10 ラブシーソー(2)

 閨崎さんと別れて家に帰ると、まずは洗面所に寄って手洗いとうがいをしてから階段を上がった私は自分の部屋に向かった。

 部屋は二階の奥。手前に妹の部屋があるけれど、今日も友達の家に遊びに行っているのか中に人がいる気配はない。帰りが遅くなってお母さんに怒られないといいけど、と姉らしく心配する反面、そうやって大事な友達と仲良く遊べているのをうらやましく感じてしまう。

 まさか八つ当たりして妹とまで喧嘩するわけにもいかないので、つまらない嫉妬はぶんぶんと首を振って頭から追い払い、自室の扉に手をかけて中に入る。


「はあ……」


 入った直後、限界まで膨らんでいた風船に穴が開いたみたいに気が抜けたのか、大きなため息が出る。いろいろなことを考える必要がある気もするのに、精神的な疲労のせいで何もする気力が起きない。

 着替えもせずに制服のままベッドにうつぶせに倒れて、ふかふかの枕に顔をうずめる。

 このまま眠れる気配はないけれど、夕食の時間までこうしていたい。


「お疲れみたいだね」


「ひゃっ!」


 学校とも家のリビングとも違ってプライベートな空間であり、部屋の主である私以外には誰もいないと思っていた自室。

 完全にだらけ切って油断していたところへ突如として声が響いてきたので、びっくりして私は跳び起きた。


「だ、誰?」


 いつでも投げつけられるように枕を腕に抱えて警戒しながら顔を上げると、小学校の入学祝に買ってもらった勉強机の前にある椅子に一人の少年が座っていた。少年と言っても私と同じ高校生ではなく、あどけない顔と小さな背丈から見るに小学六年生くらいの男の子だ。

 ひとまず警戒心を一段階は下げておく。

 やけに堂々としていることもあり、どこかから勝手に押し入ってきた不審者には見えない。

 親戚の男の子に心当たりがないから、常識的な範囲で一番ありそうな可能性としては妹の友達だろうかと思ったものの、それにしては幼い。そもそも陽菜はまだ学校から帰ってきていないので、妹の友達だとしても姉の部屋へと勝手に入り込んでいるのはおかしい。

 ということは、お父さんかお母さんの知り合いの子どもだろうか。全く無関係の近所の子供を預かっているというわけでもあるまい。


「ま、思う存分ゆっくりしてて。私は用事があるから」


 面識がないのに異性である私の部屋に勝手に入っているのは許しがたいけれども、それについては無邪気な小学生の子供がやることだ。いちいち腹を立てて本人に文句を言うより、目を離していた大人たちに不満を伝えた方が早い。

 どこの誰なのか素性の知れない現時点ではどう接するべきかもわからないし、まずは小さな侵入者である彼の身元を知るのも大事だろう。

 そう思って枕を置いて部屋を出ようとすると、相も変わらず椅子に座ったままの少年に呼び止められた。


「待って。そこから出ようとしても扉は開かないよ」


「残念。私の部屋には鍵が付いてないの。だからあなたも入ってこれたんだからね」


 そうなのだ。親の教育方針のせいか、子供部屋には鍵がない。自分で買ってつけようとしたら怒られた。

 特にお母さんはノックもせずに遠慮なく入ってくるので、思春期になっても私に完全保証のプライバシーはないのである。


「あ、あれ? なんで?」


 ガチャガチャと、むなしくドアノブをひねる音だけがする。

 おかしい。いつもなら簡単に開く扉のはずなのに、どう頑張っても動かない。

 もしかして壊れたんだろうか。それとも何か、私の知らない間に扉の開閉を妨げる細工がされているとか。どこかに隠しカメラが設置されていて、ドッキリが仕組まれているのだろうか。


「そんな怖い顔しないでよ。僕の力で鍵をかけたんだ。邪魔が入ると面倒だからね」


「……あなたの力で鍵をかけた? 何を言ってるの?」


 意味がわからない。

 所詮は子供の戯言だろうから、まともに相手をする必要はない。そうは思うものの、実際に鍵がかかっているかのように扉が開かないのでは彼の言葉を無視するわけにもいかない。僕の力という言葉の意味はともかくとして、いたずらの可能性はある。

 小学生の考えるいたずら。最近はネットに投稿されている過激なドッキリ動画を見て育っている小学生もいるだろうから、年上のお姉さんを部屋に閉じ込めて笑いものにする程度なら遊び感覚でやりかねない。

 首だけでなく体ごと振り返ってから仁王立ちすると腰に手を当てて、そういうことはやめなさいと学校の先生みたいに怒ろうと思ったら、その気配を察したのかもしれない。

 やはり椅子に座ったままで少年が悪びれもせずに言う。


「文句は受け付けてないよ。僕は天使なんだ」


「……あきれた。いくら小学生だからって、そんなこと真顔で言う人がいるなんて」


 忍者だとか、スパイだとか、ヒーローだとか、そういうのになりきって遊ぶ男子は私の周りにもたくさんいた。というか女子にもいた。武虎が誘ってくれていたら私だって一緒に遊んでいただろう。

 漫画やアニメやゲームなんかに影響されて、そういうごっこ遊びが楽しい時期は誰にだってある。だからそれ自体を馬鹿にするつもりはない。

 ただ、自分ではない何かになりきってふざけるにしても、それは共通認識を持てるくらいに親しい友達同士でやるべきだ。せめて顔見知りならいいけど、さすがに初対面で年上の高校生を相手にここまでの冗談を言うのはおかしい。

 自分が天使だなんて。

 しかも、一体どうやったのかは想像もつかないけれど、勝手に私の部屋の扉にまで簡単には開かない細工をしてくれちゃって。


「信じていないみたいだね?」


「当たり前でしょ? 天使なんているわけないじゃない」


 これでも私には一般的な常識がある。

 どうしても天使ごっこをして遊んでほしければ、素直にそう言ってくれれば年上のお姉さんとして考えないこともない。でも今の私にはそんな元気がないので、どうせなら今度にしてほしいというのも正直なところだ。


「じゃあ、こうしたら信じてくれるかな」


「……え?」


「ほら、その目で見てごらんよ。君たち人間にはこんなことできないでしょ?」


 その瞬間、私は自分の目を疑った。

 さっきまで椅子に座っていた男の子が不思議な力でふわふわ飛び上がって、ぷかぷかと空中に浮かんでいる。

 背中に見えるのは翼だ。絵画などでよく見る天使の白い翼。


「ついでだからね。こんなこともしてあげよう」


 目の前の光景を受け入れられず、言葉をなくして動揺している私へと手を伸ばしてくる少年。

 しかし、その手が私の体を透け通った。

 もしかして実体がない?

 空を浮かんでて、実体がないなんて!


「お、お化け……!」


「天使だよ」


 翼を動かしていないのに空中に浮かんだまま笑顔を浮かべる男の子。それ以外の部分では幼さの残る男子小学生であり、確かに私の頭の中にある怖いお化けとは印象が違う。

 でもどうだろう? 天使だから怖くないとは思えない。

 悪魔も天使も人間とは別のもの、どちらにせよ超常の存在だ。

 一体何がどうなっているのやら。へなへなと腰が抜けた私は部屋の床にお尻から倒れるように座り込んで、その場から動けなくなった。

 相手は天使。すごい力を発揮されて襲われても、もう私には逃げられる気がしない。

 声だけでなんとかするしかない。


「でも、天使だなんて!」


「別に信じてくれなくたって構わないよ。信心がない人間なんて昔からたくさんいたし、そういう相手を助けるか見捨てるかは僕ら天使の自由な裁量に任されているんだ。だから君は僕の言葉を信じたほうが今後のためだと思うけどね。なんたって僕は君に何も教えずに消えたっていいんだから」


 駄目だ。話が入ってこない。すっかり頭が混乱している。

 夢でも見ているんだろうか。帰ってきてすぐにベッドに倒れ込んでしまったので、いつのまにか眠っていたとしても不思議ではない。天使の存在を認めるために世界の常識を書き換えるよりも、寝ぼけた私が幻覚を見ていると判断したほうが簡単だ。

 だけど、どうだろう? たとえこれが私の見ている夢だとしても、何かを教えてくれるというなら聞いておいた方がいいかもしれない。オカルトや占いを熱心に信じるタイプではないものの、迷える私を導くために現れた夢のお告げかもしれないのだ。

 ひょっとすると私の無意識が、夢の中で天使の姿をして私に語り掛けているのかも。

 今の自分が本当は何を考えているのか、何をしたいのか。

 得体の知れない相手を刺激しないように、胸を押さえながら床に座り直して、落ち着いて呼吸を整えてから尋ねる。


「……何を教えてくれるって言うの? 私に関係があること?」


「もちろんあるよ。あの幼馴染の少年、えっと、名前は何だっけ」


「幼馴染の少年って、もしかして武虎のこと?」


「あ、そうそう。たけとら。もちろん覚えてたよ。人間の名前ってややこしいけど、まさか忘れるわけないじゃないか。僕は優秀な天使なんだからね」


「で、その武虎がどうしたっていうの?」


 ひとまず普通に会話ができている。浮かんでいて透き通っている以外は普通の少年だ。

 私の前に姿を見せたのは話をするためらしく、信仰心のない人間なんて消えてしまえと理不尽な暴力で攻撃してくるわけでもないらしい。

 命は安全だ。身の危険が迫っている気配もない。

 ようやく全身の震えが止まってきた。


「どうしたっていうか、気になって様子を見に来たんだ。君たち、うまくいってる?」


「……どういうこと? うまくいってるって、何が? まさか、あなたが私たちに何かしたって言うの?」


「そうだとも。ぜひとも感謝してほしいくらいだね。なんたって僕が君たちの願いを叶えてあげたんだから」


「私たちの……願い?」


 とっさには思いつかず、首をかしげる。天使に何かを願ったことはない。

 おやおやと言いたげな様子の少年が空中で胡坐あぐらをかいた。


「今年の二月ごろ、君たちが二人で一緒に願ったじゃないか。いやあ、あの時の僕は本当に困ったよ。なにしろ、君たち二人が同時に相反するような願い事をするもんだからね。『きちんと自立したい』という思いと、『いつまでも一緒にいたい』という思い。困った僕は名案を思いついた。どっちかじゃなくて一緒に叶えちゃったんだ」


「自立したいと、一緒にいたい……。一緒に叶える?」


「僕は人間が大好きな天使だから、不公平な判断でどちらか片方だけの願いを叶えるわけにもいかないんだ。あと、特別な功績がない人間に対して無条件で祝福だけを与えるのもね。昔から天使は人間に試練を与えて、それを乗り越えることを期待してきたものさ」


「けど、一緒に叶えるって……」


 相反するような願いであるだけに、同時に叶えるのは不可能に思える。

 私たち二人の願い。どちらがどちらを願ったのか、今は置いておくとしても。

 上手く話が呑み込めず困惑する私に対して、天使と名乗る少年はお気楽そうだ。


「つまり、君たちが簡単には結ばれず、簡単には別れられないようにしてあげたんだ。どちらか片方だけの願いが叶ってしまわないようにね。相手を好きでいるときは嫌われてしまい、嫌っているときは逆に好かれてしまう。相手の感情に左右されて、お互いに好きと嫌いの感情が入れ替わる。ふふ、これを僕はラブシーソーと名付けたんだ」


 自分で言っていてラブシーソーという語感が気に入ったのか、無邪気に笑う少年。

 しかし笑い事ではない。

 馬鹿げた話であるにしても、完全なでたらめを言っているわけではないのかもしれない。なにしろ、最悪なことに私には思い当たる節があるのだ。

 恐れや不安、警戒心などを忘れて思わず立ち上がる。


「好きと嫌いの感情が入れ替わるって、じゃあ、今の私たちがおかしくなったのって!」


 武虎のことを好きになったり嫌いになったり、あまりにも理不尽な気がして自分でも自分のことが理解できなかったけれど、彼の言葉が真実だとすると理解できる。

 理由もなく私たちがおかしくなったのではなく、そこにいる天使のせいでおかしくされてしまったのだ。

 つまり、すべては天使のせい。

 願いを叶えたと言っていたけれど、ありがたくなんていない。むしろ私の敵じゃないか。

 その天使が胸を張って答える。まるで自分の手柄を誇るみたいに。


「そうだよ。僕の力のおかげだ。試練を兼ねた天使の祝福。たとえば君が熱く思えば思うほど、反対に彼の気持ちは冷めて君から遠ざかっていくのさ」


「そ、そんな!」


「だけど安心してよ。君が諦めて彼に対して冷たくすればするほど、今度は反対に彼の気持ちが燃え上がって君を追いかけ始める。どんなに頑張ったって相思相愛になれない君たち二人は一生くっつけないけど、どんなに嫌ったって相手が諦めてくれないから完全には離れられない。素晴らしいじゃないか。運命の関係だよ」


 そんな運命、決して幸せだとは思えない。

 絶対に結ばれないのなら、それは間違いなく不幸な運命だ。


「祝福なのか試練なのか、天使だっていうあなたにどんな考えがあるのかはわからないけど、これだけは絶対に教えて。それっていつ終わるの? どうやったらなくしてもらえる?」


 ご機嫌をうかがいつつ、なるべく穏やかに問いかける。

 可能であれば今すぐにでも、私たちに与えた試練を取りやめてもらいたい。

 すでに答えは決まっていたのか熱心に考えることもせず、少年は首を横に振った。


「ごめん、無理。もう叶えちゃったから」


「無理って、そんな無責任な!」


 激しい動きでスカートが翻るのも構わず大きく踏み込んで食い掛ろうとすると、目つきを鋭くした少年がストップをかけるように手を前に出した。


「おっと、天使に歯向かうのはやめた方がいいよ。祝福や試練だけでなく、天罰を与えることだってできるんだから」


「て、天罰って……」


 恐ろしい単語が聞こえてきたため、ふと冷静になって距離を取るために後ずさる。

 ただでさえわけのわからない現象に巻き込まれているのに、それ以上の天罰となったら何をされるかわかったものじゃない。

 言いたいことはたくさんあるけれど、今は不服や怒りを伝えるのはやめておこう。物事には順序がある。何をしでかすかわからないマッドマンセオリーを駆使する相手に最適な手順を考えるのは難しいにしても、しつこく言い寄ると反撃を受ける可能性があるのは注意する必要がある。

 とりあえず、どこかへと逃げられる前に確かめておきたいことを聞いておく。

 それで私の対応はがらりと変わるはずだ。


「このこと、武虎は知ってるの?」


「いや、知らない。でも秘密にする必要はないかな。教えたかったら君が教えてあげなよ」


「そう……」


 私は口ごもった。

 それが出来たら苦労はしない。天使の話が事実であればすぐにでも教えてあげるべきではあるけれど、今の私は武虎に話を聞いてもらえないのだ。

 だったら武虎じゃなくて誰か他の人、たとえば閨崎さんや志賀さんに話を聞いてもらうのはどうだろう。

 そう考えていると、どこまでこちらの思考内容を察しているのか、少年が忠告する。


「ちなみに、他の人には知られないようにした方がいいよ。当事者である君たち二人以外の人間がラブシーソーに関与してしまうと、どんなイレギュラーが発生するか僕にもわからないんだ。もしかしたら一生お互いのことを嫌い合ってしまうことになるかもしれない」


「そんな!」


 私たち以外に教えない方がいいということは、すなわち誰にも相談できないということだ。そもそも誰かに相談したところで信じてもらえるとも思えないものの、それにしたってあんまりではないか。

 頼みの綱の武虎も相談相手としては難しい。私が好きになっているときは嫌われているため真剣に話を聞いてもらえず、彼に好かれているときは逆に私が彼の話を聞こうとはしない。

 最悪だ。

 こうなったら私一人でなんとかするしかない。


「うん、これで言いたいことは全部ちゃんと言えたかな。ここからは君たちの物語だ」


「え? 言いたいことは全部って、もう?」


「そうだよ。僕の口から他に説明することはないかな。じゃあね。たぶんもう会うことはないと思うけど、がんばって」


「ちょ、ちょっと! まだ話は終わってない! 待ってよ!」


 しかし、天使と名乗った少年は消えてしまった。

 部屋の扉や窓から出ていったのではない。一瞬で視界から消えてしまったのだ。

 私の夢や幻覚でなければ、本当に天使だったのかもしれない。あるいは悪魔だろうか。

 なんにせよ、私と武虎は不思議な力によって呪いを与えられてしまったらしい。

 好きになると嫌われ、嫌われると好きになる。

 そんなバカな、と思うものの、自分でも理解できなかった最近の出来事を振り返ってみると、あながち否定することもできない。

 ……なら、ひとまずは天使の存在や力が現実のものだと仮定しておくことにして。

 それじゃあ、もしもそれが本当だった場合、これから私はどうすればいい?

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