第639話 北部と南部の状況
ファラガット共和国北部。
北部の防衛戦略は「要塞化した都市が敵軍を受けとめ、小規模な無数の砦との連携で時間を稼いで援軍を待つ」というものだった。
――深い森と緩やかな丘陵地帯が続き、大軍の展開が難しい地形。
だからこそ「ここは安全だ」と油断していた。
ロックウェル地方から攻め込んできたとしても、大軍を養う補給が続かないからだ。
――しかし、それはロックウェル王国時代だからこそ通じる考えだった。
北部侵攻を任されたのは、
彼らには十分な勝算があった。
ロックウェル王国時代であれば、北部攻略で精一杯になっていただろう。
だが今は違う。
中部方面を王国軍本隊が侵攻する。
そちらから食料が輸送される事になっているので、補給については心配をする必要がなかったからだ。
だから彼らの進撃速度は速かった。
当面の間は食える分だけの食料を持ち、砦に一気に襲いかかった。
数十人が籠る程度の小規模な砦など、旧ロックウェル王国の宮廷魔術師の手にかかれば城壁などないようなもの。
侵攻初日に十五の砦を落とし、国境付近の村を占拠しつつ、三つの都市を包囲する。
包囲する軍の一つに、ロックウェル方面軍司令のアルヴィス自身の姿があった。
アイザックがファラガット共和国側に防衛体制を整えるように伝えていたため、その都市には三千ほどの兵が立て籠もっていた。
リード王国側は二万で包囲している。
アルヴィスは市長や師団長を呼び出し、その数の差を見せつけながら降伏勧告を行う。
「俺はこの日がくるのとずっと待っていた! ファーティル王国も敵ではあったが、お前らは明確な敵ではなかったはずなのに、我が国を食い物にしてきたからなぁ! アイザック陛下のおかげでお前達をぶっ殺すきっかけを作る事ができた!」
アルヴィスの近くには、ロックウェル方面軍に派遣されたエルフもいた。
彼らは近くで大声を出されて、うるさそうにしていた。
「だがしかし! アイザック陛下からは敵兵とはいえ殺すのは最小限にするようにと命じられている! こちらにおられるエルフの皆様の魔法のおかげで、お前達は致命傷を負っても生き残れるだろう!」
――攻め込んではきたものの、被害を最小限にしようとしてくれている。
アルヴィスが嘘を吐けない人間だという事は、ファラガット共和国にも噂で知られていた。
その彼が「皆殺しにする」と言わなかったので、ファラガット共和国の兵士達の間で少しだけ弛緩した空気が流れる。
だが、それだけで終わるはずがなかった。
「おかげで何度拷問しても、どれだけきつい拷問をしても絶対に死ぬ事はないって事だ! 積年の恨み、お前達で晴らさせてもらおうじゃないか! エルフの魔法で絶対にお前達を死なせねぇからな!」
――皆殺しにされるよりも恐ろしい目に遭わされそうだった。
これには一時は緩んだ空気が一気に凍りつく。
「だがな、残念な事も知らせておかねばならない」
アルヴィスは遠めにもわかるほど露骨に肩を落とす。
「アイザック陛下から厳命されているから、仕方なくお前達に降伏の条件を伝えておく。この戦争が始まった理由は政治家や商人共がロックウェル地方の資源を安く買い叩いている事。それとエルフやドワーフが奴隷として捕まっている疑いがある事だ。だからそれ以外の民間人にはなにもしない。軍人も大人しく降伏するなら、開墾作業などの労役に三年ほど従事すれば身代金なども要求せずに解放する。これはアイザック陛下の名のもとに約束されるというものだ」
ファラガット共和国の兵士達は、そのほとんどが商人と関係ない平民出身者だ。
そのため「家族は無事で、あくどく稼いでいる政治家や商人達が困るだけ」とわかると、応戦しようという士気が下がった。
まだナショナリズムが発達していない時代であるため「お国のために尽くす」という意識を兵士達は持ち合わせていなかった事が士気の低さに直結していた。
兵士はあくまでも仕事であり、名誉も褒美もない戦いに命を懸けようという者はごくわずかだった。
「我々は降伏などしない! ここにいる兵士達は最後の一兵まで戦うぞ!」
しかし、既得権益に関係する者達は違う。
市長や師団長など、権力を握る者は商人との関係も深い。
政治家や商人に対して報復されるという事は、自分達の利益を失うという事だ。
自分の利益に直結する問題なだけに、簡単に降伏など選べなかった。
「そうか、ならいい。アイザック陛下に命じられたから一応伝えただけだ。こちらとしても降伏などしてもらっては困るからな。降伏勧告は、この一度だけだ。二度はないからな」
アルヴィスが馬を操り、街門から離れようとする。
「待ってくれ!」
兵士の一人が叫ぶ。
アルヴィスに待つ義理はないが、馬の歩みを止めた。
彼が振り返ると、街壁の上で揉めているようだった。
(成功するかな)
アルヴィスは事態を興味深く観察する。
すると、大きな動きが起きた。
誰かが街門の上から落とされたのだ。
それによって騒ぎがさらに大きくなる。
「反逆……討ち取れ……」
どうやらアルヴィスが期待していた事態になったようだ。
彼は「商人という支配者階級」と「平民という被支配者階級」の分断を狙うために、あのような事を言ったのだった。
彼には本気で拷問にかけるつもりなどない。
「ロックウェル王国が周辺国に虐げられていたのは歴代国王が無策だったせいだ」と思っていたからだ。
弱い国が食い物にされるのは当然の事。
国土を取り戻す事にばかり夢中になって、他国に付けこむ隙を与えてしまったのは自業自得である。
逆恨みをする気など彼にはなかった。
とはいえ、旧ロックウェル王国民すべてが彼と同じように達観しているわけではない。
「ファラガット共和国へ報復すべし!」と考えている者のためにも溜飲が下がる思いをさせてやらねばならない。
だから「降伏しなければ拷問する」と脅したのだ。
大人しく降伏してくれば「国王陛下の命令には逆らえない」という名目で拷問を止める。
アイザックは憎まれてはいるものの、同時に恐れられてもいるので兵士達も大人しく従うだろう。
――脅迫をしつつ、自国の兵士の溜飲を下げる。
そのための降伏勧告だったのだ。
(ちょっとやり過ぎたか……)
大人しく降伏すれば労役だけで済むのだ。
農家出身の兵士ならば、大した苦労ではない。
しかしエルフやドワーフの名前を出されてしまっては、支配者層は大人しく降伏などできない。
アルヴィスの狙い通り支配者階級と被支配者階級の分断はできているようだが、思っていたよりも激しくなっている。
「あっ」
一人、二人と続けて落ちる。
だがそれ以上に街壁の上で倒れ込む者のほうが多かった。
それもそうだろう。
平民のほうが多いのだ。
司令官側に味方する者も様子見に回り、一方的な虐殺となっていた。
騒ぎが終わると跳ね橋が降り、門が開かれる。
「我々は降伏する! アイザック陛下が提示された条件を守ってほしい」
「わかった。まずは他の兵士にも武装を解除するように伝えろ。しばらくしたら兵を送る」
今度こそアルヴィスは馬首を返した。
そして従者の一人の背中を叩き、ドヤ顔を決める。
「どうだ、カイル? 俺がみんなに知られる正直者でよかっただろ? 血を流さずに街を落とせた」
「今回はたまたまでしょう? もう王太子ではなく、上位者も増えたので言葉に気をつけるべきだというのは変わりません」
「なんだよ、そこは素直に褒めるところだろう」
褒められなかったので、アルヴィスは肩をすくめる。
しかし、元王子だというのに不快な表情は見せなかった。
――アルヴィス・ロックウェル。
彼は自分が周囲にどのように思われているのかをよく理解し、それを利用するだけの頭脳を持っていた。
彼の口は羽根のように軽く浮ついていたが、心はどっしりと地に足のついた男だった。
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南部侵攻を任されたファーティル方面軍は極めて順調に進んでいた。
こちらは平原が広がっており、要所を要塞で守るのが難しい地形だった。
そのため防衛拠点となる場所は街と駐屯地くらいで、北部と違い軍の駐留拠点はわずかだった。
国境付近に集まっていたため、初日に大半を捕虜にする事に成功する。
ただしそれは南部の国境付近に配備された第五師団のみ。
軍港に配備されていた海軍の半数には逃げられてしまった。
しかし、残されたものもある。
「これが船か……」
「なぜこんなに大きなものが浮かんでいるのでしょう」
マクシミリアン達、ファーティル地方の貴族はキャラック船を見て驚いていた。
ファーティル地方にある船といえば、川を航行できる大きさのものしかない。
マストが四本もある船など初めて見る者ばかりだった。
「これだけ大きければ一度に運ぶ量も多そうだ」
「それに馬と違って休まずに運べるので早く届けられそうです」
「海沿いの国が貿易で稼げるわけだな」
彼らは陸上輸送と海上輸送で運べる量の違いを、船を見ただけで実感する。
一度に運べる量を彼らが気にしているのは、リード王国内で鉄道の敷設が始まっているからだった。
アイザックが鉄道輸送の利便性を説いていなければ「平民が運ぶのだから関係ない」と、輸送に関して誰も気にしていなかっただろう。
アイザックのおかげで貴族達にも「輸送の重要性」というものが浸透し始めていた。
「それにしても奇襲で街の中に入りこめたとはいえ、抵抗がまったくなかった事が気になります」
「その事か。それはファラガット共和国の事情のせいだな」
「公爵閣下はご存知なのですか?」
「あぁ、知っている。商人達が話すには『王侯貴族のいない平等な国』というのが原因だそうだ」
マクシミリアンは、周囲の者達にファラガット共和国の事情を話し出した。
ファラガット共和国建国当初は「平民の国」として全員が平等な国を目指していたらしい。
しかし、時が経つにつれて金を持つ商人達が権力を握っていく。
議員や市長に立候補できるのも、多くの税金を納めている金持ちに限定されるようになっていった。
法律も徐々に資産家が有利なものへと変わっていき、大多数の庶民は政治に関わる事ができなくなった。
だがそんな状況になっても「階級差のない平等な国」という看板は下げずにいた。
庶民も馬鹿ではない。
「俺達は平等だ。お前達が選挙権を持たないのは努力していないからだ」というのは自分達を押さえこむための強弁に過ぎない事をわかっていた。
しかし、その事に気づいた時には支配者階級に反旗を翻すだけの力は残っていなかった。
誰もが
「――という事らしい。兵の士気が低いのもそのせいだろう」
「明確な敵よりも、友人面して金をタカってくる者のほうが憎くなるようなものですか」
「かもしれんな。実際、反乱を起こす力を持たせぬために庶民は重い税金を課されているらしいから、相応に恨んでいるだろう。リード王国の農奴のほうがマシな暮らしをしているかもしれんぞ」
「このまま波乱が起きる事なく、戦争が終わるといいのですが……」
「そうはいかんだろう。共和国軍の士気が低くとも、商人の私兵は違う。奴らと衝突する時が、本当の戦争開始となるはずだ」
――商人の私兵。
表向きは警備兵とされているが、誰がどう見ても地方領主の私兵と変わらない存在だった。
口減らしのために兵士になった者とは違い、商人から利益を得ている者達の士気は高いだろう。
自分達の生活を守るために立ち向かってくるはずだ。
ファラガット共和国が私兵集団を糾合し、徴兵した雑兵達と共に立ち向かってくる時。
その時こそ、リード王国軍は本当の戦争を始める事になる。
今は奇襲で上手くいっているだけだ。
マクシミリアンは油断せぬよう部下に伝え、次の目的地へと軍を進ませていく。
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