18 おはようと言い合える関係(3)

 普通の温度感で声を交わし合えることに胸が躍っているのか、あるいは恋心も敵意も消えて平穏なのかわからぬまま授業をやり過ごして迎えた昼休み、騒がしい教室を出て静かに二人きりになれる場所で俺は美夜と向き合った。

 喜怒哀楽を抑えて、特に感情のない表情をしている美夜が俺に問いかけてくる。


「つまり、今の私たちは好きでも嫌いでもないフラットな関係だということなの?」


「ふむ。かなり前に美夜が語ってくれた天使の話が事実だとすれば、そういうことになると思うぞ」


 ただし、と念を押して付け加えておくことにする。


「大きくは間違っていないと思うが、好きでも嫌いでもない、というと語弊があると思う。好きでもあり嫌いでもあると言った方が感覚的には近い気がするな。たぶんだけど、どちらにも恋愛感情のない友達関係になっているんだと思う。特別な恋愛感情がない普通の幼馴染と言い換えてもいいが……」


「恋愛感情のない、か……」


「違うか?」


「ううん、そうだね。きっと違わないと思う。今の私たちには恋愛感情がないと思うよ」


 言うや否や、いきなり体を寄せてくる美夜。

 そのままそっと右手の指先で二の腕に触れてきたので、うろたえて離れる。


「なんだよ。なんで触ってくるんだよ」


「何をそんなに焦ってるの? ちょっと触っただけじゃん。武虎のそばにいてもそんなにドキドキしないから、これで自分の中の恋愛感情を確かめてみようかと思って。駄目だった?」


「駄目に決まってるだろ! やめてくれ!」


 女子に体を触られることに免疫はない。幼馴染である俺たちの間にもあまりなかったことだ。特別な好意や悪意がないからこそ当たり前のように手を伸ばしてきたのかもしれないが、予期せぬ突然のことに驚いたあまり、やや反応がオーバーになってしまったかもしれない。

 まるで嫌いな人間を突き放すように拒絶したせいか、その反応を見た美夜は想像以上に悲しそうな顔をする。


「え、やっぱり武虎は私のことが嫌いなの?」


 心なしか声も不安そうだ。

 せっかくこうして友達の関係に戻れたのだ。どちらかが相手を嫌うような関係は避けたい。


「違う! 嫌いじゃないからこそ困るんだ! お前な、そうやって気軽にスキンシップを図ってくるのは本当にやめろよ。ボディタッチは厳禁だ。過剰に馴れ馴れしくされたら俺はたぶん簡単にお前のこと好きになるぞ」


「過剰に馴れ馴れしくって、今のが過剰だった? ほんのちょっと触っただけじゃない?」


「ほんのちょっと触っただけでも惚れるもんだ。いい機会だから覚えておいてくれ」


「そっか。わかった。だったら触らない。不用意に近づくのも気を付けるよ」


 わかりやすいくらいに声が沈んでいる。ひょっとすると俺に拒絶されているように感じてしまったのかもしれず、このままでは好感度が下がってラブシーソーに悪影響が出てきてしまう。

 何か誤解されていると困るので、ここはフォローしておいた方がいいだろう。


「あと、そうやってすぐに不安になるのはやめてくれ。好きになることを警戒するあまり冷たくして悪かったが、お前の気持ちが少しでもネガティブな方に傾いてしまえば、きっと俺は明日にもお前を好きになってしまうからな」


「好きになるって言われてもな……」


「俺だっておかしなことを言っているとは思うけど、きっとすぐに好きになるんだからしょうがないだろ。幼馴染として小学生のころからずっと一緒にいたことからわかるように、俺と美夜はたぶん相性がいいんだ。もしかしたら一方的に俺がそう思っているだけかもしれないけどさ、少なくとも俺は今まで出会った人間の中で一番相性がいいと思っているんだ。喧嘩をしても結局は仲直りしてきたように、簡単なことでは嫌いになれない。なのに嫌っていたってことは、簡単でないことが起こっていたんだろう」


「簡単ではないことか……やっぱりそうだよね」


 言われるまでもなく思いつくのは一つ。

 超常現象であるラブシーソーだ。

 これまでの関係が綱渡り状態だったことを思えば、こうして穏やかに話していられる時間も限られている。数か月間のすれ違いを経て積もる話もあるけれど、そろそろ本題に入るとしよう。


「とりあえず俺と美夜で普通に問題なく話せるうちに話したいことを話しておくべきだろうな。まずはラブシーソーが事実だと仮定して、お互いにどうしたいのか現状確認をしよう。他の人に相談できない以上、せめて俺たちの間でくらい意志の統一をしておきたい」


「そうだね」


 美夜も納得して頷いてくれたようなので、どんどん話を進めることにする。


「俺たちのすれ違いの原因であるラブシーソーとかいう現象が始まったのは、高校に入学する前、今年の二月に二人で流れ星を見に行った夜の後だと考えていいんだよな?」


「そうだと思う。何か具体的な根拠があるわけじゃないけど、天使がそう言っていたから」


 ……天使。

 あまりにも普通のことのように美夜がそう言うので、茶化すこともできない。

 相手のことを好きになったり嫌いになったりする俺たちの感情が実際に何者かに操作されていると感じてしまうこともあり、ラブシーソーのことを伝えに姿を現したという天使が美夜の見た夢や勘違いだったと決めつけるわけにもいかない。


「天使か……。その存在を疑っているわけじゃないが、どうせなら俺の前にも出てきてくれればいいのにな。そうすりゃ胸倉をつかんででも現象を止めさせるのに」


「無理だと思うよ。透き通ってたから」


「……お前な、よく平気でいられるよな。それもうお化けじゃん。俺だったら正気でいられる自信がないぞ」


「いやいや、私もまったく平気じゃないったら! あの時は私だって腰を抜かしたよ! ほんとは一人ですごく不安だったんだからね! 平静を装っているだけだってどうしてわかってくれないかな!」


「あ、馬鹿! だから触るなって! 傾くだろ、シーソーが!」


「ご、ごめん!」


 顔を近づけて肩を揺らしてきていた美夜が距離を取る。

 相手に嫌われることを避けるためにはまず好きにならないことが必要で、ちょっとした出来事が原因で好きになられることも避けなければならない。どちらかが相手に踏み込みすぎた場合、お互いに落ち着く時間が必要だ。

 しばらく息を整えて、やけに激しくドキドキと胸を打っていた鼓動が冷静になったのを確認した俺の方から話を切り出す。


「とにかく天使が実在するものとして話を進めよう。そこで問題になるのが、どこまで天使の影響を受けているのかという切実な問題だ。好きだったのか、嫌いだったのか。ひとまず現象が起きる前の俺たちがどうだったのか確認したい」


「そうだね。何を話すにも、それを最初に確認しておくべきだと思う。武虎はどうだったの?」


 できれば先に美夜の気持ちを確かめておきたかったものの、どうやら俺から言わなければならないらしい。


「こんな状況だから隠さずに言っておく。俺は好きだったよ。幼馴染としてはもちろん、恋人として付き合いたいと思っていた」


「そ、そうなんだ」


 今は恋愛感情のない普通の関係のはずだが、さすがに好意を伝えられて無反応を貫き通すことは難しかったらしい。隠すでもなく、気持ちいいくらいに照れている。

 もちろん俺の方も気恥ずかしい。かつてあったはずの恋心が今は失われているとはいえ、ある種の告白には違わない。

 こちらだけがダメージを受けているのは不公平だ。


「美夜は?」


 少しでも答えやすくするため何でもないことのように尋ねると、もじもじと指を突き合わせて口を濁す。


「うーん、どうなんだろ。好きには違いなかったと思うんだけど、どうかな。恋愛って難しいよね」


「おいおい、はぐらかすのは卑怯じゃないか? 正直に言ってくれよ」


「……馬鹿。そう何度も言わせないでよ。好きには違いないって言ったじゃん」


「言ってくれたのはわかるけど、そういう遠回しな表現はやめよう。嘘や冗談じゃなくて、今は本気で確かめておきたいんだ。誤解やすれ違いが永遠の別れにつながりかねない。その時になって後悔しても遅いんだ。現象が起きる前の気持ちを知っておくことって、これからの俺たちに大事なことだからさ」


 頼む、と言って頭を下げる。

 しばらく唇をもごもごさせて抵抗していたものの、ついに美夜は観念して口を開く。


「好きだったよ。たぶんじゃなくて、本当に好きだった。もちろん恋愛の意味での好きだよ」


「ありがとう」


「それは、まあ、今の私に言われても困るんだけどね……」


 どうやら好き同士だったのは、理不尽な現象が起きる前の俺たちだ。

 ラブシーソーのせいか、好きだったころの感情は残っていないけれど、お互いに記憶だけは残っている。

 ただの友達に過ぎない今の俺たちが知ったところで何があるというのだろう。昔は両想いだったとわかって嬉しいような、今さら知ってしまって悲しいような、よくわからない気持ちだけが音もなく胸を満たす。

 もっと早くに伝えておけばよかったと、一握りくらいの後悔があるだろうか。

 いや、恋人関係になれなかったことに後悔が生まれるのは恋心が少しでも残っていた場合だけだ。

 でも本当にそうだろうか?

 自分の気持ちが自分でもよくわからず、悩ましくなってくる。

 それでも今までと違って苦しくないのは、ようやく友達の表情を向けてくれた美夜が一緒にいてくれるからだ。


「ねえ、武虎。普通にしゃべれるこの関係が私はすごく楽だな」


 確かに楽だ。美夜の隣にいて、すごく久しぶりに落ち着いていられる。

 孤独を感じてしまいかねないから、家に一人でいるよりも気楽で安心だ。血のつながった家族といるよりも居心地がいい。

 怒ることも悲しむこともなく、気を張る必要もない。

 ひょっとしたら不幸な状況かもしれないのに、この関係性を心地よく思えている。


「自分の気持ちが大好きな相手に通じない片想いはつらいけど、それにもまして誰かを嫌うのってエネルギーを使うよな」


 ネガティブな感情は想像以上に自分を傷つけていたのかもしれない。

 嫌う、避ける、嫉妬する、暴言を吐く。苛立ちやストレスを抱えて生きるのは自分を不幸にしがちだ。

 美夜も同じように考えているらしい。


「好きになると嫌われて、嫌いになると好かれてしまう関係、か。武虎が相手なら好きになるのに抵抗感はないけど、嫌いになるのは可能な限り避けておきたいな」


「俺も同感だ。だからこそ、お互いに相手のことを好きにならないように気を付けて生きていくべきだと思う。理不尽すぎるラブシーソーへの対処や対策も、友達関係を続けていくうちに見つけられればいいだろう」


「そうだね。どちらかが相手を嫌って、しゃべれなくなるのが一番の問題だと思う」


 こうして普通に会話ができる関係なら日常生活に支障もなく、いくらでも対策を練ることができる。

 ならば、当面の目標はこの関係性を少しでも長く持続させることだ。


「今日の放課後も文化祭に向けた脚本会議があるが、少し考えないといけないな。前回までは全く会話をしなかったのに、いきなり普通にしゃべっていたら俺たちの精神状態を疑われてしまう。かといって現象のことを説明するわけにもいかないから、なるべく自然な形で話すようにしたい」


「自然な形って?」


「脚本会議の中で、ちょっとずつ二人の会話を増やしていくんだ。最初は素っ気なく、ろくに目も合わせようとしない昨日までの感じで、いかにも仲が悪そうな演技をするんだ。それから少しずつ、ゆっくりと段階を踏んで、周りが不自然に思わないペースで仲良くなるっていうのはどうだ?」


「わかった。じゃあ、できるだけ段階を踏んで仲直りしていこう」


「そうだな」


 とはいえ、仲直りを演出するために自然な形で段階を踏むとは、具体的にはどうやればいいのだろう。

 なかなか難しい演技を求められている気がする俺だった。





 その日の放課後、いつものように俺と美夜は二人そろって脚本会議に参加していた。今の俺は昨日までと違って美夜に嫌われていないことは確認済みだが、その事実を周囲には教えていないので俺たち二人の間には会話がない。放課後までの短い期間で嫌われてしまったわけではなく、あえて距離を取っているのだ。

 いつの間にか仲直りしていた、ということにもできるが、あまりにも急すぎる。しかも、場合によっては明日以降に再び仲たがいする可能性もあるのだ。自分たちでも制御できていないラブシーソー。あまり周りを振り回す結果にはしたくない。

 とりあえず声をかけるきっかけになればと、事前に全員分の缶ジュースを買ってきている。

 脚本係のリーダーとして気が利いたふりをしつつ、さりげなく全員に配る。


「ほら」


「どうも」


 本当は普通にしゃべり合える仲だが、ぎこちない風を装って美夜が俺に会釈する。演技は完璧だ。これなら誰も俺たちの仲を疑うまい。

 あとはここからどうやって普通の関係に持っていくかだが……。


「あれ? あなたたち仲直りしたの?」


「えっ?」


 閨崎さんから飛んできた予想外の指摘に美夜が慌てて顔を上げた。

 その反応がすでに答えを告げているようなものだが、まだ確定されたとは限らない。明らかに目が泳ぎ始めている美夜だが、一応の抵抗を試みるらしい。


「き、嫌いですけど? 仲直りって何?」


 そこまでストレートに言う必要はない。誤魔化すための嘘だとわかっていても傷つく言葉だ。

 小さくないショックを受けた顔色が見抜かれたらしく、今度は閨崎さんが俺を見て眉をひそめる。


「これはまた何か事情がありそうね……」


 どうやら完全に疑われてしまっているようだ。すべてを見抜かれていないにしても、騙し通すのは難しい気がしてならない。

 いっそ言える範囲で何もかも打ち明けた方がいいだろうか。

 どこまで勘付かれているのやら、やけに落ち着いている志賀さんが閨崎さんに目配せをした。


「私に提案があるんだけど、閨崎さん、とりあえず彼らのプランに乗ってあげない?」


「賛成。正直よくわからないけど、二人に何かしらの進展があったなら安心ね」


「じゃあ、そういうことで」


 何か二人の間で決まったらしい。

 わかっていないのは置いてきぼりになっていた野村だ。


「どういうこと?」


「鈍感」


 志賀さんに怒られている。

 どちらかといえば志賀さんと閨崎さんの二人が特別に察しがよすぎるだけのような気もするが、あまり余計なことは言わない方がいいかもしれない。彼女たちにかかれば俺も鈍感な人間として批判の対象になりそうだ。

 というか、具体的につっこまれたら隠し通すのは無理だ。知らぬ存ぜぬで当初のプランを進めるしかない。

 その後、脚本のアイディアをみんなで出し合いながら、ちょくちょく美夜に話を振っていく。ぎこちないやり取りで不仲さをアピールしつつ、それでも少しずつ言葉のやり取りを増やしていく。

 そんなこんなで脚本会議が終わるころには三人の前で美夜とそっけなくしゃべれるくらいの間柄になった。


「じれったいわね」


 おそらく演技を見抜かれており、俺たちの作戦が通じていなかったらしい閨崎さんたちには幼稚園児の拙い演劇を見守られていたようなものだが、それは仕方ないだろう。大事なのは建前だ。





 これまでとは違った種類の疲れがたまった脚本会議が終わると教室を出て、このまま帰るのではなく一人でトイレに寄る振りをして四人から離れた。俺を待つことなく歩いて行った志賀さんたちの姿が完全に見えなくなってから美夜と合流する。

 周りに閨崎さんたちはいない。彼女も一人だ。

 もう警戒する必要もないだろう。ようやく一息ついて顔を見合わせる。


「ねえ、武虎。どうだった? 自然な感じで段階を踏めたかな?」


「自信があるなら考え直した方がいい。俺たちが劇の出演者側じゃなくてよかったと思えるくらい、どこからどう見ても駄目だったと思うぞ。志賀さんたちの優しさに救われたな」


 そう言ったら、なにやら美夜が顔を曇らせた。


「そっか。志賀さんにね……」


「どうした? 何か彼女に思うところでもあるのか?」


「いや、別に思うところがあるってわけじゃないけど……」


 そう答える割には浮かない顔をしている。本人は隠しているつもりかもしれないが、実にわかりやすい。

 問題の大小はともかく、あまり無視できない懸念があるのは確実だろう。


「今の関係は奇跡的かもしれないんだ。何が原因で感情が揺れ動くかわからない。俺たちに関係があることもないことも、この際だから気になることは何でも言ってくれ」


「……だったら言うけど。武虎は志賀さんのことが好きなの?」


「……は? どうしてそうなるんだよ」


 あまりに急な話で理解が追い付かなかった。

 志賀さんを好きだって? 俺が?

 全く身に覚えのない俺の反応が気に食わないのか、美夜は不服そうに唇をすぼめる。


「だって仲がよさそうだったから」


「仲良くしてもらってるんだ。彼女は誰にでも優しいからな。……いや、それは正確じゃないな」


「どういうこと? やっぱり好意があるの?」


 打って変わって今度は不安そうだ。あるいは疑っているのかもしれない。

 ともかく説明しておくことにする。隠すようなことではない。


「美夜、お前だよ。彼女は俺とお前の関係を気にかけてくれているんだ。どうやら自分のせいで俺たちの関係が悪くなったと思っているらしい」


 最初のきっかけは一学期、高杉の告白を止めなかったことだった。

 それ以来、彼女は美夜のために俺の相談に乗ってくれていた。

 俺と仲良くしてくれていたというよりも、なんとかして美夜に笑顔を取り戻そうとしていたのだ。


「そうだったんだ……。なのに私、嫉妬なんかして……」


「心配をかけたのは俺も同罪だ。馬鹿げた現象のせいで俺たちは苦しめられているけれど、それと同じくらい俺たちは二人で周りを振り回してしまった。これについては謝らないといけないな」


「うん。そうだね」


 万事解決という単純な話でもないけれど、どうやら美夜の懸念は一旦それで終わったらしい。

 なので今日はこのまま別れてもいいのだが、今度はこちらの懸念もなくしておくことにしよう。

 ちっとも気にしていない何でもないことのように話を切り出す。


「じゃあ話のついでだから俺からも聞きたいことがある。美夜は波多野先輩のこと好きなのか?」


「え。そんなわけないじゃん。どっちかって言うと武虎の方が仲良かったでしょ」


「それはそうだけど、俺が言っているのは今の話だ。夏休みにはよく一緒になってたんだろ? その、二人きりでさ……」


「遊びじゃなくて家庭教師でね。国語、数学、理科、社会、それから一番苦手だった英語、ひとまず平均点を取れるくらいにはしてもらったよ。それが恋愛につながるっていうなら、世の中の恋人たちはデートの代わりに勉強会ばかりしてそうだけど」


 呆れたような美夜の口ぶりからすると、真実を誤魔化すために嘘をついている様子でもない。波多野先輩が彼女にとっては家庭教師に過ぎないというのは本当らしい。どうやら俺の思い過ごしだったようだ。

 ここで終わればいいが、自分でも意外なくらいに問いかけが止まらなかった。

 すらすらと名前が出てくる。


「だったら野村は?」


「……野村君? なんで野村君? 優しくしてくれるから好きだけど、別に恋の相手として意識しているわけじゃないよ」


「そうか……」


 波多野先輩も野村も、仲良くしているからといって美夜にとって恋愛対象ではないようだ。

 今の俺は彼女に恋をしていないから嫉妬しているわけではないはずなのに、なぜか安心している。

 ほっとして胸をなでおろした俺とは対照的に、やや不機嫌そうな美夜は目を細めていた。


「次は誰を聞くの?」


「すまん、気を悪くしないでくれ。今はそうでもないけど、美夜のことが好きな時は他の誰かに気があるんじゃないかって不安でしょうがなかったんだ。みっともない嫉妬だから美夜が快く思わないのもわかるけどさ」


「……こっちこそごめん。先に言い出したのは私だもんね。実を言えば私もおんなじ感じだったから、あれこれと聞かれたくらいで怒るのは筋違いだったよ」


「お互い様だったってことだな」


「うん……」


 相手を疑うような言い合いになってしまったけれど、今のうちに懸念を解消することができてよかったかもしれない。もしも相手に遠慮して問題を放置していれば、確実に悪影響が出ていただろう。

 ここ数か月の経験があるだけに美夜もそれがわかっているのか、肩の荷が下りて嬉しそうにする。


「でも、これで気兼ねなく友達だね」


 こちらを見た美夜が俺に向けて笑った。

 不意打ちだったので、慌てて目をそらす。


「くそ、改めて思わされるけど笑顔が可愛いな……。ただでさえ隣にいると居心地がいいのに、そんな顔までされたら見てるだけで好きになっちまいそうだ」


「えっ」


「ちょっとでも親しげにされると嬉しくなる。たぶんすぐに好きになる。これは大変だぞ……」


 これまでとは違った理由で頭を抱えたくなってくる。簡単なことで好意を抱いてしまうほど、どうやら俺は美夜に対して惚れっぽいらしい。

 ある意味では嬉しい悲鳴かもしれないが、それが原因で関係性を破壊されるのはごめんだ。


「好きになるのを抑えるにはどうしたら……」


 うっかりつぶやいたら、それを聞いた美夜が声を荒げた。


「ああ、もう! あんまり好き好き言わないでよ! こっちだって意識しちゃうじゃん!」


「ごめん。わざわざ隠すことでもないと思って、つい口に出してしまった」


「わざわざ隠すことでもあるよ! ねえ、武虎、本当に気を付けて! この関係性を維持するためには絶対にシーソーを傾けちゃいけないんだから、ちょっとでも好きにならないでよね! そりゃ本来は嬉しいことなんだけどさ!」


 言ってくれる。それがどんなに難しいことかも知らずに。

 もちろん俺からも言っておきたいことはある。


「いいか、お願いだから少しでも俺のことを嫌いになるなよ。ただでさえ俺は美夜に好意を抱きそうな気配があるんだ。シーソーの傾きまで加われば、俺がどんどんお前のことを好きになって止まらなくなる」


「何を言ってんのさ。私が言うことじゃないかもしれないけど、それは嫌われないように武虎が努力すればいいじゃん。私だって現象さえなかったら簡単には嫌いにならないよ。伊達に何年も幼馴染やってないからね」


「いや、だから、そりゃそうなんだけどさ、美夜に嫌われないように努力を始めると美夜のことを考えるようになって好きになっちゃうだろ」


「……確かに。嫌われないように努力を始められたら、私も武虎のことが好きになりかねないかも」


「だろ?」


 これはなかなかに難しい問題だ。

 理由もなく相手を嫌いになるような関係ではない俺たちだが、逆に相手を好きになるのに特別な理由はいらない。

 困ったことに、俺たちは簡単なことで相手を好きになりかねないらしい。

 それは俺たちが子供のころから一緒にいた幼馴染だからだ。そもそも簡単に嫌いになれる相手なら、こんなにも長く友達として付き合ってはいられなかった。

 何を考えているのやら、ちらちらと美夜が遠慮がちに目配せをしてきた。


「これからこんなふうに相談したいことがたくさんあると思うんだ。だからスマホで連絡のやり取りをするようにしない?」


「ふむ……」


 それは必要な対処にも思える。気軽かつ頻繁に連絡を取り合えるようにしておくのは大事かもしれない。

 しばらく慎重に考えたうえで冷静に答える。


「……駄目だ。美夜のことが嫌いだからじゃなくて、それは慎重になるべきだと思うんだ。こうやって顔を合わせてしゃべるのと違って、文字でのやり取りは誤解やすれ違いを生み出しかねない。お前からのメッセージはすべて言葉の裏を読み取ろうとしてしまう。ただでさえ一人になると考えなくてもいいことまで考え込んでしまうのに、メッセージなんかもらったら夜に読み返して恋心が募りそうだからな」


「……否定はできないけどさ」


「一度連絡を取り合うようになると、次からは連絡を待つようになるんだよ。そして来ないと相手のことばかり考えてしまうようになる。それは今の俺たちにいい影響を与えるとは思えない。……はっきり言えば、美夜からスマホにメッセージが来たら俺は嬉しくなってお前のことを好きになりかねない。いや、間違いなく確実に好きになるだろう。ただの雑談でも通話をしてしまったら百パーセントだ。だからやめよう」


「そこまで言われると送りにくくなるね……」


「その方がいい。昼間はともかく、人肌が恋しくなる夜にやり取りするのはよくない」


 もしも寝る前に美夜のことを考え始めたら、きっと夢に美夜のことを見るようになる。

 それが悪夢なのか幸せな夢なのかはわからないが、なんにせよ感情は大きく動いてしまうはずだ。

 そう考えていたら、大事なことを思い出した。


「これは確実な情報じゃないから参考までに覚えておいてほしいんだけど、今までの経験上、就寝時に俺たちの感情が調整されるんだと思う」


「そういえばそうかも。嫌いになる前の日は悪夢を見ていたような気がするもん」


 就寝時というよりは、一日が終わるタイミングと言った方がいいのかもしれない。

 二人の眠る時間をずらせばいいとか、片方が徹夜していれば感情が操作されないとか、そう単純な話ではない気がするからだ。


「だから眠る前にやるべき大事なことがある。好きになりそうだったら嫌いな部分を思い出して、嫌いになりそうだったら好きなところを思い出すようにするんだ」


「なるほど。つまり感情のバランスを取るんだね?」


「その通り。それでうまくいくかはわからないけど、まずはその方針でいこう」


 完全無欠の対処法ではないとしても、しばらくは場当たり的な対処で様子を見るしかない。

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