第588話 ファーティル王国との調印式
十二月二十五日。
この日は二百年前にエルフやドワーフ達との戦争が終わった休戦条約が結ばれた日である。
だが今日、新しい意味が加えられる。
――リード王国がファーティル王国を編入させた日。
ファーティル国王のヘクターから望んだ事だが、事情を詳しく知らない者達には、ただの吸収合併にしか見えない。
――事情を知る者と知らない者。
――利益を得る者、得られない者。
それぞれの立場によって違う思惑が、調印式の会場に渦巻いていた。
そんな中でも、粛々と調印が進む。
まずはヘクターが「編入を求める」と署名し、アイザックが「編入を認める」と署名する。
これは「アイザックがヘクターに乞われる立場である」という証明でもあった。
実は文官達の間で、この署名順に関して激論となっていた。
例えば、アイザックの署名が先頭にあり、ヘクターの署名が最後部に書かれる「編入希望書」という形式も考えられた。
しかし「これではあまりにも事務的すぎないだろうか?」という否定的な意見が、ファーティル王国側から出る。
歴史的な瞬間なのだ。
役所に書類を提出するかのような事務的な文書はふさわしくない。
だがアイザックとヘクターの名前を並べるのは、これからの事を考えるとよろしくない。
それにどちらの名前を先に書くかというのも議論となった。
そういった議論の末、ヘクターが求め、アイザックが許すという形になった。
たかが署名の順番であるが、されど順番。
公文書として保管される以上、後世の人々に見られる可能性を考えねばならない。
この時代に生きる者として、無様な記録は残せなかったのだ。
署名が終わると、アイザックはヘクターと握手を交わす。
それを見て会場から拍手が起こる。
新たな時代が始まる場に居合わせた事を喜び、アイザックを称える声が沸き上がった。
歓声がやむまで、アイザックは手を振りながら、しばらく待つ。
ある程度収まったところで、仕草で静まるように命じる。
そして、アイザックは皆に向かって話し始める。
「ファーティル王国のリード王国編入は、状況を大きく変えた。特に目立つのは4Wと呼ばれる侯爵家の扱いだ」
その言葉に合わせて、アイザックやヘクターの左右に4Wの当主が立ち並ぶ。
「彼らはこれまでの功績により、公爵家へと陞爵する。これにより四百年ぶりに公爵位を持った家が復活する。だがかつての悲劇のような事は起こさせない。ファーティル王家も公爵家となるが、各公爵家は王位継承権を持たないものとする。これはウィルメンテ侯爵家の現当主フィリップの王位継承権も喪失したと思ってもらっていい」
――王位継承権。
これは厄介な問題だった。
特にウィルメンテ侯爵は、リード王国内における正当な王位継承者に最も近い存在だった。
その彼の息子であるローランドが、ケンドラと結婚する事で、ザックを脅かす存在となるかもしれない。
その事を心配したアイザックは「ウィルメンテ侯爵が保有する、現在の王位継承権も放棄してもらう」という話を済ませていた。
「また、侯爵位を空白のままにしておくわけにはいかない。そこで先の内戦で功績を立てた五家に侯爵位を与える事にする」
この五家とは、ランカスター伯爵家、ウリッジ伯爵家、ブリストル伯爵家といった昔からの領地持ちに加え、新たに領地を得たフィッツジェラルド伯爵家やクーパー伯爵家の事である。
内戦で功績を立てたとはいえ、ウェリントン伯爵家はそのままだった。
元々が子爵家だったという事もあり、ここで侯爵家にしてしまえば、腹心であるマットの妻の実家を依怙贔屓していると思われかねない。
侯爵位になりたければ、ウェリントン伯爵家にもう一度大きな功績を挙げてもらわねばならなかった。
そしてこれは旧ファーティル王国貴族とのバランスを取るためである。
あちらにも侯爵家があるため、4Wの陞爵後、リード王国の侯爵位がファーティル王国の貴族で独占されてしまう。
そのため、彼らを侯爵位に就ける必要があったのだ。
この決定も事前に話し合っていた事なので、不満はなかった。
また、メナス公爵家を侯爵家に降爵する事は内々に通達するだけで、この場で公表はしなかった。
メナス公爵が失態をしでかしたわけではなく、政治的な理由による降爵だからだ。
あえてこの場で「降爵した」と晒しものにする必要はない。
「そしてファーティル王国はファーティル地方となるわけだが、当面の間はファーティル公爵家が地方のまとめ役として統治する事になる。これは距離の問題だ。距離が離れれば離れるほど、伝令が往復する時間も長くなる。それは来年度に編入が予定されているロックウェル王国も同様である」
この決定は、アイザックの実家のウェルロッド侯爵家が地方自治を進める貴族派だからというわけではない。
これまでの国土の広さであれば、まだ「地方貴族の行動には、すべて王家の裁可を必要とする」という法案を通してもなんとかなっただろう。
だがファーティル王国、ロックウェル王国と東に国土が広がると、一々王家の裁可を求めていては統治に支障がでる。
そのため、地方領主のまとめ役を両王家に任せる事にした。
しかし、アイザックも無条件で任せるわけではない。
集めた税金の一部はリード王国に納めてもらう。
「王家から公爵家に変わって、リード王国の保護下に入っただけ」という変化だけではなかった。
またアイザックは「遠方と短期間で連絡が取れる方法ができた場合、地方の統治は王家の直轄とする」という一文を合意書に組み込んでいた。
これは電話や電報といった通信手段が開発された時、地方領主の力を削いで王家の力を強めるためだった。
ファーティル公爵家は、アイザックとロレッタの息子が継ぐ事になるだろう。
しかしロックウェル王国や、ファラガット共和国などの占領後を考えると、王家に権限を取り戻しやすくする文言は用意しておいたほうがいい。
まだ電気を開発していないが、電気の存在を証明する事は容易である。
電気の証明をすれば、あとはピストのような科学者が発展していってくれるだろう。
アイザックも電話の作り方など知らないため、電話の開発は誰かに頼るしかなかった。
「私は諸君らがリード王国の一員となる事を歓迎する。しかし言葉だけでは、いくら言ってもわかりにくいだろう。まずはファーティル公爵家、ロックウェル王家の扱いを見てもらい、諸君らに信じてもらえるようにすると誓おう。だが一点、心に深く刻んでほしい。これからはリード王国の法律が適用される。今は適法だが、リード王国では違法となる事もあるだろう。その逆もしかり。微罪ならば移行期間として大目に見るが、重罪はそうはいかない。しっかりと気をつけておいてほしい」
アイザックは
しかし、これが重要だった。
モーガンが調べてきた中には、ファーティル王国の法律でもアウトな事例がいくつもあった。
この軽い指摘で「まだ気づかれていないなら今のうちに直そう」と思って、修正するならば許してもいい。
だが「まだ気づかれていないならやり得だ」と考えて直そうとしないなら、見せしめにすればいい。
王の言葉は重い。
それを「軽い口ぶりだったから」といって軽く考える者など、後々トラブルの元になるかもしれない。
アイザックはそういった者達を処分する口実として罠を仕掛けていた。
「さぁ、堅苦しい話は終わりにしよう。各国からこの調印式を見守る使節団も来てくれているのだ。新しい同胞と共に交流を深め、新しい時代を迎えようではないか」
アイザックは調印式の終わりを告げる。
調印式自体は、皆がサインするのを見守るだけ。
パーティーでの交流や、別室での密談が本番である。
祝いの席だからと呑気に酒を酌み交わせばいいというものではなかった。
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