17 おはようと言い合える関係(2)
閨崎さんが私を脚本補佐に誘った時、どうしてそんな余計なことを、と思った。
私が武虎に片想いしていた時は相談に乗ってくれたから、今回のこともその一環であろうことは容易に推察できる。けれど、残念ながら今の私は武虎に対して恋心を抱いていないのだ。
夏休みが明けて、二学期、そのことは閨崎さんにもはっきりと伝えておいた。
だから、もう無理に私と武虎をくっつけようとしてくれなくてもいいのだ。
「諦めがついたってこと?」
「そういうこと。諦めがついたっていうと実際には未練がありそうだけど、もうどうでもよくなっちゃったの」
どうでもいい。今の私の感情を言葉にするなら、それが一番しっくりくる。
模範解答を見つけた気分でいる私と違って納得ができないらしく、まだまだ別解があるに違いないと難しい顔をした閨崎さんは食い下がってくる。
「そうかしら? 私にはそうは見えないのよね」
「どうして?」
「人間の心って、そう簡単にはできていないから」
「……そうかな?」
「そうだよ。自分のことが自分でもわからないくらいなの」
普通の人と違って、私の心は単純だ。そう思っていたころがあった。
昔から自己主張するタイプではなかったこともあって、喧嘩や対立といった難しい人間関係もなく、遊びたいときに遊び、休みたいときに休み、誰に嫌われようと幼馴染である武虎さえ隣にいてくれればそれでいいと思えたから。
友情と恋愛が完全には分化されていない気がしたから。
でも、それは違ったんだ。
大人になるって、こういうことだろうか。
かつては確実にあったはずの恋慕や信頼が薄まり、それに反比例するようにして痛みや苛立ち、ままならなさが心の中で存在感を増している。
どうにもならなさが、私の大切な記憶や思い出を踏みにじるような痛みがある。
大切な記憶や思い出。
どうでもいいと思っている相手との記憶をそう感じるだろうか、という疑問には蓋をする。
「しゃべりたくない、というわけじゃないけど、なんだろう。好きだったころとは違う意味で顔が見れないの。あまり見たくない、という意味で」
「ふうん、奇妙で難しい話ね。あんなに武虎君のことが好きそうだったのに、まるで気持ちが反転したみたい。……何かきっかけは?」
「えっと、きっかけっていうのは、何だろうな……」
嘘か本当か今ではわからなくなっている天使に口止めされているせいで、話せないことがたくさんある。
かといって私のことを心配してくれている閨崎さんには適当なことを言いたくない。
「私には言えないこと? だったら他の、たとえば志賀さんだったら大丈夫?」
「えっと……」
志賀さんか。その名前を聞いて私はちょっぴり胸が痛くなった。
「どうしたの?」
「実は最近、志賀さんとも上手く話せなくなってて」
「え、そうなの?」
「なんというか、その、彼女と武虎の仲がいいように見えるから……」
実際に口にしてみて恥ずかしくなってくる。
こんなのは嫉妬だ。それも年端のいかない子供じみたやきもち。
なのに閨崎さんは責めるでもなく、優しく私に寄り添ってくれる。
「なるほどね。たぶん彼女も私と同じようにあなたたちのことを心配しているだけだと思うけど、気が気じゃないというのはよくわかるわ。確かに志賀さんは男子との距離が近いものね」
「いや、違うの。少し前の私は武虎のことが好きなあまり志賀さんに嫉妬してしまったんだけど、今の私は全く嫉妬心がないの。でも、こう、一度は開いてしまった距離を埋めるのって、私にはすごく難しくって。ひょっとしたら気にしているのは私だけかもしれないけど……」
志賀さんのことが嫌いになったわけではない。間違っても友達でなくなったわけじゃない。
ただ勝手に気まずさを感じているだけなのだ。むしろ本当は仲良くしたい。最初の頃みたいに、閨崎さんに負けないくらい優しい彼女と気兼ねなく向き合いたい。
悪いのは私だ。うまくできないのも私だけ。
「オッケー、わかった。そっちの方は私に任せて」
いつも私を気にかけてくれる閨崎さんがそう言ってくれたので、私はすごく救われた気分になった。
金曜日、学校が終わって家に帰ると客人の姿があった。
「先輩、来てたんですね」
「ああ、お邪魔させてもらってるよ。一応は約束だったんでね。家庭教師をしに来たと言えば、後は椅子に座ってるだけでも一日分のバイト代が出るから助かっているんだ」
夏休みから引き続き、家庭教師をしてもらっている波多野先輩だ。
リビングで待っていたらしい彼は私が帰宅したのに合わせて、少し時間を置いてから私の部屋に入ってきた。
「本当は夏休みの間だけって話だったけど、このまま家庭教師を続けてほしいか? 今日も帰りが遅かったみたいだが……」
「すみません。文化祭で劇をやることになって、その脚本を考えていたんです」
「へえ、劇の脚本を考えているのか。もしかして美夜ちゃんが一人で?」
「まさか。一人じゃありませんよ。武虎と、後は何人かクラスの友達で考えてるんです」
「なるほどね。武虎も一緒なのか」
「はい、まあ……」
一緒と言っても、本当の意味で一緒にやれているとは言えない。万全な状態で協力できているとは思えず、しかもそれは主に私が原因なのだ。
だから先輩への返答もはっきりしないものになった。
何を勘違いしたのか、沈んだ顔色でいる私を見た先輩がくすりと鼻で笑った。
「ふーん。その煮え切らない反応を見るに、あいつには苦労させられているみたいだな」
「いえいえ、迷惑をかけているのは私だと思います。武虎は面白い脚本を作るんだって意気込んで、放っておいたら一人で全部書いちゃいそうなくらいですよ」
その姿が頼もしくもあり、意図的に距離を置いて協力できずにいる私が足を引っ張っているようにも感じられてしまう。
家庭教師のために持参してきたらしい参考書をパラパラとめくりながら、興味がなさそうに先輩がつぶやく。
「そんなことないぜ。あいつ、才能ないよ」
「……え? けど、先輩は武虎の相談に乗ってあげていたんじゃないですか?」
確かそのはずだ。中学生のころ、私を通じて知り合った武虎と先輩は親しくなって、一時期はよく武虎が相談に乗ってもらっていたという。
その関係も先輩が高校を卒業して大学に入学したころを境に終わってしまったと聞いていたけれど、短い間ながら、お世話になったと武虎はよく言っていた。
パタンと音を立てて参考書を閉じた先輩が肩をすくめた。
「読んだことある? 武虎の小説。いやあ、今思い出しても完成度の低い小説だったな。まともに読めたもんじゃないぜ。面白いから付き合ってやっていたけどさ、別に小説の内容が面白かったわけじゃないぞ。へったくそな小説を書いてくる武虎の相手をするのが面白かったんだ。才能もないくせに本気であがいて、それが出来損ないだから笑いをこらえるのも大変だった。つまんない劇をやらされる羽目になるだろうから、美夜ちゃんたちのクラスが気の毒だよ」
「馬鹿にしないでください!」
気づいたら両手で机を叩いて椅子から立ち上がっていた。
自分でも驚くくらいにすごい剣幕になっていたのかもしれない。
喧嘩を売られたように感じたのか、先輩が不機嫌そうに目を細めた。
「……は?」
「あ、す、すみません」
つい大声を出してしまったことを反省して首を縮めてしまう。
年齢が四つも離れている先輩とは今まで一度だって喧嘩をしたことがないけれど、本気で怒らせてしまえば私に勝ち目はない。
申し訳なさと恥ずかしさから顔を上げられずにいると、先輩がわざとらしく明るく言った。
「あー、そっか、すまんすまん。好きなやつの悪口を言われれば、そりゃ気分悪いよな」
「別に好きじゃありません」
「じゃあ嫌いなのかよ」
「……それは、別に、嫌いというわけでもないです」
嘘だ。今の私は武虎のことを避けている。好きか嫌いかで言えば、嫌ってしまっている。
だけどそんなのは関係なかった。
嫌っていても、無視していても、自分以外の誰かが武虎の悪口を言うのは許せない。
ただそれだけの話。
それに、たぶん、心の底から嫌っていても私には武虎に対する信頼がある。
武虎は……武虎は、ちゃんとやれるはずだ。
「先輩、お願いです。文化祭の劇、ぜひ見に来てください」
「やだよ。所詮は身内のお遊戯会でしかない高校の文化祭なんか見たって、内輪のノリを知らない部外者には面白くもなんともないからな。幼馴染として武虎の肩を持ちたいのかもしれんが、もし俺を見返したいってんなら、ちゃんと世間に認められてプロになって見せろよ」
悔しいけれど言い返せない。先輩の言い分はもっともだ。
ため息をついた先輩が参考書をカバンにしまい込む。
「……家庭教師は今日で終わりだな」
「すみません」
「謝る必要はないだろ。バイト代がもらえなくなって残念ではあるがな」
どこまで本当に残念がっているのか、そう言った先輩は部屋を出ていってしまった。
ぽつんと一人残された部屋で、先輩と言い合うような結果となってしまった私は考える。
武虎のことを嫌っているからといって、協力しないのはおかしいのではないか。好きでない相手と一緒にいるからと言って、他の人たちの足を引っ張って迷惑をかけるのは違うのではないか。
そう考えると、今までの自分が何をやっていたのかと我ながら情けなくなってきた。まるで子供だ。こんな私が誰かを偉そうに嫌う資格はない。誰かを意識的に避けている場合ではない。
来週からは真面目に、本気で、しっかりと力になろう。
武虎や私のためではなく、まずはクラスのために。
……その日、私は燃えるような夢を見た。
ただし、それは、いつか見た武虎を追いかけるような夢ではなく、武虎と二人で同じ目標に向かうような夢だった。
週明けの月曜日。
土日の連休中は深夜遅くまで脚本作業に打ち込んでいたせいか、すっかり睡眠不足になっていた俺はくたびれた足取りで教室に入った。
当然、いつものように時間ギリギリだ。
眠さもあって、あまり頭が働いていない。
どうせ声をかけても無視されるかもしれないな、と思いつつ美夜に挨拶をする。
「おはよう、美夜」
「うん、おはよう」
ああ、うん。じゃあまたあとでな。
そう思って通り過ぎたところで、慌てて立ち止まる。
「えっ、おはよう?」
高校に入って数か月、ようやく普通に「おはよう」と言い合えた俺たちだった。
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