第391話 ブリジットからのアプローチ
ダミアンの一件が一段落したので、アイザックは穏やかな時間を過ごしていた。
夏休みなら、ニコルも騒ぎを起こせないはずである。
この日も安心して、ソファーで膝枕をしてもらいながらリサと雑談をしていた。
「ねぇ、前から心配だったんだけどさ。友達関係ってどうなってるの? 僕と婚約したせいで母上みたいになってない?」
この機会に、気になっていた事を尋ねる。
問題が起きていれば、早く解決しておいてやりたいからだ。
聞かれたリサは、笑顔で答える。
「それなら、もうルシアさんが解決してくれたわ」
「母上が?」
思わぬ者の名前が出た事で、アイザックは驚く。
だが、すぐにこういう問題には適任だったかもしれないと考え直した。
「ええ。やっぱり、最初は友達との距離を感じるようになったの。今までと違ってぎこちない会話になっていたわ。その事をルシアさんに愚痴った事もあったの。そうしたら、ある日お茶会にルシアさんが顔を出してくれたの。その時、こう言ってくれたのよ」
リサが当時を思い出し、遠い目をしながら語り出す。
「実家や嫁ぎ先から媚びへつらえと言われているのかもしれないけれど、それは逆効果よ。パーティー会場とかではダメだけど、友達だけで集まる時は、今まで通りの態度で接しなさい。もし、家からダメだと言われるなら『どうしてわざわざ友人という立場から、ただの太鼓持ちになり下がる必要があるのですか?』と聞き返しなさい。今までとまったく同じとはいかなくとも、私達だって友達との関係は変わらないものであってほしいと思っているの。あなた達もリサと変わらぬ友情を保ち続けて頂戴。ってね」
語り終えたリサは、いい笑顔を浮かべていた。
「ルシアさんの話には説得力があるもの。それからは、みんな学生時代のように話すようになってくれたわ」
「そうか。それならよかった」
ルシアなら含蓄のある言葉だと思われるので、アイザックよりも適任である。
リサの問題に首を突っ込むまでもなかったようだ。
「本当、最初はどうしようかと思ったけど、今となっては笑い話になってるわ」
アイザックが安心していると、リサがクスクスと笑い始めた。
彼女が楽しそうなので、アイザックも気になる。
「何かあったの?」
「仲のいい友達ばかりじゃなくって、そりの合わない同級生もいたの。表立って悪口とかは言わないんだけど、前に街で会った時に『あら、リサさん。ウェルロッド侯爵家のご令嬢の世話役を任されているそうね。とても名誉なお仕事を任されて羨ましいわぁ。私なんて自分の子供を育てるだけで精一杯なのよ』とか嫌みを言ってきたのよ」
「それがなんでおかしいんだい? 腹が立つんじゃないの?」
「ううん、腹が立ったりしないわ。今はね」
リサがアイザックの頭を撫でる。
「苦難の時代を乗り越えてきたからこそ、今の幸せがあるってわかってるからね。今ではそれも笑い話よ」
本当に嬉しそうに微笑むリサの顔を、アイザックは切ない目で見ていた。
リサは恥ずかしそうに顔をそむける。
「リサ……」
「なぁに?」
「それって全部、お婆様が紹介した相手と婚約していたら、しなくていい苦労だったんじゃないかな?」
「…………」
「…………」
「…………馬鹿っ」
「いてっ、なにするのさ」
リサがアイザックの頬を軽くつねる。
理不尽な暴力にアイザックが抗議の声をあげる。
だが、これに関してはリサに分があった。
「私が他の男と婚約した方がよかったって言うの?」
「いや、そんな事はないよ。ただ、苦労はしなかったねって言うだけで……」
「酷い……」
リサが顔を両手で覆う。
しかし、その気配で泣き真似だという事はバレバレだった。
「リサ……。さすがにその誤魔化し方はどうかと思うな」
「あれ、バレちゃった? さすがはアイザックね。でも、ダメよ。女の子相手にそんな無粋な指摘をしちゃあ」
顔から手を放したリサの顔は、観念した表情だった。
だが、その言葉から完全に観念したわけではないという意思が見え隠れする。
「年下の男の子に、幼い頃の発言で揚げ足を取って『結婚してくれ!』と迫る方が野暮ってもんでしょ」
「だから、そういうところよ」
またリサがアイザックの顔をつねる。
今回は先ほどより、ちょっと強めだった。
「……アイザック。子供をたくさん作って、自分の子供の世話で忙しいって状況にしてよね」
「子育ては乳母や使用人が手伝ってくれるから、そこまで忙しいって事はないんじゃない? それよりも社交界で――いてててて! ちょっと、やめてよ!」
なぜかリサが爪を立ててつねり始めたので、さすがにアイザックもその手を払いのける。
リサの顔を見ると、憮然としていた。
「やっぱり、野暮なのはあんたの方よ」
「えー、なんで?」
「それくらいわかりなさいよ、もう!」
リサがぶつくさとアイザックに不満を述べる。
突然の変わりように、リサの膝の上は一気に居心地が悪い場所へと豹変した。
アイザックが不思議がっているところに、ブリジットが現れた。
「ねぇ、暇なんだけど」
「そんな事を僕に言われても……」
アイザックは「えっ、なんで俺に言うの?」としか思えなかった。
だが、ブリジットにしてみれば、なぜアイザックがそのような反応をするのかが不思議でしかたなかった。
「なんでそんな風にとぼけるのよ。前に言ったでしょう。その……、好きだって……」
(あぁ、そういえばそうだったっけ……)
ここ最近の忙しさで忘れていたが、ブリジットにも思いを告げられていたのだ。
あの時は祖父の介入により助かったが、今はうやむやにしてくれる者がいない。
ブリジットから、そっと視線を外して、この話題を諦めてくれるようにと神に祈る。
「別に今すぐ答えがほしいってわけじゃないの。言ってくれると嬉しいけど」
しかし、神はアイザックを見放したようだ。
ブリジットは話題を変えようとしない。
仕方がないので、アイザックはブリジットを見る。
その目は好意的なものではなかった。
「ブリジットさん、こういう事は言いたくなかったんだけど……」
「な、なに」
アイザックの視線と言葉が不穏なものを予感させ、ブリジットは背筋を凍らせる。
「冷たくされたから好きになったとか馬鹿じゃないの?」
アイザックの言葉に対するブリジットの答えは――平手打ちだった。
「いったーい!」
痛みでリサの膝から起き上がる。
飛び起きながらも、髪がリサの胸に触れた感触をしっかりと感じていた。
ちょっとだけ嬉しい思いができても、今日は痛い思いをする事が多い日だという事には変わらない。
「私は真剣なのに茶化さないでよ」
「いやいやいやいやいや、こっちだって真剣な質問だよ。優しくされたから好きになるとかならともかく、冷たくされて好きになるっていうのが理解できないんだけど」
「えっ、本当にそう思っていたの?」
どうやら彼女は、アイザックが茶化したものだと思っていたようだ。
今までにも茶化すような事を、アイザックはよく言っていたので無理もないだろう。
「なんでも見透かす目を持っているんじゃないの?」
この言葉は、リサに向けられていた。
聞かれた彼女は、困った顔をする。
「本当に持っていたら、もっと前からブリジットさんの気持ちに気付いていたはずです。意外と節穴なんですよ」
リサはアイザックをフォローしてくれたが、先ほどの事を根に持っているのか言葉に棘があった。
「もう、ホントにダメな男ね」
ブリジットも何か感じ取ったのか、アイザックを責める。
なぜか二人に責められるという状況になり、アイザックは目を白黒させる。
(えっ、俺が責められる流れ? いくらなんでも酷くない?)
反省していないアイザックの様子を見て、ブリジットは溜息を吐く。
「仕方ないわねぇ、説明してあげるわ。ほら、私の姿を見てどう思う?」
ブリジットは両手を頭の後ろに回したり、腰に手を当てたりしてセクシーポーズを取ってアイザックに見せ始める。
「……頭の可哀想な人?」
平均くらいのサイズの胸を持つリサに比べ、ブリジットの胸は明らかに小さい。
彼女なりに魅力的な女を演じているのだろうが、胸を強調するポーズの時には憐れみすら感じさせられていた。
そんな彼女に、アイザックは正直な感想を、つい言ってしまう。
ブリジットは、アイザックの言葉に怒るのではなく、逆に憐れむような視線を投げかける。
「ねぇ、リサ。アイザックって女に興味ないんじゃないの? 私を見ても無反応よ」
「ううん、ちゃんとあるわよ。時々私の胸とか太もも見てるもの」
「じゃあ、なんで私には無反応なの?」
「……さぁ? ブリジットさんは私でも見惚れるくらい綺麗だから、男のアイザックが興味ないはずがないんだけど……」
二人でひそひそ話を始めるが、アイザックに聞かせるかのように、ギリギリ聞こえる程度の大きさの声で話していた。
今度はアイザックが両手で顔を覆う番だった。
(見てたのがバレてたのかよ! 気付かれてないと思ってたのに!)
「もう少しで堂々と触れるようになるのか」と思うと、ついジックリと見てしまっているとは自分でもわかっていた。
露骨な視線だったのだろう。
それでも、やはりリサにムッツリだと気付かれているとわかると恥ずかしい。
今すぐに、この場から逃げてしまいたい気分だった。
アイザックが逃げなかったのは「せめて一言くらいは言い訳をしておきたい」という気持ちを持っていたからである。
「……よし。アイザック、なんで私をエロイ目で見ないのよ。そんなに魅力がないって事? はっきり言いなさいよ」
疑問に思ったブリジットが、直球でアイザックに質問を投げかける。
誤解しようもないストレートな質問に、アイザックも戸惑う。
だが、この質問は追い詰められるものではなく、挽回のチャンスであると感じていた。
これまで以上に必死に言い訳を素早く考える。
そしてアイザックが出した答えは――
「リサは婚約者だからだよ。自分の婚約者でも、恋人でもない人を性的な目で見るなんて失礼じゃないか。婚約者のリサを興味ない目で見るのはもっと失礼だと思っているから対応が違うんだよ」
――というものだった。
――リサは自分の事を姉のような存在ではなく、一人の異性としてちゃんと意識してくれているという事で。
――ブリジットは、アイザックが誰にでも性的な目を女に向けない男だとわかった事で。
二人の胸がドクンと高鳴る。
「そ、そうなんだ」
ブリジットが顔を赤く染めて、もじもじとし始める。
その光景を見て、アイザックはより一層疑問を深める。
(えっ、なんで? 性的な目で見られないって言われたら、この場合は不満を持つところだろうに)
今回は今までと状況が違う。
「性的な目で見られて嫌」というのは、いやらしい目で見られるのが嫌だという事である。
だから、そういう目で見なかった事を評価されるのはわかる。
しかし、今回は
「私に魅力がないっていいたいの!」と怒ってくるくらいすると思っていた。
いや、ブリジットなら、そういう反応をすると確信を持っていたくらいだ。
だからこそ、今の彼女の反応がアイザックには理解できなかった。
だが、アイザックは思い出すべきだった。
――「恋は盲目」という言葉を。
今のブリジットは、アイザックの言葉を良いように受け取ってしまう状態である。
他の人間とは違い、女性に誠実な男だという風にしか見えなかった。
「そんな人だからこそ好かれたい」という強い思いに改めて気付いた事で、恥ずかしがっていたのだった。
「やっぱりアイザックは、女の子なら誰でもエッチな目で見る人とは違うんだね」
「も、もちろん……」
(気付かれてはいけない。気付かれてはいけない。気付かれてはいけない。気付かれてはいけない――)
アイザックは、心の中で何度も自分に言い聞かせる。
いくら乙女心に鈍いといっても――
「胸が薄いから興味も薄い」
――という気持ちがバレたら酷い目に遭いそうだという事くらいはわかっている。
もし、ブリジットとジュディスの胸への視線の違いに気付かれでもしたら、きっと大変になるだろう。
絶対にバレてはいけないという思いは、反乱に関するものと同じくらいに強いものとなっていた。
「そういうところを好きになったのかもね」
ブリジットは、アイザックが考えている事がわからない。
だから、グイグイと押していく。
「普通の貴族とは違うところが魅力的っていうのはわかる気がします。アイザックって『俺は公爵だぞ』って肩書きを使って相手を黙らせたりしないもの。話し合って解決しようとするところは好感が持てます」
(あれ? 結構使っていたような……。あっ、ただ見てないだけか!)
リサの言葉に違和感を覚えたアイザックだったが、すぐに理由に思い至った。
商人相手には立場の違いを利用した仕掛けをしてきたが、それを知るのは一部の者のみ。
特にリサのように現場を見ていない者は、どんな交渉をしたのか知らないはずだ。
話し合いだけで解決したように思われていても不思議ではない。
「そうよねー。公爵って王様の次くらいに偉いんでしょ? なのに偉ぶらないところもいいのよね」
「最近は人前では使用人に命令口調で命じるようになったけど、身内だけだと『何々してきて』って頼むところを見ると、昔から変わってないなぁって思うんですよね」
「そうそう、そういうところが可愛く思えるのよね」
「はい、ストップー!」
なにやら恥ずかしい方向に話が向かってきたので、アイザックは二人の話を止める。
「話が逸れてない?」
「じゃあ、話を戻していいの?」
ブリジットが真剣な面持ちで問いかける。
「私達の恋路について戻すぞ」という脅しのようなものだろう。
少なくとも、アイザックはそう受け取った。
「それじゃあ、本当に僕のはっきりとした答えを聞きたいの? 聞きたいなら答えるけど」
だから、アイザックもやり返す。
これには、ブリジットも渋い顔をした。
今の状態だと「結婚する気はまったくない」と答えられる可能性が高い。
それを聞いてしまえば、今の関係は続けられないだろう。
ぐぬぬと悔しがる。
「暇だっていうなら、一緒に話しましょうよ。答えを焦る必要なんてないんです」
そんな彼女の表情を見て、アイザックは逃げ道を作ってやった。
本当に「じゃあ、答えて」と言われれば、アイザックも気まずい思いをしてしまうので、自分用の逃げ道でもあった。
「……そうね、そうしましょう。でも、いつかは答えを聞かせて……。いいえ、私の魅力を前に良い答えを言わせてみせるわ」
「そんな気負われたらやりにくいんですけど……」
本当は「以前、村に帰ったら恋人を探すとか言っていたけど、どうなってるの?」と聞いてやりたいところだったが、今日はそんな事を言える流れではないという事を思い知らされている。
アイザックは有効な反撃の一手を打てず、困るばかりだった。
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