第2話 焦り
男は焦り始めていた。
男が思い出そうと努力し始めて一時間ほど経とうとしていた。
いや、もっと長い。
実際は体感時間よりもはるかに時が過ぎようとしていた。
それほど男は躍起になっていた。
だが記憶を思い出そうと集中すればするほど記憶が遠ざかっていく。
男を嘲笑うかのように。
その記憶がどれだけ大切かはわかっているはずなのに。
(もし、このままなにも思い出せずにあの世だったり、次の世だったりについてしまったらどうなるんだろうか……)
ふとそんな考えが、男の頭をよぎった。
背筋に凍てつくような寒気が走る。
(だめだ、それだけは、絶対に)
今思い出さなければ、永遠に大切なものが帰ってこない。
そんな気がした。
何一つ思い出せないことが本当に、歯がゆい。
(絶対に、何が何だろうと思い出さなければ……)
唇から暖かいものが流れた。
男は自分の無力に苛立ち唇をかみちぎったのだが、そんなことすら気に掛ける余裕はなかった。
「もし……」
突然、男の頭上からそんな言葉が降ってきた。
男は驚いて顔をあげる。
頭を上げた先には、70から80歳くらいのシルクハットをかぶり黒のコートを着込んでいる男性の老人が立っていた。
しわは深く、シルクハットから覗く髪は白髪であり、顔は痩せこけて骨ばっている。
重ねた手には杖を持っており、、風が吹けば飛んでしまいそうと思ってしまうほど、それほどにも老人は弱弱しい。
しかし、そんな病的な姿と対照的に老人の顔には人のよさそうな笑みを浮かべていた。
「あの……」
男はどう反応を返していいかわからず、中途半端な返事をしてしまう。
老人は男がどう反応すればいいのか迷っていると感じ取ったのか、少し笑いながら聞く。
「前の席に座ってもよろしいですかな?」
「え……ええ、もちろんです」
男は少し戸惑いながらも、断る理由もないので老人の願いを受け入れる。
「ありがとう。……では」
老人はゆっくりとした動作で男の向かいの席に着いた。
そのまま、ふぅと小さく息を吐く。
そこで、老人が何かに気が付いたようで、
「お口、大丈夫ですかな?」
と少し心配顔で男に問いかけてきた。
「え……」
怪我に気が付いてないため、何を心配されているかわからない男は戸惑いの顔を浮かべる。
老人はそんな様子を見て、少し笑みを浮かべながら、
「ここですよ、ここ」
と自分の唇の端に指をあてて、男が怪我をしていることを示した。
ここで男は自分が唇をかみ切っていることに気が付く。
「大丈夫です。気遣いありがとうございます」
そういいながら男は手で血をぬぐう。
「ほっほ、そうですか。そうですか」
老人はそう微笑んだ後にそのまま窓の方へ顔を向ける。
男もそのあとを追うかのように窓を見た。
目に映るものは先ほどと変わらない、真っ暗闇な空と雪景色。
雪は辺り一面に覆われており、植物の緑も、土の色も何一つ見えない。
冷たく、寂しい風景。
(死者を運ぶのにふさわしい景色だな)
男はそう思いながらも、すぐにそんな思いを捨ててまた下を見る。
一瞬寒さを感じたような気がしたがそれを気にはしなかった。
そしてまた、自分が思い出すべきものを手に入れるために、思考を記憶の霧の中へ落とし込んだ。
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