第609話 始動、理化学研究所

 ――リード王国国立理化学研究所。


 パメラの要望により建設が決まったものだが、アイザックも必要な組織だと認識していたため、組織の立ち上げはスムーズに進められていた。

 魔法がある世界とはいえ、みんながみんな魔法を使えはしない。

 なのに科学の発達が遅れている。

 この歪な状況を打開するためにも、そしてリード王国の繁栄のためにも、この研究所を上手く稼働させていかねばならなかった。

 パメラが通うという事もあり、研究所は王宮から近くにある場所に建設される。


 ――場所はブランダー伯爵邸跡。


 誰かに与えるには縁起が悪くて、適度な広さを持つ。

 王宮から近いので、近衛騎士団による警護も容易である。

 ザックがぐずった時も、すぐに駆けつける事もできる。

 この処置に文句がある者も、すでに全員が墓の下にいるため異議を申し立てる者もいない。


 心配があるとすれば、薬品の流出による公害だろう。

 だがそれも当面の間は問題はないはずだった。

「魔女が大釜でなにかを煮込んでいる」といった異臭を放つ行為は、別途郊外に用意する実験棟で行ってもらう。

 ここでは主に学問の体系作りを中心に行うため、簡単な実験しか行わないからだ。

 小学校の理科の実験レベルであれば街中でも問題はない。


 しかもピストのような科学に魅了された者にとって過ごしやすい環境を作っている。

 庭園を潰して研究所を建て、ブランダー伯爵邸は研究者の寄宿舎として再利用するからだ。

 隣接した屋敷で睡眠や食事を取れるようにしているため「実験室から出たくない!」というような人間でも休憩に使いやすくしている。

 アイザックも生物兵器を作るつもりはないため「研究所から流出したウィルスで、寄宿舎の利用者がゾンビ化した」などという事故の心配も必要ない。

 研究に打ち込める環境を作っていた。


 また研究所には水道を用意した。

 屋上に貯水塔を作り、エルフの魔法で水を貯めてもらう。

 魔法によって作り出された水は純水、もしくは不純物が極めて少ないため研究用途に向いている。

 そして研究で使われた水は隣接された汚水タンクに貯められ、これもまたエルフによって浄化されたあと放出される。

 浄化施設を作るのが難しいため、技術が進化するまでは、このような対応となる。


 ――魔法に頼らないための技術開発が、魔法に頼り切りになっている。


 そう陰口を叩く者もいる。

 だが研究所では初歩的な研究を中心に行うとはいえ、薬品による環境破壊や周辺住民の健康被害は避けなければならない。

 環境の事を無視して研究を進めたほうが技術の進化は速いだろうが、何事も最初が肝心である。

 例えばウォリック公爵領も、鉱山開発を急いだために取り返しのつかない事態に陥っている。

 最初から公害に対する意識を持たせて研究させたほうが後世のためになるだろう。

 アイザックとパメラの二人とも「陰口を言われたとしても、魔法による環境保護は必要だ」という共通した認識を持っており、エルフに頼る事にした。

 すべては子供達に負の財産を残さぬためである。


 建物ができれば、次は機材である。

 こちらはビーカーやフラスコ、メスシリンダーにメスピペットといったお馴染みのものを用意させる。

 そういった機材の中で一番困ったのが、アルコールランプとマッチだった。


 アルコールの原料は穀物であり、これからロックウェル王国への食料支援を行うなら、少しでも食料を無駄にはできなかった。

 そのため、これから数年の間は換気をしながら木炭などを使ってもらう事になる。


 もう一つのマッチが問題だった。

 火の付けやすさは重要である。

 いちいち台所へ火をもらいにいくのでは非効率極まりない。

 だがアイザックも「マッチってリンと硫黄と……、なんだっけ?」という知識しかなかったため、マッチの開発はできなかった。


 この問題を解決したのはパメラである。

「ピストンって発明されてるんだよね」と言って、あっさり圧気発火器ファイヤーピストンというものを開発した。


「昔、友達とキャンプに行ったりしてたのに知らなかったの?」

「マッチやライターで着火剤に火をつけてたからな」


 アウトドア用品にあったものらしく、特別珍しいものではないそうだ。

 

「なんでお前がそんなものを知ってるんだ?」


 アイザックが理由を尋ねると、パメラは遠い目をする。


「一時、リケジョを目指してた時期があってね」

「理系の大学を目指しているとかいう話は聞いた事がなかったけど……」

「そりゃそうよ。学べば学ぶほど『もうこの分野で新しいものを作れるのは本当の天才だけなんだな』って思ったからね。だから今なのよ。私達の知識では当たり前の事でも、この世界ではまったく新しい発明になる。今なら私が化学の基礎を作った偉人として名前が遺せるじゃない? 歴史に名前を残せないその他大勢じゃない。私が主役になれるのよ!」

「そ、そうか……」


(あれぇ? こいつ、こんなに名誉とか求めるタイプだったかな?)


 アイザックは、パメラの感情に疑問を持った。

 しかし、すぐにその疑問を解消する理由に思い当たる。


(あぁ、そうか。パメラの部分が影響しているのか。幼い頃から『王太子妃にふさわしい女になれ』と言われてきたんだ。彼女にも自分のやりたい事や、主役になりたいという気持ちがあったのかもしれないな)


 アイザックも今の体に影響を受けているところがある。

 パメラも昌美だけではなく、パメラ自身の性格による影響があるのだろう。

 そう考えれば、彼女が名誉を求める気持ちが強いのも理解できた。

 ただもしかすると、前世で家族にも見せなかった本性があるのかもしれない。

 そのあたりの事は、本人が本音を語ってくれるまで本当の事はわからなかった。


「そのためにも、研究員はしっかり確保しないとな」

「ええ、もちろん!」



 ----------



 ――研究員の確保。


 これは重要である。

 リード王国だけではなく、周辺国からも錬金術師を集める。

 怪し気な作業をしている者など、どこも不気味がっていたからだ。

 彼らは「疎まれながら暮らすよりは、求められる場所で研究したい」や「国家予算で研究できる」という理由から積極的に集まってくれたため、集めるのは容易だった。


 アイザックが経営するお菓子屋からも職人を集めた。

 彼らは決められた分量を守って作業する事に慣れている。

 当面の間は兼業で研究助手として働いてもらう事になる。


 一番苦労しそうだったのは、教会から医療従事者を呼び寄せる事だった。

 医薬品の製造方法は教会が独占している。

 その知識を外部に漏らさないよう、強く反対してくると思われたからだ。

 しかし、アイザックが頼むと、セスは意外なほどあっさりと派遣を了承してくれた。

 これは弱みを掴まれているからという理由だけではなかった。

 教会としても、最新の技術を知るのは重要な事だったからだ。


 運営に深く関わるエルフの薬剤師はもとより、ドワーフからも薬剤師などを呼び寄せる。

 これで研究所の存在を必要だと思ってくれれば、ドワーフからの資金援助などが期待できる。

 それにドワーフがいれば、必要な器具をすぐに作ってもらえるはずだ。


 七月に入った頃に準備が整ったので、研究員候補を集めての説明会を開く。

 場所は研究所内に作った研究室の一室。

 前世の理科室とそっくりな場所だった。

 集められた者達は希望で目を輝かせていた。

 だが、すぐに目から輝きが奪われた。


「私が所長のパメラ・リードです」


 ――所長がアイザックではなく、パメラだったからだ。


 全員が「王妃の実績作りのためのハリボテか」と落胆した。

 実績のあるアイザックではなく、実績のない女のパメラが所長になっている。

 それは男尊女卑が強く残る世界では致命的だった。

 同席しているアイザックも「納得させる方法があるとか言ってたけど大丈夫かなぁ」と心配するほど、露骨な反応である。

 しかし、彼女も無策ではなかった。


「まずはこの実験を見てもらいましょう」


 パメラは皿の上に火のついたロウソクを立てる。

 皿には水が張られており、彼女の手にはコップがあった。


(あー、あの実験か! なつかしー)


 アイザックは、ロウソクにコップを被せる事で水位が上昇する実験だと気づいた。


 ――コップの中に温まった空気が溜まり、ロウソクの火が消える事で空気が冷えて体積が小さくなる。

 ――コップ内の酸素を使い切って、生み出された二酸化炭素が水に吸収された分だけ水位が上がる。


 そのどちらか、もしくは両方が作用して水位が上昇するらしいというのは、アイザックもうろ覚えながら記憶していた。

 パメラは、それを利用して自分が所長だと認めさせるつもりらしい。

 彼女はゆっくりとコップを被せる。

 すると、水が上昇していく。

 講堂内でどよめきが起きた。


「それでは同じ事を魔法でやってみましょう」


 パメラは宮廷魔術師に魔法で小さな火を出させて、同じ事を繰り返した。

 やはりこちらも水位が上昇し、酸素を使い切ったのか火が消えた。


「皆さん、なぜこの水位が上昇したのかわかる方はおられますか?」


 講堂内は静まり返っていた。

 中には答えられる者もいた。

 だが「自分がどのような知識を持っているのか秘密にしておきたい」という気持ちから沈黙を守っていた。

 答える者がいない事を確認してから、パメラは続ける。


「私は空気中に火が燃えるために必要な物質が含まれているからだと考えました。これは私達が呼吸するのに必要なものと同じでしょう。それはドワーフの方なら、鉱山の中で息ができなくなったり、火が消えたりするのでおわかりいただけると思います」

「わかります。だから魔法で新鮮な空気を坑道の奥まで送り込んでもらっております」


 ドワーフの一人が答えると、パメラは満足そうにうなずいた。


「ロウソクの火だけではありません。魔法の火も、その物質を使い切ったら消えてしまいました。そしてそれは私達の命の火も灯し続けてくれているものです。私はそれを魔素と名付けました」


(おいぃぃぃ! それはまずいって! これから先、酸素と置き換えて説明する時にボロが出るぞ! そこは酸素でよかったんじゃないか!?)


 パメラが酸素を魔素と命名した事に、アイザックは大きく動揺する。

 これは将来的に問題が起きかねない。

 化学式でOを使う時に、いちいち魔素のMを使うのだろうか?

 水の化学式でH2Oと間違ったりしないだろうか?

 そう考えると、これは彼女の勇み足にしか思えなかった。


「コップの水位上昇がおよそ二割ほど。ですので、魔素も空気中に二割ほど含まれていると思われます。では空気中に含まれる残り八割は? 気になりませんか?」

「気になります」


 方々から「気になる」という答えが返ってきた。

 それこそパメラの狙い通りだった。


「それを調べるのが理化学研究所の役割です。この場にいる皆さんの中には、自分しか知らない知識があると思っておられるでしょう。惜しむ気持ちもあるはずです。ですがまずはその知識を出し合って、お互いの認識をすり合わせる事から始めましょう。錬金術という言葉のように、きんを直接生み出す事は難しいかもしれません。ですがかねを生み出す事はできます。もちろん、名誉もです」


 パメラは周囲を見回した。


 ――知識を欲する者。

 ――知識を活かしたい者。

 ――利益を得たい者。


 様々な反応があった。


「新たな発見を組み合わせ、さらに新しいものへと変化させる学問。化学の確立に協力してください。そのための場と資金は、ここにあります。もちろん、私から提供できる知識もあります。目の前にある不思議を解明したいという方は歓迎いたします。ですが自分の知識は自分一人で独占したい。そうお考えの方はお引き取りくださって結構です。ここは化学という学問を発展させる場所であり、後進を育てていくために知識を集積させるための集まりですので」


 だから彼女は「知識を出し惜しむような者はいらない」と断言した。

 いつの世も研究者が求めるのは予算を気にしなくてもいい環境である。

 それが理化学研究所ここにはある。

 その魅力を振り払えるのは、よほど自信を持っている者か、偏屈者くらいだろう。


「まずは研究所内で機材の確認をされるといいでしょう。必要なものがあれば、すぐに用意させます。研究に必須の水もエルフの皆様のおかげでこの通り」


 パメラが目の前の蛇口をひねると、水が勢いよく出てきた。

 錬金術師の一人が同じように蛇口をひねり、水が出てきたのを見て驚く。


 この研究所は、この世界ではもっとも先進的で研究しやすい環境であるはずだ。

 パメラは手ごたえを感じていた。

 自然と笑みが浮かぶ。

 そんな彼女を見ながらアイザックは「魔素は仮名で、あとで酸素とかに変更する余地を残しておいたほうがいいよ」と、あとで忠告しようとしていた。

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