07 謝罪と拒絶(2)
確かな足取りで前を歩く志賀さんに連れられてどこに向かうと思えば、なんとそこはカラオケ店だった。
「歌う気分じゃないんだけど」
「それはそうだろうね。でも安心して。二人きりで話せる個室に行きたいだけだから」
暗い気分の時ほど思いっきり歌いたがる友達がいるんだけどね……と、これは俺を元気づけようとしている彼女が付け加えた。確かにすべてを忘れて歌うのは気分がよく、少しくらいは暗い感情もまぎれるかもしれない。
でもそれは歌うのが好きな人だけだろう。歌を聴くのは好きだが、自分で歌おうとはあまり思わない俺みたいな人間にとっては息抜きになるとも限らず、むしろ人前で声を出して歌うのはストレスにもなりかねない。
有り体に言うと、恥ずかしくて緊張するのである。
「志賀さんが歌ってくれるなら、ずっと聴いてるよ。それなら俺も黙っているだけでいいから」
「黙っているだけって……ううん。しゃべりたい気分じゃないのもわかるけど、思っていることを口に出したほうが気が晴れるかもしれないよ。もしかしたら私も力になれるかもしれないしね」
「志賀さんが?」
なんとなくの印象で誰にでも優しい人だとは思っているが、ここまで俺のことを気にかけてくれる理由がわからない。幼馴染に振られて落ち込んでいたからと言って、わざわざカラオケに誘って二人きりになろうとするだろうか。
所在なさげに意味もなくマイクを手に取っていじっていた志賀さんが、それを丁寧にテーブルの上に戻した。
「ごめん、ちょっと卑怯な言い方をしちゃったね。より正確に言うなら、力になりたいんだ」
どうして? と言おうとして、ようやく気分が落ち着いてきた俺は彼女がそうしたがる理由と目的に見当がついた。
「そっか。美夜の力になりたい、というわけだね」
「うん。彼女の友達だから」
友達。友達か。
高校に入学してから友達らしい友達を作れていない俺と違って、美夜にはちゃんと友達ができていたんだな。
「ちゃんと話すようになって一週間かそこらだけど、友達は友達だから。今日、すごく落ち込んでて、私が声をかけても素っ気なく対応されちゃった。何か悩んでいるなら、彼女の力になりたい。武虎君には上手く説明できないんだけど、彼女が落ち込んでいるなら私にも責任があると思っているの」
「それは、どうして?」
「高杉君が君の前で告白するっていう時ね、彼を止めるんじゃなくて、こっそり覗いていたの。彼女の話を聞いていた限り、本当はあなたたちって両想いなんじゃないかなって思っていたから、彼の告白をきっかけに事態が好転すると期待して。でも、結果は全然違った。彼女を泣かせてしまった。だからね、これは私なりの贖罪なの」
「違うよ。彼女を泣かせたのは俺だ。志賀さんが悪いんじゃない」
多くのことに自信がなくなっていたとしても、それだけは確実にそうだ。
悪いのは俺だ。他の誰でもない。志賀さんが謝る必要なんてないのだ。
「それなんだけど、私にはよくわからないの。武虎君、あなた、美夜ちゃんのことが好きなんだよね?」
言葉を濁すことなく飛んできた直球の問いかけ。
今までの俺だったら恥ずかしくて答えられなかったかもしれないが、今の俺は誰に対しても即答できる。
「うん、好きだ。一体いつから、というのは自分でもわからないけど、もうずっと美夜のことが好きなんだ」
もっと言えば大好きだ。
好きで好きで仕方がない。
幼馴染だからではない。いつもそばにいてくれた美夜だから、俺は世界で一番大切に思っているんだ。
「だったら、どうしてあんなに冷たくしていたの?」
「それは……」
当然の問いかけが来た。
自分でも理屈がわからない、不思議なまでに素っ気なかった昨日までの態度。
原因が思い当たらないせいで言葉に詰まる。まるで自分の悪行をお代官様から突きつけられているようだ。
「言えないこと? 何か深い事情があるの?」
「ごめん、ちょっと待って。俺の中で言葉にするまで、少しだけ」
「いいよ、たっぷり時間はあるから。いい加減な答えを聞かされるよりは、夜までかかっても本音を聞かされる方がいい」
許しを得られたので、ゆっくりと考えることにする。
中学を卒業するころ、美夜とは二人で流れ星を見に行ったことがある。その時は確実に彼女のことを好きでいて、不思議とあやふやになっている当日の記憶が確かなら、俺は流れ星にも彼女と恋仲になれるように願ったはずだ。
その後、少しずつ彼女と会話をする機会が減っていって、高校に入ったころには、もう完全に彼女を避けるようになっていた気がする。
だとすると、一つの仮説は立つ。
「高校生活が不安だったからか?」
「そうなの?」
けど、それは理由として不十分だ。
実際に不安だったとして、それが彼女を避けることと、いったいどうつながるというのだ。新生活に不安があるとすれば、むしろ幼馴染である彼女に安心感を求めそうなものだ。優しい彼女ならいくらでも相談に乗ってくれただろう。
「……違う。高校生活が不安だったのは事実だと思う。でも、その不安というのはもっと大きなものへの漠然とした不安だったんだと思う」
そうだ。そうとしか考えられない。
もっと言えば、無力感。
「勉強を頑張れって、部活を頑張れって、将来の仕事を選ぶための準備を今からやっておけって、でも俺は何を頑張ればいいんだ? 大学で学生たちが具体的に何を学んでいるのかもわからないのに、理系と文系を選べとか、高校を出た後の大学を選べって言われても困るんだ。世間の大人たちがやってる仕事も実際に何をやっているのかよくわからないのに、小学生のころから夢は何だと執拗に聞かれるじゃないか。それで現実性がないと馬鹿な子供だと笑われる。かといって夢がないと、ため息をつかれる」
何を言いたいのか自分でもよくわからない。
それでも志賀さんが黙って聞いていてくれるので、とにかく思いつくことを思いついたままに白状する。
「俺、夢があったんだ。その夢が何だったのかっていうのは目指していた俺にもよくわからないけど、ちょっと前までは本気で小説を書いてたんだよ」
「え、小説?」
「高校受験の勉強をしながら、息抜きを兼ねてずっと小説を書いていたんだ。それで、ひとまず書き上がった小説をネットに公開して、どんな感想が来るんだろうって読者の反応を楽しみにしていたんだけど、それはもう手ひどく酷評されたんだ」
つまらない、稚拙だ、文章の意味が分からない。才能ないからやめろ。
そういう言葉の数々は、時間が経った今でも鮮明に脳裏によぎってくる。
「それがつらかったの?」
「いいや、違うんだ。つらかったのは事実だけど、それだけじゃない。全部、あれもこれも、厳しいことを言ってくる感想のすべてが的を射ていたんだ。だから本当は酷評じゃない。正当な評価だったんだ。中学時代に頑張って俺が書いた精一杯の小説は、誰かに読ませるレベルじゃなかった。ただそれだけの話だ」
そう、たったそれだけの話。
少なくとも俺が書いた小説についての話に限るなら、ネット越しに匿名で寄せられた感想や指摘は一つとして間違いがなかった。言葉は荒々しかったが、それだけに心に響いた。
「だけど、俺にはもう、自分の限界がそこに見えたんだ。小説だけじゃない。部活やスポーツを頑張ったって、勉強を頑張ったって、好きなはずの趣味を頑張ったって、うまくやれない。そういう生き方しかできないんだ」
小学校の六年間と中学校の三年間を経て、それを察してしまった。
これから始まる高校の三年間で自分が変われるとも思えない。
大学に進んだとして、その四年間で世間に胸を張れる大人になれるとも。
「ある種の自暴自棄になっていた。だから、もしかしたら自分でも気が付かないうちに彼女に対して八つ当たりしていたんだと思う。そうとしか思えない」
そこまで考えがまとまると、さすがに自嘲したくなってくる。
「最低だ、俺。どうしようもないほどに最低だった。こんなんじゃ美夜に嫌われてもしょうがない」
最初から分かっていたことだけど、やっぱり自業自得だったんだ。
もう一度、しっかり目を見て謝りたい。彼女の許しを得て、美夜に好かれたいからではない。そういうこととは関係なく、自分本位で冷たく当たってしまった美夜に対して、心の底から申し訳なく思えてきたからだ。
「事情はどうあれ、過ぎてしまったことはどうしようもないと思う。でもさ、何が原因だったか気づけたんでしょ? だったら、後はこれからのことで挽回するしかないんじゃないかな」
強い口調で責めるでもなく、優しく励ましてくれる志賀さん。
だけど、そうだろうかと俺は疑問に思えた。
「あんなに冷たい美夜の顔は初めて見たんだ。俺を拒絶する彼女の声は、今までに聞いたことのない温度だった」
もう取り返しのつかないほどに嫌われた。そうとしか思えない。
「あなたたちの関係性を全部わかっているとは決して言えないけれど」
そう言って、遠慮しながらも近づいてきて、頼れるお姉さんくらいの距離で隣に座った彼女が俺の肩を叩く。
「けど、あきらめないで。私が見ていてもわかるくらい、昨日までの美夜ちゃんは確実に武虎君のことが大好きだったんだよ」
そうだったら嬉しい。
もしそうだったら、俺は、もう少し頑張ってみる必要があるかもしれない。
自分が報われるためではなく、昨日までの彼女の好意に報いるために。
週末、土曜日。連休の初日を家で寝て過ごすのではなく俺は遊びに出かけていた。
一人ではない。クラスの男子に誘われたのだ。
「おい、武っ虎、おっせーぞ!」
誘ってくれたのは高杉で、つまるところ俺と彼とは友達のようなものになっていた。美夜との件が尾を引いていないと言えば嘘になるが、それはそれとして高杉は俺のことを許してくれたらしい。
「君も今さっき来たばかりじゃないか。時間には遅れてるんだから偉そうにするのは変だよ」
その隣にいるのは野村で、高杉の友達だという関係で俺とも仲良くなった。
気が付けば五月。高校に入って一か月が経ち、俺にも二人の友達ができたことになる。高校生活がうまくいかないんじゃないかという、入学当初にあった不安はひとまずなくなってくれたと思っていい。
問題はこの数日で湧き上がった新しい問題なのだが、それについてはもう自分でもどうすればいいのか活路を見出せない。
浮かない顔で思いつめても状況を打開する名案が出せるとは限らず、かえって悪い思考に引きずられてしまう可能性もある。
つらいことはいったん忘れて心の隅に置き、今日は息抜きをしよう。
やたら元気がいい二人に連れられる形で向かった先は大型のアミューズメント施設だ。せっかくの陽気だから何か運動をしようとなって、今からバスケをやるらしい。
たった三人で楽しめるだろうかと思っていたが、どうやら同じクラスに所属する他の男子も後から何人か合流するようだ。つまりクラス会を兼ねた親睦会みたいなものだろう。
さすがに男子全員が参加するわけではないにしても、高校生活のスタートを上手く踏み出せたとは言えない俺にとっては新しいクラスに打ち解けるチャンスだ。ここは悩みを忘れて、友達を作るためにも精一杯に楽しんでいくことにしよう。
しかし、それは難しかった。
ぞろぞろとやってきた六人前後の男女の中に、美夜の姿があったのだ。
「ごめんなさい。私、今日は帰るね」
こんなところに来るなんて意外だな、と思っていると、美夜は明らかに俺の顔を見て帰ることを決めた。間違いなく、俺と一緒に遊びたくはないという意思表示だ。悲しくなる。
とっさに追いかけようとした足が数歩で止まる。迷いと恐れがそうさせるのだ。
すると、いつの間にか隣にいた志賀さんが俺の背を押した。
「追って」
「うん、わかった」
どれほど迷っていたとしても今はそうするしかない。一度は止まった足が勢い良く動き出した。
意外にも足の速い彼女。逃げるように、ではなく、本当に逃げているのかもしれない。
数メートル、数十メートル、よもや数百メートルは走ったのではないかと錯覚するくらいの地点で、慢性的な運動不足の俺はようやく彼女に追いついた。
「美夜!」
「武虎……」
観念した美夜が立ち止まって振り返る。
その顔はやはり無表情に近く、何か特別な感情を見せてはくれない。
「どうしたんだよ、急に帰るだなんて」
ちょっと走っただけなのに、情けないくらいに息が荒れている。何か言わなければならないのに、考えもまとまらない。
何を伝えればいいんだろうと思っていると、美夜が口を開いた。
「私がいたら、みんなの迷惑になるかと思って。だって私、楽しめないもん」
「それは、俺がいるからか?」
「そうだと言ったら、納得してくれる?」
美夜の気持ちは理解できる。彼女を傷つけた当事者だからだ。
このまま帰すわけにはいかない。俺は頭を下げる。
「ごめん、美夜。本当にすまなかった。俺は自分の都合で美夜につらく当たっていたんだ。今さら全部を許してくれなんて高望みはしない。でも、どうか俺の話を聞いてくれ」
祈りを込めるように言葉を紡ぐ。
想いが届くようにと心を込めたが、彼女には届かなかった。
「ごめん、武虎、やめて」
「けど、美夜、俺は……」
とにかく言葉が出てくるままに続きを言おうとして、訴えかけるように彼女の目を見つめていた俺は口を閉ざした。
「やめてよ、武虎」
そう口にした瞬間、ぽろりと彼女は涙をこぼしたのだ。
泣いている。いや、そうじゃない。事実を正確に表現するなら、俺が泣かせてしまったのである。
「だから、私、そういうのはやめてって言った。ねえ、武虎。もう関わるのはやめよう」
「美夜……」
「じゃあね、武虎。さよなら」
そう言い残して立ち去る彼女を俺は追えなかった。
あまりにも明確な拒絶。
それを受け取ってしまった以上、もはや俺は彼女を黙って見送ることしかできなかった。
その日、傷心のまま家に帰ると、スマホに三つの連絡が入っていた。
一つは高杉で、どこに行ったのかと問われたので家に帰ったと返事をする。
一つは志賀さんで、どうなったのかと問われたので駄目だったと返事をする。
そして残る一つは陽菜ちゃんから、遊びの誘いだった。
美夜の妹である陽菜ちゃん。幼馴染の妹であるから、なんだかんだと昔から仲はいい。最近は彼女がハマったゲームの相手をさせられることが多く、今日もその誘いだろうと文面を見るまでもなく予想がついた。
ゲームは昔から好きで、昔は美夜ともよく遊んでいた。それがいつからか、最近ではめっきり一緒に遊ばなくなったことを痛いくらいに寂しく思う。
陽菜ちゃんを通じて、なんとか美夜と仲直りできないだろうか。
一瞬そう考えた俺だったが、すぐにそれは否定した。それは陽菜ちゃんに対して失礼だし、美夜に対しては卑怯な気がした。謝罪を受け入れてほしければ、正々堂々と本人に直接伝えなければ意味がない。相手の身内を利用して許しを引きずり出すなど、誠実ではない。
けど、真正面から立ち向かって許しを得ることなど可能だろうか。
あそこまでの拒絶を受けたのは初めてだ。あんな泣き顔を見たのも初めてだった。
ひょっとすると、もう二度と俺たちは元の関係に戻れないかもしれない。
そう考えると胸が痛くなって、俺は美夜への恋心を必死に忘れようとした。
好きでなくなるのではない。興味がなくなるのでも、嫌いになるのでもない。
ただ、今の俺は彼女のことを考えるのがつらくなった。
彼女との関係を考えるのが悲しくて、耐えられなくなった。
だからだろうか。
俺は夜、ひどい悪夢を見た。
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