13 彼女を好きでいたい(1)

 これといった理屈があるわけではなく、訳も分からぬまま暴走した感情が美夜を嫌って遠ざけようとしていた。

 関わりたくない。喋りたくない。なんなら顔も見たくないし、相手から向けられる好意がちっとも嬉しくない。

 不思議なくらいに根深いネガティブな感情が俺の心にまとわりついていた。

 幼馴染としての度を越えて美夜がまとわりついてくるせいで、うっとうしく感じていたのかもしれない。思春期に入った子供が親に対して距離を置きたがるのと同じような一種の反抗期だったとすると、近すぎたがゆえに美夜を避けたがった理由を自分でも無理に納得できる。

 だから、何かを諦めた彼女の方から遠ざかるのを感じるにつれ、謎の嫌悪感は潮が引くように薄まっていった。

 こちらを見ていた美夜からの視線を感じなくなり、わざわざ立ち止まって声を掛けられることもなくなって、ほんの少し前まで抱いていた彼女へのネガティブな感情の一切が徐々に失われていくのを感じた。

 それから数週間をかけて、不用意な接触を避けるために彼女との間に建てていた高い壁が少しずつ切り崩されていった。

 少なくとも、すでに今の俺には彼女への接近を妨げる悪意は存在しない。

 しかし、どうだろう?

 俺から積極的に彼女との関係性を取り戻そうと行動することへの抵抗感や、それをよしとしない意地っ張りな部分はあるのかもしれない。ほんの少しのきっかけで以前の関係に戻れそうな気がするのに、こちらから声をかける意思やきっかけを失っていた。

 そもそも美夜と仲直りしたいのだろうか、俺は。

 一度は致命的なくらいに心の距離が開いてしまった幼馴染に対して、そこまでの熱意があるわけでもない。どちらかが傷つくのを覚悟して、無理をしてまで再び仲良くする必要があるんだろうか。

 昔はともかく、今では美夜は単なるクラスメイトの一人。

 一時期は確実に恋に落ちていたのに、そういう味気ない認識で落ち着いてしまっている。

 そのはずだったのに。


「美夜の奴、あんなに男子と仲良かったのか」


 とある休み時間、ちょっと抜けているが真面目でおとなしい野村と楽しそうに話す美夜の姿を見て、何とも言えない嫉妬心のようなものが湧き上がる。

 顔も見たくないほど嫌っていたはずなのに、一度そういうことを意識してしまうと駄目だ。制御できない感情というものは意思に反して大きくなって、どんどん加速してしまう。

 必死になって抑える必要があるのかもわからない恋心。

 声を掛けたい。話しかけたい。

 恋人になれなくてもいい、せめて友達として楽しくしゃべりたい。

 そう思っても、まさかそんなことができるわけがない。今でもはっきりと覚えている。なにしろ俺のほうから彼女を遠ざけたのだ。

 今さらになって、くるりと手のひらを返したように自分から美夜に声をかけるなんて。


「けど、このままじゃあ……」


 スマホのカレンダーを見れば、一学期も終盤に差し掛かっていた。声をかけられないまま何もできずに手をこまねいていれば、このまま終業式を迎えて夏休みに突入してしまう。学校に行く用事もなければ部活もやっておらず、連絡も取り合っていない状況で一か月以上も顔を合わせない日が続けば、今度こそ本当に決定的な別れになりかねない。

 偏見に満ちた個人的な印象論であり、これといった根拠なんて何一つないけれど、高校生にとっての夏休みは小学生や中学生までの夏休みとは違う気がする。友達といっぱい遊べるぞ、という子供じみた長期休暇ではなくて、大切で貴重な「青春」の二文字が強く浮き出てくる。

 会えないだけならいい。いや本当はよくはないが、もしも美夜が夏休みの間に他の男子と付き合うことになってしまったらと考えると、居ても立っても居られなくなる。

 おかしいのか、おかしくないのか、一日ごとに俺にとっての美夜の存在が大きくなってくる。

 あんなに嫌っていたのが自分でも信じられないほどに心変わりしてしまう。

 いったいこれはどういうことだろう。


「そう言えば、美夜が何か言ってたな。あの時は冗談だと思って聞き流していたけど、確か、天使がどうとか言っていた気がする……」


 なんでも俺たちの願いを聞き届けた天使がいて、人知の及ばない不思議な力で俺たちに何かしたとか。いまいち記憶の精度に自信がないけれど、美夜はそれを「ラブシーソー」だとか言っていたような気がする。

 好きになると嫌われて、嫌われるほどに好きになる。シーソーの両端が交互に上がったり下がったりするように、俺たちの感情が悪い方向に連動しているんだったか。

 なら、今の俺が抱いているこの感情は俺だけのものではなく、彼女が離れていってしまったことに起因するのだろうか。


「馬鹿馬鹿しい……」


 そんなわけがない。美夜によれば天使が願いをかなえたのは今年の二月。正確な日にちはわからないにしても、そのずっと前から俺は美夜のことが好きだったのだ。得体の知れない天使に恋心が操られているわけじゃない。

 でも、それだけに美夜のことを嫌っていた先日までの感情が自分でも理解できなくなる。

 好きだったのはもともとだったとしても、嫌いになっていたのは天使のせい?

 じゃあ、もしかして、ひょっとしたら彼女は本当のことを言っていたのだろうか?

 天使の存在も、不思議な現象も……まさか本当に?

 だったら、あの時の美夜は俺に本気で相談したかったのだろうか。

 あの時の美夜は自分が天使のせいで嫌われているとわかっていて、それでも俺が話を聞いてくれるだろうと、そして理不尽な状況を解決するために協力してくれると信じていたのだろうか。

 ……だとすれば、やはり俺は彼女に悪いことをした。幼馴染から得ていた信頼を裏切り、冷たく突き放す最低なことをしてしまったかもしれない。

 今までのことを謝るにしても、天使のことを相談するにしても、なんにせよ美夜と直接会って話をする必要がある。このまま一人でうじうじと考えていても進展はなく、彼女との関係のことなので自分だけの力で解決できる問題ではない。

 そう考えた俺はその日のうちに声をかけることにした。

 善は急げだ。気まずさや逡巡は積み重ねるほどに新たな迷いを生み、一度でも後回しにしてしまえば、どんどん足が重くなる。


「美夜、すまん。俺のことはよく思っていないだろうが、ちょっと話を聞いてくれないか」


「ごめん、今度にしてくれる?」


 うむ、ここまでは想定内だ。

 おそらく嫌われている以上、すげなく断られるのを前提で声をかけている。


「そう言わないでくれ。大切な話なんだ」


「大切な話? その話、私が聞く必要があるの?」


「頼む。美夜にしか言えない話だ」


 かろうじて覚えている記憶が確かなら、他の人には知られてはならないと言っていた。

 あの時は俺が正常ではなかった気がするので詳しい話を聞けていないが、その事情を正しく知るためにも、改めて美夜と話をする必要がある。


「天使の話だよ。美夜が俺に教えてくれたじゃないか。好きになると嫌われるってやつだ」


「ああ、その話ね」


「よかった。覚えていてくれたんだな」


「もしかして信じちゃったの?」


「え?」


 くすくすと、おかしそうに笑う美夜。


「あんなの私の冗談だったに決まってるじゃん。冗談というか、夢に見た話をしゃべっちゃっただけ。天使なんて本当に存在するわけないでしょ?」


「それはそうかもしれないが……」


 普通に考えれば美夜の言う通りだろう。あくまでも常識的に判断する限り、この世に天使なんているわけがない。あの時の美夜が見た夢の話だとか、それをもとに考えた冗談だと考えた方がすっきりと理解できる。

 けれど今の俺にはどうしても俺たちの関係が普通だとは思えない。

 うまく説明できないものの、尋常ならざる不思議な力が働いている気がしてならない。

 なんとかして美夜と協力して、この現象に二人で立ち向かいたい。

 そう思っていたら、美夜に問いかけられた。


「ねえ、武虎。あなたの気持ちは偽物なの? 私を好きって言っていたのは、天使に言わされていたの?」


「そんなわけないだろ。俺は本気でお前のことが好きなんだ」


「だったら私も自分の気持ちには本気だよ。不思議な力で捻じ曲げられているわけでもなければ、どこかの誰かに操られているわけでもない。この前までは好きだったかもしれない。でも今はそうじゃないんだ。武虎、誰だって気持ちは変わるんだよ。関係だって、いつまでもずっと同じってわけにはいかないんだ」


「そんなのわかってる。でも、でもさ……」


「武虎!」


 張り詰めた美夜の声が響く。


「これ以上嫌いになりたくないって、あなたの言葉がようやくわかった気がする。お願いだよ、武虎。これ以上あなたのことを嫌いにさせないで」


「美夜……」


「じゃあね、武虎。もう呼び止めないで。私も振り返らないから」


 そう言って背を向けた美夜が歩き去っていく。振り返らないと宣言した彼女が嘘を言ったとは思えず、追いすがって呼び止めたとて振り返ってはくれないだろう。

 くそ、やっぱり駄目か。

 美夜を嫌っていた時の俺と同じように、どうやら話を聞いてもらえそうにない。

 この前までは、美夜の方が俺を必死に呼び止めようとしていたのに。

 さらにその前は、俺が。

 まるでシーソーゲームのように行ったり来たり、すれ違う気持ちに天使の存在も嘘じゃないと本格的に思えてくるが、それを言い訳にしたくはない。たとえ不思議な現象が俺たちの間に介在していたとしても、美夜に嫌われたのは俺にも原因がある。

 この理不尽な現象に巻き込まれる前に、今までの俺が美夜にはっきりと言えていればよかったのだ。

 彼女を不安にさせないくらいに気持ちさえ伝えていれば。

 これまでの俺なら、ここで簡単に諦めただろう。はっきりと拒絶してきた美夜の態度を見て恋愛が成就しないとわかり、潔く身を引いていたかもしれない。

 彼女のためではなく、自分が傷つかないために。

 しかし今の俺は違う。どんなに冷たくされようと、自分が好きである限り、美夜のことを好きでい続ける覚悟がある。現象のあるなしは関係ない。こうして好きになってしまった以上、簡単には嫌いになれないのだ。

 無論、一方的すぎる恋心はストーカーじみているので、あるいは困ったことかもしれないが。

 いつまでも自嘲してばかりもいられないので、家に帰った俺は気分転換を兼ねて小説を書くことにした。勉強や趣味など他にやることがないわけでもないが、今は気が乗らない。

 小説と向き合っている間は自分の世界に入り込めるので、読むのも書くのも現実逃避にピッタリだ。

 SNSやニュースサイトなんかで余計な情報が入ってくるので特定の調べ物があるとき以外はネットにつながっているスマホやパソコンを使うのはやめて、机の上に一冊のノートを広げてペンを握る。

 今の自分が何を書きたいのか、何を書くべきなのか、そういったことは何もわからない。

 できれば夢のような物語がいい。王道の異世界ファンタジー、奇抜なSF、読後感さえよければホラーやミステリーなんてのも。

 とにかく現実ではない何かを書こうとした。

 なのに気が付くと俺の手は美夜の名前を書いていた。

 好きで、好きで、どうしようもないくらいに大好きだから気持ちが止まらなくなる。

 ノートに黒一色のペンで書かれた文字が、たった数行であっても自分に長々と語り掛けてくるようだ。熱く燃え上がるように、ひたすらに想いが募っていく。

 窓から入ってくる月明りだけが照らす恋文。


「……駄目だ。駄目だ、駄目だっ!」


 初恋の相手だから、普通の恋愛なんて知らない。

 だけど、やっぱりこれはおかしい。最初に発生した恋心が正真正銘の本物だとしても、今の俺たちを動かしているのは自分の意志だけじゃない。

 短期間で好きになったり嫌いになったり、どう考えても普通じゃない。

 頭の中を支配する言葉、ラブシーソー。

 それが事実だとすれば、今の俺が導き出せる結論は一つだ。


「好きになるな、嫌われる!」


 自分が美夜のことを好きである限り、美夜に好かれることはない。

 彼女に好かれたいなら、まずは自分の中にある好きという気持ちを抑えなければならない。

 嫌いになれば嫌いになった分だけ、美夜に好かれることになる。

 それがラブシーソーに対処する一番の方法。

 ……いや、駄目だ。

 何を考えているんだよ、俺は。


「好かれたいからって、嫌えるか!」


 好きになれば好きになるほど、その相手から嫌われてしまった時のダメージは大きくなる。だから当然、好きになった相手には好かれたいと思うのが普通だろう。

 けれど、それは大前提として「好き」という感情があるからだ。

 そして、好きな相手を嫌いになることは、好きな相手に嫌われることよりも悲痛である。

 どんなに強く激しく嫌われる結果になったとしても、恋心が永遠に報われないとしても、この胸にある好きという気持ちを失いたくない。これは俺にとっての宝物だ。

 彼女を好きでいたい。

 大切に思える美夜のことをずっと好きでいたいのだ。

 嫌われてもいい、そりゃ本当は好かれれば一番いいけど、まずは何よりも彼女のことを嫌いにはなりたくない。

 どうしようもない気分でペンを置いて、ノートを閉じる。

 大声で叫ぶ代わりにため息を漏らして、心を落ち着かせようと、それまでマナーモードにしていたスマホを手に取った。

 声が聴きたい。電話をかけたら出てくれるだろうか。

 世間の傾向からすると仲がいい相手とは日常的にメッセージのやり取りをするものなのかもしれないが、俺と美夜とは急用でもない限りスマホで連絡を取り合わない主義だった。通話もSNSも苦手で、一人の時間を大事にしたかったという性格的な事情もあるが、それだけじゃない。

 小学生のころからほとんど毎日顔を合わせていたので、言いたいことは直接伝えればよかったからだ。

 むしろ、楽しい話題があったら直接会うまで取っておきたかった。

 スマホで頻繁にやり取りをするようになると、直接会う機会が減るような気がした。

 けれど顔を合わせることがめっきりなくなった今になって、もっとスマホで気軽にメッセージを送り合える仲だったら、と思う。

 今の俺に気軽に連絡を取り合える相手がいるとすれば、すでに疎遠になりつつある中学の頃の知り合いの何人かを除けば、クラスの男子である高杉や野村くらいだろう。

 いや、もう一人いた。

 スマホに届いていたのは志賀さんからのメッセージだ。

 近所のコンビニで買って食べたお菓子がおいしかったとか、面白い動画を見つけたとか、今日は何か宿題あったっけとか、他愛もない話題と重くない言葉。誰にでも送っているようなそれが救いになる。


 ――相談、乗るよ。


 そう言ってくれる彼女が本当に乗ってあげたいのは美夜からの相談だ。俺のためではない。彼女の幼馴染である俺の相談に乗ることで、遠回しに贖罪しようとしているに過ぎない。

 それでも相談に乗ってくれるというのなら、せめて話を聞いてもらうくらいはしよう。

 そう思った。





 休日、俺は志賀さんと待ち合わせた。

 今までの休日や放課後は高杉や野村なども合わせて複数人で遊んでいたが、今日は俺と志賀さんの二人きりだ。そうするのにはもちろん理由があって、今日の予定が遊びのためにセッティングされたものではなく、あくまでも相談に乗ってもらうためのものだからである。

 なので服装もラフ過ぎないものを意識したファッションとなる。そんな感じで彼女との楽しいデートというわけではないものの、それはそれ、同年代の異性と待ち合わせるにあたって浮ついた感情がゼロということもないのだろう。まだまだ幼かった中学生のころまでとは違い、心身共に少しずつ大人に近づく高校生になってからクラスの女子と二人で会うのは緊張する。

 自然体でいろ、というのは難しいかもしれない。


「志賀さん、今日はありがとう。わざわざ時間を作ってもらって」


「ううん、私も話がしたかったから」


 時期的には夏休みも近づき、初夏の装いらしく涼しげな格好に身を包んでいる志賀さん。スマホや財布に飲み物くらいを入れているだけなのか、荷物は小さな肩掛けカバンが一つだ。

 可愛いな、と思って、でも隣にいるのが志賀さんじゃなくて美夜だったらと彼女の顔を思い浮かべてしまう。昔は毎日のように遊んでいたのに、高校生になってからは一度も美夜とは二人で遊べていない。それを思うと、わざわざ休日に予定を合わせてくれた志賀さんの前だというのに寂しさを隠せなくなる。


「おやおや、武虎君。同級生の女の子と顔を合わせたとたんに沈んだような目をしちゃってさ。早速何か悩んでいるみたいだね。そうでなきゃ私は悲しいよ、なんか私が嫌われているみたいでさ」


「あっ、ごめん。いきなりテンションが低いのは失礼すぎるよね。ちょっと考え事を……事情があって具体的なことは何も言えないんだけど、それでも志賀さんには相談に乗ってほしくて」


「大丈夫だよ。誰かに相談したいけど、肝心の相談内容は誰にも明らかにしたくないなんて、よくあることだと思うから。いくらでも遠回しに相談してくれてもいいし、どうしても無理だっていうなら、今日は相談なんて関係なく世間話だけで終わったっていいんだよ。武虎君の場合は自分だけの問題じゃなくて、美夜ちゃんとのことでもあるから、なおさらにね」


「そう言ってくれると助かるよ。ありがとう」


 救われた気分で俺が頭を下げると、そんなことしなくていいよと志賀さんが微笑む。


「みんな言わないだけで、それぞれに悩みやトラブルを抱えて生きているんだと思うの」


「志賀さんも?」


「もちろんそうだよ。私まで相談を始めちゃったら話がややこしくなるかもしれないから、どんな悩みがあるかは言わないけどね」


 本当に悩みがあるのか、それとも俺を励ますために嘘をついてくれているのか。

 いや、考えるまでもない。彼女の言う通り、誰にでも悩みやトラブルの一つや二つくらいはあるだろう。

 今の俺はあまりにも頼りなさすぎるので誰かの相談相手としてふさわしくないけれど、いつか彼女が悩みを打ち明けてくれるくらいの人間になりたいものだ。


「じゃあ、まずはいろいろと見て回りながら話をしようか。相談があるならさ、武虎君のタイミングで切り出してくれていいからね」


「そうだね、そうするよ」


 いくつかの案が出た結果、最終的に俺たちが待ち合わせたのは複数の店舗が入っている大型のショッピングモールの入り口だった。自転車で来るには少し遠い場所ではあるけれど、その分、ある程度のことなら何をするにも困りそうにはない。

 ウインドウショッピングはもちろん、手ごろな価格のファミレスやファーストフードなんかの食べ物もあるし、映画だってある。

 夏休みの思い出作りのために予定を合わせたわけではなくとも、たとえば市民会館のロビーみたいな堅苦しい場所で顔を突き合わせて相談するだけでは味気ないので、今日はここで気分転換も兼ねているらしい。

 やってることは事実上のデートじゃん。

 美夜とのことがなければ、本当にそう思えていたかもしれない。

 なんとなく入った書店で売れ筋の本が陳列されているコーナーを眺めていると、恋愛小説を手に取った志賀さんが尋ねてきた。


「蛙化現象って知ってる?」


「かえるか現象?」


 イントネーションを含む音の響きから想像すると、「帰るか」や「買えるか」ではなく「カエル化」っぽく聞こえたので、素直に考えるなら何かがカエルに変化する現象のことだろうか。オタマジャクシなら普通の成長だが、たぶんそういうことではないだろう。

 もしかして垂直飛びですごい記録を出した人に対して「それもうカエルじゃん! カエル化じゃん!」とか言っちゃうやつか。似たような言葉にカンガルー化現象とかバッタ化現象とかもあるかもしれない。


「うん、カエル化現象。恋愛感情に関係がある現象なんだけど」


 じゃあ違う。


「うーん。カエル化現象か……」


 一口に恋愛感情に関係がある現象、といっても幅は広い。辞書にも乗っているれっきとした学術用語なのか、あるいは今どきの若者の間で広まっているスラングなのか、あいにく一度も聞いたことがない。

 あれこれ考えてみても自分の力で正解にたどり着けることはないだろう。数秒ほど悩んでみてもわからなかったので素直に聞いてみることにする。

 彼女としても知識マウントや雑学マウントを取りたいわけではなく、知らなかったら最初から教えてくれるつもりで話題に出したに違いない。


「あんまり恋愛のことを自分で調べたりしないからか、知らないな。どんな意味なの?」


「私もネットで知った言葉だからどこまで正確なのか自信はないけど、武虎君たちは知っておいても損はないんじゃないかな。……と言っても、なんか詳しく調べてみたら本来の意味と派生した意味の二つがあったんだけど」


「へえ? まあ、広まっていくうちに使われ方が多様化しちゃって、結果として意味が二つ以上ある言葉って意外とたくさんあるもんね。本来の意味は?」


「好きだった人に好意を向けられると、本当なら喜ぶべきことなのに生理的な嫌悪感を抱いてしまうっていう不思議な心理現象のことだってさ。自分から恋愛感情が向かっているうちは平気だけど、相手から同じくらいの熱量で感情を向けられるとびっくりして引いちゃうのかもね」


「なるほど……それで、派生は?」


「好きだった相手の嫌な部分を知っちゃって、急に恋愛感情が冷めちゃうこと。恋するうちに強まっていた幻想がふとしたことで破れるっていうのかな。程度の差こそあれ、こっちは誰にでもありうることかもね」


「確かに。どっちの意味でも初めて聞いたけど、世の中にはそんなこともあるんだね。……ところで、なんでカエル? そういうイメージはないけど、野生における生態系の話?」


「えっと、私の記憶が確かなら寓話か何かが由来だったと思うよ。カエルの王子様とお姫様だったかな」


「へえ、そうなんだ」


 悪い魔法使いによる魔法か何かでカエルに変身してしまった王子様の話は子供のころなんとなく聞いたことがあるような気もするが、そのシーンをおぼろげに知っているだけで、具体的な物語の内容はよく知らない。というかタイトルも知らない。童話に慣れ親しんでいない俺が詳しくないだけで、シンデレラとか白雪姫みたいに日本でも有名な話なんだろうか。

 語源はともかく、確かに俺たちの状況に関係があるような言葉だ。

 好きになったり、嫌いになったり。相手の気持ちに応じて感情が揺れ動く。


「だけど、それとはちょっとだけ違う感じがするね。武虎君たちの場合、あまりにも極端な気がするもの。一日や二日で極端に気持ちが変わりすぎているというか、あなたたち二人の心が入れ替わっているというか……」


「うん……」


 天使いわく、ラブシーソー。

 こればかりは当事者である俺たちにも説明できない不思議な現象だが、数か月間同じ教室で過ごしてきた俺たちの友達である彼女にとっても理解しがたい不思議な現象なのだろう。

 好きになると嫌われる。嫌われれば好きになる。

 本来ならば詳しく事情を説明して本格的に相談に乗ってほしいけれど、志賀さんを含む他の人に知られるとどんな影響が出るかわからないらしいので、天使の話は教えることができない。

 言葉を濁して黙っていると、こちらの気持ちを察してくれたのか、手に取っていた恋愛小説を棚に戻しながら志賀さんがつぶやいた。


「それに、そういう既存の言葉に当てはめて考えるようになると、かえって見えなくなることもあるから。本当は違うのに、言葉の意味に引きずられて勘違いすることもあるしね」


「なるほど」


 そういうものかもしれない。

 たまたま似た症状があるからといって、生半可に知識があるせいで自分が深刻な病気だと思い込むことはある。それで病院に行って検査をするきっかけになるならいいかもしれないが、自分はこういう病気だからという勝手な思い込みは危険な場合もある。

 まるで効果のない間違った治療法を試してみたり、自分は大丈夫だと信じて検査をせずに深刻な病気を見過ごしてしまったり……。

 一つの会話が終わったこともあり、さらにぶらぶらしてから書店を出る。おしゃれなアパレルショップ、小物売り場、お花屋さん。一人だったら入りもしない店なんかも興味深く眺めていると、近くに客も店員もいないことを確認したらしい志賀さんに肩をつんつんとつつかれた。


「そういえばさ、ヤマアラシのジレンマって知ってる?」


「それは聞いたことがあるよ。知っていると言っても言葉として知っているだけで、ヤマアラシがどんな動物なのかは見たことないけど」


「ハリネズミみたいなやつだよね。全身がトゲトゲの」


 そうだ。ヤマアラシは全身がトゲトゲであるがゆえに、とあるジレンマの象徴として有名だ。

 寂しさを紛らわせるために身を寄せたがるが、お互いの全身を覆っている針のせいで近づけば傷つけあってしまうので、近づくことができないヤマアラシ。

 近づきたいのに、近づけない。

 俺と美夜の関係と無関係とまでは言えない。


「でも、好きだった相手を嫌うっていうのは極端ね。精神的に傷つくのを怖がって、本当は好きなのに避けたがるならわかるけれど」


「うーん……。避けられているのは事実だけど、たぶんジレンマで片づけるのは違うと思う。そういう言葉に逃げるのは俺が自分の責任をなかったことにするみたいだし……」


 俺たちの関係は天使のせいで普通じゃないから、一般的な事象で考えるのは難しい。

 俺自身、どこまでがラブシーソーの影響下にあるのかわからないのだ。

 首を傾けた志賀さんが困ったような表情をして、ぽりぽりかくみたいに人差し指をこめかみに当てた。


「やっぱり、あなたたちの関係って難しいのね」


「ごめん」


「いや、謝らなくてもいいよ。むかついて責めているわけじゃないから。私に関しては好きでやってることだしね」


 それからしばらくショップを見て回る。ああでもない、こうでもないと言いながら、服や小物を選んで見比べる。

 心の底から全力で楽しめているかというと疑問だが、意識的に明るく振る舞ってくれる志賀さんのおかげで時間を忘れて楽しむことはできたかもしれない。とはいえ、さすがに広い店内を歩き回って疲れてきたので、たまたま見つけたベンチに座って休憩することにした。

 近くの自販機でグレープ味の炭酸飲料を買ってきた志賀さんが一口飲んで、そういえばと話を振ってくる。


「酸っぱい葡萄は知ってる?」


「酸っぱい葡萄って言うと……ワインだっけ?」


「それは発酵させた葡萄ね。まあ、そのままフルーツとして売るには甘さが足りない酸っぱい葡萄もワインに使うのかもしれないけど。ほら、手の届かない高いところになっている葡萄はどうせ酸っぱいに違いないと思い込むやつ」


「ああ、なるほど。心理学の用語とか、そんな感じのやつか」


「まあ、これもちょっと違う気がするんだけどね。他には、えっと……」


 などなど、その後もいくつか検討してくれる志賀さん。おそらく彼女は俺たちのことを真剣に考えてくれているのだろう。今日俺と会うことになって、事前に関係ありそうな言葉を調べてくれたに違いない。

 ありがたいことだ。

 たとえ本当は美夜のためだとしても、結果として俺たちの力になってくれているのだ。

 ここまで親身になって相談に乗ってくれているからには、いつまでも俺も落ち込んでばかりはいられない。少しくらいは前向きになって、友達として力を貸してくれている彼女の不安や心配を軽減させるべきだ。

 そうは思うものの、具体的には何をしたらいいのだろう。

 頭の中のメモ帳をめくるのをやめて、いいことを思いついたみたいに志賀さんが指を立てた。


「面と向かっての会話が駄目なら、ラブレターを渡してみるとか」


「ラブレターか。実はそれっぽいのなら、ちょっと前にもう書いちゃったんだよね。本当は小説を書こうと思っていたんだけど、気が付いたら美夜のことを書いていて」


「え、もう書いてたの? だったらそれを渡せばいいんじゃない?」


「そりゃあ、まあ、一応は渡せるように書いてはいるんだけど、今の美夜が受け取ってくれるかな? 俺が書いたものなんて……」


 避けられるほどに嫌われている以上、何かを書いたところでちゃんと読んでもらえるとも思えない。

 そもそもの話、こちらが用意した手紙を捨てずに受け取ってもらえるかどうか。

 手も足も出ない難問を前に言葉もなく悩んでいると、ベンチのすぐ隣に座り直して、俺の膝の上に左手をのせてきた志賀さんが笑顔を浮かべた。


「私、好きだよ。武虎君の小説」


「……え? 俺の小説を?」


「うん。そりゃあプロの作品と比べると内容とか技術的には未熟だと思うけど、自分と同じ高校生がさ、自分にはできないいろんなことに挑戦しているって思うとね、すごいなって感じるの。絵を描いたり、楽器を弾いたり、勉強やスポーツを頑張ったり、そういう人たちを見ていると勇気をもらえるの」


 勇気か。わからなくはない。

 俺の書いた小説が直接的に彼女を勇気づけているわけではなく、同年代の、それも身近な人間が自分の夢に向かって打ち込んでいる姿が励みになるということだろう。

 模範というか、同志というか、テスト勉強なんかも一人で寡黙にやるより友達と一緒にやったほうがはかどる人も多いだろう。


「中学の時もさ、私、いろんな部活の応援に行ってたんだ。みんながみんな勝てるわけじゃないけど、それでもかっこいいんだよね。何事にも一生懸命な人とか、頑張る人が好きだから」


 その気持ちはわかる。夢に向かって努力する人が身近にいると、それに触発されて自分のモチベーションも上がるものだ。

 俺がどこまで真剣に自分の夢を把握していて、それに近づこうと本気で打ち込めてきたのかは自分でもわからないけれど。


「武虎君。もしかしたらひどく無責任なことを言っているかもしれないけど、夏休み、本腰を入れて頑張ってみたら? 中学生の頃に書いていたっていう小説、もう一度本気でやってみるのもいいと思うよ」


「うーん……」


 どうだろうか。才能のない俺が一生懸命に頑張ったところで、傑作を生みだせるとも思えない。高校生活を創作活動に費やしたとして、いつかプロになれるとも思えない。それどころか、応援してくれている彼女が本当の意味で好きになってくれる小説を書くことも。

 無駄な努力を積み重ねるだけに思える。

 だけど、結局は何もせず一か月を無為に過ごすくらいなら何かをやった方がいいのは事実だ。


「顔を合わせると喧嘩しちゃうっていうなら、いっそ距離を置いてみるのも解決策の一つだと思うの。何をやっても逆効果な時ってあるし、時間が解決してくれることもあるから。学校がある間はどうしても顔を合わせちゃうけど、夏休みはいい機会かもしれないよ」


「……そうだね。じゃあ、俺、頑張ってみようかな」


「うん。応援するよ」


 どこまでできるかはわからないけれど、貴重な夏休みを無駄にしないためにも、本気を出して頑張ってみよう。

 そう決める俺だった。

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