第3話 助言
老人会い、暫く過ぎた。
いや、暫く立っているようで実はまだ5分経っていないかもしれない。
そう感じるくらいに男は真剣に記憶を探し出していた。
けれど、何も思い出せない。
どれだけ記憶が愛おしく、大切なのかはわかっている。
それなのに、近くにある記憶は男から、逃げ、霧散し、通り抜ける。
こんなに死に物狂いで頑張っているのに記憶の残滓すらすくい取れない。
閉じていた男の目にさらに力が入る。
苛立ち、乾き始めた唇を再び噛む。
ずきっと鈍い痛みと流血の暖かさを肌に感じるが、男は気にしない。
暗闇の中であの女性の声を思い浮かべる。
まっさらな記憶の中からどんな些細なことでも生きていたころの記憶を手繰り寄せようとする。
やはり、だめだった。
「くそ……」
男の口から苛立ちがこぼれ出る。
「何を悩んでいるんですかな?」
突然老人が問いかけてきた。
急だったうえに、意表をつかれた。
そのため、男は老人の顔を見るだけで言葉を発することができない。
男の顔には、先ほどの苦悶を浮かべていた表情ではなく純粋な驚きの表情が浮かんでいる。
それに、老人に悩みを言っても解決できるとは思っていない。
間が空く。
老人は、男の表情を見て男の感情を読み取ってか、はたまたただの気質か目を細め穏やかに笑う。
「いや、なに。死んで次の世に行くのに行くのに、最期に外の風景を見ないのはもったいないと思いまして」
そう言って外を見る。
細くなっていた目がさらに細くなる。
瞳には暖かな色が宿っていた。
まるで懐かしいものでも見るかのように。
何を言っているのだと男は思う。
一応はと思いちらと目を外の方に動かすが、やはり最初にみた雪野原だけで他には何もない。
何がもったいないのかわからない。
男は訝しげな顔をしながら
「ただ、雪が積もっているだけと思いますが……、真っ暗でなんの見栄えのない風景が広がっているだけです。それの何がもったいないのでしょうか」
と焦りと自分の不甲斐なさ故の不満を、険の入った言葉で老人にぶつけてしまった。
やってしまったと思う。
「あの……、すみま」
「ほっほっ、そうですか。そうですか。あなたには雪野原が見えますか」
とっさに謝罪をしようとしたが老人は謝罪など不要というように男の言葉を遮る。
その言葉に幾分か心が軽くなった気がした。
老人は言葉を続ける。
「私には自分の故郷が見えます。ばあさんと暮らしていたところです。とても、とても懐かしい」
何を言っているのかわからなかった。
男の目に映っているのはただの寂しい雪景色なのに、老人にはそれが自分の故郷が見えると言う。
男は戸惑いを隠せない。
目が揺れていることが自分でもわかる。
それと同時に、この人は少しぼけているのではないのかと失礼な考えも浮かんでしまう。
けれど、老人は男のそんな男の態度を見ても相も変わらず優しい相貌を浮かべたままだ。
老人がゆっくりと口を開く。
「あなたが何に悩んでいるかは私には分かりません。けれど、それが生前に関係するのなら外を見た方がいいと思います。そして、ただ見るだけでなく、どんなことを知りたいか思ってね」
その言葉には不思議と説得力があるかのように感じた。
いや、ただその言葉にすがりたかっただけかもしれない。
老人の言葉に導かれるかのように窓の方に顔を向ける。
それでも瞳に映るものは雪野原。
しかし、男は見続ける。
それと同時に、自分にとって大切な、かけがえのないあの言葉を心に受けべる。
「ずっと、ずっと、待っているから。何十年も何百年も、あの場所でまた――」
今までにないほどに集中する。
相も変わらず記憶はおぼろげだ。
どんなに触れようとしても男から遠ざかるか、触れた途端に霧散してしまう。
だが、あきらめない。
希望を捨てずに記憶の欠片を必死に追う。ただただ手を伸ばす。
(俺はあの言葉の意味を知りたい。そしてあの人に会いたい。だから俺は――)
霧の中に一つの記憶を見つけた。
それもやはりこれまでの記憶たちのようにもやがかかっている。
けれど、それは他の記憶たちよりか明るく輝いている。
(これが、君との記憶なのか)
男はゆっくりと手を伸ばす。
記憶はただただずっとそこにいた。
消えもせず、逃げもしない。
じっと男を見つめているようだった。
記憶の破片が男の指先に触れた。
途端に霧が一瞬で吹き飛び目の前が鮮明になり男を現実に引き戻す。
突然、窓の景色が変わった。
純白の雪と漆黒の空が風で吹き飛ばされるかのようにはがれていく。
そして、吹き飛ばされたところから新たに色が塗られていく。
大地は緑に塗り替わり、ところどころに色とりどりの花が咲いた。
花の周りには蝶がひらひらと飛んでいる。
闇かと見間違えるほどの夜空は雲一つない蒼穹が広がり、群れを成した鳥が飛んでいる。
そして、最後に野原の中央に巨大な大樹が姿を現した。
それはまるで空の果てを目指しているのかと思うほどに力強く立っている。
そんな巨体を支えるために根を深く、広くはり、それと合わせて大樹にはうっそうと生えている葉は生命の力強さを体現しているかのようだ。
思い出した。
失っていた記憶を。
生きていた時の記憶を。
大切なあの人の記憶を。
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