19 おはようと言い合える関係(4)
それから数日、本来の締め切りを待たずして脚本の草案が完成した。
これをクラス会議にかけると、おおむね好評を得られたらしく、とりあえずの決定を見た。
十月、脚本が完成したことで劇の準備と練習が少しずつ開始された。
本番は十一月の上旬。まだまだ余裕はある。
みんなで集まって実際に練習しながら、その場その場で細かいセリフ運びや展開を改善していく。
これでも脚本の責任者であるからか、確認が必要な多くの場面で声を掛けられるようになった。これまでは孤立気味で、どちらかと言えばクラスに馴染めていなかった気のする俺は疎外感を抱いていたくらいだったが、こうして一丸となって文化祭の準備をしているおかげで、その一員になれている充実感があった。
やはり脚本に名乗り出てよかった。周りも優しい人ばかりなので、おかしな部分があっても文句を言わず、みんなで協力して代替案を考えてくれる。
もちろん同じ脚本チームである美夜たちもサポートしてくれている。
現状、うまい具合に美夜とは友達の関係を続けることができている。それは文化祭という共通の目標のため、あまり余計なことを考えずに突き進んでいられるからだろう。
些細なことで好きになりかけるが、その度にブレーキを掛け合って俺たちは平行線を維持することに成功していた。
二人で登下校していると、紳士ぶって車道側を歩くなと注意され、重そうだからその荷物持とうか、と言っただけで、俺のことを好きになりかねないから優しくしすぎないでと怒られる。もちろん俺も彼女に笑顔を向けられる度に注意して、でも冷たくしないでほしいと頭を下げる。
同じテレビ番組やネットの動画を観たと知れただけで嬉しくなる。
逆に知らないものを教え合うのも楽しい。
どちらかが相手を好きになってしまわないかという不安や緊張感もあるのに、そんなことを忘れて、どこか友人関係を満喫してしまっている。
恋人になりたいわけじゃない。絶対になりたくないというわけでもないのだろうが、このままの関係性でも十分に楽しくて仕方がない。
しかし、それはあくまでもお互いに破滅への危機感を強く共有しているからだ。
今にも割れてしまいかねない薄氷を踏んで対岸まで渡るような慎重さで、致命的に近くなりすぎるのをけん制し合っている。
どちらかが自覚もなく凶暴な虎になって、我慢できずに牙をむき出しにしてしまうのを恐れながら。
「あとは劇の終わり方だけだな……」
ある日の劇の練習後、教室の隅に脚本チームが集まって残り、即席の会議が開かれていた。
そろそろ仮ではなく最終的な完成稿を決定しなければ、練習する時間が足りなくなってしまう。
主役の少年が虎となり、ヒロインである幼馴染の少女と再会する物語。
実は両想いだった二人が悲喜こもごもの騒動を巻き起こしながら、最後の最後、不安と恐怖を乗り越えて一緒になるのか、それとも人間と人虎は別世界の存在だと考えて別離するのか。
クラスの意見もおおよそ半々に別れ、決断は俺たち脚本チームにゆだねられた。
どちらが劇として面白くなるのだろう。
「主役とヒロインを演じることになった二人はどう思う?」
二人の顔を見比べながら軽い気持ちで質問してみると、即答できずに腕を組んで目を閉じた野村はうーんと考え込んでしまったので、沈黙を嫌った志賀さんが先に答えてくれた。
「私はそうだなぁ、やっぱりハッピーエンドのほうがいいんじゃないかな。文化祭の劇で後味の悪いバッドエンドを見せられても困らない?」
「確かに……」
ビターな結末が悪いわけではないけれど、彼女の言わんとすることはわかる。
あくまでも文化祭はお祭りなのだから、みんなが楽しい気分で終われる劇の方がいいだろう。
「あ! こんなのはどうだろう! 虎になった人がたくさん出てきて、実は純粋な人間であるヒロインのほうが世界の少数派だったとか!」
「意外性があるから展開としては面白いけど、そうなると脚本を全体的に見直さないといけなくなるな」
「二人は一緒に暮らそうとしたけど、少年が猟銃で殺されちゃうとか」
「それバッドエンドじゃない?」
「いっそ少女も虎になって終わるとか」
「それはありかもね。でも主題がぶれちゃうなぁ……」
志賀さんに続いて美夜、閨崎さん、野村の順番で三人それぞれに案を出してくれたが、やはり悩ましい。
ついつい全員の意見に否定的な反応を返してしまった。
なかなか名案が思い付かずにいると、にやりと口元をゆがめた志賀さんがみんなに笑いかけた。
「きっと脚本チームのリーダーである武虎君がすごく面白い結末を考えてくれるから、私たちはそれを待ちましょう」
「……えっ?」
「それもそうね」
閨崎さんまでが同意すると、もう俺の味方をしてくれる人はいない。さっきは真剣に考えてくれていた野村も「楽しみだなぁ」と言って笑っている。完全に他人事になってしまったらしい。
これで仕事は終わりだとばかりに脚本チームが解散すると、そそくさと俺の隣に寄ってきた美夜が心配そうに声をかけてくる。
「武虎、大丈夫? 一人で考えるのが大変なら、いくらでも相談に乗るよ。私が役に立てるかわからないけどね」
ありがたいことに味方が一人いた。
「大丈夫だ。みんなが納得してくれる最高の結末が思いつくかはともかく、本当なら、そんなに難しく考える必要もないんだと思う。けどさ、なんだか俺たちの関係に重ね合わせてしまったんだ」
「私たちの関係に?」
「どちらかが虎になるってわけじゃないけど、普通じゃない現象に巻き込まれて、俺たちだって同じくらいに苦労しているんだ。たかが劇の結末とはいえ、まったくの他人事とは思えない。この劇における主役とヒロインの決断が、もしかすると俺たちの未来を暗示してしまうんじゃないかと考えたら、もうな……」
劇の展開が俺たちとは無関係とは思えず、適当なことは何も言えなくなる。
考えすぎなのかもしれないが、単なる劇の終幕ではなく、まるで自分たちの未来を決めるようなものにも思えたのだ。
「ハッピーエンドにはできないの?」
「やろうと思えば簡単にできる。たぶんみんなも満足してくれる。でもさ……」
それでいいんだろうか。
虎になってしまった少年と、人間のままでいる少女。
そんな簡単に幸せをつかむことができるのだろうか。
「私はハッピーエンドがいいな」
「やっぱりそう思うか?」
「うん。でも、それは劇だけの話じゃなくってね」
真剣な表情をした美夜が俺の目をまっすぐに見つめる。
「理不尽な現象があるせいで私たちは恋愛関係になれない。だけど私ね、たぶん、恋をするなら相手はあなたがいい」
「……そういうこと言うなよ。好きになるだろ」
「ごめん。でも今のうちに言っておかないと、もしかしたら一生伝えられない可能性もあるから」
「そりゃあ、な……」
後悔したくないのは俺も同じだ。いつまた疎遠になってしまうかわからない関係なので、言いたいことは言えるうちに言っておくべきだという考えにも賛成だ。
だけど、そこまで率直に言わなくてもいいじゃないかとも思える。
好きになるだろ。
それは嘘でも冗談でもなく、彼女の言葉に嬉しさを感じてしまった俺の本心だった。
恋をするなら相手はあなたがいい。
たぶん俺も彼女と同じく、いや確実にそうであろうから。
夜、私はベッドにうつぶせて一人で悶絶していた。
「恋をするなら相手はあなたがいいって……!」
信じられない!
ああ、なんということだろう!
言わなくてもいいのに変なことを言ってしまった!
あれではまるで告白ではないか!
恥ずかしくて枕から顔を上げられない。
しばらく足をバタバタさせていたけれど、疲れてきたのか冷静になってきた。
「でも伝えられない後悔に比べれば、これでよかったんだ……」
そうだ。よかったんだ。やらないで後悔するくらいなら、やってしまって後悔したほうがいい。
だけど本当にそうだろうか。
武虎はどう思っているんだろう。
ベッドの上で体を横向きにして、枕元に置いておいたスマホを手に取る。
スリープは解除せず、暗い画面を意味もなく眺める。ちょっとしたことで好きになってしまいかねないから、スマホを通じて連絡のやり取りをすることは禁じられているのだ。
でも本当はメッセージを送りたい。遠慮なく通話をかけて、夜遅くまで武虎と話をしたい。
友達との距離で繋ぎとめていたい。
ようやく友達の関係に戻れたから、その楽しさと居心地の良さを再確認してしまったから、今度は絶対に手放したくない。普通に笑い合える関係になれたから、私を安心させてくれる存在だと再認識してしまったから、もう二度と離れていってほしくない。
いつもそばにいてほしい。いつまでも隣にいてほしい。
けれど、つまりそれは……。
この燃え上がるような感情の正体は……。
「違う、それは違う! まさかそんな、駄目だもん、そんなの!」
裏表をひっくり返したスマホを枕に押し付ける。
待て、私。
落ち着け、私。
「好きになるな、嫌われちゃう!」
せっかく友達になれたのに!
居心地のいい幼馴染でいてくれるのに!
だけど嫌いになろうとして昔の記憶を漁っても、出てくるのは武虎との楽しかった日々だ。
嫌いになれない。どうあがいても嫌いになってやれない。考えれば考える分だけ武虎の存在が大きくなってくる。
奈落へ向かって転がり落ちるように、恋に落ちていくのを感じる。
心臓がドキドキして胸が熱い。
もうおしまいだ。こんなの自分の意志では止められない。どうしようもないじゃないか。
とんでもないくらいに武虎のことを好きになってしまって、きっと明日には絶望的なまでに嫌われちゃっているに違いない。
またしても挨拶を交わすことさえできなくなってしまうんだ。
「そんなの嫌だよ、武虎……」
なかなか寝付けず、最後には力尽きて気を失うように寝入ったせいか、夢らしい夢を見る余裕さえなかった。
翌日、この世の終わりみたいな気分で朝を迎えた。
どうせ無視されるんだろうな、冷たくされるんだろうなと思うと、朝から足が重くて仕方がない。
教室に入ると、こんな日に限って武虎が先に来ている。しかもなんだか浮かない顔をしている。
心配になって見つめている私に気づいたのか、不意に顔を上げた武虎と目が合った。
なのに、その瞬間に顔をそらされてしまった。
嫌な予感が確信に変わる。
そんなにも嫌われているんだ、私。いつかみたいに、こっちの顔も見たくないくらいに。
絶望だ。いっそ学校なんて休めばよかったかもしれない。
こんな気分で一日を過ごすなんて耐えられない。
だからこそ、もうどうにでもなれという気分で一縷の望みにかけてみたくなる。
おはようと言い合えるだろうか?
より深く絶望を味わう羽目になるかもしれないというのに、あきらめたくない私は意を決して声をかけてみることにした。
近づいても全然顔を上げてくれないが、あえて明るく声をかける。
「武虎、おはよう」
そう言った瞬間、驚いた様子の武虎はガバッと顔を上げた。
「ああ、なんだ! 嫌われているかと思った!」
その顔が輝いて誰の目にも嬉しそうな表情に見えたから、私もきっとそうなっていたんだろうと思う。
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