第619話 理化学研究所での一日

 理化学研究所の一室にて、アイザックは鍋をかき混ぜていた。

 鍋の中には骨が入っている。

 かき混ぜるたびに骨が鍋にぶつかる音がした。


「フフフッ、フフフフッ」


 食べる時の事を考えると、アイザックの頬が緩む。

 そんな時、扉が開かれた。

 そこには迷惑そうな顔をしたパメラと、困惑した表情の研究員達がいた。


「陛下、研究所で豚骨スープを作られては困ります」


 ――そう、アイザックは豚骨スープを作っていたのだ!


 その臭いは強烈であり、豚骨スープが一般的ではないこの世界では悪臭扱いをされていた。

 研究員達は所長であるパメラに泣きつき、アイザックを止めてもらおうとしていたのだった。


「なにを言う、料理は化学だよ」


 アイザックは料理漫画なら主人公のかませ犬になりそうな事を言い出した。


「例えば塩だってそのままだと食べられたものじゃないけど、塩分濃度を調整すれば料理に欠かせない調味料になるだろ? それにほら、昨晩から煮込んでもらっていたから、スープがちゃんと乳化している? これも立派な化学反応だ」

「ですが研究所でやらなくとも……。王宮の調理場でやればよろしいのでは?」

「王宮の調理場だと迷惑がられるのはわかっている。以前に実家でやろうとして禁止されたからね。その点、ここなら薬品の臭いもあるから大した事はないはずだ」

「臭いが混ざってエグさを増しているという苦情がきているのです」


 パメラも豚骨スープの事はよく知っている。

 だが彼女の背後にいる研究員達は違った。

 豚骨スープの臭いは、ただただ不快になるだけだった。


「わかった。では二人でじっくり話そうじゃないか。あとで試食してもらうから、一度休んできてくれ」


 昨晩から灰汁取りをしつつ、鍋を火にかけてくれていた研究員にねぎらいの言葉をかける。

 研究員としては「えっ、これを食べさせられるの?」と、ねぎらいとは程遠い言葉ではあったが。

 研究員が部屋から出て行き、室内にはパメラと二人きりになる。


「豚骨ラーメンのお店とかより臭くない?」


 二人きりになった事で、パメラの口調も気安いものになった。


「お店だと換気扇とかもあるし、店内に臭いが籠らないからじゃないかな? まぁしばらくすれば慣れるって」

「白衣どころか、体に染みつきそうなくらい臭いんだけど……」

「風呂に入れば大丈夫さ。それよりもちょうどよかった。完成したからそろそろ呼ぼうかと思ってたんだ。久々に食べたくないか? 豚骨醤油ラーメン」

「食べたい!」

「ならちょっと待ってろ」


「アイザックが豚骨スープを作っている」と聞いた時点で、パメラも予想はしていたのだろう。

 すぐに食いついてきた。

 アイザックは麺の代用品としてスパゲティを茹でながら、スープを濾したり、醤油ダレを作ったりしていく。

 豚骨スープと醤油ダレの割合は知らなかったため、スープを少しずつ足しながら味を確かめる。

 満足のいく味になったところで、パメラにも味見をしてもらう。


「どうだ?」

「凄い、なんだかそれっぽいかも!」

「人を呼ぶ前に先に食べようか。人前だとすすって食べられないだろうし」


 二人は侯爵家出身であるため、ズルズルと音を立てて麺をすするところを見られるわけにはいかない。

 上品なイメージを崩すわけにはいかないからだ。


 ではなぜアイザックが豚骨スープを作ったかというと、単純に食べたかったからだ。

 夜中に目が覚めて、なぜか無性にコンビニのホットスナックを食べたくなるようなもの。

 だが、この世界にはそんなものは存在しない。

 だから「ラーメン食いてー!」となったアイザックは自分で作るしかなかった。

 理化学研究所で作ろうと思ったのは前述の通りでもあるし「パメラにもラーメンもどきを食べさせてやりたい」という気持ちからでもあった。


 茹であがった麵をザルに移して湯切りをする。

 湯切りの時にかけ声をあげて、しっかりパメラを笑わせた。

 チャーシューまで作る余裕はなかったので、具はネギを刻んだものだけだ。

 至ってシンプルだが、それっぽいものはできた。


「朝食を食べたあとだから半玉ずつな」

「えー、一玉いけるけどなー」

「まだ試作段階なんだから食べきれる量にしておきなさい。美味しくなかった時に困るぞ」

「味見した分には美味しそうだったけどね」


 パメラは不満そうにしてはいるものの大人しく器を受け取った。

 すると、すぐに表情が和らいだ。


 ――手作りのスープにスパゲティの麺、トッピングはネギだけ。


 貧相ではあるが、それでも彼女には前世を思い出させる貴重な料理だった。

 箸を受け取ると彼女はズゾゾッと勢いよく麺をすする。

 その光景を見て、アイザックが笑った。


「ドリルヘアーの王妃殿下が、勢いよくラーメン食うっていうシチュエーションだけでなんか面白い」


 これまでアイザックが作った料理は、醤油や味噌に慣れているクロード達ですら好まれていなかった。

 そんな自分の作った料理を美味しそうに食べてもらえたのは久々である。

 照れ隠しも含めて、パメラをからかう。


 だが、パメラはアイザックの言葉に反応しなかった。

 彼女は麺をすすりながら、すすり泣いていた。


「お、おい。泣くほどの事か?」

「……お兄ちゃんが悪いんだよ。こんなの作るから」

「ん?」


 パメラをからかった事ではなく、ラーメンに文句があるようだ。

 だがアイザックも食べているが、泣くほど不味いというわけではない。

 むしろ過去を思い出させる味わいだった。

 そもそも口に合わないなら食べなければいいだけである。

 アイザックには、パメラがなぜ泣くのかがわからなかった。


「お父さんとお母さん、どうしてるんだろう?」


 パメラが泣いていた理由。


 ――それは前世の事を思い出し過ぎていたせいだった。


 前世を思い出す味わいが、パメラの郷愁を呼び起こしていた。


「……きっと元気にやってるよ」


 アイザックは、そう答える事しかできなかった。

「アイザック・ウェルロッド」という体の影響のせいか、アイザックは早い段階で「生まれ変わったんだから、今度は違う人生を送ろう」と割り切れていた。

 だがパメラは違ったようだ。

 ラーメンもどきによって前世の記憶を呼び戻されたせいで、感情が激しく揺さぶられていた。


「だといいけど……。私もザックが死んだらって思うと、子供を失った親の気持ちがわかる気がするようになったし……」


 アイザックの言葉は、本人も気休めだと思っている。

 そしてパメラも、この話を続ける不毛さをよくわかっていた。

 このあとは前世の家族については触れず、黙々と食事を続けた。



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 パメラが食べ終わったあと、アイザックは護衛や研究員達にも「豚骨醤油スープパスタ」と称して試食してもらった。

 やはり臭いがネックとなり豚骨スープを受けつけない者もいたが、七割方には受け入れられた。

 これで牛骨や鳥ガラと比べて「臭いの割に味が薄い」と言われて敬遠されていた豚骨が使われていくきっかけになるかもしれない。

 それはそれでアイザックも様々な豚骨スープのバリエーションを楽しめるようになるので、広まってほしいものだった。


 そしてなによりも、豚骨醤油にする事で醤油も受け入れられたのが大きい。

 この世界の住人には醤油や味噌の受けが悪かったが、ラーメンスープにすると受けが良くなった。

 味噌ラーメンを作れば、味噌も人気が出るかもしれない。

 パメラが予想外の反応を見せてきたものの、それ以外の結果は良好だった。


 理化学研究所では「自分の使った実験器具は自分で洗う」という決まりがあるので、アイザックも近衛騎士達の手伝いの申し出を断って鍋を洗う。

 そんな時、ある人物が訪れた。

 近衛騎士が応対する。


「陛下、エンジン男爵が面会を求めてきております」

「エンジン男爵か……」


(自分で呼び出しておいて、彼の存在を忘れてしまっていた。文句を言われたらやだなぁ……)


 エンジン男爵というのは、ピストの事である。


 ――蒸気機関を作ったんだし、エンジンっていう新しい名前の家名を作ったほうがわかりやすい。


 そう思ったアイザックが彼に男爵位を与えていた。

 だが彼が研究に向ける熱意はかなりのもの。

「なんで招待してくれなかったんだ!」と文句を言いにきたのかもしれない。


「わかった、会おう。入ってもらってくれ」

「かしこまりました」


 彼と会うのは嫌だったが、まだまだ研究者として働いてもらわねばならなかった。

 モチベーションを下げないよう、愚痴くらいは聞いてやろうと考える。

 姿を現した彼は貴族服を着ていた。

 この場でこそ白衣が似合いそうな彼が貴族服を着ているので、どこかチグハグな印象を受ける。


「ご無沙汰しております。陛下」

「ええ、エンジン男爵。爵位授与式以来ですね」

「内密にお話したい事がございます」

「内密に、ですか……」


(あれ? 研究所の所長になりたかったとかいう苦情じゃないのか?)


 彼の言葉に、アイザックは疑問を覚える。


「私が科学教師だったという事は覚えておられますでしょうか?」

「それはもちろん……」


(あっ、そうか! すぐに辞めたけど、こいつは科学教師だったんだよな! 貴族になんてするんじゃなかった!)


 アイザックは大きなミスに気づいた。

 ピストに爵位を与えてしまったため、協定記念日に出席する権利も与えてしまった事になる。

 ならば、アイザックがやった茶番も見ていた事になる。

 彼ならば種明かしもできるだろう。

 蒸気機関をほぼ完成させ、ドワーフと仲良くなっていたからと温情で爵位を与えるべきではなかった。

 しかし、こうして内密に話にきたのだ。

 それを交渉の道具にするつもりかもしれないが、バラすつもりはないのだろう。


「いいでしょう。ですが護衛の立場もありますので、部屋の隅で話すのでいいですか?」

「はい、結構です」


 アイザックは水道で手を洗う。

 それを見て、ピストは物欲しそうな表情を見せる。


「それが上水道ですか。捻るだけで水が出るというのは、さぞかし便利でしょう」

「実験器具を洗ったりする時は便利ですよ。薬品が肌に触れてもすぐに洗い流せるのもメリットです」

「ここは理想的な研究所のようですね。学院の片隅に用意された部室で研究するのとは規模が大違いです」

「時代が変わりつつあるという事ですよ」

「それを変えたのは陛下でしょう。あと数年早ければ、と考えない日はありません」


 軽い雑談を交わしながら、二人は研究室の隅へと移動する。

 ピストも大声で話せる内容ではないとわかっているため、小声で話を切り出した。


「協定記念日でのアレは、油を沁み込ませた布を燃やすのと同じ原理ではありませんか?」

「……そうだ。それがどうした」 


 アイザックも元教師に対する態度ではなく、国王としての態度で「脅されるつもりはないぞ」と意思を示す。


「あれは神を欺く行為だと思われませんか?」


 ピストは信心深いタイプには見えなかった。

 なのにこのような事を言ってくる。

 その意図をアイザックは考える。


(科学系のキャラって、神の存在を疑う事はあっても、信心深いっていうのは少ないイメージだから……。科学にどれだけ本気なのかを知りたいのかな? ならそれに合わせてみるか)


「神が欺かれたと思っていたなら、あの時点で天罰が下されていたはずだ。なにもなかったという事は、問題のない行為だったという事だろう」

「なるほど……。私は科学というものを『神が定めた事だから』と思考を停止せずに、原理を解き明かしていくものだと考えております。それはいずれ神の存在を否定する可能性へとたどり着くものかもしれません。陛下は、その事をどう思われておられますか?」

「いないと証明できるまで科学が発展するのには時間がかかる。それは未来の者達の手に委ねるべきだろう」

「さすがは陛下。科学の発展を妨げたりはしないというお考えを聞けてよかったです。それでなのですが――私を研究所の副所長にしていただけませんか。きっと陛下のお役に立てます」


(ほら、やっぱりきた)


 さすがに「副所長にしてくれなければバラす」とは言わなかったが、先に協定記念日で見せたギミックの種明かしに触れてきた以上、実質脅迫のようなものである。

 パメラの座を奪おうとはしないが、相応の座を求めてきていた。

 だが彼に副所長の椅子は与えられなかった。


「研究室と助手を用意する事ができるが、副所長は無理だな」

「なぜでしょうか?」

「副所長はパメラが不在の時に備えて財務省から出向させた官僚に任せている。ここは国立研究所だ。割り当てられた予算が決まっている以上、際限なく資金を使わせるわけにはいかない。ウェルロッド公爵家やドワーフの資金で運営している蒸気機関の研究所とは違うのだよ」

「国立なのに……、予算に限りがあるのですか?」

「ある。むしろ個人資産ではなく、国の予算を割り当ているからこそ厳密な予算管理が必要なのだ」

「あぁ……、そうですか」

「エンジン夫人と共に王都に移り住んで、ここで働いてくれるなら助かるが……。どうする?」

「いえ、私は蒸気機関の将来性を感じております。出力は十分なだけ出せるようになりましたが、まだまだ小型化できる余地があります。まずはそちらを研究しつつ、今後の身の振り方を考えさせてください」


 ――予算が使い放題じゃないとわかると、理化学研究所への興味をなくした。


 今はドワーフからも資金援助を受けられるので、理化学研究所へ移る旨みがないと思ったのだろう。


(なんて現金な奴なんだ……。前からそうだけども)


 彼は「ウェルロッド侯爵家や商人の資金を使って研究できる」という理由で教師を辞めた。

 科学者にとって「実質的に予算の制限がない」というのは、それだけ魅力的なのだろう。

 アイザックとしても彼には地方で黙々と研究してもらっていたほうがいいので、無理に引き止めようとはしなかった。


「あー、とりあえず、一部の研究については積極的に広めないようにしてもらうというのでいいかな?」

「かまいません。ですが、いずれは世に広まる時がくるでしょう。その時はどうなさるのですか?」

「そうなるならその時次第だ。それまでに上手く教会を取り込んでおくとするさ」


 ――理化学研究所で研究が進めば進むほど、自分の首を絞めていく事になる。


 それでも研究所は必要だった。

 アイザックのため、パメラのため、そして子供達のためにも。

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