09 ラブシーソー(1)

 悪夢を見た。

 お前なんて嫌いだと、武虎に手ひどく振られる夢だ。

 あまりのことに悲しくて泣きたくなったが、それ以上に驚きが胸を満たした。

 悪夢の内容そのものより、それを悪夢だと感じたことに意外性を感じて私は跳び起きた。


「武虎!」


 寝起きのかすんだ声で名前を呼んでも、そこに武虎はいない。そんなことはわかっている。だけど呼ばずにはいられなかった。

 私の幼馴染で、友達で、家族と同じくらいに一番大切な人。

 今、私が激しく恋をしている相手。


「そう、そうだよ。私は武虎が好きで、だから、えっと」


 ごちゃごちゃしている記憶と感情を整理する。どくどくと脈を打つ気持ちばかりが先行して私を焦燥感に駆り立てるけれど、遅れて覚醒してきた理性と記憶が私に現実を突きつける。


「なのに、私、武虎にあんなこと……」


 私は一体、何がどうしてどうなったんだ。眠気が完全には消え去っていない寝起きの頭のせいか、処理能力を超えてタスクを与えられたコンピュータみたいに自分でも混乱している。

 ひとまず起き上がってベッドを出る。ぼんやりテレビを眺めながら朝食を食べて、せっせと歯を磨いて顔を洗って、制服に着替えてからカバンを持って、靴を履いたら外に出る。

 家を離れた通学路、朝日を浴びて完全に目が覚めた私は歩道の端で頭を抱えた。

 ああ、もう、私はなんてことを言ってしまったんだ!

 恥ずかしさと後悔に悶絶したくなる。

 武虎に合わせる顔がない。今すぐ家に戻ってベッドにもぐりこみ、適当な仮病を使って今日は学校を休みたい気分だ。

 でも私は次の瞬間には顔を上げていた。ちょっと待ってよ、と冷静な気分になって、落ち込むと同時に大事なことを思い出したからだ。

 ちょっぴりあやふやになっている私の記憶が確かなら、武虎は私を好きだと言ってくれたんじゃなかった?

 どういうわけか、あの時の私は彼の言葉を素直に受け取れなかったけれど、間違いない。


「うん、そうだ。絶対に間違いない……」


 私は武虎に好きだと言われた。確実に言われた。

 やっぱり武虎、私のこと好きだったんだ。好きでいてくれたんだ。

 だったらまだ、今からでも取り返しはつく。

 最初に謝って、事情を話して、改めて想いを伝えるんだ。


「よし!」


 近くに人がいないことを確認してから足を止めた教室の扉の前。元気よく足を踏み入れるため、いつも以上に気合を入れる。

 第一声が一番の勝負。暗い顔で落ち込んでいては何も始まらない。


「お、おはよう」


 中に入るなり、誰にともなく朝の挨拶。

 ややぎこちない足取りで自分の席に向かいながら教室を見渡すが、そこに武虎の姿はない。いつものように私より遅れて学校に来るようだ。

 席に座り、ふーっと大きく深呼吸。いざ来た時のことを想像しながら、爽やかに声をかけるイメージトレーニングに入る。

 おはよう! おはよう! おはよう!

 野球のバッドを持って素振りするみたいに何度か心の中で挨拶を繰り返していると、数分後くらいに武虎が来た。

 何事もないように私の前を通り過ぎていく。

 声をかけるなら今だ。

 膝の上に置いた手でスカートをぎゅっと握りしめる。


「……お、おはっ」


 もごもごと言葉が失速して、最後まで言い切る前に小さく消えていく。

 おはようと言うだけなのに、なぜか私は声をかけることができなかった。

 武虎の気持ちは理解しているはずなのに、一度は好きだと言ってくれた言葉が本当にそうなのかどうか、今も変わらずそう思ってくれているのかどうか、百パーセントの力では信じることができない。

 とんでもなく不安だ。恐怖していると言っていい。

 今はまだやり直せるという希望がある。でも、それが本当は不可能だったと実感してしまうことを恐れているのだ。声をかけた時の反応で、それは知れてしまう。だから不安になる。

 どうしよう、どうしたらいいんだろうと思い悩むあまり気がそぞろになっているせいか、朝から授業に集中できず先生に注意される。体育では、他の女子にぶつかって頭を下げる。何もない廊下で足がもつれて転びそうになる。

 休み時間の教室、どうやら私のことを心配しているらしい閨崎さんに声をかけられた。


「大丈夫? 昨日までもつらそうだったけど、今日はそれとは違う感じで変よ」


「えっと……うん」


 彼女を心配させまいと空元気を張ろうして失敗する。

 変だという指摘は自覚があるだけに否定はできないので、自分でも何と答えるべきか迷う。

 正直にすべてを打ち明けてもいいけれど、そうすると情緒不安定だと思われはしないだろうか。武虎のことを好きになったり嫌いになったり、自分でもどうかしていると思う。


「どうしよう。私、おかしくなったのかもしれない」


 そう言ったら、ふざけるでもなく大真面目な顔をした閨崎さんが私の両肩に手を置いて、優しく語り掛けてくる。


「疲れているのなら保健室に行きましょう。悩みがあるのなら、そこで相談に乗ってあげるわ」


 まじめな目をする閨崎さん。真剣に心配されていた。


「やっぱり大丈夫。変なことを言ってごめんなさい。そこまでの問題じゃないから」


 同情の一切が不必要なわけでもないけれど、こちらの悩みを大げさに捉えてほしいわけじゃない。

 私の中で問題になっているのは、こともあろうに恋愛の問題だ。いくら悩んでいたとしても、わざわざ授業をさぼって保健室で休息をとる必要がある種類の問題ではない。


「無理はしないで。ストレスや心の病って、自分ではなかなか気が付けないものだから。大丈夫大丈夫と思っているうちに耐えられなくなって心がつぶれちゃうことだってあるのよ」


「うん、わかった。もう少し様子を見て、どうしても駄目だったらそうする。けどね、今は私、自分の力で頑張りたいの」


 なんといっても自分の心の問題だ。それも恋愛感情だ。誰かに相談してアドバイスが欲しいことを否定まではしないけれど、まずは自分の力で向かい合いたい。

 ストレスだとか、心の病気だとか、その可能性もあるけれど、それを疑うのはもう少し戦ってみてからでも遅くはない。というより、今はまだ、そういうものに自分の言動の責任を押し付けたくはないのだ。

 理解したい。

 自分の気持ちも、武虎の気持ちも。


「そう……。でも、よかったら私の力も借りて。相談に乗るよ」


 嬉しい言葉だ。悔しさや悲しさが原因ではなく、ありがたさで涙が出てきそうになる。


「ありがとう」


 感謝の言葉は素直に出た。出た途端、武虎ともこうできたらいいのにと思って悲しくもなる。

 何はともあれ話はこれで終わりかと思っていると、なにやら閨崎さんが手のひらを上に向けた右手をくいくいっとしている。


「相談、乗るよ」


 乗るよ、というか、乗りたがっているらしい。

 もちろん相談したい気持ちはやまやまだけど、さすがに周りに人がたくさんいる状況で今の私が抱えている悩みを打ち明けることは難しい。

 あまり聞かれたい話ではない。特に武虎には何があっても聞かれるわけにはいかない。


「教室では、ちょっと」


「ああ、確かにそれはそうね」


 だったら、と顎に手を当てて閨崎さん。


「放課後、二人でどこかに行きましょう。予定は開けておいてね」


 ということで、そういうことになった。





 放課後は閨崎さんに相談だ。どこに行くのかも聞いていないけれど、それまでには彼女に伝える内容をまとめておこう。

 そう思って授業中も休み時間も一人で考えていたけれど、約束の放課後を迎える前に事態は動いた。

 ぼんやりしたまま教室を出ようとして、向こうからやってきた武虎とぶつかったのだ。


「あっ、ごめん」


「いや、こっちこそ」


 短くそう言っただけで、後腐れなく立ち去ろうとする武虎。それは普通でありきたりな反応なのだけど、今の私には冷たく映った。まるで私が私として認識されていないみたいな態度だったからだ。

 いじけたくなる気持ちを飲み込んで、引き留めるように腕をつかんでしまう。


「何?」


「あの……えっと」


 しまった。つかんでみたはいいものの、その後どうするのか何も考えていない。

 放課後を待たずして助っ人に閨崎さんを呼びたくなるが、残念ながら教室に彼女の姿はない。

 何でもない、そう言って手を離すこともできる。

 だけど私は彼の腕を握る手に知らず知らず力を込めていた。

 心の準備ができていなかったとしても、これはチャンスだ。

 自分が今、何を一番伝えたいのか。それはわかっている。

 好きだとか、私のことを嫌わないでとか、仲良くしたいとか、そういう言葉はいくらでも湧いて出てくるけれど、何よりも最初に言わなければならないことがある。

 だから伝える。


「ごめん、武虎」


 はぁ、とため息を漏らす武虎。


「あのさ、そんなに深刻ぶって謝らないでもらえるか? ちょっと肩がぶつかったくらいで俺が怒るわけないだろ。どっちにも悪気なんて存在しない事故なんだから」


「違う。武虎、違うんだよ。ぶつかったことを謝りたいんじゃない」


「……じゃあ、もっとやめてくれ」


 ピンと張りつめたような武虎の冷たくてとげとげしい言葉が私の胸に刺さる。

 私の謝罪は求められていない。つまり、仲直りしたいと考えているのは私だけなのだ。

 泣きたくなる。

 それさえも武虎が批判する。


「まるで俺が悪者みたいに、そうやって悲しい顔をするのは卑怯だろ。俺だって散々、迷った末にようやく決めたんだ。やめようって、お前の方からそう言ったよな? あの時、俺からの言葉を受け取ってくれなかったのは美夜の方だろ」


 事実だけに何も言い返せない。

 ここ数日の振る舞いを思い出す。

 どうして自分はあんなにも頑なだったのだろう。どうして武虎を拒絶して心を閉ざしていたのだろう。

 あの時の言葉が自分に返ってきているだけだ。被害者ぶるのは違う。


「俺も自分なりに後悔して反省しているんだ。だからなおさらに思う。きっと俺たちは離れていたほうがいいんだ。小学生のころから仲良くしてきた幼馴染だから、どうしても二人で顔を合わせていると精神的に幼くなって、幼稚さをぶつけ合う。お互いの思い出が足を引っ張り合う。だから美夜、もう今までみたいに付き合うのはやめよう」


 まるでそれが決定事項みたいに。

 まるでそれが、たった一つのあるべき姿だと言わんばかりに。


「私も悪いよ。謝らなくちゃいけないくらい、ひどいこともたくさん言った。でも、なんで、どうして、そんなこと」


 心がぐしゃぐしゃになって言葉がまとまらない。

 かき乱された心がすりつぶされるように武虎の言葉が響く。


「傷つけあうんだよ、俺たちは」


 その顔が本当に傷ついて悲しそうに見えたから、私にはもう、何も言えなくなった。

 いろんな言い訳を立てようと思えば立てられるけれど、最終的に武虎を傷つけたのは私だ。

 そして、そんな武虎を見て私が傷ついているのも事実だ。

 だったらもう、おしまいかもしれない。





 放課後、学校を出てどこかへ向かおうとする閨崎さんについていこうとしてやめた。

 ぴたりと足が止まり、ひび割れたアスファルトを見下ろす。


「閨崎さん、やっぱり私、今日は帰る」


 音もなく私が止まった後に数歩先で足を止め、くるりと振り返った閨崎さん。

 てくてくと歩いて近づいてくると、右手を伸ばして私の顎を下から支え、くいっと持ち上げた。うつむいていたのに強引に顔を上げさせられ、まっすぐにこちらを見る彼女の目が真正面に来る。


「相談して。それが無理なら、私を壁だと思ってつらい気持ちを全部吐き出して」


「……駄目。うまく言葉にできない」


 誰かに話を聞いてもらえるだけでも気分が楽になるのは十分にわかる。

 けれど、この胸にある感情の何をどう言葉にしたらいいのか、それさえもわからない。

 上手く言語化できないままでは、励まそうとしてくれている彼女にまで心無い言葉を投げかけてしまいそうだ。


「だったら言葉でなくてもいいのよ。思いつくまま、感情そのままでも。ネガティブな感情をネガティブなままため込むと、考えることすべてがそれに引きずられて、ますますネガティブになる。泣くとか叫ぶとか笑うとか、何でもいいから少しずつでも吐き出せるときに吐き出しておかないと」


 私の顎から手を離した閨崎さんが顔の前で指をくるくると回す。


「そうね、例えば、こんなのを口に出してみるのはどう? もう! とか、なんで! とか、武虎の馬鹿! とか」


 そんなので私の胸を覆う暗い感情を一部分だけでも吐き出せるだろうか。

 だけど、音楽教室で声の小さい生徒が勇気を出して歌いだすのを待っている優しい先生みたいに閨崎さんが私を見ている。


「やってみて」


 優しいと言ったが、やるまで帰してくれそうにない。

 立っているのは校門を少しだけ離れた通学路。周りに誰もいないことを確認して、息を大きく吸い込んでから叫ぶ。


「もう!」


「うん」


「なんで!」


「うん」


「武虎の馬鹿!」


「うんうん」


 ふーっと息を吐きだす。


「ちょっとは楽になった気がする」


 気のせいかもしれない。気休めかもしれない。それでも多少は気晴らしになる。


「ショックを受け流したいときに熱唱したくなる人の気持ちがわかった?」


「そうだね。わかった」


 あの時はマイクのおかげで余計にうるさく響いたのもあったけれど、カラオケでの高杉君を騒がしい人だな、と思ったことを悪く思う。

 自分がつらいからって、わかってもらえないからって、誰かに当たり散らすよりは、ずっとマシだ。

 たとえば、武虎に当たっていた私みたいに。

 この前までの自分を思い出して、また暗い気持ちに支配されそうになる。

 再び沼の底まで沈みそうになるのを見かねたのか、すかさず閨崎さんが尋ねてきた。


「まだ言い足りない?」


 おもちゃを買ってもらえなくて拗ねる幼稚園児みたいに駄々をこねているのが私なら、それを見かねて結局は頭をなでてくれる母親みたいな閨崎さんに甘えたくなる。


「うん。もうちょっとだけ、いいかな」


「もちろんよ」


 面倒くさがられず、むしろ頼りなさいと笑顔で許可をもらえた。

 だったら恥ずかしがらず、精一杯に甘えよう。

 先ほどの続きではなく、今度はちゃんと自分の言葉で。

 周りに誰がいてもいい気分になって、息を大きく吸い込んでから叫ぶ。


「ごめん、武虎!」


「うん」


「ひどいこと言って、ひどい態度を取って、本当にごめん!」


「うん」


「本当は好きだよ!」


「うん」


「どんなひどいことされたって、嫌いになんてなれない!」


「うん」


「武虎の馬鹿! 馬鹿っ! 愛してる!」


「うんうん」


 よく言えました、みたいに頭をポンポンと優しく叩かれる。

 恥ずかしいけれど、そうしてもらっていると心が落ち着く。


「あとはそれを武虎君が受け取ってくれるといいんだけど……」


 でも、それが一番難しいのだ。

 だけど私は諦めたくない。

 だって、武虎のことが好きだから。

 どんなに冷たくされようと、武虎のことが嫌いになんてなれそうにないから。

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