第581話 研究所設立の説明会
アマンダとの結婚式が終わると、地方貴族達は地元へ戻っていった。
それはロレッタも同じ。
まだ正式な返答はないが、結婚する可能性が極めて高い。
彼女は一度故郷へ戻り、嫁入りの準備を進める事になった。
「半年後、またお会いする時を楽しみにしております」
「今頃、ウェルロッド侯が上手く話を進めてくれているはずです。半年後にお会いする時は、また違う関係で会う事になるでしょう。その時を楽しみにしています」
別れの挨拶をするためにやってきたロレッタに、アイザックも好意的な反応を返す。
「ニコラス達も帰国してすぐに結婚とはいかないだろうが、それはそれで私が出席する機会が生まれるかもしれない。できる限り早く話を進めるから待っていてくれ」
アイザックは、ニコラス達も気遣った。
しかし、それは無用の心配だった。
「結婚式の準備は進んでいるので、帰国次第結婚という事になると思います。ロレッタ殿下の結婚は、まだ先になるでしょうから」
「あぁ、そういえば先に済ませておくんだったな」
「はい。ロレッタ殿下の結婚式は早くとも半年後、それもリード王国で行われる事がわかっていますので、先に済ませておく事になっています」
基本的に階級の高い者から結婚式を行うのが一般的である。
これは王都にある教会の予約を王族や高位貴族から順に取るためであるが、ロレッタの結婚はまだ先である。
それにリード王国で行われるのなら、ファーティル王国の教会のスケジュールを空けておく必要はない。
ニコラス達は心置きなく結婚式を挙げる事ができるのだった。
「お前達は一時的にとはいえ、ジェイソンに拘束された。恐ろしい思いをした分だけ幸せになってほしい。リード王国としても、皆の幸せを盛大に祝うつもりだ。期待してくれていい」
ニコラスはアイザックの又従兄弟というだけではなく、ソーニクロフト侯爵の孫である。
他の留学生達も同様に、ファーティル王国の高位貴族の子息達だ。
彼らには個人的な祝いの品だけではなく、リード王国から謝罪の意味を籠めて盛大な贈り物をする予定だった。
彼らの実家に謝罪はすでに済ませているものの、そう遠くないうちに同じ国の人間になるので心証を良くしておくのに越した事はなかったからだ。
「はい、期待しております!」
「あぁ、それでは元気でな」
アイザックは一人一人と握手を交わし、別れを告げる。
ロレッタはアイザックに抱き着きたそうにしていたが、もうそれはできない。
もう名目上は身分格差のない学生ではないのだ。
立場を考えて行動せねばならない。
彼女も自分の立場をわきまえていた。
「アイザック陛下、またお会いする日を楽しみにしております」
「私もです。きっとその時はロレッタ殿下ではなく、ロレッタと呼べる事でしょう」
アイザックが優しく微笑むと、ロレッタは顔を赤らめてうつむいた。
彼女にとってリード王国から離れるのは寂しいと思うが、これほど希望の溢れる状態で離れられるので、帰国の足取りは軽くなるだろう。
――結婚に向けて準備をする。
ただそれだけでこれほど心が浮き立つのだ。
実際の結婚生活では、どれほど幸せになれるのだろうか?
そう思うと、ロレッタは「パメラ殿下達に、もう少し私生活について突っ込んだ話をしておけばよかった」と後悔していた。
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ロレッタ達や地方貴族達が領地に帰ると、アイザックは王都の商人達を集めた。
研究所を建てる準備のためだ。
これは予算だけの問題ではない。
一番重要なのは人材である。
錬金術師という怪しげな者達はいるが、彼らだけを集めてよしとするわけにはいかない。
例えば皮革業者は皮をなめすのに化学薬品を使うので、そういった化学薬品の取り扱いに慣れている。
薬剤の危険性を知っているので、研究所の立ち上げ時には安全教育のために是非とも欲しい人材だった。
当然、他業種の職人もいれば助かる。
これは研究職員を確保するための説明会だった。
「国立理化学研究所というのは化学分野を中心に研究し、学問としての基礎を固めるための組織だ。将来的には新しい発明などをしていく事になるだろう。まずわかりやすい例を出すならば塩水だ」
アイザックは、水の入ったコップに塩を入れて混ぜる。
そして、ふるいに水を入れた。
当然、水は素通りする。
「水に溶けた塩は、ふるいにかけても取り出せない。ではここから塩だけを取り出すにはどうすればいいかわかる者はいるか?」
アイザックの問いかけに、何人が手を挙げる。
その中から一人を選んで指名する。
「鍋に入れて沸騰させれば塩だけが残ります」
「その通りだ。では水に溶けて見えなくなった塩が、なぜそうなるのか説明はできるか?」
「……それは難しい問題です」
商人の答えに満足し、アイザックはうなずく。
「そう、難しい問題だ。水を沸騰させて飛ばせば塩が残る。経験則でその事を知っている者は多いだろう。だが言葉にして説明するのは難しい。こういった現象を言葉にし、わかりやすくするのが研究所の役割だ。一度学問として確立すれば、これから学ぶ者達は楽になるだろう。発展させていく事も容易になる」
まずは学問として確立させた場合の価値を説く。
「研究員として、各商会から職人、もしくは職人見習いを派遣してほしい。事故が起きないように慎重な行動ができて、研究成果をこまめに書き残せる者。薬剤を一定の分量で使う事ができる者などを派遣してほしい。薬品の中には毒となるものもあるので、なんでもペロリと舐めて確かめるような者はダメだ。理論が確立すれば、薬品の安定供給や高品質な薬品の新開発へと続くだろう。学問として成立させていく過程で、最先端の知識を持つ人材の育成にもなる」
「研究成果はどうなるのでしょうか?」
「学問として教育に使うので、教科書として配布する事になるだろう。研究成果はできる限り公表していく。ただし、研究過程で危険な劇毒などが作られた場合は公表しない。公表するのは社会が発展していくのに必要なものだけだ」
アイザックは当たり前だという態度で話す。
前世では触れただけで死ぬ猛毒もあった。
研究の過程で偶然それができた場合、公表などするつもりはない。
あくまでも社会の発展に必要なものだけ公表するつもりだった。
しかし、アイザックの話を聞いて商人達の反応は渋いものだった。
それもそのはず、旨みは自分で独占したい。
化学という学問が発達する事で、秘伝とされている方法が世間に出回る事になるかもしれない。
――よその秘密を知る事ができるのはかまわないが、自分のは知られたくない。
そう思うのも必然だった。
積極的に協力の意思を示す事でアイザックの歓心を得たいという気持ちはあるが、即決できる問題ではなかった。
こういう反応があるだろうとは、アイザックも考えていた。
彼らに興味を持ってもらえるような隠し玉を用意していた。
「研究所には大量の清潔な水が必要なので、エルフに協力してもらう事になる。廃棄された薬品が混ざり、毒をまき散らしても困るから浄化もしてもらう事になるだろう。ドワーフにも共同研究をしないかと持ち掛けているところだ。特にドワーフは新技術に目がない。研究所を通じて彼らと親しくなる機会もあるだろう」
商人達の目の色が変わる。
ドワーフ達と接触する機会は少ない。
大使達と会うか、商取引をする時くらいだろう。
だが大使に商品を見せるだけでは興味を持ってもらいにくく、商取引はウェルロッド侯爵領の商人達が中心になって行っている。
王都近辺で活動する商人達にとって、自分達の技術を知ってもらう機会になりそうだった。
「それに理化学研究所の初代所長には、王妃であるパメラになってもらうつもりだ。それでどれだけ本気かわかってもらえるだろう?」
――初代所長にパメラを就任させる。
誰もがそれは「アイザックが本気である」という事がわかった。
彼女は宰相であるウィンザー侯爵の孫娘である。
アイザックもウィンザー侯爵を頼りにしているし、王太子であるザックの母親であるため、彼女に恥をかかせるような真似はしないはずだ。
化学という学問が海のものとも山のものともつかぬものだが、とりあえず先行投資しておけばいいもののように思えてきた。
結果が出ずともかまわない。
肝心なのは――
アイザックに協力的だった。
――と思ってもらう事だ。
グレイ商会を始め、かつてアイザックに協力的だった商会は取り立ててもらっている。
職人見習いの派遣でもいいのならば、十分にリターンは求められる。
「世代交代のために見習いを出すのも難しいのですが、資金援助や薬品を格安で納入といった形で協力するというのでもよろしいでしょうか?」
「もちろん協力は歓迎する。今はなにもかもが手探りの状態だ。基本的には王国から資金を出すので、無償で奉仕しろという要求はしないようにする。研究所の存在は諸君らに短期的には損害を与えるかもしれないが、長期的には利益となるだろう。研究所の建築も始まっていないが、来年には稼働させ始めたいと思っている。可能であれば薬品の取り扱いに長けた者を出向させられるようにしておいてほしい」
この世界は情報漏洩に関する意識が低いので、商人達に知的財産を奪われる可能性があったものの、アイザックは彼らに協力を頼んだ。
知的財産に関しては、流出しても当面は問題ないだろう。
問題になるとすれば、学問として確立し、若い研究者が出てきてからだ。
その時になって規制を強めればいい。
現時点では、スタートの邪魔をする事は避けるべきである。
ここから先は、アイザックだけではなくパメラにとっても未知の領域である。
慎重かつ大胆に計画を進めていかねばならなくなってきていた。
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