22 虎にさえなれない(1)

 望まずして美夜と言い争うような結果になってしまってから、数日。

 今の俺が美夜のことを好きなのか嫌いなのか自分でもわからぬまま、気が付けば文化祭の当日を迎えていた。

 泣いても笑っても後悔は後の祭り。いよいよ劇の本番だ。

 ちゃんと仲直りすることができずにいる美夜のことを含めて、懸念が何もないわけではないけれど、脚本を考える担当者としては昨日までが本番みたいなものだった。あとは練習通りに演じるだけとなった当日に残された仕事はなく、全員がベストなパフォーマンスを発揮できるよう裏方から劇の成功を見守るだけだ。

 問題と言えば、満足のいく終わり方を最後まで思いつけなかったのが心残りではあるものの、これまで練習を続けていた仮の台本のままでも不満や文句は聞こえてこなかったので、脚本の仕事は十分に果たしたと言えるだろう。

 百点満点ではなくても、及第点だ。


「さあ、みんな! いよいよ本番だよ! 今日は頑張ろう!」


「おー!!」


 ちょっと長めの後ろ髪をくくってポニーテールにした文化祭の実行委員である女子の掛け声に合わせて、みんなが元気よく腕を振り上げた。場に似合わず浮かない顔をしているのはクラスでも俺一人くらいなもので、みんなのモチベーションは高い。

 美夜はどうだろうか……。

 不意に彼女の様子が気になって視線を向けたけれど、うつむき加減の美夜はこちらに顔を向けていなかった。ただの偶然かもしれないけれど、そうされるのは今日だけのことではないため、やはり意図的に俺を避けているのかもしれない。

 寂しさはある。

 でも、ふとしたきっかけで致命的に嫌い合ってしまうよりは、そうならないために最初から距離を置いていたほうがいいのだ。永遠にすれ違ってしまうくらいなら、可もなく不可もなくクラスメイトの一員として、ほどほどの友達関係でいられた方がずっといい。

 無理して声を掛け合わなくたって。

 そこにいてくれさえすれば。

 ……とにかく、今日は一時的であれ悩み事は忘れて、文化祭に集中して過ごそう。


「さて、どうするかな……文化祭に集中するって言ってもな」


 事前に配られていた文化祭全体の予定表によると、劇の開始は午後からとなっていた。それまでは練習や準備を挟みつつ、どこで何をしていてもいい自由時間である。

 もしも普通に挨拶を交わし合える関係のまま今日を迎えていたら、喧嘩するでもなく美夜と楽しく文化祭を見て回ることができたのかもしれない。お互いが自然と笑顔になって、大切な思い出を刻めたかもしれない。

 いつも元気がいい高杉や野村に誘われても美夜がいないとわかると乗り気ではなくなり、いくら退屈でも一人で遊ぶ気力はない。

 文化祭特有の楽しげな雰囲気に学校中が包まれている分だけ、自分だけが孤独な世界に取り残されたような気分だ。

 どこを見るでもなく、退屈そうな表情で教室の壁に寄りかかっていたら、どこかから戻ってきた志賀さんに声をかけられた。


「武虎君、美夜ちゃんのこと見なかった? 朝は一緒にいたんだけど、いつの間にかはぐれちゃって。今どこにいるか知らない?」


「いや、知らないな……」


「そっか。ごめんね、見つけたら教えて」


「そうするよ」


 あえて断ることでもないので快く頷いたものの、どうせ俺なんかの力では彼女の役には立てないだろう。探す気力がないのではなく、あいにく美夜の姿は俺も見ていないのだ。なんだかんだと気になって彼女の姿を常に探してはいるのだが、どこにも見当たらず、志賀さんと同じく朝に一度だけ見たきりで終わっている。

 まさか勝手に帰ってしまったわけではないと思うが、仲のいい友達である志賀さんや閨崎さんの前からもいなくなったということは、徹底的に俺から距離を置くことにしたらしい。

 やはり嫌われてしまったのだろうか。

 それとも好きでいてくれるからこそ自主的に距離を取っているのだろうか。

 どちらでいてほしいのか、俺にもよくわからない。


「はあ……」


 何事もなく終わってくれれば、今日はそれでいい。

 もっと言えば、これからの人生さえも。

 紆余曲折があって劇的な結末を迎えるハッピーエンドもバッドエンドも、フィクションだけで完結する物語の中だけで十分だ。現実の人生に波乱などいらない。何かを成し遂げたところで拍手喝采もいらない。

 自分を含めた周りの人間が誰一人として無理をしないで済む過不足のない配役と、無難過ぎてつまらないくらいの脚本でいい。

 時間の経過に伴って四季が巡るように、ほどほどの変化を楽しみながら平穏無事に人生を送れたら……。

 主役になれずとも、ヒロインが不在でも、破綻なく終幕を迎えられさえすれば。

 そう考えるのに、この名状しがたい寂しさは何だろう。

 胸にぽっかりと穴が開いたような、この喪失感と痛みは何なのだろうか。


「武虎君、そろそろ劇が始まるよ。そんなところでぼーっとしてないで、急いで体育館に行こう」


「あ、うん。そうだね」


 いよいよ劇の本番だ。

 自分の出番が近づいて緊張してきた様子の志賀さんに呼ばれて、開始の時間に遅れまいと俺も一緒に体育館へと急ぐ。急いだところで誰も俺を必要とはしないだろうが、無責任だと思われかねないので開演に間に合わないのはまずい。

 すでに脚本の仕事は終わっている。あとはなるようにしかならないのだ。

 もはや観客の気分で体育館に向かった俺だったが、そこに集まっていたクラスメイト達の様子がおかしかった。


「えっ、嘘! それって大問題じゃない!」


 みんなの話を聞くや否や、驚いて目を丸くした志賀さん。

 その反応から、ただ事でないことはわかる。


「どうしたの? 何か問題が起きたみたいだけど」


「そ、それがね……」


 おろおろと焦った様子の志賀さんから詳しく話を聞いてみれば、なんと主役の少年を演じる野村が頭に被る予定だった虎の被り物が見つからないらしい。

 人間の少年が虎に変化してしまう物語であるだけに、虎の被り物が見つからなければ話が破綻しかねない大問題だ。


「武虎君、どうしよう!」


「え、えっと……」


 先ほどから全員で手分けをして探しているものの、まったく見つかる気配がないという。

 つまり、このまま開演時間までに見つからなかった場合の対処法を今すぐに考える必要がある。

 これでも脚本チームのリーダーであるだけに、最悪の場合には変更する必要がある脚本のことを心配して、近くにいた全員の視線が俺に集まっていた。

 実際、このままでは劇が破綻してしまう。そうならないためにも、現在のストーリーを組み立てた脚本の責任者である立場から、何か意見を出す責任はあるだろう。

 突然の重圧に頭が痛くなりつつも、必死になって知恵を絞り出す。


「そ、そうだね……。さすがに素顔のままだと無理があるから、とりあえず野村には大きめのタオルを頭からすっぽり被った状態でステージに出てもらおう。虎になった顔を誰にも見られたくないということにして、しばらくはそれで乗り切ってもらうしかないと思う」


「なるほど、それなら一時しのぎにはなるかも! その間に私たちは捜索を続けるんだね」


「だけど、いつまでも虎の被り物が見つからなかったらどうするの?」


「もし最後まで虎になった顔を見せないとしたら、劇の脚本や演出はこのままでいいのかな!」


 志賀さん以外のクラスメイト達が集まってきて、寄ってたかって次から次へと俺に声をかけてくる。文化祭の準備期間を経て彼らとも最低限の信頼関係を築くことができたとは思うので特別な苦手意識はないけれど、その信頼感が原因なのか、脚本を担当した人間としての俺に緊急事態への対応を求めている。

 アドバイスを求めて志賀さんに顔を向けてみるも、彼女はこちらの視線に気づかず深刻な表情で手元の脚本を覗き込んでいた。虎の被り物が見つからなかった場合でも彼女は舞台に出ていかなければならず、劇の本番が間近に迫った今、考えるのは自分のことだけで精一杯なのかもしれない。

 こんな状況でも逃げずにヒロイン役としてステージに立とうとしてくれているのだから、ただでさえ負担の多い演者である彼女に頼ってばかりもいられない。こういう時こそ裏方の俺たちが頑張らねばなるまい。

 そうは思うものの、まるで予想していなかった不測の事態を前にして、これだという完璧な対応策が簡単に思い浮かぶわけもなかった。

 ここはどうしよう、あれはどうしよう、こんな時はどうするの、といった疑問や心配事が続々と雪崩のように降りかかってくる。

 ここしばらくは美夜のことを気にして精神状態が万全ではなかったこともあり、途中からは相槌さえうまく打てなくなっていた。

 まるで責められている気がしてくる。

 うまく対応できない自分が情けなくなってくる。

 そこへ、今の今まで虎の被り物を探し回って体育館を離れていたらしい文化祭の実行委員が戻ってきた。


「みんな! 武虎君は今日まで頑張ってくれたんだもん! 彼だけに任せようとするのはおかしいよ!」


「そうそう、私たちみんなで力を合わせて、脚本のどこをどう変えたらいいのか考えましょう」


 彼女に続いて現れたのは閨崎さんだ。クラスでもリーダーシップがとれている二人が声をかけると、困った表情で俺を取り囲んでいたクラスメイト達も気合を入れ直した。

 自分たちは脚本の作業に無関係だと遠くから見守っていた大道具や衣装担当なども積極的に加わって、それぞれの脚本を片手に意見を出し合い始める。

 あれよあれよとクラスは大きく二分され、トラブルに対処して大急ぎで脚本を修正するチームと、劇が始まるまで各所を走り回って虎の被り物を探すチームに別れた。当然ながら俺も脚本チームに加わったが、積極的に口出しをせずとも全員が協力し合うことで修正は進んでいった。


「駄目! やっぱり見つからないみたい! このまま開演するしかないよ!」


「わ、わかった! こ、こうなったら僕の演技でなんとかするよ! うん!」


 ぶるぶると露骨に声が震えていることからもわかるように、頼もしい言葉とは裏腹に野村は完全に緊張してしまっている。ただでさえプレッシャーが大きい主役を任されているのに、演技のために必要な虎の被り物がない状態でステージに出て、顔が虎になった少年をやらなければならないのだ。

 その不安と緊張は並大抵のものではないだろう。

 しかし準備や作戦会議のために引き伸ばせる時間はもう残されていない。幕が上がれば否が応でも舞台に出てもらうしかない。


「よ、よし! 心が虎になった気分でやればいんだ、よし!」


 そして俺たちの劇が始まった。

 野村が演じる主役の少年は中学生のころから何をやっても一番で、自分が天才だと自惚れていた地方出身の人間だ。しかし意気揚々と進学した都会の高校で実は自分が凡人だとわかり、初めてにして最大の挫折感を味わう羽目になる。

 肥大化した自尊心が原因で顔だけが虎になり、人目を気にして都会にはいられなくなり、いそいそと地元に逃げ帰ってきたというストーリーである。

 虎になった少年が様々な人を巻き込んで騒動を起こすのだが、肝心の虎の被り物がない。

 そこで、ひとまずは「虎になった自分の顔を見られなくない」という展開で劇を進めることになった。


「ほらほら、虎になったっていうんなら顔を出せ!」


「嫌だ! 君たちを食べたくなってしまうから!」


 もともとがコメディ主体の脚本であったため、その場その場でアドリブを含みつつ、全員の意見を取り入れながらセリフを調整していくことで、劇はなんとか無事に破綻なく進行していった。

 しかし、さすがに最後までそれで通すのは難しい。

 とはいえ、今から大幅にラストを書き換えるのも難しい。


「ここはこうしたらいいんじゃないかな!」


「だったらここはこうしよう!」


 剣や魔法といった武器を持たずに素手のまま魔王退治へ向かうような状況で、クラスの劇が台無しになりかねない大ピンチであるはずなのに、突発的なトラブルに対処するため団結した全員が一丸となり、むしろ生き生きとしているように見えてくる。

 出航時点ですでに沈没しかかった船に乗り、船底に空いた穴を板でふさぎつつバケツで水をすくい出すような航海をしながら、一番近い場所にある港を目指す。そんな気分で再構成されていく劇ではあったが、完璧とは言えないまでも事情を知らない観客からの反応は悪くなく、このまま乗り切れそうに思えた。

 だが、結果的にそうはならなかった。

 終わりが近づいてきて油断したのか、野村がうっかり頭に巻いていたタオルを落としてしまったのだ。

 虎の被り物がないせいで、劇の進行上では虎になっているはずの野村の顔がさらけ出される。


「に、人間……!」


「違う、虎だ! 僕は虎なんだ!」


 そう叫んだ野村は覚悟を決めて大きく頷く。

 人間であることを認めてしまっても、頭が真っ白になってセリフが出てこなくても、みんなが練習してきた当初のラストとは変わってしまい、収拾がつかなくなった劇が終わり方を見失って最悪の展開になりかねない。

 そう考えたらしい野村はその場で四つん這いになって舞台上を駆け回り、顔は人間のまま、虎になった演技を続行した。躍動感たっぷりに四肢を使ってテーブルに飛び乗って、野生の虎もかくやと「ガルルルル!」と吠える。

 タオルを落とした自分のミスが原因で劇を破綻させてなるものかと、窮地に追い込まれた本人が一生懸命かつ生真面目に凶暴な虎を演じているだけに、それが逆説的にコメディのワンシーンに見えたおかげで観客の笑いを誘った。

 まるで最初から予定されていたかのような演技だ。観客の誰も展開を疑わず、おかげで最悪の展開は免れた。

 しかし、このままでは野村が暴れるばかりで幕を下ろすことができない。

 どう落ちをつければいいのかわからず、ステージ上に立つ演者の全員が唖然とする中、ここは自分の出番だと判断したヒロイン役の志賀さんが動いた。


「あなたは虎になってしまったんじゃなくて、人を恐怖させる虎になりたがってるだけなのよ」


 そう言って彼を優しく抱きしめたのだ。

 自分が虎になったと思い込んでいた少年をなだめ、幼馴染の少女が優しく受け入れる、ひとまずのハッピーエンド。

 熱烈なキスシーンというほどではなかったが、ファミリー向けのドラマでよく見る程度のラブシーンのように、少年少女が抱き合って終わる劇は想像以上に盛り上がって幕を閉じた。

 体育館には拍手が響き渡り、俺たちのクラスは絶体絶命の危機を乗り越えた安堵感と達成感に包まれた。

 そこへ、慌ただしい足音を響かせながら一人の少女が駆け込んでくる。


「みんな! こ、これ!」


 大事そうに虎の被り物を抱えた美夜だ。

 息を切らして肩を上下させながら、言葉がうまくまとまらないまま、慌てて口を開く。


「どうやら私たちの前に出番があった仮装バンドの荷物に紛れ込んじゃったみたいで、けれどその人たちが虎の被り物だけ別の場所に落としちゃって、それを小学生の男の子が拾って遊んでたらしいんだけど、遊び終わったら自分のカバンにしまっちゃったみたいで……。放送で呼びかけても聞こえなくって、みんなで手分けして声を駆け回って、ようやく見つけたんだけど……」


 気まずそうに視線を逸らす彼女。


「ごめん、武虎。間に合わなかった。あんなに頑張ってた武虎の脚本を台無しにしたくないって、急いだんだけど……」


 髪が乱れて汗が上気しているのを見ればわかる通り、劇の間もずっと一生懸命に探し回ってくれたのだろう。

 それがわかるからこそ、俺はもちろん、クラスの誰も彼女を責めはしない。


「いや、いいんだ。劇は成功したから。……な、みんな!」


 あえて明るい声で振り返って問いかけると、みんなは笑顔で頷いた。

 今にも泣いてしまいそうな美夜に気を遣っているのもあるだろうが、それ以上に、絶体絶命の大ピンチを迎えていた劇が成功したことを喜んでいるのだ。

 むしろ、想定外に素晴らしいラストを迎えられたので、劇が終わるまでに見つからなくてよかった。

 この場にいた誰も口には出さなかったけれど、もとの脚本よりも面白かったと言われているような気がしたから。

 これから後夜祭やクラスの打ち上げがあると言うが、そこに俺の居場所はない気がして、文化祭の終了を待つ前に一人で学校を出た。

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