大学生紺野真美事件とその考察

糸坂有

大学生紺野真美事件とその考察

 その人が、僕と会うため指定したのは、メモによると二〇一九年二月一七日の日曜日のことであった。何を隠そう京都マラソンの日である。その日は朝から快晴と言うほどではなかったが、冷たく凍ったような清々しい風が吹く日だった。マラソン日和がどんな日のことを言うのか僕は知らなかったが、きっとマラソンに悪くはない日だったことだろう。大学の期末試験は終了し、晴れて自由の身となった僕は、その人の申し出を即座に了承し、二月一七日の十二時ちょうどに、待ち合わせ指定場所であるJR南草津駅へ降り立ったのである。僕をここまで呼んだ、自称二十一歳アパレル店員の女を探していると、僕の背中を叩いたのは、僕と同じ年頃、身長もそう変わらない男である。灰色のパーカー、黒いコートにマフラーを巻き、黒縁眼鏡をかけて柔和に微笑んでいる。

「こんにちは。今日はお呼び立てしてすいません。約一週間ぶりですが、お元気そうでなによりです。インフルエンザには罹らなかったようですね。学級閉鎖、なんて話も聞きましたが、そろそろ収束してきたのでしょうか。あなたはきっと、京都マラソンとは無関係な人だと思っていましたが、どうやら当たりだったようで一安心です」

「すいませんが、どちら様でしょうか」

 見覚えのない顔に、僕は確かそんなことを訊いたのだったと思う。すると男は、僕の言葉を待っていたとばかりににんまりと笑い、「そうですよね」と僕に少し近づき、そっと囁くように言った。

「あなたをここまで呼んだ二十一歳アパレル店員は、私です」

 即座に僕は理解出来なかったのだと思う。じっくり男を観察すると、人当たりの良さそうな笑みを浮かべられたことは今でもよく覚えている。

「冗談ですよね? だって、あなたはどう見ても男性です。声だって低いし、身長も違う。何を言っているのか、僕にはさっぱり分からないのですが」

「ちょっとした理由から、変装技術を磨いておりまして。そこまで驚いていただけると、こちらとしてはとても嬉しいですね。もし良ければ、先週あなたと初めて会った時のことを詳細にお話致しましょうか。そしたら、きっと信じていただけると思います」

 そんな風に提案されて、僕が「お願いします」と不承不承頷くと、男は滑らかな口調で始めた。

「あなたと初めて会ったのは、三連休直前の、二月八日の金曜日でした。あなたは十三時、コンビニエンスストアでのアルバイトを終えて駅前にやって来ました。昼食を取って、書店へ寄って、十三時四八分、その時に駅前すぐにある踏切近辺で起こったのが、今でもワイドショーを騒がせている通り魔事件ですが、死者は出なかったことが不幸中の幸いでした。負傷された方も、順調に回復しているそうで何よりです。私はあの時女性の格好で歩いていて、ぎりぎりのところで犯人の魔の手にかかることはありませんでした。それもあなたのおかげですね。あの時は本当にありがとうございました。それから私たちは連絡先を交換し、最後の私の言葉はこうでしたね、近々お会いしましょう、今週中にはこちらからご連絡差し上げると思います。あなたは淡々と会釈をされて、自転車置き場の方へ歩いて行きました。あまり長いと聞き飽きるかと思いまして、詳細に話すことは止めにしてこんな簡潔に話をしてしまいましたが、これでは信用していただけませんか? 質問等あれば、いくらでもお答えします」

 話す間、男はしきりに辺りを確認していた。誰かに話を聞かれるのを恐れているようであった。話し終えると微笑んで、僕の返答を待っているようだった。

「今から私の部屋へ来て下さったら、美味しいカレーをご馳走します。我ながら美味しいと自負できるくらい、私のカレーは美味しいのですよ。でも、どうしても帰りたいと言うのであれば、止めはしません。今後連絡も一切しません。ここで連絡先を消去します」

「行きます。カレーは好きですから」

 明らかに怪しげな男へ、今でも自分がどうしてそのような返答を取ったのかは分からないが、僕はそう言ったのである。むくむくと湧き上がってくる好奇心か、あるいは怖いもの見たさ、世の中には心霊スポットやお化け屋敷に自ら好んで行く類がいるが、そんな者たちの沼に瞬間足先を突っ込んでしまったのかもしれない。男は僕の返答に満足し、「こちらです」と僕を案内した。駅を出て、男と並んで歩くこと約十分。辿り着いたのはとあるマンションである。エレベーターに乗り、三階で降りて奥から二番目の部屋の鍵を開ける。中はさっぱりとした雰囲気で、両脇にトイレや風呂がある廊下を抜けると、ベッドやテレビが置いてある空間に行き当たった。必要最低限の家具以外は物という物がなく、多少生活感に欠ける部屋であった。ひときわ目立つ、中央に置いてある大きな机にはテーブルクロスがかけられ、その上には花、二人分の食器がすでに準備されていた。

「鞄はそちらへ置いてください。コートはこちらへ。席は二つありますが、お好きな方におかけ下さい。手はあちらで洗っていただいて構いません。トイレはあちらです。私はしばらくカレーを温めることに専念しますから、良ければテレビでも鑑賞されますか。しない。そうですか。では少しお待ちください」

 しばらく黙って、換気扇の下、カレーを温める男の背中を眺めていると、良い匂いがしてきて僕の胃袋を刺激した。そして僕の目の前に置かれたのはカレーとサラダ、グラスに注がれた水である。

「毒は入っていませんから、ご安心を」

 そう言われて、僕がどんな顔で男を見上げたかは分からなかったが、推測は容易である。男は、「失言」と口元を押さえた。

「そう言われると、気になってしまいますよね。すいません、あ、交換しますか?」

 男側の席の前に置かれたカレーを示し男は言うが、僕は「いいえ」と答えた。

「わざと毒、なんて言うことで僕の不安を煽ったのだとしたら、最初からそちらに毒を入れていた可能性があります。それに、もし用心して僕が自分でカレーをよそった場合でも、食器類に毒を塗っていたら意味がありませんし、ここにはサラダも水もあります。あなたに僕を殺す動機もあるとは思えませんから。今僕は、あなたを信用してここにいるんです」

 それが心からの言葉だったかと問われれば、否である。信用はしていなかったし、用心もしていた。僕は武術の一つや二つは会得していたので、何かあった時のプランは、部屋に入る前からいくつか考えていた。それでもそう言うと、男は僕の前に座って微笑んだのだったと思う。そして、手を合わせて「いただきます」と言った。

「チキンカレーです。南瓜を入れているのですが、あなたは好きですか? 南瓜。あと、隠し味程度にチョコレートも入れています。すでにバレンタインデーは終わってしまいましたが、少し遅いバレンタインです。あなたはバレンタインデーの由来を聞いたことがありますか? ええ、ローマのウァレンティヌス。そうですね。よく御存じで。私もそんなことを聞いたことがあります。日本では、女性から男性へチョコレートを渡すと共に気持ちを伝えたり、友達に渡したりして友情を深める、なんてことをしていますが、諸外国では違うようですね。お、いきましたね、一口。……いかがです? 美味しい。そうですか、それは何よりです。話しながらだと食べにくいでしょうから、私はしばらく黙ってカレーに専念することにします」

 そう言うと、男はさっきまでの饒舌が嘘のように静かになった。もくもくとカレーを食べる男は、僕の一挙一動を食い入るように見つめていた。話しながらだと食べにくいと男は言うけれど、食い入るように見つめられながらの食事も食べにくいもので、僕がそう言えば、今度男はきょろきょろと窓の外を見たり玄関口を見たり、せわしなく視線を動かしながらカレーを食べた。

「ご馳走様でした」

 手を合わせて、左手首に付けていた腕時計を見る。時刻は十三時過ぎ。この部屋には時計がなかった。さっそく男は食器の片付けを始めるので、手伝おうとすれば座っていて下さいと言われ、僕は男の後姿を眺めていた。テーブルクロスを剥ぎ取り、花を中央に置き直して全てを綺麗に片付けると、また男は僕の向いの席に座った。

「さて、ご満足いただけましたか? あの時のお礼のカレーなんて言うつもりはありませんが、なるべく感謝の気持ちは込めたつもりです。ところで、あなたは今日、特に予定はないのだと言っていましたね? 三時頃も、きっと暇でしょうね?」

「三時に、何があるんですか」

「では、あと一時間半ほどでしょうか、質問があればお答えします。どんな質問でもけっこうですが、お答えできない場合も多々あるので、その辺りはご了承下さい。では、どうぞ」

 顔の前で手を組んで、眼鏡の奥で薄く微笑む男の顔は、外見はどこにでもいる大学生風でありながら、普通の人間ではないと思わせるに十分だった。肌も声も、どこを取っても変装だとは思えないその風体を観察し、殺風景な部屋を見渡し、その正体を見極めようと僕は質問を始めた。

「あのスーツケースは、いったい何ですか? 何が入っているんでしょうか」

 まず、壁際にぴったりと置かれたスーツケースについて問いかける。

「一年保証で安心、機内持ち込みサイズ、傷が目立ちにくいブラックです。十パーセントオフで買いましたが、良いですよ。老若男女、変装道具を入れておくのにぴったりです」

「変装だと言うのなら、それ、全て取ってもらえませんか? 僕にはどうもそうは見えないのですが」

「申し訳ないのですが、これから来客があるので難しいですね」

「三時に、ですか?」

「ええ、そうです。可愛らしい女の子ですから、きっとあなたにも喜んでもらえることと思います」

「その女の子の目的は何ですか? どうしてここへ来るんですか?」

「後で分かる事ですから、それは省略しましょう。二度手間というものです」

「スーツケースの中身は見せて頂けますか?」

「申し訳ありませんが、それは企業秘密です」

「ここはあなたの家ですか? 毎日のように違う人間が出入りしていたら、怪しまれませんか?」

「いくつか部屋は持っています。ここでは男子大学生なんです。実際、大学を出入りしています。授業料は払っていませんが、ゼミ等でなければ少しくらい授業に入り込んでもばれないですから。現役大学生のあなたの方がよく御存じでしょう。今日、あなたをこの格好でここへ呼び出したのは、最も親しみを持っていただけると思ったもので。それとも、二十一歳アパレル店員の方が良かったでしょうか」

「あなたは、何をしている人なんですか」

「いいですね、私、そういう質問大好きです。他の質問をどうぞ」

「もしカレーに毒が入っていれば、すでに僕は死んでいるところでしょうか」

「毒と一言で言っても、いろいろありますから。有名なのは何でしょう、フグやトリカブト? あれは確か、あなたが生まれる前に発生した事件でしたか。強力な毒と聞いて思いつくのは、私はボツリヌストキシンだったのですが、これは医療に利用されていますよね。使用法しだいで毒にも薬にもなるというのは、大変面白いです。即効性という面では、シアン化物なんかがそうでしょうか。私、一つ夢があるのですが、ペロッ、これは青酸カリ……というのをやってみたいんです。お、舐めちゃ駄目、そうですか。しかしあれは、大した毒ではないと聞いたことがありますよ。それでも駄目、そうですね。そうします、私のささやかな夢は諦めることにしましょう。とにかく時間的にも、まだまだ安心は出来ません。ですがあなたは、私を信用して下さっているようなので、無用なことですね」

「いくつか、と言いましたが、部屋はいくつ、どこに持っているんですか」

「私が安心して生きていくのに必要な分だけです。生きていくために必要ですよね、安心って。恐怖や心配事に取りつかれると、人はよくよく生きてはいけません。もちろん、食物や水も大切ですが、私が言ったのは精神面についてです。あなたは、今安心して暮らしていますか? ええ、ええ、そうですか。実家暮らしの大学生、いいじゃないですか。自立だなんて、その時が来ればいつだってすることになります。アルバイトはしているんでしょう、偉いじゃないですか。良いと思いますよ、私は。就職はまだまだ先ですか。ああ、今一年生なんですね。では四月からは二年生ですね。どうですか、後輩が出来る気持ちは。そうですか。確かに考えてみれば、後輩なんて今までだっていくらもいるんですからね。感傷に浸れと言う方が難しいかもしれません。あなたは京都の方面から来られていますよね。わざわざここまで来ていただいてすいません。ああ、そうですか、そう遠くもないですよね。あなたの大学は御所の辺りでしたか。いいですよね、ああいうところでランニングなんかを一度してみたいものです。あの辺りにも部屋を持っているので、もしお嫌でなければ、次はご足労をわずらわすことなくお会い出来ることでしょう。ちなみに、二十代公務員の女性はお好きですか? そうですか」

 僕はいくつも質問を投げかけたが、僕が一質問すれば十返って来るといった様子で、聞き役になることが多かった。好きなものや嫌いなもの、趣味やよく行く場所、休日の過ごし方等、当てもなく訊いてみて、僕は目の前の人物がどういった頭の構造をしているのか、よくよく調べてみようと研究を重ねた。答えない質問はいくつもあり、例えば、家族構成や過去については、僕が方向修正する間もなくあれよあれよと道が逸れ、最終的には昨今の猫ブームについてを経て、ペンギンの話になった。

「あなたは犬が好きですか? 猫の方が好きですか? なるほど、それはいいことです。最近、猫の動画を目にすることが増えたのですが、猫が流行っているんでしょうか。もう少し前は犬をよく見かけた気がするんですが、気のせいですかね? 個人的には、子犬よりは子猫の方が好ましく思います。ですが、総合的に見ればどちらとも言えない、というのが私の答えになるでしょうか。聞いていただけますか、私の一押しは、コウテイペンギンの雛なのです。見たことがありますか、ありますか! それは良かったです。あのコミュニケーションアプリのスタンプでも、よく題材にされていますね。私も持っています。特に私が気に入っている方は、今全国五大都市で展覧会をされていますよ。早速大阪へ行ってきました。至福の時間に、心癒されるようでした。実は、去年公開されたものですが、コウテイペンギンのドキュメンタリーのDVDが、ああ、この部屋には置いていないのが残念です、フランスの方が撮られたものですが、良いんですよ。ぜひあなたにも見てもらいたいものです。第二弾なんですが、良ければ今度お見せします。何かに導かれ、雄大な氷の大地に一列になって歩いて行くペンギンたち、新たな命の誕生、あなたも涙なくしては見れないでしょう。南極に行きたいと何度も思ったのですが、私は日本でコウテイペンギンの雛を見ることで自分の心の欲求と折り合いを付けることにしました。あの、和歌山県のテーマパークです。入場料は五千円近くしますが、それだけの価値があります。行ったことがある? あなたとは気が合いそうですね。雛はとても可愛らしく、その時撮影した動画は今でも私の心の支えです。コウテイペンギン以外のペンギンもいますから、ペンギン好きには楽園です。まさにペンギンの楽園。私は去年、夜間特別営業の寒い日に行きましたから、確か入場料のプラス千円でしたか、ひしひし冷たい空気にさらされながらも心は温かく、素晴らしいイルカショーも見ました。パンダの赤ちゃんも可愛らしかったです。東京の動物園でパンダを見るには整理券がどうこう、と聞いたことがありますが、こっちでは特に時間もかかることなく見ることが出来ましたよ。生まれて四か月ほどで、自分で歩けるようになってきた頃でしたが、まだまだ足腰が弱そうな印象でした。生まれた時はタラコのようで、それがあんな風に成長していくのかと感心しましたね。なにより、コウテイペンギンがいますから、ぜひあなたも友人たちともう一度行ってみて下さい。私、あのソーシャルネットワーキングサービスで公式アカウントをフォローしているのですが、毎日呟かれているのがパンダの情報なのが残念です。当然可愛いには間違いないですし、楽しく見させてもらっていますが、ペンギン好きとしてはやはりほんの少しだけ物足りなさを感じてしまうところです。しかしすでに、あのペンギンは大きくなっているのでしょうね。時間の流れです」

 放っておけば、一時間でも二時間でも話し続けられるであろうその人は、ふと口を噤んだ。腕時計で確認をすれば、十四時五十分であった。

「どうやら来たようですね」

 男は、隅に置いてあった椅子を持ち出し、四角い机の、玄関を背にする位置に置いた。中央に置いてあった花を退ける。その時、僕には何の音も聞こえなかった。後に、どうして客人がやって来たかが分かったのかを聞くと、「私は心の目で半径一キロメートルを見ることが出来るのです」と言い、そのすぐ後に「当然そんなことは出来ませんよ?」と笑っていた。結局僕は、その鋭さは日々の生活から得たものだろうと結論付けることしか出来なかった。

 チャイムが鳴った。

「待っていて下さい」

 僕に一声かけてから、客人を迎え入れる。やって来たのは、大学生風の女性だった。ふんわりと髪を撒き、白いダッフルコートにマフラー、ワインレッドのタイツ、スカーフを結びつけた黒い鞄を手に持ち、赤い頬で微笑んだ。

「こんにちは、ええと、この方が、あの……」

「うん、そうだよ。まあまあ座って。かしこまらないでいいからね」

 がらりと雰囲気が変わったその男を見て、僕は内心驚いた。そこにいたのは、胡散臭さのないどこにでもいる普通の男子大学生だったからだ。男は女性をさっき運んだばかりの椅子へ座らせて、自分もその左側へ座った。すると女性は僕に向かって軽い会釈をした後、話し始めた。

「初めまして、紺野真美といいます。大学一年生です。先輩とは、授業の時に知り合って、あなたのことを聞かせてもらいました。ある事で困っていて、先輩に話をしたら、あなたが力になってくれるということだったので。本当にありがとうございます。お会いできて光栄です。とてもお若いんですね、ちょっとびっくりしました」

 僕は口がだらしなく開きかけたところを、すんでのところで力を込めて制止した。迂闊に話をすべきではないと判断したのである。僕がちらと男を見た時、男は紺野真美の言葉に賛同するように何度か小さく頷いていた。

「それで、困っている内容というのは……」

 そう言うと、紺野真美は大きく頷いて、期待を込めた目を僕に向けた。訳も分からず、僕は類まれな状況に置かれ、言い知れぬプレッシャーに襲われた。

 紺野真美が話したのは、細かな点は違えど大まかには次の通りである。

「はい、お話します。私、コンビニでアルバイトをしていて、シフトはたいていが五時から十時、それか、もう少し遅めにしてもらって、六時や七時から入れてもらう時もあります。家からは徒歩二十分ほどで、時々父や母、兄が仕事が終わるくらいの時間にやって来て、素知らぬ顔で、「もう仕事終わるんやっけ? あ、そっかそっか、じゃあついでやし一緒に帰ろか」なんて言って、一緒に帰ることもあります。過保護なんです。もーそんなん恥ずかしいわ、とか思いながら、一緒に帰るんです。バイト仲間は、優しい家族やんって言ってくれるんですけどね。でも、当然毎日じゃありません。先月、年が明けてしばらくの時です。私、しばらく続けてシフトを入れちゃってて、期末も近いのに何でこんなことしちゃったんやろーって後悔してたんです。そんな日のことでした。レジの後ろの窓の向こうで、男の人がじっとこっちを見つめて立っていたんです。ついさっきコロッケを買って、私がお会計をした人でした。私と目が合ったら逸らして、コロッケを食べてるんです。最初はまあ、今年の冬はいつもより暖かいし、お腹空いてたのかなって思ってただけだったんですけど、それからしばらく経っても動く気配がないんです。食べ終わってもですよ? 自転車で来ていたようで、そこにもたれ掛かるようにしてずっとこっちを見てるんです。来てくれたらいいなと思ってたんですけど、その日、家族の迎えはなくて、でも私が帰る時もその人はそこにいて、気持ち悪いなと思いながらも早足で帰ったんです。付いて来る様子はなかったし、私が家に入る時にも確認したら、見当たりませんでした。そして次の日、またその人が窓の外からこっちを見てるんです。今度は何を買うわけでもなく、です。ストーカーだと思いました。でも、何かされたわけでもないんです。どうしようと思って店長に言ったら、その人に注意してくれたんです。それで男の人はいなくなって安心してたんですけど、帰り、コンビニを出て一分くらい歩いたところにある信号の前に、男の人が立ってたんです。気付いて私は立ち止まりました。その時、ちょうど信号が青になって、男の人は渡ってそのまま向こうの道を歩いて行きました。私は怖くなって、しばらく立ち尽くしてから慌ててコンビニに戻って、迎えに来てって兄に電話をしました。バイト仲間はたぶん、私の顔が真っ青だったので、温かい飲み物を奢ってくれて、兄が来てくれるのを待ちました。あれから家族にはバイトを辞めろと言われてるんですが、それからコンビニでは姿を見なくなったんです。それからは毎日のように迎えにも来てくれます」

 紺野真美は一旦言葉を区切ってから、大きく息を吐いて続けた。

「その代わり、いろんな場所で見るようになったんです。学校の行き帰りとか、休日、友達と遊びに行った先とか。話しかけてくるわけではないんです。ただじっと見つめているだけで。勇気を出してこっちが男を捕まえようとすると、するっと逃げてしまうんです。五日前、家のポストにこんなものが入っていました」

 紺野真美が鞄から取り出したのは、長形四号、白二重封筒だった。表にも裏にも、何も書かれていない。手に取って中身を確認すると、そこには一枚のルーズリーフが折りたたまれて入っていた。

「クロスワードパズルですね」

 タテのかぎ、ヨコのかぎと書かれた下にそれぞれ一、二行の問題文が十一問ずつ並び、その解答を書いてパズルを埋めていくことで、最終的にマスの文字をABCDEの順に並べて出来る言葉を答えるというものだ。そこにはすでに解答が書かれていた。

「アイシテル……なるほど、そういうことですか。手書きですね。筆跡鑑定は出来そうですね。紺野さんは、きっとこの字に見覚えはないですよね」

「ないです。他人の文字なんて、あんまり見ないので。たぶん、あの男の字だと思うんです。でもこれで、警察に行く勇気が持てました。けど、結局私は思いとどまりました。警察へは行かなかったんです。その理由はこうです。このパズルを見つけた後、すぐに解いて家族みんなに相談したら、警察に行こうという話になりました。兄が付いて来てくれることになって、二人で一緒に家を出ました。駅を通り過ぎた向こうに交番があるので、そこを目指して、周りを窺いながら一緒に歩いていました。その時でした、あの男を見つけたんです。あいつやわって私が指差したら、兄は私に駅の改札前で待っててと言ってから、男を掴まえるために走り出しました。陸上部だったので、走るのは早いんです。そしてしばらくしてから、青白い顔で戻ってきました。そして言うんです。あいつは幽霊やって」

 辺りは静まり返った。隣で座る男も、聞き入るように耳を傾けている。紺野真美は続けた。

「兄は、線路と自転車置き場の道をまっすぐ追いかけたそうです。そこはほぼ直線の、二百メートルほどの道です。普通なら、そこで人を見逃すはずがないんです。左は自転車置き場のフェンスで抜けられないし、右は柵があって、線路しかないんですから。そこで兄は、瞬きの瞬間に男がぱっと消えたと言いました。その時、直線でもう目の前の距離まで詰めていたと言います。手を伸ばして、捕まえようとした時だったそうです。右にも左にも上にもいない、下はただのコンクリートです。こんなの、有り得ない。帰ってから話を聞いた両親たちも真っ青になって、悪霊退散とかお札とか、今はそんな本を読んだりしているんです」

 紺野真美は、僕の手を真剣な顔で握った。

「あなたは、幽霊専門家だとお聞きしてます。昔から、普通の人には見えないものが見えるって、きっと辛かったと思うんですけど、こんな風に人助けも出来るんだって考えを改めて活動されているのはすごいと思います。何て言えば分からないけど、やっぱりすごいと思うんです。だからあなたなら、あの悪霊を取っ払ってくれると信じています。一応、これで私の話は終わりです」

 紺野真美は、おおよそこのように話を閉じた。その時、僕が平常心を保てていたかは定かではないが、紺野真美の反応を見る限り、正しい幽霊専門家の振りが出来ていたようだった。男は口を開く素振りは見せず、小さく頷くばかりであった。ちらりと視線を投げかけられて、僕は紺野真美の話を頭の中で咀嚼した。

「分かりました。ありがとうございます。状況は大方理解出来たと思います。一つ質問ですが、きっと仲が良さそうなので、家族とは毎日いろんな話をされますよね、例えば遊びに行ったこと、毎日の学校のことなんかも」

「はい、もちろんします。過保護なので、訊かれますね。明日は友達と何時に待ち合わせてどこへ行くかとか、今日学校は何限にあって何限が休みで何時に帰るとか、サークルのこととか、飲み会は気を付けろとか。大学の入学の時なんて、新歓があるじゃないですか。いろいろ言われましたよ。昔からそうなんです」

「そうですか。最近、他に何かおかしな気配を感じたことは有りますか? 些細なことでもいいんです」

「いえ、特には……そう言えば、兄は彼女でも出来たのか、ここ最近ずっとそわそわしてましたね。よくスマホを見ていて、誰かからの連絡を待っているみたいな。四月から社会人ですから、恋も仕事も応援したいですね。あ、そうだ。先週、確かここからJRで十分二十分くらい乗った駅の近辺で、通り魔事件があったのを知っていますか? 私、その時ちょうど現場近くにいたんです。ちょっとした用事で、事件が起こった踏切を通って向こう側へ行く予定だったんですよ。もう少しで巻き込まれるところでした。危機一髪というか、野次馬の一人でしたし、遠くからであまり見ていないんですけどね。それで、家族たちはもちろんですけど、友達たちもそわそわしていました」

「そうですか。ちなみに紺野さん、今日はどうやって帰るんですか?」

「今日ここへ来ることは母に話していて、車で送ってもらっています。今も下で待機してもらっています」

「お父さんやお兄さんは、このことを知っていますか?」

「いえ。私の家族は、幽霊は信用するのに、幽霊専門家なんて胡散臭いって否定的みたいなんです。ひどいですよね。最初に伝えた母にそんな反応をされてしまったので、二人には言えていません。それでもここまで送ってくれるので、良い母だとは思いますけど、今日もあんまり良い顔をしていませんでした。ぼったくられたらあかんでって言われています。ちなみに、お金って……?」

「当然、そんなものはいりません。解決したところで要求もしませんから」

「良かった。聞いていた通りの良い人で本当に良かったです。実は、大学生以下、社会人じゃない人は無料だって、先輩から聞いていたんです。本当にありがとうございます。よろしくお願いします」

「いえ、まだ僕は何もしていませんから、お礼なんて。ちなみにこのことは、お母さん以外の誰にも言うのは止めて下さい。お母さんにも、そう伝えておいて下さい」

「分かりました。何かあるんですね。理由は聞きません。では、私は帰っても大丈夫ですか?」

「その前に一つ質問が。あなたは今までに幽霊を見たことがありますか?」

「いいえ、全く。友達も家族も、見たなんて人は聞いたことありません」

「はい、ありがとうございました。何かあれば、この先輩を通してお伝えしますから、帰ってもらって大丈夫ですよ。お気を付けて」

 紺野真美は何度も頭を下げて部屋を出て行った。ずっと無言だった男は「じゃあね」と紺野真美に向けて手を振っていた。扉が閉まって、足音が遠ざかった頃になって、やっと男は僕の目の前に座った。余分になった椅子を退かして、顔の前で手を組む。すっかり顔つきが変わっている。にっこりと微笑むと、「どうでしたか?」と問いかけてきた。僕は不承不承言った。

「幽霊がパズルを作れるんでしょうか」

「あくまでも私の見解ですが、幽霊がペンを持てるとは思えません。もし何にでも触れられるとすれば、私たちはあちこちで見えない何かにぶつかっていなくてはいけないでしょう? 幽霊がそこかしこにいる、と仮定した上での話です。あなたは幽霊を信じますか? 見たことがない、そうですね。私と同じです。信じるも信じないも、見たことがないのに言うことは出来ません。それで、あなたはどう思いましたか?」

「その前に一つ、いいですか。僕は幽霊専門家ですか?」

 男は、眼鏡の奥の瞳を揺らめかせてから、手を腹の前で組み直した。

「いいえ、違いますね。あなたからそういう話は、聞いたことがありません」

「なら、どうしてこんなことに?」

「些細な一言だったんです。彼女から相談を受けて、なら知り合いに幽霊専門家がいるから訊いてみてあげようかと言ったんです。正直なところ、私が予想していた彼女の反応は、何それ胡散くさーい、先輩何言ってるんですか――だったんです。あなたが私をどう認識しているかは分かりませんが、これで私がいかほどポップな人間かお分かり頂けるでしょう。その後、詳しく彼女から話を聞いて、真面目に考察してみようと思っていたんです。でも、違いました。ぜひその人にお会いしたい、話を聞いてもらいたい、と彼女は真剣に私の目を見て言いました。そして渋々、私は架空の話をでっち上げたのです。故意ではありません。あなたを騙そうとしたわけでもなく、私にとっても予想外だったことは知っておいていただきたいのです。こんな状況に追い込まれて、あなたがどんな反応をするか気になったのも本音ですが、決して邪な気持ちではありません。彼女を助けたいという一心なのです」

「分かりました。信用しますよ、不承不承」

「それは良かった。そして、あなたはどう思いましたか、この事件の真相は?」

「怪しいのは兄でしょう」

 僕は一言で片づけた。紺野真美の証言だと、その男が消えた現場を見たのは兄一人である。警察に行くとなった途端に幽霊騒動とは、あからさまである。そして結局、警察には行かなかったのだ。男は微笑み、賛同するように頷いた。

「私もそう思います。紺野さんのご家族は大変興味深いですね。兄の話術があまりにも巧みだったとするなら、ぜひ教えを乞いたいものです。どうして兄は、妹を危険に晒す輩を庇うのでしょうか。話を聞いていると、アルバイト先へ迎えにも来る妹愛に溢れる兄のようですが」

「僕は探偵ではなく幽霊専門家ですから、そこは何とも」

「あはは、あなたもなかなかノリの良い性格をなさっているようですね。そういうの大好きです。では、ぜひともあなたとの交流も深めるついでに、謎について考察してみましょうか」

 男は顎に手を当て、宙を見つめて数秒後、話し始めた。

「先週の通り魔事件の犯人ですが、男に金を渡され、ある人物を殺せと脅された、という供述をしていると聞きました。殺せと命じられた、写真で見た若い女性は現場にいなくて、殺さなければ殺されてしまうと錯乱した犯人は、半狂乱になってナイフを振り回したのだとか。あなたは知っていますか? そうですか、けれど犯人は精神疾患だと聞きました。全てが妄想だと判断されそうですね。写真は見つからず、金銭の受け渡しの記録も見つからない、男と連絡を取った形跡もない、の三拍子で証拠は何一つないようですから。私はこう考えてみました。その写真に写っていた若い女性が、紺野真美さんである」

 微笑を浮かべたまま、男は続ける。

「指定された時間に、指定された現場に向かった犯人の時計は、ほんの少し早かったんです。紺野真美が見つからないことにより精神が錯乱、失敗し、何も果たせないまま捕まってしまった。命じた男――つまり幽霊男ですが、彼は金を払い損です。きっと彼は、手際よく証拠を全て消し去っておいたのでしょうね。そして次に、どうしたか。急接近、紺野真美さんの兄に近づいた。そして、脅したんです。誰かからの連絡を待つようにそわそわしていたということですから、それは明らかでしょう」

「不承不承そうだと仮定しますけど、なら彼は、どうして紺野真美を殺そうとするんですか?」

「可愛らしい子でしたからね。好き、嫌い、手に入れたい、殺したい、の気持ちは全ては紙一重だと思っています。次の瞬間に、愛が憎しみへと変わることもあるでしょう。手に入らないなら殺してしまえ、といった感情だったのかもしれません」

「紺野真美は、彼を知らないようでした。接近すらしていないのに、手に入らないなら殺してしまえなんて考えは、僕はないと思います」

「知っている必要がありますか? 一方的な感情だったのでしょう。人間の考え方なんて千差万別、全員が全員、あなたと同じ考え方をするとは限りません。もし同じ考えをするのであれば、世界はこんな風にはなっていなかったことでしょう。男に脅された兄は、恐怖に取りつかれました。このままでは妹も自分も殺されてしまうと思ったかもしれません。何度も妹の前に現れ、恐怖を感じさせるような行動を取る犯人を見て、時間はないと焦ったことでしょう。やはりお前の妹はこの手で殺すことにした。他人に託すなんて馬鹿な真似をするべきではなかったのだ。協力をすれば、妹以外は誰一人殺さないでおいてやろう。結果自分が捕まったとしても、お前のことは一切話さない。お前は罪には問われない。もし勝手な行動を取るようなら、お前の家族も友人も全て皆殺しだ……そんなことを言われたかもしれませんね。そして兄は、妹の行動を逐一送り、男が犯行を起こしやすいよう協力したのでしょう。何度も見かけたにも関わらず、殺されなかったのは犯人のタイミングの問題でしょう。湿気が多いとか、風が強いとか、他人を殺したいと思う人の気持ちは私には理解できませんが、繊細だったのかもしれませんね」

「自分の命のために妹を売ったと?」

「そうですね、彼の名誉のために付け加えると、自分と、妹以外の身近な人間たちのために、でしょうか」

「そんなの信じられません」

「そうですか?」

「兄は、幽霊だと騒ぐことで妹に警察へ行くことを躊躇させ、今も紺野真美の命を狙う犯人に協力しているということですか?」

「そうですね」

「それなら、紺野真美が危険じゃないですか」

「そうですね、危険です」

「どうにか手を打つんですか?」

「そうですね、今日中には」

 僕は男の真意を読み取ろうと躍起になって観察と研究を繰り返したが、結局分かったのは不敵な微笑みだけであった。

「ありえません」

「私は、ありえないことなんて世の中にほとんどないと思っています。絶対なんて言葉は空想上のもので、百パーセントの確率なんてない、と。人の考え方なんて十人十色ですからね」

「……これから何をするつもりですか」

「あなたにご助力願うことはないでしょうから、気を揉んでいただく必要もありません。またこちらからご連絡差し上げますから、ご安心下さい。きっと、悪い事にはなりませんよ」

 立春を迎えた二月と言えども、気温を見ればまだまだ冬と言ってもおかしくはない季節にもかかわらず、男はずいぶんと陽気であるようだった。つまりそれがどういう意味を示すのか、はたまた裏、あるいは裏の裏の、と僕は気を揉むどころか深く深く長考せざるを得なかった。

 ちなみに、その日の僕のメモには、胡散臭い話、とうてい信じられない、きっと一つも当たってはいない、と散々でぶっきらぼうな字が残っている。あの人と出会ってからは毎日のようにメモのような日記を付けるようになっていたが、そんな風に納得しきれない字を書いていた日はそう多くはない。隅には、眠れない、今日は連絡はなしか、明日は、と不安そうな文字も連なっていて、その夜、僕は強がりながらとてつもない不安に襲われていたことを覚えている。

 話を戻そう。

 会話を終えて不承不承僕と男は部屋を出ると、僕はそのまま歩いて駅まで見送られた。振り向いた時の男の顔は至って温和で、僕は小さく頭を下げただけだった。電車に揺られて家に帰り、一人の友人から連絡があったことだけは確認したが、何度見てもあの人からの連絡はなかったのである。

 よく眠れないまま、翌日のことである。朝八時、あの人から呼び出しがあった。僕は即座にそれに応じて、十二時に例の通り魔事件が発生した踏切へ向かった。そして、着くなり背中から肩を叩かれた。

「こんにちは。とりあえず、そこのベーカリーカフェに入りましょう。紺野真美さんの事件の真相について、お話します」

 自称、春から新大学生の、フリルとレースがあしらわれた白いワンピースに身を包み、ヘッドドレスを付けた女性は、僕の袖を取って颯爽と前を歩き出した。辺りを警戒する様子だった。僕はやはり、同一人物には見えないためにじろじろと無礼な視線をぶつけていたはずだが、女は穏やかに笑うばかりだった。さすがに二度目、事情も聞いた後では、「どちら様ですか?」とも言えなかったのである。

「お、カツサンドですか。いいですね、私も好きですよ。カツサンドと飲み物にしたんですね。私は、店前に書かれていたあのセットにしましたよ。サラダとパンと飲み物で六百円程度なら大満足です。お、あなたは、アボカドは好きですか? そうでもない、そうですか。クスノキ科の高木、またその果実のことですよね。脂肪に富み、森のバターと呼ばれているんでしたか。こんな風にサラダにはもちろんですが、醤油と食べても美味しいですよね。あまり食べませんか、そうですか。アボカドと醤油は良いものですが、あなたはプリンに醤油をかけたことはありますか? ウニの味がするというのは有名ですよね。ええ、私も食べたことはありませんよ、気が合いそうですね。日本人たるもの、醤油というならお刺身にかけて食べたいものです。マグロはお好きですか? そうですか。魚と言えば、和歌山に行った時に鯛茶漬けを食べましたが、やはり美味しかったですよ。海が近いですから。良いですよね、ただ海が近いというのはメリットだけではありませんから。なんて、そう言いつつも、どこに行っても住めば都になるかもしれません」

 席に着き、店員が運んできたトレーを受け取ってそんな話をすると、女は顔の前で手を組んだ。

「先に食べますか、後に食べますか」

 柔和に微笑んで問いかけてきたので、僕は即座に答えた。あの後何が起こったか、結果について今すぐにでも聞きたい気持ちは山々であったが、そんな気持ちを相手に悟られるのも気分が良くはなかったし、腹が減っては戦は出来ぬという言葉もある通りである。

「先に食べます」

 僕の返答を予期していたように、女は即座に頷いた。

「そうしましょう。では、しばらく黙っていますから、思い存分カツサンドを味わって下さい。食べ終えた頃に話を始めましょう」

 それから女はすっかり黙り通した。二人で無言で食べ終えて、女が丁寧に指を拭き、僕が姿勢を正した頃、やっと話は始まった。

「昨日、あなたと別れてから、私が向かったのは紺野真美さんが通う大学でした。兄もそこへ通っていました、と言うのが正しいでしょうか。二月なんて、卒業論文も終えた学生にとっては卒業してしまったも同然ですから。しかし、卒業式はまだですね。兄も同じ大学に通っていて、三月に卒業式を迎える予定なのです、が最も適切でしょうか。そこで、私は兄に接見しました」

「待ってください。兄がどこにいるか、知っていたんですか?」

「偶然ですよ。たまたまです。そして、私は言いました。妹さんを、怯えさせたままで良いんですか? と。すると兄の顔色が変わりました。私が全てを見抜いていると思ったのでしょう。怯えさせるつもりはなかったんだ、あんな男に貸しを作ってしまった自分が馬鹿だった、と頭を抱えてしまいました。兄が話した一部始終を、なるべく彼の口調で話してみましょう。


 真美のことはほんまに大事な妹やと思ってんねん。変な奴になんか絶対渡さへん。真美が結婚する相手は高身長高収入で人当たりも良くてイケメンしか許さん。なのに俺の友達が、たまたま学校で見かけた真美を可愛い可愛い言い出して、そりゃ俺の妹は世界一可愛いわって言ってたら、付き合いたいだとか協力してくれへんかとか言い出して、いや無理やわお前イケメンやし高身長やけど高収入じゃないしって言ったらこれから高収入になるわって言って、まあ人当たりも良いけども四年間付き合った友達やで? たぶんこれからも友達やで? そんな友達が妹と結婚? 絶対無理やろ考えられへんってなるやん。そしたらあいつ、単純接触効果とかいう、心理学やっけ? そんなことを言い出して、いやいやそんなん無理やって、真美はお前なんか眼中にないって言ってたんやけど、ある時俺財布忘れてな、喫茶店で立ち往生してん。どうしようってなって、俺はあいつに連絡してしまった。そしたらあいつ、急いでタクシーにまで乗って来てくれて、俺の代わりに金払ってくれてん。で、後からタクシー代もまとめて返すわってなったら、返さんでいいって言うねん。いやいや友達やっても返さんわけにはいかんって無理に押し付けようとしたんやけど、そしたらあいつ呟いてん。単純接触効果って。その時の俺の気持ち分かる? うわあ、これ協力しなあかんやつやって。それからしぶしぶ、あいつに協力することになってん。お前、クロスワードパズルのことは知ってんの? そうか、いやあれな、俺とあいつで必死に考えてん。凝ったやり方で告白したいって言うから、パズルなんてどうやってなって。めっちゃいいやんって、その時はほんまにそう思っててんけど、そういえば俺って恋愛に関してはずっと失敗してきてた。もうちょい前から好きな子が出来て、連絡来るかなとか思ってそわそわしてたけど、結局あかんかったし。いやな、最初、真美が言う不審者があいつやとは思ってなかってん。ほんまやで? 気付いたんは、真美からパズルの相談受けて、一緒に警察に行こうってなった時や。それまでほんまに思わんかってん。普通にマジもんの不審者やと思っててん。パズル解いた真美の顔見た時の俺の気持ち分かる? 警察行こうってなった時の気持ち分かる? あいつやわって、真美が指差す相手が俺の友達。その時の俺の心境分かる? こりゃあかんって感じや。あいつ何やっとんねんって、そんで俺は怒りの全力疾走や。いや、他人のせいにばっかしたらあかんな。俺も悪かってん。でもな、その時はやっぱりこう気持ちがカーっと高ぶってな、あの時はほんまに全部があいつのせいやって思ったんや。あいつ、俺のマジギレ見たことなかったからか、逃げよんねん。元陸上部の俺から逃げられると思うんがアホやわ。すぐ追いついてどついたったわ。何とか幽霊のせいってことにして収めたるから、お前は二度と真美に近づくなって。未練たらたらやったけど、詳しいことは後で話すって言って追い払って、何とか収めた。いやま、俺も悪かったのは知ってんねんで? 後で言い過ぎたってあいつに謝ったわ。でもな、あいつ、単純接触効果のやり方まずすぎやろ。見た目はけっこうイケるんやけど、何で彼女出来ひんのかなって思ってた理由がはっきりしたわ。悪い奴じゃないのは知ってんねんけど、アホか。あいつはアホか。俺もアホか! ごめんな真美!


 そして土下座でした。どうでしょう、迫真の演技だったと我ながら思うのですが」

「…………良かったと、思います」

 あの人のためにも書いておくと、声は女、見た目も可愛らしい女にも関わらず、そこに僕が会ったこともない、大学四年生紺野の姿が見えるようだった。迫真の演技どころか、その人そのものに見えたのである。僕が見ていないはずの現場を、今まさに目撃しているようであった。もしあの人にその気があれば、大女優になれたことだろうとやはり僕は今でも思うのである。

「そうでしょう? そして私は兄へ言いました。真美さんはあの人を幽霊だと信じきっています。今日、幽霊専門家だと嘘ぶいている私の友人に相談をして、すっかり除霊してもらえると信じているので、余計なことは言わずにおいて下さい。除霊は無事に終わったと私から伝えておきますと。言うまでもないですが、幽霊の彼にはその旨を伝えて真美さんを諦めるように説得して下さいと」

「昨日の考察は、いったい何だったんですか」

「面白かったでしょう。スリリングでしたよね。私はとても楽しかったですよ」

 女はにっこりと微笑み、店内を見回した。

「現実なんてこんなものです。事実は小説より奇なりと言いますが、私はそうは思っていません。小説の方が、ずっと奇抜で大変興味深い事件が起こりますから。私の人生経験が足りないと思われますか? そうですか、そうですよね。さて、どうでしょう? 紺野真美さんには明日、お祓いをしたから心配することはもうないと伝えておきますから、これから二人で私の部屋に行って、コウテイペンギン鑑賞会でも開きましょうか?」





 最後に、一応の補足をしておこうと思う。大学三年生になった紺野真美は、偶然、その後一流企業と呼ばれる会社に就職して働いていた幽霊騒動の彼と出会い、驚き、全ての真実を知った後に交際を開始したそうで、大学を卒業後、彼女が民間企業へ就職して数年が経った後、五年近くの恋を実らせ結婚、今は一児の母となっていると、風の噂で聞いた。

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大学生紺野真美事件とその考察 糸坂有 @ny996

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