20 おはようと言い合える関係(5)
放課後、誰もいなくなった教室にて俺と美夜は深刻な顔で向かい合っていた。
「美夜が昨日、あんなこと言うから……」
「だからごめんだってば」
手を合わせて謝ってもらっても、そう簡単に許せるような問題ではない。こちらとしても本気で怒っているわけではないが、シーソーを傾ける危険行為だったからだ。
……恋をするならあなたがいい。
あまり大げさに捉えないようにしようと頑張ってはみたものの、そんなことを言われて平然としているほうがおかしいのだ。恋愛感情そのものではないとしても、それにつながる感情が美夜の中にあるのだと思うと、昨夜は危うく俺も好きになるところだった。
というか絶対になったと思った。
そのせいもあり、今朝は美夜に嫌われているんじゃないかと不安で仕方がなかったのである。
ごめんごめんと何度か頭を下げた後で、釈明するように美夜が口を開く。
「今の私、別に武虎とキスをしたいとか付き合いたいとか、そういうことを考えているわけじゃないの。でも好きじゃないかっていうと、そういうわけでもないと思うのね。仲のいい友達として一緒にいたいと思っているし、かけがえのない幼馴染として嫌われたくないとは思っているんだよ」
「ふむ……。落ち着いて考えてみると俺も同じようなものだ。今の俺を支配している安心感は美夜と友達でいられることに対してであって、燃えるような恋心が原因じゃない」
つまり、お互いの発言を信じるなら、どちらにもシーソーは傾いていない。
平穏だった昨日までと同じく、うまい具合にバランスの取れた友達関係が続いている。
しかし、それは不思議な気もする。同じく不思議がっているらしく、納得がいかない様子の美夜も眉をひそめた。
「どういうことだろう? ラブシーソーが終わっちゃったってわけじゃないよね? 確かに私には恋愛感情と呼べる好意はないのかもしれないけど、武虎に嫌われたくないって気持ちは確実にあるんだよ。それに、昨夜は本気で武虎のこと……」
「その前に確認しておきたいことがある。それは本当に恋愛感情だったのか?」
「え?」
「おっと、すまんすまん、どうか勘違いしないでくれ。別に美夜の気持ちを疑っているわけじゃないんだ。でも、もしかしたら俺たちは恋心ではなくて、友達や幼馴染としての友情を熱くしただけなのかもしれない」
「私の気持ちを疑っているわけじゃないなら誤解や勘違いをせずにおくけど、要するに武虎は何が言いたいの?」
あからさまに喧嘩腰とまでは言わないが、文句の一つくらいは出てきそうな不満そうな気配は見える。
ここで無神経な発言や下手なことを言ってしまえば、ほぼ間違いなく俺たちの関係が悪化してしまうだろう。
こちらの考えや思考を誤解なく伝えられるよう、慎重に説明する。
「こう考えてみると納得がいくんじゃないか? あくまでも現象が左右しているのは俺たちの恋愛感情であって、友達や幼馴染としての好意は関係ない、と」
「私たちの恋愛感情だけ……。じゃあ、恋人じゃなくて友達や幼馴染としてなら、どんなに好き合って仲良くしても大丈夫ってこと?」
「今の落ち着いた関係を見るに、どうやらその可能性が高そうだ。いわゆるライクではなくラブの感情、要するに恋愛感情を抑えることさえできれば、たぶん俺たちは親密で唯一無二の親友にさえなれる。友達の一線を超えて恋人の関係になりたいと、ほんの少しでも考えなければな」
ラブシーソーというだけあって、現象に関係するのは恋愛感情だけだとすれば。
友達や幼馴染として仲良くする分には影響がないのかもしれない。
一寸先さえ見通せない暗闇の中で一筋の光が見えたのか、希望的観測が混じった俺の推察を聞き終えた瞬間、ぱっと顔を輝かせた美夜が嬉しそうに手を合わせる。
「それが本当だとしたら、すごくいい知らせじゃない? 天使に与えられた試練の攻略法かも」
「それを超える悪い知らせが一つある。昨夜の俺たちがそうであったように、友達や幼馴染として相手に感じている好意は簡単に恋愛感情へ発展するんだ。友達の延長線上に恋人があるのかはわからないけど、とにかく、どちらかが相手を恋愛対象として少しでも好きなってしまえば、この関係性は明日にも終わってしまう」
昨夜はお互いに相手に嫌われたくない一心で、ぎりぎりのところで恋愛感情を抑えられていたのかもしれない。
友達として、幼馴染として、あくまでも恋愛感情ではない「普通の好意」すなわち「友情」が胸を熱くしていたのだ。
一度は嬉しそうな反応を見せていただけに、水を差された気分なのか美夜が不服そうにする。
「でも、どうなの? そんなに怖がる必要がある? よく一緒にいる友達や幼馴染だからって、みんながみんな恋仲になるわけじゃないでしょ?」
「そりゃそうだけど、少なくとも俺にとって美夜は普通の友達じゃないんだ。ただの幼馴染で終わるとも思えない。俺たちの間には楽しい思い出がありすぎるんだよ。つらい記憶やすれ違いもあるけれど、結局は乗り越えてきてしまったからな」
「……すぐにでも好きになりそうってこと?」
「そういうことだ。今、この瞬間、いきなり好きになったっておかしくはない」
情けなくとも、強い確信にも似た予感がある。
ということは、やはり、もう一つの可能性を考える必要があるだろう。
「あるいは、昨日の夜、俺たちの胸を襲っていたのは本当に恋愛感情だったのかもしれない」
「……私はそっちの可能性の方がしっくりくるかな。気持ちが落ち着いている今は別としても、昨夜の苦しみが友情だけだったとは思えないもの」
彼女の気持ちを正しく推測することはできないが、大げなことを言っているとは思えない。
実は俺もその方が真実に近いと感じてはいるのだ。
でなければ、今朝もあんなに不安がることはなかった。
「そうだった場合、可能性として考えられるものが俺に一つある。昨夜はちょうど俺たちの気持ちが同じレベルで釣り合っていたのかもしれないってことだ。どちらも同じ熱量で相手を好きになりかけていたから、一日の終わりに感情が操作されるとき、どちらへもシーソーが傾くことなく、二人とも平等に恋愛感情がリセットされたのかもしれない」
「え、だったら……」
ラブシーソーがどちらにも傾かず恋愛感情が二人ともゼロにリセットされるだけなら、好きになることを必要以上に恐れる必要はないんじゃないか。
そう言いたげな美夜だったが、その意見に賛同することはできない。
「でもそんなのは偶然だ。たまたま一度うまくいったからといって、何度も同じことがやれるわけじゃない。いつか必ずどちらかの恋愛感情が相手を上回る。少しでも上回った瞬間、馬鹿げたラブシーソーが俺たちの感情を操作する」
お互いに相手を好きになってはいけないと、恋心に対して本気でブレーキを踏めていたからとどまれたのだ。
一度こうして成功体験を覚えてしまえば、次からは本気でブレーキを踏めなくなる。
幸運や偶然を期待してしまう。
今までの俺たちは友達に戻れた嬉しさが大きくて、それよりも大きくなろうとする恋心を誤魔化せていたに過ぎない。
対策がいる。
理性だけではどうすることもできない俺たちの感情をとどまらせる、優れた対処法が。
顔の半分を隠すほど大きくて分厚いマスクをするみたいに口元へと手を当てながら、あらゆる感情を抑えつつ美夜に提案する。
「この関係を一日でも長続きさせるためにも、近すぎず遠すぎずの距離まで俺たちは離れていたほうがいいかもしれないな」
「……どういうこと?」
「クラスメイトの距離感で過ごすんだ。毎日顔を合わせて親しく言葉を交わし合うような友達の距離感はまずい。楽しく話せば相手のことを好きになる可能性があって、ちょっとした言葉の行き違いで喧嘩になってしまう危険性だってある。好きにも嫌いにもならないように気を付けながら自発的に交流を減らして、あまり積極的に関わらないようにするんだ」
我ながら名案だ。現状で考えられる中では、最も現実的な方針だろう。
シーソーを傾けない一番の方法は、どちらもシーソーに乗らないことだ。天使の現象から逃れられない俺たちの場合、それはお互いに距離を置くことで達成できるかもしれない。
「それは嫌い合っているのと何が違うの? 嫌いになることを恐れて距離を置くのって違うと思うよ。好きになったら嫌われてしまうからってさ、最初から心の距離を離しておけば安心って話にはならないよ」
「お互いに嫌い合っているのとは全然違うだろ。嫌いだから距離を置くんじゃない。嫌われたくないから距離を置くんだ」
「だから、それは、嫌い合って距離を置いているのと何が違うの?」
「心が違う」
「そうかもしれないけど……それは嫌だよ。せっかく言葉を交わし合える仲になれたのに、壊れるのが怖いからって自分たちから距離を置くだなんて」
美夜の気持ちはわかる。それが間違っているとも思わない。
俺には俺の考えがあるというだけだ。
少しでも理解してくれることを願って、心からの説得を試みる。
「いいか、ここは冷静になって聞いてくれ。友達でいられる関係は少しでも長続きさせるべきなんだ。そうじゃなきゃ、二度と普通に会話することもできなくなってしまう」
「武虎、考え直そう。私が長続きさせたいのは、この関係性なんだ。そんなどうでもいい関係性じゃない」
「美夜こそ考え直してくれ。どんなに貴重な関係性でも、失ったら意味がないんだ。なら失わないための努力が必要だろ?」
「だけど……」
「わかってくれ。これは必要な処置なんだ」
あたかも言い合いのような展開になってしまったが、これは喧嘩ではない。お互いの将来を左右しかねない大事な話し合いだ。
今の俺たちに恋愛感情などなくとも、大切な友達として同じものを共有してくれている美夜なら、わかってくれる。
こちらが譲歩するつもりは一切ないくせに、勝手に期待してそう思っていた俺だったが、悲しそうな顔をする美夜は首を横に振った。
小さいながらも、はっきりとした声でつぶやく。
「そうか。そうなんだね、わかったよ。今の今まで自覚は全然なかったけど、いつの間にか私は好きになってんだ。ほんのちょっぴりかもしれないけどさ、シーソーを傾けさせちゃってた」
「……美夜」
「でも武虎は違うんだ。口を利かないレベルで嫌ってはいないけど、いつもそばにいたいほど好きにもなってない。ただの友達じゃない、単なる幼馴染じゃないって口では言いながら、ちっとも特別な存在には思ってくれてない。離れても平気そうな顔をしている。どうでもいいって感じ始めてる。少しずつシーソーが悪いほうに傾きつつある」
「違う。美夜のそばにいたくないわけじゃない。特別な相手だから嫌われたくないんだ」
「それは私もそうだけどさ、でも……」
「でも、じゃなくてさ、わかってくれよ! いつも近くにいたら好きになるだろ! 気を付けていれば大丈夫って、理性で感情が制御できるものでもないだろ!」
そこまで言ってしまってから、熱くなりすぎたことを反省するように美夜から顔をそらした。
何を言えばいいのか、何を伝えればいいのかもわからず、気まずさを言葉で誤魔化す。
「わかってくれよ……」
お願いだ。わかってくれ。ここで俺たちが争っても意味がないんだ。
しかし美夜は折れなかった。
どこか弱々しくも、明確な意思が感じられる声が返ってくる。
「ごめん。……ごめん、武虎。私は違うんだ。違っちゃったんだ」
「違うって、何が違うんだよ。俺たちは同じものを見ているはずだろ」
「だから、違うんだ!」
いつの間にか隣まで来ていた美夜が俺の左手をつかむ。
引き寄せられるように目と目が合った瞬間、美夜が叫んだ。
「好きになりたいよ! 私、本当は嫌われてもいいから武虎のことを好きになりたいんだよ!」
本来ならすごく嬉しい言葉だ。それ以上に望むものがないくらいに嬉しい言葉。
でも今は素直に受け取ることができない。
その言葉に共感してはいけないという心の急制動がかかる。
彼女の言葉が嬉しいからこそ、思わず否定的な声が出る。
「俺は嫌いになりたくないんだよ! もちろん嫌われたくもない! そのためには好かれるわけにも、好きになるわけにもいかないんだ!」
嫌いになりたくない、嫌われたくない。
それが俺の本心だ。
好きになりたい、好かれたい。
それを無邪気に願うよりも、はるかにずっと大きな感情だ。
痛いくらいに手を握り合ったまま至近距離で見つめ合い、言葉にならない数秒の沈黙が二人の間に走って、先に何かをあきらめた美夜が手を離した。
「……わかったよ。じゃあ、お互いに無関心でいれば平和なんだ。武虎は私が遠くにいれば安心なんだ」
「無関心って、さすがにそこまでは……」
「言ってるようなものだよ」
「美夜……」
落胆して俺の前を去っていく美夜を呼び止めることはできなかった。
いつの間にやら、美夜の手を離れた右手にはホチキスで束ねた脚本が握りしめられていた。無意識に力が入りすぎていたのか、くしゃくしゃになっている。
終わり方がわからなくなっている劇。物語として面白くなる方法もわからず、俺が何を望んでいるのかもわからない。
顔だけが虎になった少年と、人間のままでいる幼馴染の少女。すれ違いながらも歩み寄る二人は月が見下ろす夜に出会って、それから、どう結論を付けるのがいいだろう。
どちらかを傷つけないため離れ離れになって暮らすのか、傷つくことを覚悟で、ずっと一緒に過ごすのか。
「わかるかよ……」
今の俺には、どの選択もうまくいくとは思えなくなっていた。
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