第662話 東部への侵攻開始

 五月十日。

 この日、リード王国軍はグリッドレイ公国側の支配地域へ向けて進軍を開始する。

 なぜこの日を選んだかというと、給与を受け取っている兵士を見たアイザックの脳裏に「五十日ごとうび」という言葉を思い出し「おぼろげながらに浮かび上がった数字から、開戦は五月十日にしてみるか」と思ったからだ。


 最初に接触したのはキンバリー川上流を任されているウェルロッド公爵軍だった。

 ウェルロッド公爵軍が駐留していたプレブルは、キンバリー川西岸にある。

 そして東岸には、川を挟んですぐ目の前にはクーンツという街があった。

 二つの街は川で隔たれているものの、数多の橋が架けられており、隔たりを感じない距離だった。

 その橋を渡って、リード王国軍は東岸へと向かう。

 検問所を守るグリッドレイ公国軍兵士は、当然慌てる。


「あの、プレブルは反対側ですよ」


 どう考えても道に迷って橋を渡るはずがない。

 だがそれでも兵士は「何かの間違いだろう」と思い、リード王国軍に声をかける。


「……どうして撤退していない?」

「はい?」


 問いかけたはずだが、リード王国軍の指揮官が逆に意味不明な事を問い返してきた。

 兵士は首をかしげる。


「どうして撤退していないのかと聞いている」


 思考がフリーズしている兵士に向かって、再度指揮官は尋ねる。

 またしても兵士は慌てだす。


「あの、私にはわかりかねますので、上官に聞いてきます」


 兵士は検問所所長のところへ走り出す。

 そしてすぐに検問所から、この街を収める駐留司令官のもとへと伝令が走り出した。



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 現場では対応できる事ではないとわかり、すぐに代表者同士の会談となった。

 ウェルロッド公爵側からは、バートン子爵を始めとする若者貴族が。

 グリッドレイ公国側からは、北部方面の軍を指揮するマグフォード将軍が出席する。

 クーンツの市役所内の会議室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。

 最初に口を開いたのはバートン子爵だった。


「なぜあなた方は撤退していないのですか? 私は王妃の父であると共に第二王子殿下の祖父でもあります。確かに子爵という事で見下されておられるのかもしれませんが約定破りはあまりにも酷いではありませんか!」

「お待ちください。バートン子爵を見下したりしてはいません!」


 するはずがない。

 バートン子爵が言うように、彼はリサの父親であり、王子と王女の祖父である。

 それはアイザックの義理の父という事を意味する。

 しかも彼の妻のアデラはアイザックの乳母だ。

 家族ぐるみでアイザックとの縁が深い。

 そんな相手をコケにするなど、勇気を通り越してただの蛮勇でしかない。

 マグフォード将軍は、そのような愚かな真似をするつもりはないし、した覚えもなかった。


「なぜ撤退していないのかと尋ねられましたが、その約定とはなんの事でしょうか? 我々は何も伺っておりませんが」

「嘘だ! 僕達に恥をかかせるつもりなんだろう!」


 理由を問うマグフォード将軍への返事は非難の言葉だった。

 それはバートン子爵ではなく、彼が連れてきた若者の一人が放った言葉である。

 だが、マグフォード将軍を非難するのは彼一人だけではなかった。


「僕達はアイザック陛下の親友なんだぞ!」

「俺なんて近衛騎士団の部隊長だぞ!」

「僕達に手柄を立てさせてくれるっていうアイザック陛下のお気持ちをどうしてくれるんだ!」


 次々に非難の言葉がぶつけられた。

 この状況をマグフォード将軍はまったく理解できず、思考がフリーズする。


「やめないか!」


 バートン子爵が一喝して彼らを黙らせる。

 そして彼は申し訳なさそうな顔をして、マグフォード将軍に話しかける。


「申し訳ございません。もしやマグフォード将軍は、今春に我が軍が侵攻するという情報をご存じなかったのでしょうか?」

「侵攻する!? 我が国の領土に!?」


 バートン子爵の言葉は、またしてもマグフォード将軍を驚かせた。


「我々がリード王国の軍事機密など知るはずが――あっ……」


(そうか、またなにか密約を結んでいたのか? でなければ、なぜ侵攻する事を知らなかったのかなどと聞かないだろう)


 ――重要な命令を聞き逃したのかもしれない。


 その事に気づいて、マグフォード将軍の背中を冷や汗が流れた。

 もしそうだったならば、どう聞き返せばいいのかを必死に考える。


「どのような侵攻計画だったので?」


(もし本当に密約があったのならば、素直に教えてくれるはずだ。もし失敗を犯していたのならば、すぐに挽回せねば)


 失敗していた時の事を考え、マグフォード将軍は致命的な失敗にならないよう動く。


「我々はキンバリー川を渡河し、夏までにスタンレー山脈東部まで侵攻します。その後、我々は他の部隊と交代して帰還。アーヴァイン殿下が率いる軍がキンバリー川までリード王国軍を追い返すでしょう。ですが我々は侵攻を成功させた功績で陞爵される事になります。私も娘に『王妃の中で唯一実家が子爵家』という肩身の狭い思いをさせずに済むと思って喜んでいたのですが……」


 バートン子爵は恨みがましい目でマグフォード将軍を見る。

 マグフォード将軍はバートン子爵ではなく、彼の背後にいるアイザックに怯えた。


「我々は本当にそのような話を聞いておりません」


 マグフォード将軍は焦る。


 ――バートン子爵を伯爵にし、そのついでに友人達に爵位を与えるか陞爵させる。


 そういうアイザックの考えをぶち壊してしまうかもしれない状況だからだ。

 今の話が事実なら、グリッドレイ公国側も反攻で活躍したとされる者達にも手柄を立てさせる事ができる。

 双方共に利益のある話だった。

 しかもこの計画は、それだけで終わる話ではない。


「思えば、これまで両軍の間でまともな戦闘は起きていませんでした。ファラガット共和国民に、我らが裏で繋がっていると思わせないために戦闘が起きているように思わせるのも重要です。そういった意味ではリード王国軍の春季攻勢は理に適っているのでしょう……」


 ――ファラガット共和国民へのアリバイ工作。


 リード王国とグリッドレイ公国が講和したというのならば理解も得られるだろう。

 だが「最初から結託していた」場合は反応が変わってくる。

 同盟国であるグリッドレイ公国は、強い恨みを買う事になるかもしれない。

 そうなれば、ただの平民はともかく、有力者達が逆らおうと画策する可能性が出てくる。

 それは統治上の障害となるはずだ。


(決定を下したのがアーヴァイン殿下だろう。そんな重要な命令なら伝達漏れを防ぐために伝令を何度でも出すべきだろうに。なんでこちらの返答を待って了承しなかったんだ!)


 マグフォード将軍の脳裏に、アーヴァインが良い条件の提案のため了承するのに一秒も考えずに答えている姿が浮かぶ。

 実際はそんな事ないのだが、自分の置かれた状況に対する不満から、アーヴァインに責任転嫁をしてしまう。

 しかし、今はそんな場合ではなかった。

 まずは目の前の問題解決に取り組まねばならない。


「ですが私は何も知らされておりません。アーヴァイン殿下かクレイヴン元帥に確認するため、一度延期という事にはできませんか?」

「それは無理です。リード王国は現在大攻勢を仕掛けています。ここだけではなく、中部や南部でも侵攻を始めているのですよ。人や物をそれだけ大量に動かしているという事です。中止にした場合、多額の軍事費が浪費される事になりますが……。お支払い願えますか?」

「それは……、厳しいですな」


 面子があるので「払えません」とは答えなかったが、できない事には変わりない。

 責任を取る事もできない以上、強く否定もできなかった。


「しかし、今からではどうする事も……」

「それは困りましたな……」

「私から提案があるのですが、発言してもよろしいでしょうか?」


 一人の若者がオドオドとした態度を見せながら打開策があると名乗り出る。


「ルーカスか。言ってみなさい」


 バートン子爵が彼の発言を許可する。


「将軍閣下のためにも、一日だけ撤退する時間を用意して差し上げてはいかがでしょうか? 我が軍と戦闘して街に被害を出さないため、やむを得ずに撤退したという口実を作って差し上げるのです。民間人を守るためという口実があるので、撤退しても住民からは蔑まれる事はないと思います」

「なるほど、名誉を損なわないように撤退していただくわけか」

「はい。クーンツ以南はクレイヴン元帥と合流するために南下。撤退できない以北の部隊は我が軍の捕虜になってもらうように命令を出していただき、後日捕虜交換で返還するという形でいかがでしょうか?」

「それならば計画に与える影響も少ないか……」


 バートン子爵は、マグフォード将軍の目をジッと見つめる。

 バトンは彼に渡された。

 次はマグフォード将軍が反応を見せる番だった。

 当然、彼は悩む。


(この提案を受け入れて本当にいいものか……。もしこれが嘘だったら、勝手に撤退した私は窮地に立たされる。しかし北部方面には六千しか兵がいない。ウェルロッド公爵軍が本気で攻撃を仕掛けてくれば耐えられない規模だ。こんな詐術を使う理由がない。そもそも、ファラガット共和国東部は彼らに譲ってもらったようなものだ。これまでの関係を考えれば、彼らの言う事を信じて撤退したほうがいいのではないだろうか?)


 マグフォード将軍は、楽な選択を選ぼうとしていた。

 ここで「絶対抗戦だ!」と意固地になった場合に失うものと「じゃあ撤退します」と大人しく引き下がった場合のメリットとデメリットを考えると、撤退したほうが最悪の事態でも被害は少なそうに思えたからだ。

 いや、そう思い込もうとしていただけかもしれない。


(しかし、一日ではすべての荷物を運び出せんな)


 彼らには自国へ送り切れていない略奪品が手元に残っている。

 それをリード王国に奪われないかが心残りだった。


「ここはいずれあなた方の手に戻る事になるでしょう。運びきれない荷物は倉庫などに入れて封印を施し、当面の間は保管しておきましょう。ただ虫が湧くと困るので、各部屋の食べ残しや飲み残しは処分させていただきますが」


 そんな彼らの心中を見透かしてか、バートン子爵が口を開く。

 最も気になっていた事を保証してもらえたので、マグフォード将軍の心が大きく揺れ動く。


「私も北部方面の守備を任されています。ですので殿下や元帥閣下に確認を取らずに撤退する事はできません。……ですが今回はバートン子爵の顔に免じて特別に引き受けましょう。あなた方を信じていないわけではないのですが、一応荷物には手を出さないと一筆書いておいていただけますか?」

「ええ、書かせていただきましょう」


 バートン子爵が素直に「荷物を奪い取ったりはしない」と一筆書くと、マグフォード将軍の表情が緩む。


「ではこれから食料品だけ急いで準備します。明日の朝には撤退しましょう。北部の各駐屯地にも伝令を送っておきます」

「ご理解いただきありがとうございます。なにか苦情がございましたら、アイザック陛下かアーヴァイン殿下に言われるといいでしょう」

「どちらも言いにくい相手ではありませんか」


 緊張が解けたのだろう。

 マグフォード将軍が笑いながら答える。

 バートン子爵は、少々引きつった笑みではあったが、彼に微笑み返した。



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 翌日、グリッドレイ公国軍はクーンツから撤退を始める。


「なんとか上手くいったか……」


 それを見て、バートン子爵はかつてないほど深い安堵の溜息を吐く。

 アイザックの命令通り「100%本当ではないが、嘘ばかりでもない方法」でマグフォード将軍を騙す事ができた。

「リード王国軍が侵攻する」という本当の情報を中心に話していたので、まったくの嘘ではない。

 ただ相手が誤解するような話し方をしただけだ。

 これで被害の大きい街での攻防戦ではなく、平地での戦闘ができるようになった。

 慣れない事をさせられたので、バートン子爵は極度の疲労感を覚えていた。


「バートン子爵はまだいいですよ。僕達なんて……」

「なんであんな辱めを……」


 レイモンドやポール達、アイザックの友人達は顔を真っ赤にしてうつむく。

 人によっては、両手で顔を隠して悶えている者もいた。


「仕方なかろう。これもアイザック陛下が我らに手柄を立てさせるための作戦だ。クーンツから彼らを撤退させた事で、渡河中を襲われる危険がなくなった。これは大きな手柄なのだから我慢しなさい」


 ――友人達に手柄を立てさせる。


 これはアイザックなりの優しさであり、悔しさでもあった。

 自分の子供達の友達候補は、やはり年齢の近い子供となる。

 自然と同年代のアイザックや妻達の友人の子供が選ばれやすい。

 しかし、彼らの友人はほぼ子爵家や男爵家、ルーカスに至っては爵位を持っていない。

 だから彼らの家を陞爵させ、王子や王女の婚約者として不足ではない爵位を与えてやろうとしていた。


 とはいえ優しさばかりではない。

 アイザックも「子供にも婚約者はいる」という事は理解している。

 だが「なんで我が子を奪われねばならないのか?」と感情面で納得できなかった。

 その悔しさが「手柄は立てさせる。でもちょっとくらいは恥ずかしい思いをさせてもいいだろう」という小物っぷりを発揮し、今回のような演技をさせる事に繋がったのだ。


「ルーカスはいいよな。まともな提案をするポジションで」

「僕の家は爵位がないから、貴族に取り立てるために、たまたま多めに手柄を立てさせてくれただけだよ」

「それでも羨ましいよ。なんだったんだよ、あの馬鹿丸出しの演技は……」

「うーん……、ドンマイ」


 ウェルロッド公爵軍内は、先行きの明るさから弛緩した空気が流れていた。

 しかし、グリッドレイ公国軍の未来を考えれば、いつまでも緩んではいられない。

 南下したマグフォード将軍は、確実に不幸な目に遭うだろう。

 奈落のどん底に突き落とす手助けをした彼らは、いつか心苦しさを覚えるかもしれない。

 だが戦争が本格化する前の今はそんな事を考えず、彼らは一仕事終えた解放感を味わっていた。


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