムに行くのはやめときな。危ねぇぞ]
エフェメラが地図を見ながら歩いていると、スラム入口の前で不意に見知らぬ男性から声をかけられる。
黄色の首輪を着けた彼の言葉と表情は、少なくとも自分を騙そうとしているとか、そう言った類のものではない事は瞬時に理解が出来るものだった。
「ご忠告ありがとうございます……ですが私も引けない理由があるので」
だが、声をかけてくれた男性の心配を軽く受け止め、エフェメラは再びスラムに向かって歩き始める。
(同じタウン内にある筈なのに、わざわざ住人が止めようとするって……いったいどんな場所なんだろう?)
そんな事を考えながら歩いていく内に、目に見えて道行く住人の数が減少し始めている事に気付く。
そうして、更に5分ほど歩いたところに、エフェメラが目指しているスラムの入口があった。
「これニュートラルタワーだよね…………なんでタウン内に結界を張ってあるの?」
公道の左右にある黒白の人工的な柱の存在に、思考が違和を覚えるよりも先に恐怖を覚えてしまう。
ニュートラルタワーがここにある意味。それはつまり、住人と完全に隔離しなければいけない理由が、この先にある証拠であり。
スラム。今から私が行こうとしているスラムは、根本的に私が知る外の世界のスラムとは、意味合いが違うものなのではないだろうか。漠然とした恐怖と不安に少女は足を止めてしまう。
「…………ッ、よしっ!」
だが、生物の絶対的な恐怖とされる、死すらも凌駕している少女にとって、そんなものは一呼吸分の足止めにしかならない。
ばちん、と自らの頬を平手で叩いたエフェメラの眼は、何かのスイッチが入ったかの如くギラついており、再び歩き始めるその足からは、完全に今しがた抱いていた筈の恐怖は失われていた。
「ごちゃごちゃ考えずやる事をやるだけだっっっ……ってなにこの臭いっ……!?」
左右に設置されたニュートラルタワーが作る、見えない境界線を越えた瞬間の事だった。
瞬く間に鼻の粘膜へとこびりついた、濃厚な腐臭を前にして、エフェメラは反射的に鼻口を抑える。
「く、くさいっ……なにこれっ……なんでいきなりこんなっ……キッツイなぁもぉっ……」
生理的な嫌悪を催す臭いに顔をしかめながらも、エフェメラは一歩また一歩とスラムの奥へと進んでいく。
「はぁ……確かに用事がなかったら、進んで来る場所じゃないな」
スラム。
その言葉と抱いていた認識自体には、それほど大きな差異はなかった。
だが、先程まで居たオリオンタウンと比べると、このスラムは本当に同じタウン内かと疑うほど荒れ果てている。
「ここ……本当に同じオリオンタウンなのかな?」
マトモに掃除すらされず吐しゃ物や血で汚れた道。
臭いに多少耐性のあるエフェメラですら、思わず顔をしかめてしまう、生理的な嫌悪をもたらす腐った臭い。
建物の構造自体は同じ筈なのに、目に見えた傷や汚れはそのままである事もまた、スラム全体の寂れた空気に拍車をかけている。
「本当にこのスラムのどこかにサタンくんがいるのかな……ん?」
ふと、自分への視線を感じ、エフェメラは反射的に意識を向ける。
[――――]
見ているのは一人、小柄な自分よりも遥かに背丈の小さい、自分の指を咥えた痩せっぽっちの少年だった。
少年の首には、オリオンタウンの住人が着けていた首輪がなく、あえて気になる点と言えば、それくらいだろうか。
(タウンの人は、普段からスラム近づいてなさそうな口ぶりだったし、あんまり見ない顔の私が来たから珍しがってるのかな……まあ今は気にする事でもないよね)
それよりも、今はサタンくんの居場所を探す事だよね、と。
自らの目的を再認識したエフェメラは、ずんずんと臆することなくスラムの中心部へ向かう。
[――――][――――][――――]
奥へと向かう度に増えていく住人。
幾重にも連なる彼らの視線に、エフェメラは眉をしかめる。
(居心地悪い、でも…………ガルドと会わなかったら、私もずっとあちら側だったんだろうな)
持っている者が恵んでくれるんじゃないかと、持っている者が救ってくれるんじゃないかと。
何の努力もせず、他者に期待し続け、何もしなければ一方的に裏切られた不満を漏らし、腐っていた事だろう。
自ら生殺与奪の権利すら放棄し、責任と義務の全てを他者へ委ねながら、悠久の地獄と言う名の絶望に浸っていた事だろう。
(…………嫌になってくる)
彼らを見る度に強烈に胸が締め付けられる。
誰にも何も期待していない眼。自分こそが世界で最も不幸だと信じ切った眼。
いつの日か見た、湖に映った自分の顔と同じだったからこそ、少女は堕落しきった彼らを見て同情を抱きながら、同時に心の中で強く蔑み恨み嫌悪した。
「早くサタンくんを見つけて一刻も早くここから……ん?」
不快感が胸中を渦巻く最中、エフェメラはふと視界に入ってきた看板に、全ての意識を持っていかれる。
「窃盗……スリ……ドロボウ…………注意せよ?」
無意識に口走った言葉を頭が理解すると同時に、エフェメラは反射的に財布が入っている右ポケットへ手を当てる。
「大丈夫、盗られてない…………うん、そっか、そうだよね」
そして、貴重品が盗まれていない事にほっと一息つきながらも、ここがそういう場所である事を、改めて理解し一歩目を歩こうとして――――
「きゃふっ!?」
どん、と背中に走った強烈な衝撃に、少女はバランスを崩して倒れ込んでしまった。
「おっと悪いなねーちゃん!急いでるんでなー!じゃあなー!」
何事かと思いながら顔を上げると、そこには走り去っていく少年の姿。
「いきなりなんだよもう…………あれ?」
走り去っていく白い髪をした少年の姿を恨めしげに眺めながらも、少女は砂埃を払いながら立ち上がり――――ようやく自分に起きた違和に気づいた。
「ないっ!ないっっ!?袋がないっ!?盗られたっ!?持ってかれたっ!?まさか今のアイツにっ!?」
平静に戻りかけていた筈の思考が、一瞬で脳細胞を焼き尽くす怒りがマグマの如くグツグツと煮え滾り、同時に身体の芯まで凍てつかせるが如き氷の後悔が、彼女の意識を埋めつくす。
唯一、財布だけは、買い物などで普段から高価を使う機会が多いからと、袋とは別々にして所持していたせいか無事だったのだが、今の彼女にとってはそんなものは頭にない。
「返せっ!盗った袋を返せっ!!その袋を返せぇっっっ!!!」
普通の人間であれば、金が残っているだけまだマシ、と言う判断を下していた事だろう。
しかし、彼女にとって、金なんてものはそれほど大切なものではないし、執着すべきものではない。
それよりも袋だ。袋を盗られた。つまりそれは恩人との繋がりが入った宝箱を、根こそぎ奪われた事に等しいのだ。
「泥棒っ!泥棒っっ!泥棒っっっ!」
だから半狂乱になって少女は走る。
後悔を、憤怒を、反省を、殺意を、全ての感情を糧にして、全身全霊でもって地面を蹴る。
粗悪な地面で生身の足が痛もうとも、義足がきしきしと軋もうとも構わず、酸素を吸う事すらも忘れて、盗人を必死になって追いかけた。
――――――
――――
――
「はあっ、はあっ、はあっ!」
平均以下の体力、義体と言うハンデ、そして土地勘の有無を前に、エフェメラは完全に少年を見失っていた。
「くそくそくそくそっっっ!置いてたら良かった持ってこなきゃ良かった看板見なきゃ良かったっっっ!」
肩で息をし、目を血走らせ、怒気と後悔と反省と怨嗟とに満たされた少女の顔は、過去の弱々しい彼女しか知らない人間からすれば想像もつかないものであり。
もしも、袋を取り返す手段が他に何もなかったとすれば、殺人すらもいとわないと言わんばかりの強い敵意を纏った彼女に近づくものは、文字通り皆無と言っても良かった。
『おや――――エフェメラさんじゃないですか。珍しいところで会いましたね』
「………………え」
そんな、怒りで我を失っていた彼女の平静を取り戻したのは、薄汚れた街とまるで似つかわしくない、透き通るようなクリスタルボイスだった。
「え、えっ、さ、サタンくんっ……!?」
唐突な訪問者。黒衣と金髪の黄金比。少女が思う最強の体現者。サタン・クロウリー。
ずっと追いかけていた、追い続けていた人物とのいきなり過ぎる邂逅を前にして、少女の思考回路が完全にフリーズする。
『嬉しいなあ!僕の事を覚えてくれてたんですね!ありがとうございますエフェメラさん!』
「ぁ……ひゃふっ!?」
そして、無防備となった少女へ流れるように行われる、悪意や作為的なものを全く感じさせない少年の全力抱擁。
全身を包み込まれる心地良さ、ふわりと鼻孔をくすぐる異性の香り、それらは少女が抱いていた極上の殺意すらも、容易く忘れさせてしまうほどに強烈なインパクトであり。
『ところで、エフェメラさんは、どうしてこの街にいらっしゃったのですか?』
少女が少年を異性として意識するよりも早く、彼は話を切り上げ抱擁を終わらせ言葉を続ける。
まだ平静に戻り切っていないエフェメラと比べると、その顔には普段と変わらない余裕の色が浮かんでいた。
『……エフェメラさん?』
「へ…………あっ!そうそうっ!それだよそれっ!」
そしてもう一度。
自分の名前を呼ばれて我に返ったエフェメラは、まだ興奮冷めやらぬまま自らの目的を口にする。
「私はサタンくんを探しに来たんだよっ!」
『僕を?』
「うんっ!私とコンビを組んでバベルを踏破しようっ!」
ぎゅっと少年の手を両手で握り、伝播しそうな熱気と共に少女は語った。
『…………うーん』
だが、サタンの反応は、あまり芳しいものではなかった。
もちろん、それ自体は予想していた範疇ではあるため、エフェメラも彼を仲間にする為に奥の手を切ろうと、自らの袋に手を突っ込もうとして――――
「サタンくんが即断してくれない事は織り込み済み!でもカストルさんから貰った契約書がっ……ってああああああああっさっき泥棒に盗られたんだったぁあああっっっ!」
自らの失態で生まれた絶望的な現状を理解し、その場にガクンと膝から崩れ落ちる。
『えっと……大丈夫ですか?』
「だ、大丈夫、うん、あと十秒だけ…………うん、もう大丈夫」
ひざまづいたままの情けない恰好で、すん、すん、すん、と鼻を鳴らすエフェメラ。
気を抜けばそのまま泣いてしまいそうだったが、けれどギリギリのところで奥歯に力を入れた少女は、再び埃を払って立ち上がる。
「よし、よぉし……あの泥棒ヤローっ!見つけたら絶対タダじゃおかないからァっ!」
ぱちんぱちん、と自らの頬を叩いて、ガッと気合を入れ直すエフェメラ。
『…………思っていたよりずっと愉快な方なんですね』
そして、そんな彼女を眺めるサタンの視線に、ただの好奇心と言うには随分と物足りない、どこか熱情的な色が入る中。
「――――離せっ!離せよっ!くそっ!離せったら!」
「……あの声」
聞き覚えがあった。
忘れる筈がない。忘れられる筈がない。
少女の耳に届いたその声は、紛れもなく少女から宝物を奪った盗人のもので。
「サタンくんっ!私ドロボーから袋を取り返してくるからサタンくんはここで待っててっ!」
一方的にそう告げると、少女は声がした方へと向け、答えも聞かず一目散に走り出すのだった――――
――――――
――――
――
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