13 彼女を好きでいたい(1)

 理屈ではなく、訳も分からぬまま暴走した感情が美夜を嫌って遠ざけようとしていた。

 関わりたくない。喋りたくない。相手の好意が嬉しくない。

 不思議なくらいに根深いネガティブな感情が俺の心にまとわりついていた。

 幼馴染としての度を越えて美夜がまとわりついてくるせいで、うっとうしく感じていたのかもしれない。思春期に入った子供が親に対して距離を置きたがるのと同じような一種の反抗期だったとすると、近すぎたがゆえに美夜を避けたがった理由を自分でも無理に納得できる。

 だから、何かを諦めた彼女の方から遠ざかるのを感じるにつれ、謎の嫌悪感は潮が引くように薄まっていった。

 美夜からの視線を感じなくなり、声を掛けられることもなくなって、ほんの少し前まで抱いていた彼女へのネガティブな一切が徐々に失われていくのを感じた。

 それから数週間をかけて、不用意な接触を避けるため彼女との間に建てられた高い壁が少しずつ切り崩されていった。

 少なくとも、すでに今の俺には彼女への接近を妨げる悪意は存在しない。

 しかし、どうだろう。俺から積極的に彼女との関係性を取り戻そうと行動することへの抵抗感や、それをよしとしない意地っ張りな部分はあるのかもしれない。ほんの少しのきっかけで以前の関係に戻れそうな気がするのに、こちらから声をかける意思やきっかけを失っていた。

 そもそも美夜と仲直りしたいのだろうか、俺は。

 一度は致命的なくらいに心の距離が開いてしまった幼馴染に対して、そこまでの熱意があるわけでもない。どちらかが傷つくのを覚悟して、無理をしてまで仲良くする必要があるんだろうか。

 昔はともかく、今では美夜は単なるクラスメイトの一人。

 一時期は確実に恋に落ちていたのに、そういう味気ない認識で落ち着いてしまっている。

 そのはずだったのに。


「美夜の奴、あんなに男子と仲良かったのか」


 真面目でおとなしい野村と楽しそうに話す美夜の姿を見て、何とも言えない嫉妬心のようなものが湧き上がる。

 嫌っていたはずなのに、一度意識してしまうと駄目だ。制御できない感情というものはどんどん加速してしまう。

 必死になって抑える必要があるのかもわからない恋心。

 声を掛けたい。話しかけたい。恋人になれなくてもいい、せめて友達として楽しくしゃべりたい。

 そう思っても、まさかそんなことができるわけがない。なにしろ俺のほうから彼女を遠ざけたのだ。

 今さらになって、くるりと手のひらを返したように自分から美夜に声をかけるなんて。


「けど、このままじゃあ……」


 スマホのカレンダーを見れば、一学期も終盤に差し掛かっていた。声をかけられないまま何もできずに手をこまねいていれば、このまま終業式を迎えて夏休みに突入してしまう。学校に行く用事もなければ部活もやっておらず、連絡も取り合っていない状況で一か月以上も顔を合わせない日が続けば、今度こそ本当に決定的な別れになりかねない。

 個人的な印象論であり根拠なんて何一つないけれど、高校の夏休みは小中までの夏休みとは違う気がする。子供じみた長期休暇ではなく、大切で貴重な「青春」の二文字が強く浮き出てくる。

 もしも美夜が夏休みの間に他の男子と付き合うことになってしまったらと考えると、居ても立っても居られなくなる。

 おかしいのか、おかしくないのか、一日ごとに俺にとっての美夜の存在が大きくなってくる。

 あんなに嫌っていたのが自分でも信じられないほどに心変わりしてしまう。

 いったいこれはどういうことだろう。


「そう言えば、美夜が何か言ってたな。あの時は聞き流していたけど、確か、天使がどうとか言っていた気がする……」


 俺たちの願いを聞き届けた天使がいて、不思議な力で俺たちに何かしたとか。いまいち記憶の精度に自信がないけれど、ラブシーソーだとか言っていた。

 好きになると嫌われて、嫌われるほどに好きになる。俺たちの感情が悪い方向に連動しているんだったか。

 なら、今の俺が抱いているこの感情は俺だけのものではなく、彼女が離れていってしまったことに起因するのだろうか。


「馬鹿馬鹿しい……」


 そんなわけがない。ずっと前から俺は美夜のことが好きだったのだ。得体の知れない天使に恋心が操られているわけじゃない。

 でも、それだけに美夜のことを嫌っていた先日までの感情が自分でも理解できなくなる。

 もしかして、ひょっとしたら彼女は本当のことを言っていたのだろうか。

 天使の存在。不思議な現象。

 あの時の美夜は俺に本気で相談したかったのだろうか。

 天使の話が真実だと仮定すると、あの時の俺は美夜を嫌っていた。その代わりに俺を好きでいてくれた美夜は自分が嫌われているとわかっていても、それでも俺が話を聞いて協力してくれると信じていたのだろうか。

 だとすれば、やはり俺は彼女に悪いことをした。幼馴染から得ていた信頼を裏切り、冷たく突き放す最低なことをしてしまったかもしれない。

 謝るにしても、相談するにしても、なんにせよ美夜と直接会って話をする必要がある。このままうじうじと考えていても進展はなく、彼女との関係のことなので自分一人で解決できる問題ではない。

 そう考えた俺はその日のうちに声をかけることにした。

 善は急げだ。気まずさや逡巡は積み重ねるほどに新たな迷いを生み、一度でも後回しにしてしまえば、どんどん足が重くなる。


「美夜、すまん。俺のことはよく思っていないだろうが、ちょっと話を聞いてくれないか」


「ごめん、今度にしてくれる?」


 うむ、ここまでは想定内だ。おそらく嫌われている以上、すげなく断られるのを前提で声をかけている。


「そう言わないでくれ。大切な話なんだ」


「大切な話? その話、私が聞く必要があるの?」


「頼む。美夜にしか言えない話だ」


 確か、他の人には知られてはならないと言っていた。

 あの時は俺が正常ではなかった気がするので詳しい話を聞けていないが、その事情を正しく知るためにも、改めて美夜と話をする必要がある。


「天使の話だよ。美夜が俺に教えてくれたじゃないか。好きになると嫌われるって奴だ」


「ああ、その話ね」


「よかった。覚えていてくれたんだな」


「もしかして信じちゃったの?」


「え?」


 くすくすと、おかしそうに笑う美夜。


「あんなの私の冗談だったに決まっているじゃない。天使なんて本当にいるわけないでしょ?」


「それはそうかもしれないが……」


 普通に考えれば美夜の言う通りだろう。この世に天使なんているわけがない。あの時の美夜が考えた冗談だと考えた方が常識的な判断だ。

 けれど今の俺にはどうしても俺たちの関係が普通だとは思えない。

 うまく説明できないものの尋常ならざる不思議な力が働いている気がしてならない。

 なんとかして美夜と協力して、この現象に立ち向かいたい。

 そう思っていたら、美夜に問いかけられた。


「ねえ、武虎。あなたの気持ちは偽物なの? 私を好きって言っていたのは、天使に言わされていたの?」


「そんなわけないだろ。俺は本気でお前のことが好きなんだ」


「だったら私も自分の気持ちには本気だよ。不思議な力で捻じ曲げられているわけでもなければ、どこかの誰かに操られているわけでもない。この前までは好きだったかもしれない。でも今はそうじゃないんだ。武虎、誰だって気持ちは変わるんだよ。関係だって、いつまでもずっと同じってわけにはいかないんだ」


「そんなのわかってる。でも……」


「武虎!」


 張り詰めた美夜の声が響く。


「これ以上嫌いになりたくないって、あなたの言葉がようやくわかった気がする。お願いだよ、武虎。これ以上あなたのことを嫌いにさせないで」


「美夜……」


「じゃあね、武虎。もう呼び止めないで。私も振り返らないから」


 そう言って背を向けた美夜が去っていく。振り返らないと宣言した彼女が嘘を言ったとは思えず、追いすがって呼び止めたとて振り返ってはくれないだろう。

 くそ、やっぱり駄目か。

 美夜を嫌っていた時の俺と同じように、どうやら話を聞いてもらえそうにない。

 この前までは、美夜の方が俺を必死に呼び止めようとしていたのに。

 さらにその前は、俺の方が。

 まるでシーソーゲームのように行ったり来たり、すれ違う気持ちに天使の存在も嘘じゃないと本格的に思い始めるが、それを言い訳にしたくはない。たとえ不思議な現象が介在していたとしても、美夜に嫌われたのは俺にも原因がある。

 この理不尽な現象に巻き込まれる前に、今までの俺が美夜にはっきりと言えていればよかったのだ。

 彼女を不安にさせないくらいに気持ちさえ伝えていれば。

 これまでの俺なら、ここで簡単に諦めただろう。美夜の態度を見て恋愛が成就しないと分かり、潔く身を引いていたかもしれない。彼女のためではなく、自分が傷つかないために。

 しかし今の俺は違う。どんなに冷たくされようと、自分が好きである限り、美夜のことを好きでい続ける覚悟がある。現象のあるなしは関係ない。好きになってしまった以上、簡単には嫌いになれないのだ。

 無論、一方的すぎる恋心はストーカーじみているので、あるいは困ったことかもしれないが。

 いつまでも自嘲してばかりもいられないので、家に帰った俺は気分転換を兼ねて小説を書くことにした。勉強や趣味など他にやることがないわけでもないが、今は気が乗らない。

 自分の世界に入り込める小説は読むのも書くのも現実逃避にピッタリだ。

 余計な情報が入ってくるので特定の調べ物があるとき以外はネットにつながっているパソコンを使うのはやめて、机の上に一冊のノートを広げてペンを握る。

 今の自分が何を書きたいのか、何を書くべきなのか、そういったことは何もわからない。

 小説、夢のような物語。ファンタジー、SF、ホラーにミステリー。

 とにかく現実ではない何かを書こうとした。

 なのに気が付くと美夜の名前を書いていた。

 好きで、好きで、どうしようもないくらいに大好きだから気持ちが止まらなくなる。

 ノートに黒一色のペンで書かれた文字が自分に語り掛けてくるようだ。熱く燃え上がるように想いが募っていく。

 窓から入ってくる月明りだけが照らす恋文。


「駄目だ。駄目だ、駄目だ!」


 初恋の相手だから、普通の恋愛なんて知らない。

 だけど、やっぱりこれはおかしい。恋心が本物だとしても、今の俺たちを動かしているのは自分の意志だけじゃない。

 短期間で好きになったり嫌いになったり、どう考えても普通じゃない。

 頭の中を支配する言葉、ラブシーソー。

 それが事実だとすれば、今の俺が導き出せる結論は一つだ。


「好きになるな、嫌われる!」


 自分が美夜のことを好きである限り、美夜に好かれることはない。

 彼女に好かれたいなら、まずは自分の中にある好きという気持ちを抑えなければならない。

 嫌いになれば嫌いになった分だけ、美夜に好かれることになる。

 それがラブシーソーに対処する一番の方法。

 ……いや、駄目だ。

 何を考えているんだよ、俺は。


「好かれたいからって、嫌えるか!」


 好きになれば好きになるほど、その相手から嫌われてしまった時のダメージは大きくなる。だから当然、好きになった相手には好かれたいと思うのが普通だろう。

 けれど、それは大前提として「好き」という感情があるからだ。

 そして、好きな相手を嫌いになることは、好きな相手に嫌われることよりも悲痛である。

 どんなに深く激しく嫌われる結果になったとしても、永遠に報われないとしても、この胸にある好きという気持ちを失いたくない。これは俺にとっての宝物だ。

 彼女を好きでいたい。

 美夜のことをずっと好きでいたいのだ。

 嫌いになりたくない。

 どうしようもない気分でペンを置いて、ノートを閉じる。

 叫ぶ代わりにため息を漏らして、心を落ち着かせようと、それまでマナーモードにしていたスマホを手に取った。

 声が聴きたい。電話をかけたら出てくれるだろうか。

 世間の傾向からすると仲がいい相手とは日常的にメッセージのやり取りをするものなのかもしれないが、俺と美夜とは急用でもない限りスマホで連絡を取り合わない主義だった。通話もSNSも苦手で、一人の時間を大事にしたかったという性格的な事情もあるが、それだけじゃない。

 小学生のころからほとんど毎日顔を合わせていたので、言いたいことは直接伝えればよかったからだ。

 むしろ、楽しい話題があったら直接会うまで取っておきたかった。

 スマホで頻繁にやり取りをするようになると、直接会う機会が減るような気がした。

 けれど顔を合わせることがめっきりなくなった今になって、もっとスマホで気軽にメッセージを送り合える仲だったら、と思う。

 今の俺に気軽に連絡を取り合える相手がいるとすれば、中学の頃の知り合いの何人かを除けば、クラスの男子である高杉や野村くらいだろう。

 いや、もう一人いた。

 志賀さんからのメッセージだ。

 近所のコンビニで買って食べたお菓子がおいしかったとか、面白い動画を見つけたとか、今日は何か宿題あったっけとか、他愛もない話題と重くない言葉。それが救いになる。


 ――相談、乗るよ。


 彼女が本当に乗ってあげたいのは美夜の相談だ。俺のためではない。彼女と幼馴染である俺の相談に乗ることで、遠回しに贖罪しようとしているに過ぎない。

 それでも相談に乗ってくれるというのなら、せめて話を聞いてもらうくらいはしよう。

 そう思った。





 休日、俺は志賀さんと待ち合わせた。

 今までの休日や放課後は高杉や野村なども合わせて複数人で遊んでいたが、今日は俺と志賀さんの二人だ。楽しい予定を立てて遊びに行くのではなく、あくまでも相談に乗ってもらうためだからである。

 そういうわけで彼女との楽しいデートというわけではないものの、まだまだ幼かった中学生のころまでとは違って、心身共に少しずつ大人に近づいてきた高校生になってクラスの女子と二人で会うのは緊張する。


「今日はありがとう。わざわざ時間を作ってもらって」


「ううん、私も話がしたかったから」


 夏休みも近づき、涼しげな格好に身を包んでいる志賀さん。荷物は小さな肩掛けカバンが一つだ。

 可愛いな、と思って、でも隣にいるのが志賀さんじゃなくて美夜だったらと彼女の顔を思い浮かべてしまう。昔は毎日のように遊んでいたのに、高校生になってからは一度も美夜とは二人で遊べていない。それを思うと、わざわざ休日に予定を合わせてくれた志賀さんの前だというのに寂しさを隠せなくなる。


「早速何か悩んでいるみたいだね」


「ごめん。事情があって具体的なことは何も言えないんだけど、それでも志賀さんには相談に乗ってほしくて」


「大丈夫だよ。誰かに相談したいけど、肝心の相談内容は誰にも明らかにしたくないなんて、よくあることだと思うから。いくらでも遠回しに相談してくれてもいいし、どうしても無理だっていうなら、今日は相談なんて関係なく世間話だけで終わったっていいんだよ。武虎君の場合は自分だけの問題じゃなくて、美夜ちゃんとのことでもあるから、なおさらにね」


「そう言ってくれると助かるよ。ありがとう」


 救われた気分で俺が頭を下げると、そんなことしなくていいよと志賀さんが微笑む。


「みんな言わないだけで、それぞれに悩みやトラブルを抱えて生きているんだと思うの」


「志賀さんも?」


「もちろんそうだよ。話がややこしくなるかもしれないから、どんな悩みがあるかは言わないけどね」


 本当に悩みがあるのか、それとも俺を励ますために嘘をついてくれているのか。

 いや、考えるまでもない。彼女の言う通り、誰にでも悩みやトラブルの一つくらいはあるだろう。

 今の俺はあまりにも頼りなさすぎるので相談相手としてふさわしくないけれど、いつか彼女が悩みを打ち明けてくれるくらいの人間になりたいものだ。


「じゃあ、まずはいろいろと見て回りながら話をしようか」


「そうだね」


 俺たちが待ち合わせたのは複数の店舗が入っている大型のショッピングモールの入り口だった。

 顔を突き合わせて相談するだけでは味気ないので、今日はここで気分転換も兼ねているらしい。

 なんとなく入った書店で売れ筋の本を眺めていると、恋愛小説を手に取った志賀さんが尋ねてきた。


「蛙化現象って知ってる?」


「かえるか現象?」


 音の響きから想像すると、何かがカエルに変化する現象だろうか。オタマジャクシなら普通の成長だが、たぶんそういうことではないだろう。

 れっきとした学術用語なのか、あるいは今どきの若者の間で広まっているスラングなのか、あいにく一度も聞いたことがない。


「私もネットで知った言葉だからどこまで本当なのかわからないけど、知っておいても損はないんじゃないかな。好きだった人に好意を向けられると、本当なら喜ぶべきことなのに生理的な嫌悪感を抱いてしまうっていう不思議な心理現象のことだってさ」


「初めて聞いたけど、そんなこともあるんだね。なんでカエル?」


「えっと、私の記憶が確かなら寓話か何かが由来だったと思うよ。カエルの王子様とお姫様だったかな」


「へえ、そうなんだ」


 魔法か何かでカエルに変身してしまった王子様の話はなんとなく聞いたことがあるような気もするが、具体的な物語の内容はよく知らない。童話に慣れ親しんでいない俺が詳しくないだけで日本でも有名な話なんだろうか。

 語源はともかく、確かに俺たちの状況に関係があるような言葉だ。

 好きになったり、嫌いになったり。相手の気持ちに応じて感情が揺れ動く。


「だけど、それとはちょっとだけ違う感じがするね。武虎君たちの場合、あまりにも極端な気がするもの。一日や二日で極端に気持ちが変わりすぎているというか、あなたたち二人の心が入れ替わっているというか……」


「うん……」


 当事者である俺たちにも説明できない不思議な現象だが、俺たちの友達である彼女にとっても理解しがたい不思議な現象なのだろう。

 好きになると嫌われる。嫌われれば好きになる。

 本来なら詳しく事情を説明して相談に乗ってほしいけれど、他の人に知られるとどんな影響が出るかわからないらしいので、天使の話は教えることができない。


「それに、そういう既存の言葉に当てはめて考えるようになると、かえって見えなくなることもあるから。本当は違うのに、言葉の意味に引きずられて勘違いすることもあるしね」


「なるほど」


 そういうものかもしれない。

 たまたま似た症状があるからといって、生半可に知識があるせいで自分が深刻な病気だと思い込むことはある。それで病院に行って検査をするきっかけになるならいいかもしれないが、自分はこういう病気だからという勝手な思い込みは危険な場合もある。

 間違った治療法を試してみたり、検査をせずに深刻な病気を見過ごしてしまったり……。

 会話が止まって書店を出てからしばらくすると、志賀さんに肩をつんつんとつつかれた。


「ヤマアラシのジレンマって知ってる?」


「それは聞いたことがあるよ。知っていると言っても言葉として知っているだけで、ヤマアラシがどんな動物なのかは見たことないけど」


「ハリネズミみたいなやつだよね。全身がトゲトゲの」


 そうだ。ヤマアラシは全身がトゲトゲであるがゆえに、とあるジレンマの象徴として有名だ。

 寂しさを紛らわせるために身を寄せたがるが、全身の針のせいで近づけば傷つけあってしまうので、近づくことができないヤマアラシ。

 近づきたいのに、近づけない。俺と美夜の関係と無関係とまでは言えない。


「でも、好きだった相手を嫌うっていうのは極端ね。傷つくのを怖がって、好きなまま避けたがるならわかるけれど」


「避けられているのは事実だけど、たぶんジレンマで片づけるのは違うと思う。そういう言葉に逃げるのは俺が自分の責任をなかったことにするみたいだし……」


 俺たちの関係は天使のせいで普通じゃないから、一般的な事象で考えるのは難しい。

 俺自身、どこまでがラブシーソーの影響下かわからないのだ。

 首を傾けた志賀さんが困ったような表情で人差し指をこめかみに当てた。


「やっぱり、あなたたちの関係って難しいのね」


「ごめん」


「いや、謝らなくてもいいよ。責めたわけじゃないから。私に関しては好きでやってることだしね」


 それからしばらくショップを見て回る。ああでもない、こうでもないと言いながら、服や小物を選んで見比べる。

 心の底から全力で楽しめているかというと疑問だが、意識的に明るく振る舞ってくれる志賀さんのおかげで時間を忘れて楽しむことはできたかもしれない。さすがに歩き回って疲れてきたので、たまたま見つけたベンチに座って休憩することにした。

 近くの自販機でグレープ味の炭酸飲料を買ってきた志賀さんが一口飲んで、そういえばと話を振ってくる。


「酸っぱい葡萄は知ってる?」


「酸っぱい葡萄って言うと……ワインだっけ?」


「それは発酵させた葡萄ね。まあ、酸っぱい葡萄もワインに使うのかもしれないけど。ほら、手の届かないところになっている葡萄はどうせ酸っぱいに違いないと思い込むやつ」


「ああ、なるほど。心理学の用語とか、そんな感じの奴か」


「まあ、これもちょっと違う気がするんだけどね。他には、えっと……」


 彼女は俺たちのことを真剣に考えてくれているのだろう。今日俺と会うことになって、事前に関係ありそうな言葉を調べてくれたに違いない。

 ありがたいことだ。たとえ本当は美夜のためだとしても俺たちの力になってくれているのだ。

 ここまで親身になって相談に乗ってくれているからには、いつまでも俺も落ち込んでばかりはいられない。少しくらいは前向きになって、友達として力を貸してくれている彼女の不安や心配を軽減させるべきだ。

 そうは思うものの、具体的には何をしたらいいのだろう。

 頭の中のメモ帳をめくるのをやめて、いいことを思いついたみたいに志賀さんが指を立てた。


「言葉が駄目なら、ラブレターを渡してみるとか」


「ラブレターか。それっぽいのなら、もう書いちゃったんだよね。本当は小説を書こうと思っていたんだけど、気が付いたら美夜のことを書いていて」


「え、もう書いてたの? だったらそれを渡せばいいんじゃない?」


「そりゃあ、まあ、一応は渡せるように書いてはいるんだけど、今の美夜が受け取ってくれるかな? 俺が書いたものなんて」


 嫌われている以上、ちゃんと読んでもらえるとも思えない。

 そもそも手紙を捨てずに受け取ってもらえるかどうか。

 手も足も出ない難問を前に言葉もなく悩んでいると、隣に座り、俺の膝の上に左手をのせてきた志賀さんが笑顔を浮かべた。


「私、好きだよ。武虎君の小説」


「……え? 俺の小説を?」


「うん。そりゃプロの作品と比べると技量的には未熟だと思うけど、自分と同じ高校生がいろんなことに挑戦しているって思うとすごいなって感じるの。絵を描いたり、楽器を弾いたり、勉強やスポーツを頑張ったり、そういう人たちを見ていると勇気をもらえるの」


 勇気か。わからなくはない。

 俺の小説が直接的に彼女を勇気づけているわけではなく、同年代の、それも身近な人間が自分の夢に向かって打ち込んでいる姿が励みになるということだろう。


「中学の時もさ、私、いろんな部活の応援に行ってたんだ。みんながみんな勝てるわけじゃないけど、それでもかっこいいんだよね。何事にも一生懸命な人とか、頑張る人が好きだから」


 その気持ちはわかる。夢に向かって努力する人が身近にいると、それに触発されて自分のモチベーションも上がるものだ。

 俺がどこまで真剣に自分の夢を把握していて、それに近づこうと本気で打ち込めてきたのかは自分でもわからないけれど。


「武虎君。もしかしたらひどく無責任なことを言っているかもしれないけど、夏休み、頑張ってみたら? 中学生の頃に書いていたっていう小説、もう一度本気でやってみるのもいいと思うよ」


「うーん……」


 どうだろうか。才能のない俺が一生懸命に頑張ったところで、傑作を生みだせるとも思えない。高校生活を創作活動に費やしたとして、いつかプロになれるとも思えない。それどころか、応援してくれている彼女が本当の意味で好きになってくれる小説を書くことも。

 無駄な努力を積み重ねるだけに思える。

 だけど、結局は何もせず一か月を無為に過ごすくらいなら何かをやった方がいいのは事実だ。


「顔を合わせると喧嘩しちゃうっていうなら、いっそ距離を置いてみるのも解決策の一つだと思うの。時間が解決してくれることもあるから。学校がある間はどうしても顔を合わせちゃうけど、夏休みはいい機会かもしれないよ」


「……そうだね。じゃあ、俺、頑張ってみようかな」


「うん。応援するよ」


 どこまでできるかはわからないけれど、貴重な夏休みを無駄にしないためにも、本気を出して頑張ってみよう。

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