第495話 ウィンザー侯爵の読み

 ――ジェイソン逃走す。


 その一報は、アイザックのところにも入った。

 ブリストル伯爵が、慌てて各部隊に伝令を送ったおかげで、すぐに知らされたのだ。

 この知らせに、アイザックは馬から転げ落ちそうになる。


「そんなのありえない! 逃げ場のないこの状況で、どこに逃げるっていうんだ!」

「湖です。魔法で氷の船を作り、北へ向かっているそうです」

「氷の舟だって!」


 予想の斜め上をいく脱出方法に、アイザックは目を見開いて驚いた。

「魔法で湖の水を割って、湖底を歩きでもしない限り逃げられないだろう」と思っていたが、氷の船は盲点だった。

 この暑くなってきた季節で氷の舟など自殺行為だ。

 そんなものを持ち出してきたジェイソンの発想に驚きを隠せない。

 それはモーガン達も同じである。


「氷の舟だと! 氷に乗って沈まないのか?」


(えっ、それくらいの事も知らない? いや、それも仕方ないのか)


 祖父が漏らした言葉に、アイザックは困惑する。

 しかし、すぐに思い直した。

 リード王国は温暖な気候の地域にある。

 冬場には池に薄い氷が張る時もあるが、触れれば割れる程度の薄さである。

 スケートリンクのように、氷の上に立てるような厚さにはならない。

 流氷なども知らないので、物を載せても水に浮くだけの十分な浮力があるとは知らないのだ。

 寒い土地ではないからこそ、知らない事もある。


「冬の北国では、川の上でも馬車が通っても沈まないと書物で読んだ事があります。ジェイソンも、それを知っていたのではありませんか?」

「えっ、あぁ……。その話は私も知っているが……。まさか、それをこの状況で実行するとは。事実かどうかわからぬ知識で動くなど正気の沙汰ではない」


 モーガンも知っていたようだ。

 知識として知ってはいても、身近なものではなかったため、すぐに思い出せなかっただけらしい。


(確かにそうだ。だけど、知らないからこそ行動に移したともいえる。俺は知っているから無謀だとわかるけど、知らないからチャンスだと思ったのかもな。でも――)


「――陛下を監禁しようと考えた時点で、元々正気ではありませんよ。他に何か連絡事項はあるか?」

「王国軍の本隊には時間稼ぎのために死守命令を出されていたようですが、残った者達はブリストル伯に降伏を表明しております」

「という事は、王国軍は全軍が戦意喪失したと考えていいか。ブリストル伯の迅速な行動に感謝すると伝えておいてくれ」


 王国軍の大半を連れて、キンブル将軍が寝返ったという報告も入っている。

 西方戦線も安定し、ブランダー伯爵軍の残党狩りといった様相を呈していた。

 ならば、ジェイソンに集中してもいい状況である。


「ノーマン、地図を!」

「どうぞ」


 ノーマンがアイザック達の前方に移動し、地図を両手で広げる。

 この地図は、エメラルドレイク南岸だけではなく、周辺一帯が描かれているものだった。

 地形を確認し、各軍の現在地を予想しながら対応を考える。


「ウォリック侯には湖の北西へ、ウィルメンテ侯には湖の西。ウィンザー侯には湖北岸、ブリストル伯とランカスター伯に東岸へ回り込んでいただき、我々はウリッジ伯と共に、王国軍やブランダー伯爵家の捕虜がおかしな動きをしないように監視を行う。というのはどうだろうか?」


 アイザックは、ダッジに意見を求める。

 この非常時なので、最も経験を積んだ男に意見を欲していた。


「間に合うかはわかりませんが、ジェイソン陛下を逃がさぬためには、それしかないでしょう。補足するならば、ウィルメンテ侯爵家の軍を北西へ向かわせて、ウォリック侯爵家の軍を西岸へ向かわせるという方がよろしいかもしれません」

「ウォリック侯の方が北に位置しているが?」

「ウォリック侯は軍の一部が、ウリッジ伯の支援に動いているという報告がありました。一度戦闘行動を取った軍の再編成には時間がかかります。戦闘に参加していないウィルメンテ侯の方が疲れておらず、移動も速やかに行えるはずです」

「なるほど。距離だけではなく、行動に移す時間を考慮してというわけか。よし、それでいこう。伝令を出せ」


 ダッジの意見を聞き入れると、アイザックは即座に指示を出す。

 彼としてはジェイソンに逃げられてもかまわないのだが、ここで討ち取れるのならば文句はない。

 取れる手段は取っておくつもりだった。


 この時、ダッジはアイザックの強みに気付いた。

 アイザックは自分自身の頭脳を信じるばかりではなく、他人の――それも他国からやってきた新参者の意見であっても、正しいと思えば素直に聞き入れる事ができる。

 優れた能力を持つ者ほど、他人の意見を聞き入れる事は少ない。

 フォード元帥も、自分の考えに固執する面があった。

 提案の優劣を判断できる能力と、この柔軟性を持つからこそ、若くして公爵に昇り詰めたのだろうとダッジは考えさせられていた。


「王都に逃げ込まれたらエリアス陛下の身に危険が及ぶかもしれない。優先すべきは捕虜にする事だが、場合によっては討ち取るべし。責任は私が取る。それも伝えておくように」

「お、おいアイザック……」


 モーガンは「いいのか? そんな事を明言して」と、うろたえていた。

 やはり彼でも、このデリケートな話題に触れるのは怖いらしい。

 だが、アイザックは堂々としていた。


「先ほど、フレッド相手ですら対応に困っていたくらいです。王都に逃がしてはならない、殺してでも止めなければならない相手だとわかっていても、殺意が鈍る可能性があります。誰かがはっきりと命じておかねばなりません」

「それは確かに……」

「だから私が命じるのですよ」


 アーサーの言葉で助けられたのは、まだ記憶に新しい。

 アイザックの言葉に危ういものを感じながらも、モーガンは認めるしかなかった。


(逃げてくれた方が都合がいいけど、死んでくれてもかまわない。どっちも一長一短だけどさ)


 アイザックにとって、ジェイソンはエリアスを幽閉した時点で用済みとなっていた。

 あとは今が楽になるか、あとが楽になるかの差でしかなかった。


 ジェイソンが逃げれば、王都周辺での攻防戦で苦労するだろう。

 しかし、ここで死ねばジェイソン派は抗う理由もないので、戦後処理は楽になるだろう。

 だが、ジェイソンが死んだ場合、エリアスの処理で不都合が出るかもしれない。

 アイザックにとって、どちらがいいとも言えない状況だった。


(それにしても知らないって怖いな。この季節に氷の船で逃げ出すなんて。ジェイソンは、すでに死んだものと考えていいだろう。でも、しまったな……。ジェイソンを捕虜にしたり、殺した場合は考えていたけど、死体を回収できないケースは考えていなかった。そのパターンも考えておかないといけないな)


 アイザックは思索にふける。

 周囲の者達は、その姿を頼もしく思っていた。


 この場にいる者で、アイザックがこの先考えている事を知っているのは、ノーマンだけである。

 彼の地図を持つ手が震えていたが、周囲の者達は「あのような命令を聞いたあとならば仕方ない」と思うだけであった。



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「やはり湖に逃げたか」

「そのようです」


 ウィンザー侯爵は、ブリストル伯爵からの連絡を冷静に受け止めていた。

 彼の秘書官も落ち着いていた。

 ジェイソンが北へ逃げるのは、想定の範囲内だったからだ。


「ブリストル伯のおかげで早くわかったのは助かったな。狼煙を上げ、セオドアに知らせよ」

「ただちに」


 打ち合わせ通り・・・・・・・、二本の狼煙が上げられる。

 これでセオドアにも「ジェイソンが湖へ逃亡した」と伝わるはずだ。


 ウィンザー侯爵は、ジェイソンが湖から逃げる可能性を予測していた。

 どう逃げるかはわからなかったが、この包囲下では湖に逃げるしかない。

 そのため、セオドアを湖の北岸へ移動させていたのだ。

 とはいえ主戦場を手薄にしないために、その数はわずか千。

 北岸ではなく、どこか違うところに逃げられる可能性もあった。


 しかし、その可能性は限りなく低いだろう。

 湖の上は陸地と違って遮蔽物がないからだ。

 鎧に太陽の光が反射し、遠目でも見つけやすい。

 見逃すような事はないはずだった。


「若様を先回りさせておいてよかったですな」

「この状況では、湖に逃げるしかないからな。エンフィールド公が北岸に兵の配置を命じなかったのは、不穏な動きをジェイソンに疑わせたくないというためだけではないだろう。我らが、どこまで自分で考えて動けるのかを見ているはずだ。戦後の事を考えれば、どこまでやれるのかを見せておかねばならん」

「身内だからと甘えてはいられないという事ですね」

「そうだ。それに私も長年宰相を務めてきたという矜持がある。孫娘の婿の情けにすがるような真似などできん」


 ――言われた事をやるだけの者は二流。

 ――指示の先を読んで、本当に求められている行動も共にこなしてこそ一流である。


 ウィンザー侯爵は要職に就いていただけに、上に立つ者が部下に求めるものを理解していた。


 ――アイザックはジェイソンを徹底的に包囲しようとしていたにもかかわらず、なぜ湖周辺を手薄にしていたのか?


 その理由を考えれば、アイザックの考えも読める。

 あえて計画に不備を残す事で、この地に集結した貴族の中から使える者を選別するためだろう。

 もしかしたら、本当に万に一つの可能性を考えれば、ウィンザー侯爵家に復讐の機会を残しておいてくれたのかもしれない。


 ――兵の一部を割く余裕があるのは、東側に陣取る軍くらいなのだから。


 それならば、みすみすチャンスを見逃すような真似はできない。

 見逃してしまえば、アイザックに「この程度の配慮もわからぬ男だったのか」と蔑まれてしまう。

 ウィンザー侯爵にとって、絶対に避けたい事だった。


「セオドア、あとは任せたぞ。パメラの恨みを晴らしてこい」


 ウィンザー侯爵は、北の湖岸で待機しているはずの息子に想いを託した。




 思いを託されたセオドアは、狼煙を確認していた。


「間違いないな?」

「間違いありません。確かに二本の狼煙が上がっています。『湖へ逃亡した』という知らせです」

「よし、ならば出撃だ! 奴らを絶対に陸地にあげるな! ウィンザー侯爵家を舐めた報いを受けさせるのだ!」


 セオドアは号令を下す。

 彼の率いている部隊は、戦意の高い者達ばかりである。

 特にパメラの友人達の親族がやる気を出していた。


 本来ならば、王妃の友人という美味しい立場になっていたのだ。

 親族も、その縁を使って出世できるかもしれないと皮算用をしていた。

 それがジェイソン一人の暴走により、すべて台無しになってしまった。

 逆恨みかもしれないが、彼らには許せない事だった。


 もちろん、パメラのために復讐しようとする者もいる。

 主にウィンザー侯爵家の親族衆ではあるが、彼女の身近にいた者達。

 ルーカスなども、この中に含まれていた。


 こちらは氷の船などという色物ではなく、一般的な船を調達している。

 遊覧船から漁船まで、様々な船が徴用されている。

 急いで移動したので騎乗できる弓兵を千名程度しか連れてきていないが、それでも十分なはずだ。

 これで対応できない数だったとしても、時間を稼げば援軍がどうにかしてくれる。

 不退転の決意を胸に、セオドアも船に乗った。


 ジェイソン達の姿は、すぐに確認できた。

 湖上で鎧と、白い舟が光を反射していたからである。

 その一団は帆やオールのない舟とは思えない速度で、こちらへ向かってきている。

 魔法を使っているとしか思えないので、セオドアはジェイソンと近衛騎士だと確信した。


「奴らの前方を塞げ! 弓兵、用意! まずは奴らの足を止めるぞ!」


(逃がしはせんぞ、ジェイソン!)


 セオドアのもとに、アイザックの命令は届いていない。

 だが、ここでジェイソンを仕留めるという決意は済んでいた。

 ウィンザー侯爵家を、パメラをコケにした男を相手に躊躇う理由など一つもなかったからである。

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