第655話 波乱の前兆

 十一月上旬。

 アイザックはファラガット共和国南部の街に滞在していた。

 これは港湾施設の視察という名目・・で、海沿いの街で観光するためだ。

 そのため比較的ラフな格好をしていた。


「これが海……」

「かなり広いな」


 初めて海を見た者達が感嘆の声を漏らす。


「海の向こうには別の大陸があり、そこにも大勢の人が住んでいるそうだよ。いつかは気楽に旅行ができる時代がくるかもしれないね」

「そのような時代が来ても海を航海するのはためらわれますね」

「私は船で川を渡るのも怖いですので、海を渡るのは……」


 アイザックの言葉に、周囲にいた者達が否定的な答えをする。

 やはり内陸部で育った者にとって、水上は未知の世界で不安を覚えるのだろう。

 アイザックは「慣れていないから仕方ない」と思い、彼らを馬鹿にするような事は考えなかった。


「無理をする事はないさ。それにまだまだ遠い未来の事だしね。他の大陸に行く事よりも、まずはファラガット共和国に家族旅行できるようにするのが最優先だ。今は肌寒くなってきているけど、夏場は浜辺で遊ぶ事もできる。子供達が波打ち際ではしゃぐ姿を見たいと思わないか?」

「それは思います。早く戦争を終わらせたいですね」

「あぁ、そうだね」


 実際のところ、アイザックが真っ先に想像していたのは妻達の水着姿だった。

 もちろん、彼は夫なので妻達の裸を見ている。

 だがそれでも「初めて水着を着て恥じらう姿」は是非とも見て見たかった。

 子供の成長と共に高画質のカメラで録画しておきたいところだったが、この世界にはまだピンホールカメラすら存在しない。

 その目でしっかり覚えておくという方法しか手段がなかった。

 アイザックはカメラが存在しない事を心の底から残念がる。

 しかし、そんな感情を他人に見せたりはしない。


「家族もきっと家で私達の帰りを待ってくれているだろう。戦争が終わるまでは我慢しよう。それまでは手紙とお土産を贈って無事を知らせるようにしよう。この街に良い店があると義父上マクシミリアンから聞いている。そこに行ってみようじゃないか」


 南部はファーティル地方の軍が攻略を受け持っていた。

 当然、ファーティル公爵家を率いるマクシミリアンも統治に携わっていた。

 元王族の彼が認める店なのだ。

 余程良い店なのだろう。

 アイザックも家族へのお土産を買うのにちょうどいい機会だと思っていた。



 ----------



「うわ、安っ。いや、安くはないけど安いほうだな」


 ――義父に教えてもらった店はお手頃な価格だった。


 もちろん値段相応の安物というわけではない。

 リード王国では高級品として扱われる真珠が、この街では半額以下の値段で売られていた。


「お客様は、リード王国からお越しになられたのでしょう? あちらへは運搬費用を始めとした諸費用が上乗せされております。真珠を買おうとお考えなら、当店でお買い求めくださるのをオススメ致します」

「確かにその通りだな」


(昔、リサにプレゼントしたのと同じくらいの真珠のイヤリングが半額か……。そりゃあ飛行機や列車のない時代の輸送費は高いだろうけど、これほどまでに違うのか)


 あまりの安さにアイザックはショーウィンドウに並ぶ商品を見て、衝動的に「ここからここまでもらおう」という創作物の中の金持ちがやっている真似をしてしまいそうになるが我慢する。

 なんとなく成金の振る舞いに感じて、国王らしからぬ行動だと思ったからだ。

 その代わりに、一つ一つをしっかりと品定めしていく。

 そんなアイザックを見て、店員はある出来事について話す。


「この地を統治されておられるファーティル公子様は、気に入った商品を陳列棚丸ごとお買い求めくださりました。公爵家の方のお眼鏡にも適う品質の物を揃えているという自信が我らにはございます」

「ほう、義父上は丸ごと買われたのか」

「はい、ファーティル公が――」


 店員が固まった。

 マクシミリアンには娘しかいないというのは有名である。


 ――ならば彼を父と呼ぶ者は一人しかいない。


 店員は素早く土下座した。


「も、申し訳ございません! まさかアイザック陛下とは思わず……」

「気にするな」


 そう答えたのはアイザックではなく、護衛に付いていたファーガスだった。

 アイザックがファーガスに何かを言おうとしたが、その前に彼が動いた。


「ですから立場に見合った格好をしてくださいと申し上げたではありませんか」


 ファーガスはアイザックを非難する。

 他の護衛達も「その通り!」と内心思っていた。


「せっかく開放的な港街に来たんだから、仰々しい格好はしたくなかったんだよ」

「陛下は楽でしょうが、そんな格好をしているから、この店員のように困る人が出てくるのです。大方『護衛を連れた貴族のボンボンが買い物に来た』と思われていたのでしょう。もう少し考えて行動してください」


 ファーガスは呆れた表情を見せていた。

 アイザックの事は、大陸一の知恵者だと彼は思っている。

 だというのに、時にはまるで平民であるかのような振る舞いをする。


(侯爵家で生まれ育ち、自力で公爵になり、国王にまで登り詰めたお方だというのに……。これもお父君に似て温和な顔立ちをされておられるせいかもしれないな)


 時には周囲を恐れさせる事もあるが、国王となった今でもアイザックに威厳はない。

 これがマットであれば、同じ服装をしていても店員も貴族のボンボンとは思わなかっただろう。

 ランドルフも武神や剛勇無双と称えられてはいるが、とてもそうは見えない落ち着いたタイプだった。

 容姿は血筋なので仕方ないのかもしれないが、服装は自分の意思でどうにでもできる。

 ファーガスとしては、自分の立場に見合った格好をアイザックにして欲しかった。


「そんなにダメかなぁ……。まぁ今後は気を付けるよ」


(まさかまだジェイソン未満だったなんて……)


 ニコルのせいでおかしくなっていた時のジェイソンですら、普通の貴族の子弟とは違う「王族!」といったオーラを身に纏っていた。

 だというのに、自分はまだそういうオーラを身に纏えていないらしい。

 自分がまだジェイソンの域にも達していないと気づいて、アイザックは少しヘコむ。


 肩を落とすアイザックを見て、ファーガスは「言い過ぎたかな?」と思った。

 だがこれはアイザックのためにも言っておかねばならない事である。


「はい、やはり陛下はその身分にふさわしい服をお召しになられるべきでしょう」


 心を鬼にして進言をする。

 同情して黙っていてはアイザックのためにならないからだ。


「わかった。そうしよう」


(あーあ。っていう事は、みんなに水着を着せての海水浴もダメって事じゃないか。王妃にふさわしくない格好だと言われたらそれまでだ。まさか権力を握る事で、こんなデメリットがあったとは……)


 この理由が落胆する要因として多くの比重を占めていた。

 ここで「そうだ、王族専用のプライベートビーチを作ろう!」という発想が出てこないのが、庶民の癖が抜けないアイザックの限界なのかもしれない。


「とりあえず、立ってくれるかな? 黒真珠の商品とか見せて欲しいんだけど」

「はっ、かしこまりました。ただいまお持ち致します」


 このやり取りをしていた間、ずっと土下座していた店員に声をかける。

 店員は立ち上がると、店の奥へと入っていった。

 そして店長らしき年配の男と共に箱を持って現れた。

 どうやら自分の手には負えない相手だと思ったのだろう。


「黒真珠のほとんどはファーティル公子様がお買い上げくださりましたが、ちょうど新しい物が入荷したところです。このネックレスなどは王妃殿下がお付けになっても恥ずかしくないものとなっております」

「なるほど、確かに良さそうですね」


(なんだか黒真珠のネックレスって数珠みたいだな。……パメラは付けるのを嫌がるかもしれない)


 ――猫に小判。

 ――豚に真珠。

 ――アイザックに黒真珠。


 アイザックも貴族として恥ずかしくないように物を見る目は養ってきたが、それでも一定以上の物は「なんだか高そう」以上の感想が出てこなかった。



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 ノイアイゼンでは議会が熱気に包まれていた。


「満場一致でファラガット共和国への派兵法案が可決されました」

「落とし前をつけさせろ!」

「いちびっとんちゃうぞ、ジャリ共が!」

「いてもうたれや!」


 議長が可決したと宣言すると、評議員達から口汚いヤジが飛ぶ。

 彼らはファラガット共和国内において、同胞がどのような扱いを受けていたのかを知っていた。

 だから軍を派兵する事に決めたのだ。


 ノイアイゼンからはドワーフ一万人ほど。

 彼らと同じく怒りを覚えているエルフからは、千名以上を傭兵として雇い入れる予定だった。

 そしてリード王国に派兵を断られた理由である補給の問題を解消するため、後方支援要員として二万人を動員する。

 それだけ派兵に本腰を入れていた。


「軍の動員を進めつつ、リード王国にも国内の通過許可を得なければならない。そのための贈り物も用意しなければならない。皆の衆、工房のフル稼働を頼むぞ!」


 リード王国には領内通過要請を行う。

 だがそれだけでは許可をもらえるかわからないので、対価として金銭の他に武具の無償供与なども予定されている。

 もちろん、ウォリック公爵家への賠償なども法案の予算に含まれていた。


 この法案が可決されたのが十一月七日。

 アイザックが浜鍋やしょっつるの漬物を堪能し、モーガンがケンドラやザック達へのお土産を何にするか迷いながらも楽しそうに選んでいたのと同時刻の事だった。

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