第628話 ウェルロッド・リヴィングストン協定
モーガンはロックウェル地方に滞在し、グリッドレイ公国との国境紛争の解決に奔走していた――わけではなく、のらりくらりと適当にやり過ごして解決を先延ばしにしていた。
しかし、それにも限度がある。
使者でのやり取りでは埒が明かないと、外務大臣のデレク・リヴィングストン伯爵本人が足を運んできた。
(とうとう、この時がきたか)
さすがにこれ以上、問題の解決を引き延ばすのは無理になった。
ついに引き延ばしを諦める時がきたと、モーガンは観念する。
「ウェルロッド公、そちらに問題解決の意思はないのですか!?」
リヴィングストン伯爵は抗議する。
それもそのはず、グリッドレイ公国側は本気で問題解決に取り組んでいるのに、これまでモーガンの対応にはまったくやる気を感じられなかったからだ。
リヴィングストン伯爵は「リード王国は戦争をしたいから、問題解決に乗り気ではないのではないか?」とまで考えていた。
リード王国は、かつてのように周囲を同盟国で囲まれている状況ではなく、同盟を組んでいない国と国境を接するようになっているからだ。
公王ベネディクトは「アイザック陛下との会談は友好的に終わった。なにかの間違いではないか?」と話していたが、アイザックはウェルロッド公爵家の血を引いている。
そして目の前にいるモーガンも。
――彼らの言葉を鵜呑みにしてはいけない。
リヴィングストン伯爵は油断をしていなかった。
だからモーガンが機嫌を損ねる危険を冒してでも、踏み込んだ発言をしたのだ。
「開戦となっても戦争の回避をしなかったのはそちらの責任だ」と大陸各国に知らしめるためにも、ただ許しを乞うだけではいけない。
――リード王国の国際社会における立場を悪くしたくなければ、そちらも譲歩の意思を見せてくれ。
立場が弱くとも、駆け引きのためにそう主張する必要があった。
モーガンの返事を待つ間、心臓がバクバクと激しく鼓動する。
「解決の意思はある」
モーガンの答えは、リヴィングストン伯爵を安心させるものだった。
しかしそれだけで終わるはずがないと、続く言葉に身構える。
「だが今すぐにというわけいかない。これは公王陛下と話をせねば解決せぬ事だ」
(なら、最初から訪問してくれてもよかったのでは?)
他人事のように話すモーガンにツッコミを入れたかったが、リヴィングストン伯爵はグッとこらえる。
「そ、それでは我が国へご足労願えますか? 陛下も国境紛争について心を痛めております。早期解決は双方のためだと思うのですが」
リヴィングストン伯爵は「ベネディクトから出向いてこい」と言われるのを最も恐れていた。
――グリッドレイ公国の公王が自ら許しを乞いにいく。
これだけは避けねばならなかった。
両国の力関係は明白であるが、国境巡回部隊の軽い衝突程度で公王自ら釈明に赴くほどではない。
そんな事態になれば、グリッドレイ公国の面子は完全に潰れてしまう。
衝突を避けねばならないが、そこはどうしても譲れなかった。
「よかろう。ちょうど直接話しておかねばならないと思っていたところだ。リヴィングストン伯の要請に応じよう」
モーガンがあっさりと引き受けたので、リヴィングストン伯爵は目を丸くして驚く。
(抵抗もなく、すんなり受け入れてくれるのなら、もっと早く来てくれても……)
――頭の中に真っ先に浮かんだのは、感謝ではなく不満。
しかし、それを言葉にする事はなかった。
「ありがとうございます」
感情を簡単に表に出していては外務大臣など務まらない。
作った笑顔を顔に張り付けて、感謝の言葉を伝えた。
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「リード王国は年明けに出陣する予定です」
ベネディクトとの会談で挨拶が終わると、いきなりモーガンは爆弾を投下する。
これの発言を前にして作り笑いなど浮かべる余裕のあるものなどいない。
グリッドレイ公国側の出席者は顔を引き攣らせていた。
「たかが国境紛争ですぞ!」
「ロックウェル地方の貴族が求めるもので」
「奴らが……」
グリッドレイ公国を相手に肩を並べて戦えば、旧ファーティル王国に対する旧ロックウェル王国の者達の心証も多少は軟化するだろう事は想像に難くない。
ベネディクトは「リード王国をまとめるための敵として認定された」と知り、絶望した。
「ですが戦争を回避する方法はあります」
「どのようなものですかな?」
(貢ぎ物を要求してくるか、領土の割譲を求めてくるのか……。どちらにせよ、厳しいものになりそうだな)
戦争を回避するための対価なのだ。
モーガンの提案は甘いものではないだろう。
だがリード王国を相手に勝利する自信がなかった。
モーガンの要求を聞き入れようとする。
「陛下、聞くまでもありません! グリッドレイの名誉を守るために一戦を覚悟すべきところでしょう!」
ベネディクトの弱気な態度を見て取ったのか、公太子のアーヴァインが強気の態度を見せる。
「戦う前から弱気でどうするのです。我が軍にはリード王国軍ほどの数はないものの、兵の質では負けていません! 我が国を狙った事を後悔させてから交渉するべきです!」
彼はまだ若いとはいえ、三十を過ぎている。
だから若さに任せて主戦論を唱えているわけではない。
グリッドレイ公国側の出席者が弱気な態度を見せていたので、空元気ではあるが皆を奮い立たせるために強気な態度を見せていたのである。
「私の息子など戦場に出たがらないので、その力強さが羨ましい。アーヴァイン殿下は元気があってよろしいですな」
そんな彼の態度を、モーガンは笑い飛ばす。
そして彼の言動を利用するような事はしなかった。
今はする必要がなかったからだ。
「戦争を回避する方法はある。そしてそれは貴国を隷属させるような屈辱的なものではない。むしろ対等な存在として扱おうというものだ。まずはアイザック陛下の親書をご覧ください」
――親書があるのかよ!
グリッドレイ公国側の出席者一同は心の中でツッコんだ。
「読ませていただきましょう」
ベネディクトもアーヴァインの考えを察していたので、あえて言動を注意をしたりはしなかった。
弱気だった自分の代わりによく言ってくれたと思っていたからだ。
それにモーガンの言動にも非があるため、謝罪をする必要性を感じなかったからでもある。
「むっ、これは!?」
アイザックからの親書に目を通したベネディクトは唸る。
「他の者に見せてもよろしいかな?」
「どうぞ。状況の確認は大切ですので」
彼が目を通してからアーヴァインにも目を通させる。
そしてリヴィングストン伯爵など、重要人物へと渡されていった。
「条件が良すぎるのでは?」
「いえ、利用させていただくのですから、それくらいはさせてもらわねばなりません」
――条件が良すぎる。
そう思ったのは「秘密裏に不可侵条約を結んでくれれば、ファラガット共和国の東半分を分け与える」というものだったからだ。
実際は他にも条件があるが、グリッドレイ公国にとって大きな損と言うほどのものでないものばかり。
むしろ条件が良すぎて怪しむレベルの内容ばかりだった。
「では改めまして、貴国に攻め入ろうとしている事、心よりお詫び申し上げます。ですがこれも種族間戦争を再燃させぬための処置。後日改めて貴国の名誉回復に努める事で、リード王国からの正式な謝罪と致します」
「貴国はエルフやドワーフと関係が深いですからな。ではファラガット共和国でエルフやドワーフが奴隷にされているという情報を手に入れられたのか?」
「手に入れた、という事は陛下もご存知だったので?」
モーガンは、ベネディクトの言葉を聞き逃さなかった。
その事について問いただす。
ベネディクトは「しまった!」という表情を見せるが、こうなっては観念する。
「州知事クラスには、エルフを自由にする権限があるそうな。あとは大きな教会だと、司教が民衆に自分の力だと錯覚させるためにエルフの魔法を利用しているという噂も聞いた事がある」
「なんですと! そこまでやらかしていたとは……。てっきり工夫代わりに使っているものだとばっかり……。教会も捜索させるように頼んでおかねばなりませんな」
今度はモーガンが頭を抱える番だった。
――エルフが権力者のおもちゃにされている。
人数が少なくとも、その事実だけで種族間戦争が再発しかねない。
アイザックだけではなく、モーガンもこの問題で頭を悩ませる事になりそうだった。
「ところで、我が国を攻めるフリをしてファラガット共和国に攻め込むと親書に書かれておりましたが、その情報を我らがファラガット共和国側に伝える危険は考えなかったのですか?」
ベネディクトは、少しいやらしい質問をする。
今まで怖がらせられた分、ちょっとだけ意趣返しをしたくなったのだ。
「あなた方がファラガット共和国に伝えたいと本当に思っているならばどうぞ」
だが彼の狙い通りにはいかなかった。
モーガンも、そのような事態を想定していないわけではなかったからだ。
むしろ頭を抱えて困っていたところから立ち直ってすらいた。
「ですがファラガット共和国の商人の動きを貴国も把握されておられるのでは?」
「それは、そうだが……」
逆にベネディクトが困った表情を見せる事となった。
これからリード王国と戦争になるかもしれないという時に、ファラガット共和国の商人はグリッドレイ公国から食料を買い漁っている。
それも「リード王国がグリッドレイ公国を攻めようとしている」と伝えてきたのはファラガット共和国大統領本人だというのにだ。
そういった情報は、グリッドレイ公国側でも把握していた。
だからこそ、ファラガット共和国に対する強い恨みも持っていた。
「私は彼らに『戦争になるかもしれないから食料を売ってほしい』と言っただけです。そうしたら彼らは
モーガンの問いに、ベネディクトは答えられなかった。
そして、それが十分に答えとなっていた。
彼自身も国内の食料を買い漁る商人に対して「なんて事をしてくれたんだ!」という強い不満を持っていたからだ。
ファラガット共和国の人間は信用できない。
しかし、リード王国の人間も信用していいのか難しいところだった。
そう思ったのはアーヴァインも同じである。
「ファラガット共和国は信用できない。だが同じくらい貴国も信用できない。甘言を弄して我が国を油断させようとしているだけかもしれぬではないか! 我が国を攻めるフリをしてファラガット共和国を攻める。ならばその逆、我が国を攻めるという選択肢もあるのではないか?」
――ファラガット共和国を攻めるフリをして、実際はグリッドレイ公国を攻める。
その可能性も考慮しておかねばならない。
彼も生まれ育った愛する祖国を守るために必死だった。
モーガンを恐れず、堂々と意見を述べる。
「我々はグリッドレイ公国にエルフやドワーフが捕らえられているという情報を手に入れておりませんので、貴国を攻める名分が弱い。それにファラガット共和国に攻め込めば、貴国にまで手を出す余裕がないとおわかりいただけるでしょう。ですからそれまでは約束を担保するために私がここに残ります。もしもアイザック陛下が貴国との約束を破ったのならば、私の首を落とされればよろしい」
「なんとっ!?」
――人質としてモーガンがグリッドレイ公国に残る。
その申し出に驚きはあったが、意外なものではなかった。
王族などが一般的ではあるが、モーガンも公爵家当主であり、外務大臣であり、なによりもアイザックの実の祖父である。
人質としては十分な価値があった。
彼の命を捨てて、グリッドレイ公国へ攻め込む事もできるだろう。
しかし、その場合はリード王国内におけるアイザックの立場が大きく揺らぐ。
先ほど述べたように、モーガンはリード王国内でも指折りの要人である。
そんな彼を見捨てるような事があっては、全貴族の信用を失う事になるからだ。
モーガンを人質にするという事は、それだけの覚悟があるという事だった。
「ウェルロッド公がそこまでおっしゃるのであれば……」
さすがにアーヴァインの語気も弱まる。
ここで強く否定すれば「ウェルロッド公に人質の価値はない」と言ったも同然。
それこそ「我が祖父を愚弄するか!」とアイザックを激怒させかねない。
ここは素直に納得するしかなかった。
「一連の騒動で信用を失っている事はわかっております。ご理解いただけたのならそれで十分です。私も信用を取り戻すために身命を懸けてここにきているのですから」
(あぁ、こんな奴らの相手などせず帰りたい。早くケンドラやザック達に会いたい)
モーガンは余裕のある態度を見せるものの、その内心は穏やかではなかった。
しかし、子供の頃になにもしてやれなかったアイザックに残してやれる最後の大仕事だと思い、孫や曾孫に会いたい気持ちを必死に我慢していた。
「ファラガット共和国東部分割後、貴国がグリッドレイ
――グリッドレイ公国の長年の悩み。
それは
公国という名称は王国に比べて一段劣る。
公国は王国に認められた地方の自治領に過ぎないからだ。
ウィックス王国が滅んだあと、実質的に独立国ではあるが公国という名称を変えられずにいた。
勝手に変えれば「国王を僭称する偽物」と国際社会で思われかねない。
王国に変えたければ周辺国の承認を必要としている状況だった。
それを王国に変えるチャンスがきたのである。
しかも労力は最小限で。
さらにファラガット共和国の東部までもらえるというあまりにも美味しい条件に、彼らが当初怪しんだのも無理はなかった。
「……少し考える時間をいただいてもよろしいかな?」
「もちろんですとも。ですが三月頭までにはお答えをいただきたい。でないと交渉は決裂したものと見なされて、本当にグリッドレイ公国へ派兵されかねませんので」
「それまでに国内の意見を統一するとしましょう。……それにしても、このような内容であったのならば、もっと早くに伝えてくれてもよかったのでは?」
「こちらから積極的に接触すれば、ファラガット共和国に本当に戦争を仕掛ける気があるのか怪しまれてしまいます。彼らを騙し続けるためにも貴国から動いていただく必要がありました。重ね重ね申し訳ございません」
――グリッドレイ公国との戦争を回避する気がないように見せかけるために、外務大臣であるリヴィングストン伯爵が自ら出向いてくるのを待っていた。
これはリード王国側の事情である。
それに付き合わされたグリッドレイ公国はたまったものではない。
だが、だからこそ謝罪代わりに大きな見返りを用意されていた。
ベネディクトも内心不満は持っても、公然と非難しづらい状況であった。
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王国歴五百五年、二月十六日。
ベネディクトは約束通り期日を守った。
両国の間でウェルロッド・リヴィングストン協定が締結される。
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