14 彼女を好きでいたい(2)

 汗がにじむくらいに蒸し暑い体育館の中で行われた終業式の後に夏休みが来て、これから始まる長期休暇を居心地よく過ごすために部屋を片付け始めた私は、机の引き出しにしまっていた一冊のノートを手に取った。

 子供のころから作文を苦手とする筆不精な私が数日間だけ書いていた日記だ。

 書いていたのが数日間だけ、というと三日坊主に思われるかもしれないが、一か月も経たずに書くのをやめてしまった理由は自分でもよくわかっている。飽きたとか面倒臭くなったとかではなく、武虎を好きな頃に日記をつけ始めたからだ。

 馬鹿みたいにまっすぐな言葉で、大好きで仕方ないという武虎への思いを赤裸々に、愛情たっぷりな手書きの文字で書き綴っている。

 はて、これは本当に自分の気持ちだろうか?

 知らない誰かが書いた作り物の小説を読んでいるみたいだ。


「これはさすがにね……」


 久しぶりに読み返していて恥ずかしくなってきたので、赤文字で先生が生徒の間違いを訂正するように今日の日付で書き記しておく。

 全然好きじゃない、と。

 それから何日か経って、再び日記を開く。改めて読み返してみると、さすがに書きすぎた気がしてくる。

 あまり好きじゃない、と。

 さらに数日が経過して、そう言えば最近は顔すらも見ていないんだと思うと、なんとなく寂しくなってきたのを感じ始める。

 そんなに嫌いじゃない、と。

 新しく封を開けた黒のボールペンを使い、にじむほどの濃い文字ではっきりとそう書いたところで、そういえば何か武虎に手渡されたことを思い出す。おぼろげになっている私の記憶が確かなら、茶色い封筒に収められた手書きのラブレターだったはずだ。

 あの時はまったく読む気が起きなくてノートと一緒にしまっていたけれど、短くない時間が経過した今なら読んでみてもいい気がした。


「うわぁ、これはこれは、すごいね……」


 日記をつけ始めたころの私に負けず劣らず、恥ずかしげもなく愛を叫んでいる。

 好きだとか、大好きだとか。

 冷たくしたのや嫌っていたのは天使とかいうやつのせいで、本当は昔からずっと美夜のことを幼馴染として以上に強く想っているんだとか。

 ……ふーん、へえ、武虎って私のことがこんなに好きなんだ。

 むずがゆくなってくるものの、悪くない。

 知らず知らず、えへへと顔がにやけているのに気づいて、ごほんごほんと慌てて咳払いをした。

 ひょっとしたら、今なら適度な距離で武虎と話し合えるかもしれない。

 そう思っていたら、夏休みに入ってからも頻繁に相手をしてくれる優しい閨崎さんから連絡が来た。大切な要件があるというわけでもないらしく、あってもなくても構わないような雑談だ。

 けれどそれがすごく嬉しい。

 軽く文章だけでメッセージのやり取りをしてから、声が聴きたくなったので通話に移る。


「そういえば、知ってる? 今ね、武虎君って小説を書いているんだってさ」


「武虎に聞いたの?」


「ううん、志賀さんに聞いた。武虎君としても書いたものに対する読者からの感想が欲しいってので、何度か相談に乗ってあげてるんだって」


「へえ……」


 あまり興味がない話題だとアピールするあまり、思わず返事が冷たくなった。想定以上に低く響いてしまった声のせいで機嫌が悪いと思われたくないため慌てて元気よく取り繕ったけれど、心のもやもやを完全に追い払うことはできない。

 そっか、志賀さんが。二人は夏休みにも会って何度か話をしているんだ。

 そう考えるともう駄目で、心がざわざわと騒ぎ立ててしまう。

 どちらかといえば自分から距離を置いていたくせに、いざ武虎が私のそばから離れていこうとすると嫉妬を覚える。

 悲しみや、寂しさや、焦りや悔しさも主張を強くする。

 これはいったいどういうことだろうか。

 どのように考えてみても、我ながら普通ではない気がしてならない。

 もしこれが普通のことではないとすれば、やはり天使の存在は私が見た夢や幻想などではなく、本当の話だったのかもしれない。


「閨崎さん、じゃあ、また今度。今日はわざわざ声をかけてくれてありがとう」


「ん。調子が悪いときにごめんね。お大事に」


 んんっと、わざとらしく何度かせき込んで、今日はちょっと喉の調子が悪いなぁと言い訳をして、疑いもせずに私の体調を心配してくれた閨崎さんとの通話を切る。

 中学生ぶりに小説を書き始めたという先ほどの話が気になるものの、こちらから武虎に連絡を取ることはできない。いつの間にか武虎と小説の話をするほど仲良くなっているという志賀さんに対しても、高校で最初にできた大切な友達のはずなのに連絡ができない。

 一人ぼっちで悶々としているうちに何日も会えない日が続き、私はゆっくりと、けれど確実に恋を取り戻していった。

 気が付けば八月。家でおとなしくしていても熱中症になりかねない連日の猛暑は厳しく、冷房をつけてうだるように天井を仰ぎながら、夏の太陽にも負けないほどに熱くなり始めている恋心を確信して私は嘆いた。

 ああ、なんてことだろう。

 もしも天使の力が本物なら、きっと今頃、武虎は私のことを嫌っている。

 それも普通の嫌いではなく、顔も見たくないほど大嫌いになっている。

 ラブシーソーが事実であるなら、好きと嫌いの感情は反比例するのだから。

 ……でも、それは本当だろうか? 毎日のように学校で会っていたころと違って、もう何日も武虎の顔を見ていないので嫌われている実感はない。

 確かめたい。今すぐにでも状況を確認したい。私たちを苦しめている不思議な現象はすべて何かの間違いで、好きだと言ってくれた武虎の気持ちがそのままで、ようやく二人が両想いになれていたら……。


「……ん、武虎ぁ」


 好き、と言いかけて愛の言葉を飲み込む。

 万が一にも部屋の外にまで声が響いて、ちょうど廊下に居合わせていた家族に聞かれてしまったら恥ずかしくて死んでしまいそうだからだ。

 熱くなった顔を下に向けて視線を落とせば、手元には宝物と感じるようになった武虎からのラブレターがある。

 前に会った時に彼から無理やり渡されて、露骨に不機嫌そうな顔をして嫌がりながら受け取ってからは捨てるように放置していたのに、好きになってから読み返すとこれが不思議で、もう嬉しくて幸せでたまらない。

 武虎が書いてくれた文字が躍り、言葉が歌となって、熱い気持ちが伝わってくるように私の気持ちも燃え上がってくる。

 何度となく読み返す度に好きになり、おそらくは私の心に連動して武虎は遠ざかっているのだろう。

 会いたいのに、会いたくない。この状態で武虎と会ったとしても、すれ違う可能性が高い。

 どうしても会うというなら万全の策を講じなければ。

 それにしても、ラブレターというのは名案だ。日記を読み返した自分がそうであったように、いつの日か天使の力で私が彼のことを嫌いになったとしても、その影響を受けていない現時点の私が武虎のことを本気で好きだったと伝えることができる。

 残酷なことに天使の存在が本物で、たとえラブシーソーという理不尽な現象から抜け出せないとしても、私たちは時間差でなら両想いになれる。

 いつか顔を見たくないくらいに私が嫌ってしまったとしても、その時に私を好きになってくれているであろう武虎に対して、今の純粋な気持ちを返すことができる。

 そう考えたら書かずにはいられなくなった。

 とにかく自分の中からあふれてくる「好き」という感情を文字に起こして、伝えなければならない。





 数日後、せっかくの夏休みだからと閨崎さんに誘われて、遊びに出かけることになった。最初は二人きりだと思っていたけれど、あれよあれよと話が膨らんで、他にも何人かで集まることになった。

 志賀さん、高杉君、野村君、そして武虎の四人だ。

 ほとんど確実に嫌われているから気まずさもあるけれど、願ってもない渡せるチャンスが来たと思ってラブレターを持ってきたせいで、ちらちらと盗み見て絶好のタイミングをうかがう私はまるで不審者だ。

 おそらく不仲になっている私と武虎が原因で場の空気を悪くするのは本意ではない。恋をしている相手である武虎も大事だけれど、同じくらいに友達も大事だ。武虎の方もそれを理解しているらしく、露骨に不機嫌な表情は見せてこなかった。

 本心はともかく、理性や常識で取り繕えるくらいの嫌われ具合で顔も見たくないほどに避けられていないのなら、焦らなくても渡せるチャンスはあるかもしれない。

 心の底から無邪気に楽しむことができたかというと疑問ではあるけれど、久しぶりに顔を合わせた友達と遊べて楽しかったのも事実。

 ひとしきり休日を満喫できた充実感を胸に抱えた帰り際、呼び止めるなら今だと思って声をかけることにした。


「武虎、ちょっといい?」


「……なんだよ?」


 また美夜か、という雰囲気。予想はできていたので、めげずに声を続ける。


「私から渡したいものがあるの。よかったら受け取ってくれる?」


 押し売りの行商人になった気分で、向こうからの返答を待つより早く、半ば強引にラブレターを渡す。

 今は読んでくれなくてもいい。受け取ってくれさえすれば希望は残る。


「こういうの、困るんだけど」


「そう言わずにさ。私だって受け取ったんだから、武虎もちゃんと受け取ってよ」


 嫌いな相手だからって、武虎の性格なら相手からの好意をないがしろにはしないはずだ。想いのこもったプレゼントや手紙を受け取れば、ある程度は大切にしようとしてくれるに違いない。

 読みもせずに、いきなり捨てることはないはずだ。

 これは、信頼。

 恋人とかではなく、幼馴染としての相手への信頼だ。


「……わかったよ」


 とりあえず、といったしぐさで私の手紙をポケットに突っ込む武虎。


「これは受け取っておく。……けど、ちゃんと読むとは限らないぞ。少し前に美夜に渡したラブレターだけどさ、実を言うと俺は後悔しているんだ。どうしてそんなことをしちまったんだ、ってな」


「うん、大丈夫。受け取ってくれただけで嬉しいから」


 武虎の反応は浮かないが、それは彼のラブレターを受け取った際の自分も同じだった。きっとあの時の武虎も、今の私と同じように感じていたのだろう。

 そう思うと、彼の強さや優しさを何週間も遅れて意識することができる。

 冷たく対応されると分かっていながら、それでもラブレターを渡してくれた。つまりあの時の武虎は本当に私のことを好きでいてくれたのだ。

 それを実感すると、なんだか不思議な高揚感に包まれた。


「ありがとう。じゃあ、また」


 今まではずっと武虎に好かれたいと思っていたけれど、自分の胸にある武虎への好意に自信があるなら、いっそ嫌われていてもいいという気持ちへ変化してきたような。

 焦る必要はない。

 目先の反応の一つ一つに落ち込むばかりじゃなくて、この夏休みを前向きに過ごそう。

 武虎のことは大好きだけど、大好きだからといって色恋沙汰にばかりうつつを抜かしていては、自分の人生をないがしろにしてしまう。自由な時間がたっぷりある夏休みの期間を利用して趣味に生きるのもいいけれど、ほどほどに勉強を頑張ってみるのもいいかもしれない。胸を張れるような夢や目標が見つからなくても、将来の選択肢を広げる結果につながるだろう。

 悩みや不安も、一生懸命に頑張って勉強に集中している間は忘れていられる。毎日が楽しいときは勉強が嫌になるけれど、それとは逆の現象だ。

 よし、頑張ろう!


「え、家庭教師? 明後日から?」


「そ。どうせ一人だと気が散って勉強なんてできないんだから、ちゃんと教えてもらって頑張んなさい」


 ……なんて考えていたら、高校生になって最初にもらった通知表を見て私の学力と将来を心配した親が知り合いの青年に家庭教師を頼んだと言ってきた。お母さんが高校生のころに友達だった女性の一人息子で、私よりも四つ上の大学生だ。もちろん頭はいい。

 その人は名前を波多野さんといい、親同士が知り合いなので、私とは子供のころから一応の交流がある。そうはいっても年齢が離れているため同年代の友達という感覚は全くなく、どちらかというと親戚のお兄さんという感じだ。

 一時期は無理を言って一緒に遊んでもらっていたこともあるので、幼馴染の武虎ほどには仲が良くないけれど、必要以上に気を遣って緊張するような相手でもない。全く知らない人に教わるよりは集中もできるだろう。

 どうせ武虎とは遊べないのだ。

 そう覚悟した私は残りの夏休みを頑張ることにした。





 こんなものを受け取ってどうするんだ、と今さらながらに思う。

 目の前にあるのは美夜が書いてくれたラブレター。心無い罵詈雑言が書き連ねてあるわけではなく、おそらく好きだと言ってくれているのだから、もちろん悪い気はしない。受け取った俺に彼女に対する好意がないだけだ。

 好意。友達へのそれではなく、恋人になりたい相手に向ける恋愛感情。

 幼馴染だからといって、それを伝えることは簡単ではない。

 勇気を出してくれた彼女の気持ちを否定的に読み捨てることはしたくないので、そっくりそのまま受け入れることはできずとも、とりあえず大切にしておこうと読まずにしまっておく。

 そういえば、いつだったか俺も美夜にラブレターを書いて渡したんだったな。好きだとか、愛しているだとか、こんなところが可愛いだとか、感謝しているとか、よくもまあ恥ずかしげもなく書けたものだ。

 はて、あの時はどうしてあそこまで彼女に入れ込んでいたのだろう?

 美夜が語ってくれた天使の話を真に受けて、そんなものに操られてたまるものかと意地になっていたのかもしれない。

 あるいは本当に天使の力で気持ちを捻じ曲げられてしまったんだろうか。

 ……けど、そんなことが実際にありえるのか?


「ううむ……」


 現実逃避を兼ねて小説を書いていると、現実のものとは思えぬ天使の話を意識せずにはいられなくなってくる。

 天使の話を意識すれば、それに付随して美夜のことを考えずにはいられなくなってくる。

 今の俺はそうでなくとも、かつては確実に好きだったのだ。それも数年前の話というわけでもなく、数か月前、数週間前、もっとひどいときは数日前まで。

 小説の中で恋愛のことを書こうとすれば、どうしても自分の経験を参考にせざるを得ず、その相手は美夜以外にないから、好きじゃないはずなのに彼女の存在がどんどん大きくなってくる。

 夏休みに入って顔を見なくなり、声を聴かなくなり、話をしなくなり、俺は彼女のどこを好きでいて、どうして嫌いになったのだろうと考えるにつれて強く意識するようになり、果たしてそれは何を意識しているのだろうと疑問になる。

 恋だろうか。

 けど、それは違う気がする。

 でも、それは違うと考えるのも違う気がする。


「はあ……」


 ため息が漏れた。

 何かと親切にしてくれる志賀さんと仲良くなって、友達として何度も会って、このまま彼女のことを好きになるかとも思ったけれど、どきどきするくせに恋心につながるような気がしない。

 高杉や野村に感じるものと同じ、純粋なる友達としての好意だけだ。

 好きになっても、嫌いになっても、やはり俺にとっては美夜が特別なのだ。

 結局、本当の意味で恋人になりたいのは美夜以外に考えられない。好きでも嫌いでも、他の誰かと恋人になる想像はなかなかできない。もしも彼女を嫌いになったら、いつまでも嫌いのままだったら、もういっそ一生を孤独に一人きりで生きていくしかないくらいだ。

 むしろ、そう、ありもしない最悪の可能性までを考えれば、どんなに嫌っていても構わず美夜がどうしてもというなら、どうせ別の相手はいないのだし、嫌いなままで結婚してもいいとさえ思えてくる。

 ……でも、それはどうなのだろう?

 ふと冷静になって俺は我ながら不思議に思った。

 つまり、それは、じゃあ、結局は美夜のことを好きということじゃないのか?

 美夜のことを、本当の意味では嫌いになれていないということじゃないのか?

 そういう疑問を一度でも抱いてしまえば、それは少しずつ確信に変わっていくような気がした。

 数日後、夏休みに入ってからは美夜と同じく疎遠になっていたが、久しぶりに彼女の妹である陽菜ちゃんと連絡を取った。楽しくゲームをする気分になれないので雑談をしていると、聞き捨てならない話を教えられた。


「家庭教師?」


 なんでも、美夜が家庭教師に勉強を教わっているというのだ。

 しかも相手は大学生の男子。俺の知り合いでもある波多野先輩だ。

 親同士が仲がいいからたまに遊んでもらっているだけで、親戚のお兄さんみたいなものだと彼女は言っていたが、そうは言っても高校生と大学生の男女が一つの部屋でひと夏を過ごすのだ。

 勉強のためとはいえ、気が気ではない。

 だがしかし、二人のことが気になるからといって、まさか彼女の部屋にまで乗り込むわけにもいかない。

 何ができるわけでもなく、さらに一週間が経って、八月は中旬を過ぎ、夏休みも残すところ二週間くらいになった。

 会いたい。

 彼女に会いたい。

 その感情が驚くほど素直に胸を満たして、同時に俺は恐怖と不安を覚えた。

 天使の話が事実なら、彼女は今頃、強烈なまでに俺を好きではなくなっているに違いない。

 恐る恐るラブレターを取り出して、あの時は読みもしなかった文面に目を通す。

 そこにはたった一言、こう書いてあった。


 ――私のことを好きにならないで。


「は、はは……」


 気を張っていただけに、思わず笑いがこぼれた。

 ……馬鹿だな、美夜は。

 彼女のことだから、俺にはよくわかる。俺のことが嫌いだから俺に好かれたくないのではなく、俺のことが好きだから俺のことを嫌いになりたくないのだ。

 それくらい本気で俺を好きでいてくれたのだ。

 だったらもう、誰かを責めるのはやめよう。つまらない嫉妬をするのも、期待通りにいかないと悲しむのも、感情に任せて怒るのも、自分が報われるために何かを期待するのも。

 俺はただ、昔からそうであったように彼女を好きでいる。

 それだけでいい気がした。

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