18 おはようと言い合える関係(3)

 普通の温度感で声を交わし合えることに胸が躍っているのか、あるいは恋心も敵意も消えて平穏なのかもわからぬまま、無難に授業をやり過ごして迎えた昼休み、大事なことを話し合うには騒がしい教室を抜け出して、静かに二人きりになれる場所で俺は美夜と向き合った。

 喜怒哀楽を抑えて、特に感情のない表情をしている美夜が俺に問いかけてくる。


「つまり、今の私たちは好きでも嫌いでもないフラットな関係だということなの?」


「ふむ。かなり前に美夜が語ってくれた天使の話が事実だとすれば、こうして普通に語り合えている以上、そういうことになると思うぞ。どちらかが完璧な嘘をついていて、ほんとは嫌っているのに無理して平気な顔をしているのでもないだろうし……」


 ただし、と念を押して付け加えておくことにする。


「というわけで大きくは間違っていないと思うが、好きでも嫌いでもない、というと語弊があると思う。『好きでもあり、嫌いでもある』と言った方が感覚的には近い気がするな。たぶんだけど、どちらにも恋愛感情のない、いわゆる普通の友達関係になっているんだと思う。特別な恋愛感情がない、普通の幼馴染と言い換えてもいいが……」


「恋愛感情のない、か……」


「違うか?」


「ううん、そうだね。きっと違わないと思う。今の私たちには恋愛感情がないと思うよ」


 確信を持ったような声色で言うや否や、いきなり体を寄せてくる美夜。

 そのままそっと右手の指先で二の腕に触れてきたので、うろたえて離れる。


「なんだよ。なんで触ってくるんだよ」


「何をそんなに焦ってるの? ちょっと触っただけじゃん。武虎のそばにいてもそんなにドキドキしないから、こうやって自分の中の恋愛感情を確かめてみようかと思って。駄目だった?」


「駄目に決まってるだろ! やめてくれ!」


 さりげないボディタッチであれ、女子に体を触られることに対して免疫はない。小学生のころから親しくしてきた幼馴染である俺たちの間にも、あまりなかったことだ。

 特別な好意や悪意がないからこそ、友達同士のつもりで当たり前のように手を伸ばしてきたのかもしれないが、予期せぬ突然のことに驚いたあまり、やや反応がオーバーになってしまったかもしれない。

 でもしょうがないだろ。

 いきなり体にタッチされたらドキッとするだろ。

 ついつい声を荒げてしまい、まるで嫌いな人間を冷たく突き放すように拒絶したせいか、こちらの大げさな反応を見た美夜は想像以上に悲しそうな顔をする。


「え、やっぱり武虎は私のことが嫌いなの?」


 心なしか声も不安そうだ。

 せっかくこうして友達の関係に戻れたのだ。ようやく落ち着いて相手の顔を見ながら言葉を交わし合えるようになれたのだ。

 どちらかが相手を嫌うような関係は避けたい。

 必死になって説明する。


「違う! 嫌いじゃないからこそ困るんだ!」


「……え、なんで?」


「なんでって……あのな、いいか? すっごくわかりやすく言えば、美夜のことを恋愛的な意味で好きになるからだよ」


「へ?」


「オッケイ、わかってないようだから念を押しておく。どういう事情があるにせよ、そうやって気軽にスキンシップを図ってくるのは本当にやめてくれ。こっちの心臓に悪いから、ボディタッチとかそういう行為は厳禁だ。特に不意打ちで触ってくるのは絶対にダメだぞ。精神的に身構える準備が間に合わないから、俺たちの関係を破壊しかねない爆弾の起爆スイッチを押すのと同じだと思ってくれていい。会話するだけならともかく、過剰に馴れ馴れしくされたら俺はたぶん簡単に美夜のこと好きになるぞ」


 早口でまくし立てる俺の勢いに飲まれて相槌を打たずに聞いていた美夜が、ようやっと息を吹き返して困惑したように尋ね返してくる。


「……過剰に馴れ馴れしくって、今のが過剰だった? 指先じゃん。腕じゃん。ほんのちょっと触っただけじゃない?」


「ほんのちょっと触っただけでも惚れるもんだ。いい機会だから覚えておいてくれ」


「そっか。わかった。だったら今後は触らない。不用意に近づくのも気を付けるよ」


 ベンチなんかで隣に座るのも駄目なのかな……と、わかりやすいくらいに落ち込んで声が沈んでしまっている。ひょっとすると俺に拒絶されているように感じてしまったのかもしれず、このままでは好感度が下がってラブシーソーに悪影響が出てきてしまう。

 いや、だから、嫌いじゃないんだって。

 あんまり無防備に近寄られすぎると好きになるから気を付けてほしいんだって。

 そう付け加えておいて、それでもなお何か誤解されていると困るので、ここはフォローしておいた方がいいだろう。


「あと、そうやってすぐに不安になるのはやめてくれ。好きになることを警戒するあまり冷たくして悪かったが、美夜の気持ちが少しでもネガティブな方に傾いてしまえば、きっと俺は明日にも美夜のことを好きになってしまうからな」


「好きになるって言われてもな……」


「俺だっておかしなことを言っているとは思うけど、きっとすぐに好きになるんだからしょうがないだろ。幼馴染として小学生のころからずっと一緒にいたことからわかるように、俺と美夜はたぶん相性がいいんだ。もしかしたら一方的に俺がそう思っているだけかもしれないけどさ、少なくとも俺は今まで出会った人間の中で一番相性がいいと思っているんだ。喧嘩をしても結局は仲直りしてきたように、簡単なことでは嫌いになれない。なのに嫌っていたってことは、簡単でないことが起こっていたんだろう」


「簡単ではないことか……。うん、やっぱりそうだよね」


 言われるまでもなく思いつくのは、たった一つ。

 超常現象であるラブシーソーだ。

 これまでの関係が完全な破局につながりかねない綱渡り状態だったことを思えば、こうして穏やかに話していられる時間も限られている。数か月間のすれ違いを経て積もる話もあるけれど、そろそろ本題に入るとしよう。


「とりあえず二人で普通に問題なく話せるうちに話したいことを話しておくべきだろうな。まずはラブシーソーが現実のものであると仮定して、お互いにどうしたいのか、現状確認をしよう。他の人に相談できない以上、せめて俺たちの間でくらい意志の統一をしておきたい」


「そうだね」


 美夜も納得して頷いてくれたようなので、どんどん話を進めることにする。


「俺たちのすれ違いの原因であるラブシーソーとかいう現象が始まったのは、高校に入学する前、今年の二月に二人で流れ星を見に行った夜の後だと考えていいんだよな?」


「そうだと思う。何か具体的な根拠があるわけじゃないけど、天使がそう言っていたから」


 ……天使。

 あまりにも普通のことのように美夜がそう言うので、茶化すこともできない。

 相手のことを好きになったり嫌いになったりする俺たちの感情が実際に何者かに操作されていると感じてしまうこともあり、ラブシーソーのことを伝えるために姿を現したという天使が美夜の見た夢や勘違いだったと決めつけるわけにもいかない。


「天使か……。俺たちの身に降りかかった不思議で奇妙な状況を考える限り、その存在を疑っているわけじゃないんだが、どうせなら俺の前にも出てきてくれればいいのにな。そうすりゃ胸倉をつかんででも現象を止めさせるのに」


「無理だと思うよ。天使には人間としての実体がなくて、煙みたいに透き通ってたから。空気をつかもうとするようなものだよ」


「……あのさあ、それが本当だとしたらよく平気でいられるよな。それもうお化けじゃん。俺だったら正気でいられる自信がないぞ」


「いやいや、どう見えてたのかわからないけど私もまったく平気じゃないったら! あの時は私だって腰を抜かしたよ! ほんとは一人ですごく不安だったんだからね! また別の天使や悪魔なんかも家の中に出てくるんじゃないかって、お化けを怖がる子供みたいに夜もしばらくはトイレ我慢大会だったよ! 平静を装っているだけだってどうしてわかってくれないかな!」


「あっ、馬鹿! だから触るなって! 傾くだろ、シーソーが!」


「ご、ごめん!」


 むきになって言い寄ろうとするあまり、勢いに任せてキスされるんじゃないかと思うくらいに顔を近づけて目の前に立ち、両手でつかんだ俺の肩を前後に揺らしてきていた美夜がびっくりして距離を取る。

 声を抑えるためもあって口元に手を当てているので、彼女としても接近しすぎたことを反省しているのかもしれない。

 相手に嫌われることを避けるためにはまず「好きにならないこと」が必要で、ちょっとした出来事が原因で「好きになられること」も避けなければならない。どちらかが相手に踏み込みすぎた場合、お互いに落ち着く時間が必要だ。

 好きになるな。

 好かれるな。

 しばらく息を整えて、やけに激しくドキドキと胸を打っていた鼓動が冷静になったのを確認した俺の方から話を切り出す。


「とにかく天使が実在するものとして話を進めよう。そこで問題になるのが、ここ数か月の俺たちの関係が『どこまで天使の影響を受けているのか?』という切実な問題だ。もともと相手のことを好きでいたのか、それとも嫌いだったのか、あるいはなんとも思っていなかったのか。ひとまず現象が起きる前の俺たちがどうだったのか確認したい」


「そうだね。何を話すにも、それを最初に確認しておくべきだと思う。それ次第で現象への対応策も変わるだろうし。……で、武虎はどうだったの?」


「俺か?」


 好かれていることに自信があるとかないとかの話ではなく、できれば先に美夜の気持ちを確かめておきたかったものの、どうやら俺から言わなければならないらしい。

 範を示せということか。

 いじらしいやつめ。


「こんな状況だからな、後悔しないためにも隠さずに本当のことを言っておく。俺は好きだったよ。幼馴染としてはもちろん、恋人として付き合いたいと思っていた」


「そ、そうなんだ。へへっ……」


 今はお互いに恋愛感情のない普通の関係のはずだが、さすがに明確な好意を伝えられて無反応を貫き通すことは難しかったらしい。

 意地を張って隠すでもなく、やんわり耳を赤くするほど気持ちいいくらいに照れている。

 からかう余裕などなく、もちろん言った側である俺だって気恥ずかしい。かつては自分の胸の中に無視できない巨大なものとして存在していたはずの恋心が今は完全に失われているとはいえ、それが実際あったことを相手に伝える行為は、ある種の告白には違わない。

 その後の展開を期待しているわけでも返事が欲しいわけでもないけれど、どうせならお互いさまがいい。過去の恋愛感情を堂々と打ち明けて、こちらだけが心理的なダメージを受けているのは不公平だ。


「美夜は?」


 少しでも答えやすくするため何でもないことのように尋ねると、もじもじと指を突き合わせて口を濁す。


「うーん、どうなんだろ」


 で、すぐに答えをくれるのかと思って待っていたら、そうつぶやいたところで言葉が止まってしまった。

 それで逃げ切るつもりか。

 どうでもいい質問とは違って俺たちの人生にかかわる大事なことなので、恥ずかしいからという理由でうやむやにされてはならない。


「……どうなんだろ、じゃなくてさ。頼むよ」


「う、うん……。そりゃ好きには違いなかったと思うんだけど、どうかな。好きなのは好きだけど、どれくらい好きだったかな。どういう意味で好きだったのかな。……私って今まで片想い以外に経験もないし、考えてみると恋愛って難しいよね」


「おいおい、はぐらかすのは卑怯じゃないか? 正直に言ってくれないと困るんだ」


「……正直にって言われてもね。今まで一度も私たちの間で恋愛の話なんてしたことないから、過去のこととはいえ恥ずかしいっていうか……でも、そうだね、これだけは言わなきゃね。状況が状況だもんね」


 ごくり、とつばを飲み込んだ美夜が俺の顔を指さす。


「私にとって、一度しかない、か、かっ、片想いの相手だったよ。……どう? ね、これでいい?」


「う、うん……」


 嬉しいような、恥ずかしいような、よくわからない感情。

 ひとまず彼女からの答えが聞けて満足できたかと思えば、意外にも自分が不安を覚えていることを発見してしまう。

 ほんのわずかであれ、心が負の感情に触れ動いてしまうようなリスクは徹底して排除しておかなければならない。

 納得したつもりで一度は軽く下げていた顔を上げ、こちらを見ている美夜の目をのぞき込んでから俺は首を振る。


「いや、ごめん、できればもっと頼む。頑張って言ってくれたのはわかるけど、わかるけどさ、そういう遠回しな表現はやめよう。好きなら好きだと、はっきり言ってほしい。嘘や冗談なんかじゃなくて、今は本気で確かめておきたいんだ。ちょっとした誤解やすれ違いが永遠の別れにつながりかねない。その時になって後悔しても遅いんだ。現象が起きる前の気持ちを知っておくことって、これからの俺たちに大事なことだからさ」


 どうか頼む、と言って今度は深々と頭を下げる。

 しばらく唇をもごもごさせて抵抗していたものの、ついに美夜は観念して口を開く。


「好きだったよ。たぶんじゃなくて、本当に好きだった。武虎のことが本気で好きだった。もちろん恋愛の意味での好きだよ」


「ありがとう」


「それは、まあ、今の私に言われても困るんだけどね……」


 どうやら好き同士だったのは、理不尽な現象が起きる前の俺たちだ。

 俺たちの心をめちゃくちゃにしてしまうラブシーソーのせいか、好きだったころの感情そのものは残っていないけれど、お互いに記憶だけは残っている。


「恋人になりたかった。あのときまでは、本気でそう思ってた」


「……俺もだ」


 それが、数か月遅れでようやく教え合えた二人の共通認識。

 ただの友達に過ぎない今の俺たちが知ったところで、何があるというのだろう。

 天使に何かされるまでは両想いだったとわかって嬉しいような、今さら知ってしまって悲しいような、よくわからない気持ちだけが音もなく胸を満たす。

 もっと早くに伝えておけばよかったと、一握りくらいの後悔があるだろうか。

 いや、恋人関係になれなかったことに対して後悔が生まれるのは、お互いの中に恋心が少しでも残っていた場合だけだ。

 でも本当にそうだろうか?

 自分の気持ちが自分でもよくわからず、悩ましくなってくる。

 それでも今までと違って苦しくないのは、ようやく友達としての表情を向けてくれた美夜が一緒にいてくれるからだ。


「ねえ、武虎。普通にしゃべれるこの関係が私はすごく楽だな」


 確かに楽だ。美夜の隣にいて、すごく久しぶりに落ち着いていられる。

 自由を満喫できる代わりに孤独を感じてしまいかねないから、家に一人でいる時間よりも気楽で安心だ。年齢が同じで価値観も近いからか、血のつながった家族といるよりも居心地がいい。

 怒ることも悲しむこともなく、気を張る必要もない。

 ひょっとしたら不幸な状況かもしれないのに、この関係性を心地よく思えている。


「大好きだっていう気持ちが相手に通じない片想いはつらいけど、それにもまして誰かを嫌ったり避けたりするのってエネルギーを使うよな」


 得体のしれない天使によって植え付けられた結果であったとしても、ネガティブな感情は想像以上に自分を傷つけていたのかもしれない。

 嫌う、避ける、嫉妬する、暴言を吐く。

 苛立ちやストレスを抱えて生きるのは、憎んでいる相手よりも自分のことを不幸にしてしまいがちだ。

 美夜も同じように考えているらしい。


「好きになると嫌われて、嫌いになると好かれてしまう関係、か。武虎が相手なら好きになるのに抵抗感はないけど、嫌いになるのは可能な限り避けておきたいな」


「俺も同感だ。だからこそ、お互いに相手のことを好きにならないように気を付けて生きていくべきだと思う。理不尽すぎるラブシーソーへの対処や対策も、友達の関係を続けていくうちに見つけられればいいだろう」


「そうだね。どちらかが相手を嫌って、しゃべれなくなるのが一番の問題だと思う」


 こうして普通に会話ができる関係ならば日常生活に支障もなく、理不尽な現象に立ち向かうにしても、やり過ごすにしても、いくらでも対策を練ることができる。

 であれば、当面の目標はこの関係性を少しでも長く持続させることだ。


「今日の放課後も文化祭に向けた脚本会議があるが、少し作戦を考えないといけないな。前回までは全く会話をしなかったのに、いきなり普通にしゃべっていたら俺たちの精神状態を疑われてしまう。かといって現象のことを説明するわけにもいかないから、なるべく自然な形で話すようにしたい」


「自然な形って?」


「脚本会議の中で、ちょっとずつ二人の会話を増やしていくんだ。最初は素っ気なく、ろくに目も合わせようとしない昨日までの感じで、いかにも仲が悪そうな演技をするんだよ。それから少しずつ、ゆっくりと段階を踏んで、周りが不自然に思わないペースで仲良くなるっていうのはどうだ?」


「さっすが武虎。それいいじゃん。よし、わかった。じゃあ、できるだけ段階を踏んで仲直りしていこう」


「そうだな」


 とはいえ、仲直りを演出するために自然な形で段階を踏むとは、具体的にはどうやればいいのだろう。

 なかなか難しい演技を求められている気がする俺だった。





 その日の放課後、いつものように俺と美夜は二人そろって脚本会議に参加していた。

 昨日までとは違って今の俺は美夜に嫌われていないことを確認済みだが、その事実を周囲には教えていないため、俺たち二人の間には会話がない。放課後までの短い期間で嫌われてしまったわけではなく、あえて距離を取っているのだ。

 いつの間にか仲直りしていた、ということにもできるが、あまりにも急すぎる。しかも、場合によっては明日以降に再び仲たがいする可能性もあるのだ。

 自分たちでも制御できていないラブシーソー。あまり周りを振り回す結果にはしたくない。

 とりあえず声をかけるきっかけになればと、事前に全員分の缶ジュースを買ってきている。

 脚本係のリーダーとして気が利いたふりをしつつ、さりげなく全員に配る。


「ほら」


「どうも」


 本当は普通にしゃべり合える仲だが、ぎこちない風を装って美夜が俺に会釈する。受け取る直前、目を合わせたのはほんの一瞬だけ。すぐにそらして顔を伏せる。

 演技は完璧だ。これなら誰も俺たちの仲を疑うまい。

 あとはここからどうやって普通の関係に持っていくかだが……。


「あれ? あなたたち仲直りしたの?」


「えっ?」


 閨崎さんから飛んできた予想外の指摘に美夜が慌てて顔を上げた。

 その反応がすでに答えを告げているようなものだが、まだ確定されたとは限らない。明らかに目が泳ぎ始めている美夜だが、一応の抵抗を試みるらしい。


「き、嫌いだけど? 仲直りって何?」


 そこまでストレートに言う必要はない。誤魔化すための嘘だとわかっていても傷つく言葉だ。

 小さくないショックを受けた顔色が見抜かれたらしく、今度は閨崎さんが俺を見て眉をひそめる。


「これはまた何か事情がありそうね……」


 どうやら完全に疑われてしまっているようだ。すべてを見抜かれていないにしても、騙し通すのは難しい気がしてならない。

 いっそ言える範囲で何もかも打ち明けた方がいいだろうか。

 どこまで勘付かれているのやら、やけに落ち着いている志賀さんが閨崎さんに目配せをした。


「私に提案があるんだけど、閨崎さん、とりあえず彼らのプランに乗ってあげない?」


「賛成。正直よくわからないけど、二人に何かしらの進展があったなら安心ね」


「じゃあ、そういうことで」


 にっこりとうなずき合う閨崎さんと志賀さん。

 何か……というか、たぶん俺たちを追求しないことが二人の間で決まったらしい。

 わかっていないのは彼女たちの話についていけず置いてきぼりになっていた野村だ。


「どういうこと?」


「鈍感」


 かわいそうなことに、あきれ顔の志賀さんに怒られている。

 どちらかといえば志賀さんと閨崎さんの二人が特別に察しがよすぎるだけのような気もするが、一人だけ困惑し続けている野村を助けるためとはいえ、あまり余計なことは言わない方がいいかもしれない。彼女たちにかかれば俺も鈍感な人間として批判の対象になりそうだ。

 というか、どちらが相手であっても、俺たちの関係について具体的につっこまれたら隠し通すのは無理だ。知らぬ存ぜぬで当初のプランを進めるしかない。

 その後、脚本のアイディアをみんなで出し合いながら、ちょくちょく美夜に話を振っていく。ぎこちないやり取りで不仲さをアピールしつつ、それでも少しずつ言葉のやり取りを増やしていく。

 そんなこんなで脚本会議が終わるころには三人の前で美夜とそっけなくしゃべれるくらいの間柄になった。


「じれったいわね」


 おそらく演技を見抜かれており、とってつけたような俺たちの作戦が通じていなかったらしい閨崎さんたちには幼稚園児レベルの拙い演劇を見守られていたようなものだが、それは仕方ないだろう。

 大事なのは建前だ。





 これまでとは違った種類の疲れがたまった脚本会議が終わると教室を出て、このまま帰るのではなく、一人でトイレに寄る振りをして四人から離れた。俺を待つことなく歩いて行った志賀さんたちの姿が完全に見えなくなってから、トイレとは別の場所で美夜と合流する。

 周りに閨崎さんたちの姿はない。うまく理由をでっちあげてきたらしく彼女も一人だ。

 もう他人の目を警戒する必要もないだろう。

 ようやく一息ついて顔を見合わせる。


「ねえ、武虎。どうだった? 自然な感じで段階を踏めたかな?」


 演技に対する緊張や不安もなく無邪気に尋ねてくるので、真実をそのまま伝えるのは若干気が引ける。

 けど、この程度で落ち込む彼女でもないだろう。


「残念ながら自信があるなら考え直した方がいい。美夜だけじゃなくて俺もな。俺たちが劇の出演者側じゃなくてよかったと思えるくらい、どこからどう見ても駄目だったと思うぞ。志賀さんたちの優しさに救われたな」


 そう言ったら、しばらく一人で考え事をするそぶりを見せた後、なにやら遠い目をした美夜が顔を曇らせた。


「そっか。志賀さんにね……」


「どうした? 志賀さんって友達だよな? 何か彼女に思うところでもあるのか?」


「いや、別に思うところがあるってわけじゃないけど……」


 まったく気にしていないと答える割には浮かない顔をしている。本人は隠しているつもりかもしれないが、実にわかりやすい。

 問題の大小はともかく、彼女なりに無視できない懸念があるのは確実だろう。


「今の関係は奇跡的かもしれないんだ。何が原因で誰の感情がどれだけ揺れ動くのか、正直なところ一切わからない。予想を立てるのも対策を講じるのも、どんなに頑張ったって万全というわけにはいかない。こうなったからには俺たちに関係があることも全く関係なさそうなことも、気になることは何でも遠慮なく言ってくれ。俺だってそうする」


「……だったら言うけど。武虎は志賀さんのことが好きなの?」


「……は? どうしてそうなるんだよ」


 あまりに急な話で理解が追い付かなかった。

 志賀さんを好きだって? 俺が?

 おいおい、まさかそんなわけないだろ――と言わんばかりでいる俺の反応が気に食わないのか、むすっとした美夜は不服そうに唇をすぼめる。


「だって仲がよさそうだったから」


「仲がよさそうって……もし本当にそう見えたのなら、それは志賀さんに仲良くしてもらってるんだ。友達ではあるにしても、俺と志賀さんは恋愛を意識するほど仲がいいわけじゃない。面倒見がいい彼女はクラスの誰にでも優しいところがあってさ、俺みたいな人間にも気安く声をかけてくれるんだ」


 と、そこまで言って思い直す。

 それで説明を終えるのは不十分だ。


「……いや、それは正確じゃないな。彼女が優しいだけ、というわけじゃない」


「どういうこと? やっぱり好意があるの?」


 怒っていると言ってもいいくらい不満そうだったのに、今度は打って変わって不安そうになっている。あるいは疑っているのかもしれない。

 ともかく説明しておくことにする。隠すようなことではない。


「好意なんかじゃない。志賀さんが俺に優しくしてくれる理由っていうのはさ、美夜なんだよ。彼女は俺と美夜の関係を気にかけてくれているんだ。どうやら自分のせいで俺たちの関係が悪くなったと思っているらしい」


 最初のきっかけは一学期、高杉が告白することを知っていながら止めなかったことだった。

 それ以来、彼女は美夜のために俺の相談に乗ってくれていた。

 だから事実としては俺と仲良くしてくれていたというよりも、俺を利用してでも、なんとかして美夜に笑顔を取り戻そうとしていたのだ。


「そうだったんだ……。なのに私、嫉妬なんかして……」


「心配をかけたのは俺も同罪だ。馬鹿げた現象のせいで俺たちは苦しめられているけれど、それと同じくらい俺たちは二人で周りを振り回してしまった。これについては反省して、ちゃんと謝らないといけないな」


「うん。そうだね」


 真相を知って万事解決という単純な話でもないけれど、どうやら美夜の懸念は一旦それで終わったらしい。

 なので今日はこのまま別れてもいいのだが、ちょうどいい機会だ。今度はこちらの懸念もなくしておくことにしよう。

 ちっとも気にしていない感じで、何でもないことのように話を切り出す。


「じゃあさ、話のついでだから俺からも聞いておきたいことがあるんだ。美夜は波多野先輩のこと好きなのか? あ、もちろん恋愛感情的な意味でな?」


「え。そんなわけないじゃん。どっちかって言うと武虎の方が仲良かったでしょ」


「それはそうだけど、俺が言っているのは昔じゃなくて今の話だ。今年の夏休みにはよく一緒になってたんだろ? その、二人きりでさ……」


「そうだね、夏休みは何度も二人きりだったね。遊びじゃなくて家庭教師でね。国語、数学、理科、社会、それから一番苦手だった英語、ひとまず平均点を取れるくらいにはしてもらったよ。それが恋愛につながるっていうなら、世の中の恋人たちはデートの代わりに勉強会ばかりしてそうだけど」


 呆れたような美夜の口ぶりからすると、秘めておきたい真実を誤魔化すために嘘をついている様子でもない。となると、波多野先輩が彼女にとっては家庭教師に過ぎないというのは本当らしい。

 安心した。最初から二人の関係を疑うのはどうかと思ってはいたが、どうやら俺の思い過ごしだったようだ。

 ここで終わればいいが、自分でも意外なくらいに問いかけが止まらなかった。

 すらすらと名前が出てくる。


「だったら野村は?」


「……野村君? なんで野村君? 優しくしてくれるから好きだけど、別に恋の相手として意識しているわけじゃないよ」


「そうか……」


 波多野先輩も野村も、仲良くしているからといって美夜にとって恋愛対象ではないようだ。

 今の俺は彼女に恋をしていないから嫉妬しているわけではないはずなのに、なぜかそれを知って心から安心している。

 ほっとして胸をなでおろした俺とは対照的に、やや不機嫌そうな美夜は目を細めていた。


「次は誰を聞くの? 心配なら志賀さんとか閨崎さんも確認しておく? じゃあ聞かれる前に答えておくね、友達。高杉君とかもそうだよ」


「すまん。質の悪いストーカーみたいに詮索する感じになったんだから俺のせいなのはわかるけど、どうか気を悪くしないでくれ。今はそうでもないけど、美夜のことが好きな時は他の誰かに気があるんじゃないかって不安でしょうがなかったんだ。みっともない嫉妬だから美夜が快く思わないのも理解できるけどさ」


 そう言ったら、こちらの反省を受け入れてくれたのか美夜も頭を下げた。


「……ううん、こっちこそごめん。先に言い出したのは私だもんね。実を言えば私もおんなじ感じだったから、あれこれと聞かれたくらいで怒るのは筋違いだったよ」


「お互い様だったってことだな」


「うん……」


 相手を疑うような言い合いになってしまったけれど、友達の関係でいられる今のうちに懸念を解消することができてよかったかもしれない。もしも相手に遠慮して問題を放置していれば、確実に悪影響が出ていただろう。

 ここ数か月の経験があるだけに美夜もそれがわかっているのか、聞きたいことを聞けた結果として肩の荷が下りたらしく、声を弾ませて見るからに嬉しそうにする。


「でも、これで気兼ねなく友達だね。……ね、武虎。これからはいつも一緒にいられるね!」


 いかにも幸せいっぱいという雰囲気で、こちらを見た美夜が俺に向けて笑った。

 それも満面の笑みだ。

 予想していない不意打ちだったので、驚きつつ慌てて目をそらす。

 こらえようと思っても無理で、思わず声が出る。


「くそ、今のは危なかった……」


 はっきり口にしたつもりもないのに聞こえないほど小さい声ではなかったらしく、しっかり聞き逃さなかった美夜が即座に反応した。

 理解できない、みたいな顔をして小首をかしげる。


「……何が?」


「説明はする。だけどちょっと待ってくれ、すぐには顔を見ないようにしたい」


「……なんで?」


「なんででも、と、まずは言っておく」


 それだけ伝えて強引に会話を打ち切り、しばらく顔を伏せたまま黙る。

 ゆっくり深呼吸をしてから、自身の胸に手を当てて心が動揺していないことを確認したのち、覚悟を決めて再び美夜と目を合わせる。


「……ふう。よし、もう大丈夫だろう。待たせて悪かったな。何が危なかったか、どうして顔を見ないようにしたかったか、美夜からもらった二つの質問にまとめて答えておくと、危うく俺は好きになりかけていたからだ」


「えっ……。好きにって、私を? どこで? まだ何もしてないけど、私たち」


「油断していたわけじゃない。それこそ志賀さんとか閨崎さんとかにも優しくされたことは何度だってある。でもやっぱり美夜は違うんだ。友達とか、幼馴染とか、そういうのは一度どっかに置いておいて改めて思わされたけど、声も態度も笑顔も何もかも可愛いな……。ただでさえ隣にいると居心地がいいのに、そんな顔までされたら見てるだけで好きになっちまいそうだ」


「えっ、でも」


「ちょっとでも親しげにされると嬉しくなる。たぶんすぐに好きになる。これは大変だぞ……」


 これまでとは違った理由で頭を抱えたくなってくる。指先が触れたり、笑顔を向けられたり、声を聴いたり、隣にいたり……。とまあ、そんな簡単なことで強い好意を抱いてしまうほど、どうやら俺は美夜に対して惚れっぽい人間らしい。

 ある意味では嬉しい悲鳴かもしれないが、それが原因で関係性を破壊されるのはごめんだ。


「なんとか対策を練らないとまずい。放っておいたら自覚なく好きになってしまうとすれば、美夜と一緒にいて好きになるのを抑えるにはどうしたらいい……」


 さすがに我慢ならなかったのか、こちらが一方的につぶやくばかりで返事もろくにできずにいた美夜がついに声を荒げた。


「ああ、もう! あんまり好き好き言わないでよ! こっちだって意識しちゃうじゃん!」


「……ごめん。今は友達の関係だし、わざわざ隠すことでもないと思って。こっちの問題を二人で共有したいって気持ちもあるから、ほとんど無意識のうちに口に出してしまっていた」


「いやいや、わざわざ隠すことでもあるよ! ねえ、武虎、本当に気を付けて! この関係性を維持するためには絶対にシーソーを傾けちゃいけないんだから、ちょっとでも好きにならないでよね! そりゃ本来は嬉しいことなんだけどさ!」


 言ってくれる。それがどんなに難しいことかも知らずに。

 もちろん俺からも言っておきたいことはある。


「いいか、だったら美夜はお願いだから少しでも俺のことを嫌いにならないでくれよ。今の関係が大切だと思うなら、どうかいつまでもずっと普通でいてくれ。ただでさえ俺は美夜に好意を抱きそうな気配があるんだ。そっちが嫌いになってシーソーの傾きまで加われば、俺はどんどん美夜のことを好きになって止まらなくなる。すぐ恋をするぞ。それも本気の恋だ」


「何を言ってんのさ。私が言うことじゃないかもしれないけど、それは嫌われないように武虎が努力すればいいじゃん。私だって現象さえなかったら簡単には嫌いにならないよ。伊達に何年も幼馴染やってないからね。……わかる? むしろ一緒にいたいわけ」


「いや、だから、そりゃそうなんだけどさ、美夜に嫌われないようにしようって努力を始めると、いっつも美夜のことを考えるようになって、たぶん簡単に好きになっちゃうだろ」


「……確かに。嫌われないようにする努力を始められたら、私も武虎のことが好きになりかねないかも。優しくされると嬉しいもん」


「だろ?」


 これはなかなかに難しい問題だ。

 天使に出会うまでの経験から言って、理由もなく相手を嫌いになるような関係ではない俺たちだが、相手を好きになるのにも特別な理由はいらない。

 困ったことに、現象が始まる前の時点で実は両想いだった俺たちは、いともたやすく簡単なことで相手を好きになりかねないらしい。

 それはたぶん、俺たちが子供のころから一緒にいた幼馴染だからだ。そもそも簡単に嫌いになれる相手なら、こんなにも長く友達として付き合ってはいられなかった。

 何を考えているのやら、ちらちらと美夜が遠慮がちに目配せをしてきた。


「これからこんなふうに相談したいことがたくさんあると思うんだ。だからさ、スマホで連絡のやり取りをするようにしない?」


「ふむ……」


 それは必要な対処にも思える。お互いの状況や心理状態を知るためにも、気軽かつ頻繁に連絡を取り合えるようにしておくのは大事かもしれない。

 しばらく慎重に考えたうえで、冷静に答える。


「……駄目だ。美夜のことが嫌いだからじゃなくて、それは慎重になるべきだと思うんだ。こうやって顔を合わせてしゃべるのと違って、文字でのやり取りは誤解やすれ違いを生み出しかねない。美夜からのメッセージはすべて言葉の裏を読み取ろうとしてしまう。ただでさえ一人になると考えなくてもいいことまで考え込んでしまうのに、メッセージなんかもらったら夜に読み返して恋心が募りそうだからな」


「……否定はできないけどさ」


「一度連絡を取り合うようになると、次からは連絡を待つようになるんだよ。そして来ないと相手のことばかり考えてしまうようになる。それは今の俺たちにいい影響を与えるとは思えない。……はっきり言えば、美夜からスマホにメッセージが来るようになったら、俺は嬉しくなって美夜のことを好きになりかねない。いや、間違いなく確実に好きになるだろう。ただの雑談であっても、通話をしてしまったら百パーセントだ。だからやめよう」


「う、うん。残念だけど、そこまで言われると送りにくくなるね……」


「その方がいい。昼間はともかく、寂しさを感じて人肌が恋しくなるような夜にやり取りするのはよくない」


 もしも寝る前に美夜のことを考え始めたら、きっと夢に美夜のことを見るようになる。

 それが悪夢なのか幸せな夢なのかはわからないが、なんにせよ感情は大きく動いてしまうはずだ。

 そう考えていたら、大事なことを思い出した。


「これは確実な情報じゃないから参考までに覚えておいてほしいんだけど、今までの経験上、就寝時に俺たちの感情が調整されるんだと思う」


「そういえばそうかも。嫌いになる前の日は悪夢を見ていたような気がするもん」


 就寝時というよりは、一日が終わるタイミングと言った方がいいのかもしれない。

 二人の眠る時間をずらせばいいとか、片方が徹夜していれば感情が操作されないとか、そう単純な話ではない気がするからだ。


「だから眠る前にやるべき大事なことがある。好きになりそうだったら相手の嫌いな部分を思い出して、嫌いになりそうだったら相手の好きなところを思い出すようにするんだ」


「なるほど。さっすが武虎。つまり感情のバランスを取るんだね?」


「その通り。さっすがと言われるほどじゃないが……まあ、それでうまくいくかは自分でもわからないけど、まずはその方針でいこう」


 完全無欠の対処法ではないとしても、しばらくは場当たり的な対処で様子を見るしかない。

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