いつか君と
ささくれ
第1話 目覚め
「ずっと、ずっと、待っているから。何十年も何百年も、あの場所でまた――」
これが、俺が覚えている唯一の言葉だった。
ガタンゴトンと揺れる音で男は目を覚ました。今目覚めたばかりのせいか、思考は霞がかかったように重い。
(ここは、どこだ?)
重たい頭をどうにかして動かして周りを見渡す。
男が座っているのは表面が赤の長椅子で、正面に同じものが男と向かい合うように置いてある。
ふと横を見ると深淵を思わせるかのような星一つない夜空に真っ白な風景―――おそらく一面が雪に覆われた何もない野原―――が流れるように動いていた。
どうやらここは、列車の中らしい。
車内の光によって窓に反射された自分の姿を見て男は気付く。
外は雪景色だというのに、自分の服装はぼろぼろの軍服を着ただけのものだった。
しかし、男は真冬の中の列車の中で薄着姿だというのに寒さを一切感じなかった。
いや、むしろほのかな暖かささえ感じる。
(どうしてこんなところに俺はいる?)
鈍い思考しかできない頭でそんなことを考えるが、全く思い出せない。
まともに思考できるようになるまで男は背もたれに体を預け、列車に揺らされる。
だんだんと頭の中が晴れてきた。
今ならまともに物事を考えられるだろう。
男はどうして列車に乗っているか思い出そうとする。
しかし、思い出せない。
それ以上に重要なことを男は忘れていた。
「俺は……、誰だ?」
例え泥酔していても自分の名前くらいは言えるはずである。
しかも、男の思考は目覚めたばかりのときとは違い、今は普通に物事を考えられる状態だ。今の状態で自分の名前すら出てこないのは明らかに異常といえる。
(いや……、それ以上に……)
さらに深刻なことに男はこれまでの記憶を全てなくしていた。
しかし、きれいさっぱりと記憶をなくしているというわけではないとも感じた。
記憶はおそらくある。
だが、記憶に霧がかかったようになんとなく、どんなものかは感じるとることができるが、はっきりとしたことはわからない。そんな感じだ。
自分の名前もがわからない。
今までの記憶もない。
普通なら焦るべき事態である。
けれど、不思議なことに男には焦る気持ちがわいてこなかった。
本来なら自分が何者かを理解することは一番重要なことだろう。
しかし、男は自分にとって最優先にすべきことではないとなぜか理解していた。
「あの場所でまた――」
突然頭の中に浮かび上がってきた誰かの言葉。
透き通り、それでいて力強い意思が込められたなきれいな女性の声。
それでいてとても、とても懐かしい声。
この言葉の主を、この言葉の意味を知ることが、自分がすべきことだと男は確信する。
根拠はない。
ないが、自分の中でこの言葉がどれよりも、どんなことよりも大切なことだと理解している。
まるで、あの女性の言葉と存在が、自分のすべてであると魂に刻まれてあるかのように。
そしてもう一つ分かることがある。
それは、この列車は死者を運ぶものだということだ。
これも根拠はない。
しかし、直感なのかと問われるとそれだけでもない。
この世界が、この空間が、男にそうであると告げている。そんな感じだ。
男は席を立ち、周りを見渡す。
周りにはぽつぽつと人が座っている。
その乗客たちはどこか生気のない顔をしている。
生き生きとしている、していないという意味ではない。
血色だけを見るとどの人も年相応で極端に血色が悪い人はいない。
しかし、ここにいる全員が生者であるのに必要な“なにか”がないように思える。
それが生きているようで生きていないと感じさせる要因となっているのだろう。
おそらく、それは自分も例外ではない。
(俺は……死んだのか)
今更となって男は自分が死んだことを実感する。
だが男は、今となっては死んだという事実さえとても些末なことのように思えた。
男が今思うべきことは、唯一覚えているあの女性の言葉だ。
その言葉は男の中に深く、強烈に語りかけてくる。
自分が何者か、どんなふうに死んだのか。
自分に関することよりも、あの言葉が大切なものだと魂が叫んでいる。
だが、それだけだ。
そこから先は何も思い出せない。
思い出そうとしても、やはり霧がかかったように記憶がぼんやりと、輪郭が見えないほど曖昧にしか見えない。
そして、そこにあるはずの記憶に手を伸ばそうとしても、何者かが記憶を男の手からぎりぎり届かないところへ持ち出かのすように記憶の欠片が遠ざかる。
あるいは記憶自体が幻で、触れてもその瞬間に霧散し、再び男のすぐ近くに現れる。
届きそうで届かない。
とてももどかしい。
声の主の女性は誰なのか。
あの場所とはどこなのか。
あの女性は男になにを伝えたかったのか。
何もわからない。何も覚えていないから。覚えていなければ言葉の意味は分からない。
「どうやったら、思い出せる。どうやったら……」
男の口から言葉が漏れる。
男は目を閉じてそれで必死に思い出そうとする。それでもやはり、記憶の一片も思い出せない。
列車はただただ進む。
男のことなどどうでもよいというかのように。
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