第283話 秘密を聞いていた者

「あら、エンフィールド公。皆さまへのご挨拶は終わりまして?」


 アイザックは、一瞬「ニコルが来たのか!?」と思ったが、すぐにそれはないと思い直した。

 彼女なら「アイザックくん」と言って近寄ってくる。

 こんなおかしい言葉遣いをするのは、一人心当たりがいる。

 声をかけられた方を見ると、予想通りブリジットがいた。

 彼女は男女問わず、大人に囲まれている。


「これはこれはブリジットさん。そちらも挨拶が終わったのですか?」

「ええ、そうですの。お祝いの日という事もあって、皆様お酒が入ってらっしゃるようで……」

「確かにそれは困りますね。ちょうど、生徒会のメンバーを探しているところだったので、一緒に探しませんか? みんな未成年なので、お酒は入っていませんよ」

「まぁ、でしたらそちらにお邪魔しようかしら。お酒の匂いだけで酔ってしまいそうなの。そうなったら、怒られてしまうわ」


 ブリジットは周囲に「失礼します」と言って、アイザックの隣に付いた。

 誰も彼女の行動を妨げようとはしない。

 子供にお酒を飲ませるのはタブーだという事はよく知っている。

 アイザックも先ほど給仕が持っている飲み物を取ろうとすると「こちらはお酒ですのでお渡しできません」と言われ、キッパリ拒絶されたくらいだ。

 子供を酔わせるのは、大人としてマナー違反であると理解しているので、引き止めなかったのだ。

 それに、アイザックとの話を邪魔するわけにはいかない。

 物わかりの良い大人を演じて、少しでもいい印象を与えておこうと考えていた。


 その反応を見て、ブリジットは「してやったり」という表情をアイザックに見せる。

 話していた貴族達と少し離れてから、彼女はアイザックだけに聞こえる声の大きさで話しかけた。


「来てくれてよかったわ。ほんと、なんで人間って挨拶が好きなのかしら。前にも挨拶をしたのに」


 酒は名目で、実際はあの場を逃げたかったらしい。

 アイザックも気持ちはわかる。

 かつて通った道だからだ。


「前回挨拶して、名前と顔が一致する人はどれだけいます?」

「……それなりにね」

「だからですよ。人数が多いから、一度や二度挨拶しただけじゃ覚えてもらえない。だから、何度も挨拶をする事で覚えてもらうんです」

「へー、そうなんだ。そう言われてみると、挨拶を嫌がるのは悪い気がするわね」


 名前を覚えてほしいだけの相手を無下に扱ってしまった。

 彼女は軽率な行動を後悔する。


「でしょう? まぁ、今思いついた事なんですけど」

「ちょっと待ちなさいよ!」


 ブリジットは怒りに任せてアイザックの頬をつねろうとするが、ここがどこかを思い出して我慢した。

 ウェルロッド侯爵家の屋敷ではなく、公衆の面前でアイザック相手に仕返しはできない。

 それくらいの分別は彼女にもあった。

 ぐぬぬ、と悔しそうな表情を浮かべる。


 あとが怖そうだが、アイザックは心配していなかった。

 ブリジットは、他のエルフと共に大使館に滞在している。

 仕返しを恐れる必要がなかったからだ。

 安全を確信したアイザックは、微笑みをたたえる。


「さすがはエンフィールド公。エルフを相手にしても余裕の表情ですね」


 ブリジットと話しているところに、ジェイソンが声をかけてきた。

 彼の背後には、生徒会の面々もいる。


「これは殿下。皆さまもおそろいで」

「今日は王太子ではなく、生徒会長のジェイソンとしてきております。どうかジェイソンと呼び捨ててください」

「いやいや、そのような事……。からかってますね?」

「やはり、気付かれますか」


 アイザックが慌てている姿を見ようとしてのいたずらだと気付き、アイザックは指摘する。

 それは図星だったようだ。

 ジェイソンが素直にそうだと答えた。


「確かに、こういう時はどうすればいいか迷いますね」

「僕はまだ王太子であって、正式な国王ではない。エンフィールド公は公爵家の当主。でも、将来的には僕が国王になるから、その時の事を考えると偉ぶるのは得策ではない。本当に困りますよね。フフフッ」


 ジェイソンが含み笑いをする。

 笑って誤魔化しているが、本当に困っているようだ。

 それはアイザックも同じ事。

 対応に困るのは間違いない。


「とりあえず、公式の場ではお互いを立てる方向でいいのでは?」

「それが無難ですね」


 ジェイソンはアイザックの提案を受け入れた。

 下手に慣れ慣れしくすると、ジェイソンが「王族とはいえ公爵に対する敬意がない」と馬鹿にされる。

 家督を継いだのではなく、実力で爵位を授かったのだ。

 王族とはいえ、まだ何も成し遂げていないジェイソンとアイザックの差は大きい。

 アイザックに対して、公式の場では敬意を示さなくてはならなかった。


 それはアイザックも同じ。

 ジェイソン相手に偉そうな態度を取れば「王族に対する敬意がない」と思われる。

 しかし、公爵という立場にありながら下手に出過ぎると「爵位をなんだと思っているんだ」と軽蔑される。

 貴族の最高位である公爵の価値を下げられると、相対的に他の爵位の価値も下がってしまうからだ。

 この辺りはバランス感覚が必要なので、非常に難しいところだ。


「そういえば、殿下はブリジットさんと会うのは初めてでしたか」

「戦勝式典ではお見かけしましたが、直接話すのは初めてですね」

「では、まずは紹介からですね」


 アイザックは、ブリジットをジェイソン達に紹介する。

 生徒会のメンバーも紹介しようとしたが、アイザックが知っているのはパメラ、フレッド、アマンダ、アーサーの四人だけ。

 その他のメンバーの事を知らないので、ジェイソンが代わりに生徒会のメンバーを紹介した。

 基本的には笑顔で対応していたが、チャールズのところでブリジットの顔から表情が消える。


「そう、あなたがチャールズさん……。あんなに良い子をよく捨てられたわね」


 ティファニーの事は、ブリジットにとっても腹立たしいものだった。

 彼女はアイザックだけではなく、幼い頃からティファニーの成長も見守ってきた。

 自分の大切な友人であり、可愛い妹分に酷い扱いをしたチャールズの事をよく思ってはいなかった。


 そういった冷たい態度を取られるのに慣れているのだろう。

 チャールズは堂々とした態度をしていた。


「ブリジットさんは燃え上がるような恋をした事がありますか?」

「ないけど……」


 チャールズがフフフと笑う。


「ならば、おわかりいただけないでしょう。すべてを投げ捨ててでも手に入れたいと思うものが、この世には存在するのです。それがティファニーではなかった。それだけです」


 ブリジットがムッとした表情を見せるが、彼女が何かを言おうとしたところでジェイソンが口を挟む。


「以前、ニコルさんの事は諦めて、ティファニーさんと仲直りしろと言ったはずだが?」

「たとえ殿下のお言葉といえども、これだけは譲れません」

「チャールズ……」


 ジェイソンの言葉を聞き、ブリジットは「やっぱり注意する人もいるわよね」という表情を見せた。

 だが、アイザックは「ニコルを手に入れるために必死だな」としか思わなかった。

 彼の内心を知る者とそうでない者とで、受ける印象の差は大きい。

 ブリジットには、ジェイソンの姿がティファニーを心配しているように見えていた。


「その話はここまでにしましょう。今日はめでたい日です。ブリジットさんも言いたい事があるのかもしれませんが、また後日という事で」


 アイザックもチャールズに言いたい事はあるが、それは今言わなくてもいい。

 今は場をわきまえる必要があった。

 それはジェイソン達も同じ。

 学生の代表として、みっともない姿は見せられなかった。

 チャールズの事は保留にする。


「パメラさんのドレス、とてもお似合いです。鮮やかな赤色にも負けない美しさをお持ちだからこそですね」


 そこで、アイザックはパメラに話しかける事にした。

 彼女は赤いドレスを着ている。

 十歳式の時のように宝石が散りばめられたド派手なドレスではないが、金髪のドリルという強い特徴に負けていない。

 相乗効果により、お互いがより魅力的になっている。

 アイザックに褒められて、彼女は微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。ですが、ブリジットさんの美しさには負けてしまいますわ。エルフの方を近くで見たのは初めてですが、こんなにお美しいなんて」

「フフッ、ありがとう」


 パメラもこの世界基準で美人の部類。

 そんな彼女に褒められて、ブリジットもまんざらではないようだ。

 素直に喜んでいる。

 パメラだけを褒めると怪しまれるので、アイザックはアマンダにも話しかけた。


「アマンダさんも、ドレスがお似合いですね。明るい色がぴったりです」

「ありがとうございます!」


 アマンダは、眩しいくらいの満面の笑みをアイザックに向ける。

 彼女の髪の色は赤。

 明るい黄色のドレスが髪の色を際立たせて美しく見せている。

 難点は、体にピッタリなドレスがボディーラインをハッキリとさせている事だろう。

 そのあまりにも直線的なボディーラインに、アイザックは憐れみを覚える。


(これでフレッドの婚約者だったんだもんなぁ……。ダミアンとだったらよかったのに)


 フレッドは190cmを超える長身。

 150cmくらいのアマンダとでは差がありすぎる。


 ――フレッドとジャネット、ダミアンとアマンダ。


 このカップルなら、ニコルに付け込まれる隙も少なかったのではないかと思える。

 略奪愛をテーマにしただけあって、原作のシナリオライターの悪意が見えるカップリングといえた。

 彼女に話しかけたついでに、フレッドにも声をかける。


「フレッドとは、こうして直接会うのは久々だね。学校では生徒会に呼び出された日以来会ってなかったし。そういえば、最近はニコルさんと仲良くなってるんだって? 噂で聞いてるよ」


 ここでアイザックは、ちょっとだけニコルに嫌がらせをする事にした。

 あまり攻略スピードを上げられても困る。

 ジェイソンの嫉妬心を煽り、フレッドの好感度を下げてもらうつもりだ。

 それで、多少は時間を稼げるだろう。

 こうして二人が揃っているところで話題に出し、ついでにパメラに自分の頑張りを見てもらう。

 一石二鳥の行動だった。


「確かにな。最強を目指す俺に今でも立ち向かってくるのは彼女くらいだ。親しくさせてもらってるよ」

「フレッド、エンフィールド公に失礼だよ。言葉遣いに気を付けなよ」


 先ほど見せた眩しいくらいの笑みが消え失せ、能面のような表情になったアマンダがフレッドに注意する。

 すでに婚約関係が破綻し、交流がなくなったとはいえ、あまりにも冷たい声。

 アマンダの変貌ぶりに、注意をされていないアイザックがビビったくらいである。

 だが、フレッドには通じなかった。

 その堂々とした態度は、頼もしさすら感じられる。


「ふっ、俺とアイザックの間には些細な事だ。ライバルとしてお互いを高め合っていく立場だぞ」

「礼儀作法も学べば?」


 アマンダは、冷たく吐き捨てるようにフレッドに言った。

 彼女の姿を見て、アイザックは「あれ、変なところに引火した?」と困惑する。

 アマンダはアイザックに失礼な態度を取るフレッドが気に入らなかっただけだが「ジェイソンの嫉妬を掻き立てようとしただけなのに……。フレッドに心残りがあるアマンダの嫉妬を燃え上がらせてしまった」と、アイザックはミスを犯してしまったと考えた。

 予想外の結果になってしまったため、逃げるように元生徒会長のアーサーに声をかける。


「先輩もいらしてたんですね」

「ええ、引継ぎが終わったばかりという事で、後輩の引率として一緒にご招待いただきました」


 生徒会会長の引継ぎは十月いっぱいで終わっていた。

 とはいえ、まだ一ヶ月も経っていない。

 せっかくなので、引継ぎが終わって引退した三年生達も呼ばれていた。


「卒業後の事を考えるといい経験になるかもしれませんしね。そういえば、卒業後はどうされるのですか?」

「自領に戻って、領主の仕事を父から学ぶ予定です。他の地方貴族と同じですね」

「あぁ、なるほど」


 領地で親から統治方法を学びつつ、子作りに励む。

 アーサーの言う事は、かつてランドルフがやっていたのと同じ事だった。

 領地持ちの貴族の子供なら、誰もが同じ道を通るのだろう。


「先輩には勉強会設立の時にお世話になりましたので、僕でもお役に立てそうな事があればおっしゃってください」

「微力ながらも、エンフィールド公のお役に立てたのであれば光栄です。ありがたいお言葉、感謝の極みでございます」


 アイザックは、アーサーに「勉強会で一言サポートしてくださった事は覚えていますよ」と言外に含んだ。

 それを聞き、アーサーは安堵の表情を見せる。

 ささやかなサポートだったので「知らない」「覚えがない」と言われてしまえば、それまでの事。

 アイザックは貸しの事をちゃんと覚えていてくれた。

 小さな貸しとはいえ、エンフィールド公爵を相手に貸しがある事実は大きい。

 その事実だけで、アーサーは満足していた。


 アイザックは他の生徒会のメンバーにも声をかける。

 役職をジェイソン達に取られたとはいえ、彼らも生徒会に選ばれるだけの家柄や成績優秀者である。

 仲良くなっておくに越した事はない。

 一人一人の名前を呼び「ちゃんと覚えていますよ」アピールをする。

 地味ではあるが、屋敷の使用人達には効果のあった事だ。

 彼らもアイザックが名前を覚えてくれていると知り、嬉しそうにしてくれていたので、名前を覚える効果はあるように見える。


 初めてパーティーに出た時は「こんなに覚えられるか!」と思っていたが、慣れてくると結構覚えられるものだった。

 もっとも、頭の中はオーバーヒート寸前。

 限界まで働かせていたので、非常に疲れるものではあった。


「そういえば、フレッドさんって確かネイサンさんと遊んでいませんでした?」


 ブリジットがフレッドに質問する。

 その内容に周囲の空気が凍り付いた。

 アイザックの前でネイサンの話題に触れるべきではないと思われていたからだ。


「その通りです。ネイサンとは従兄弟という事もあってよく遊んでいました。ブリジットさんにも遊んでもらった事がありますね」


 だが、フレッドはそんな周囲の雰囲気など気にせず、彼女の質問に応えた。

 アイザックに対する受け答えとは違い、なぜかブリジットには丁寧な言葉を使っていた。

 それがアマンダをより一層苛立たせるが、ブリジットが関わっている事なのでフレッドには何も言わなかった。


「やっぱり! 見覚えがあると思ったのよ!」


 ブリジットが普段の口調に戻る。

 そして、アイザックとフレッドを見比べ始める。


(ようやく、ネイサンの件で因縁があると気付いたか……)


 そう思ったのはアイザックだけではない。

 他の者達も、大方同じような事を考えていた。


 ――ブリジットも、公の場で話題に出さない方がいい内容があるという事に気付いた。


 少し遅かったが「何も気づかないよりはいい」とアイザックは思う。


「本当、人間って成長が早いのね。こんなに小さかったのに、二人とも見上げるほど大きくなっちゃった」


 ブリジットが自分の腰くらいの高さに手をやると、フレッドがそれを笑う。


「いくらなんでも、そこまで小さくはなかったですよ。お腹くらいまでの背丈はあったでしょう」


 どうやら、彼女はネイサンの事ではなく、アイザックとフレッドの身長が気になっていたようだ。

「そっちかよ!」と思ったアイザックはドッと疲れを感じてしまう。

 確かにアイザックとフレッドは同級生の中でも大きい方だ。

 アイザックは188cmで、フレッドは194cm。

 十年ほど前と比べたら急成長している。

 エルフの寿命は十倍ほどなので、人間の感覚で言えば一年で急成長したような感覚なのだろう。

 人間の目まぐるしい変化に、ただただ驚くばかりなのかもしれない。



 ----------



「ふぅ……」


 一通り挨拶が終わると、アイザックは一度バルコニーに出る。

 オーバーヒート寸前の頭を、夜風が心地良く冷やしてくれる。


 表面を取り繕う事を忘れたブリジットは、意外なくらいあっさりみんなに受け入れられた。

 礼儀作法は大切だ。

 まともにできなければ「あいつは無作法者だ」と侮られる。

 エルフ全体の評価を落とす可能性もある危険な行為だ。


 だが、今回はフレッドがいた。

 侯爵家の嫡男があの態度を取るのだ。

 ブリジットが普段通りの話し方をしても「フレッドに合わせているだけなんだ」と思ってスルーしてくれる。

 注意しようとする者がいても「じゃあ、彼はどうなの?」と聞かれたら、何も言えなくなってしまうからだ。

 立場の違いを指摘しようとしても、フレッドはアイザックやジェイソン相手でも態度は変わらない。

 ブリジットの行動は、大体フレッドの行動によって受け入れられていた。

 おかげで、彼女をジェイソン達に任せて一息つく事ができた。

 フレッドも役立つ場面があったのだ。


(でも、毎回これって、貴族はよくやるよな……)


 普段のパーティーならノーマンが横で囁いてくれるが、秘書官が同席しないパーティーでは自力で名前を思い出さないといけない。

 名前をど忘れする事もあるだろうし、上手く誤魔化せる方法も考えねばならない。

 その辺りのコツは、家族に詳しく聞いておくしかないだろう。

 アイザックは、空を見上げて溜息を吐く。


「アーイザックくん」


 夜空を見ていたアイザックに、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。

 アイザックが振り向くと、そこにはニコルがいた。


「ネトルホールズ女男爵……。いたんですか」

「うん。お料理を食べてたら挨拶し損ねちゃった。冷蔵庫を使ってチョコミントアイスとか作ってたんだよ。チョコミントを思いつくなんて、王宮の料理人って凄いね」


 貴族としてはどうかと思う理由で挨拶しにこなかったそうだ。

 アイザックはニコルの非常識さに呆れるが、普段の行動の方が非常識だと思い直す。

 しかし、彼女の様子を見る限りでは挨拶をしにきただけではなさそうだ。

 何やら嫌らしい笑みを浮かべている。


「ちょうどよかった。二人っきりで話したかったんだ」

「へー、そうなんですか」


(俺はお断りなんだけど……)


 だが「お断りです」と言って逃げられそうにない。

 クスクスと笑うニコルの話は、聞いておかねばならない嫌な予感があった。


「アイザックくんって恋多き男の子だったんだね。好きな人は年上のお姉さんだけじゃなかったんだ」

「……なんの事でしょうか?」


(なんでリサの事を!? だが、恋多きって何の事だ?)


 ニコルが何の話をしているのかがわからず、アイザックは困惑する。


「人のいない学校の廊下ってさ。結構声が響くんだよね。知ってた?」


 ――ニコルの言葉が意味するもの。


 それを考えると、一瞬時が止まったような気分になった。

 そして、すぐにアイザックはニコルをバルコニーから突き落としたい衝動に駆られた。

 公爵という立場を利用すれば、罪には問われない。

 しかし、ここで短絡的に殺せば、後々困るのは自分だ。

 それに、それ以外にもロクでもない結果になりそうな気がして、アイザックは行動に移す事ができなかった。


「……脅すつもりか?」


 アイザックはニコルが何を要求しようとしているのか。

 真顔で問いかける。

 ニコルは笑うだけだった。


「そんな事しないよ。見て、このドレス。色は地味なんだけどさ、生地は子供の頃に着ていた服とは段違い。これもアイザックくんがチョコレートの技術を買ってくれたおかげなんだよ」


 ニコルがスカートをちょっとつまんで広げてみせる。

 確かに男爵家の娘だけあって色は地味だが、その素材の質感は上級貴族に匹敵するもの。

 かなりの金額になると思われる服だった。


「アイザックくんがチョコレートを買い取るだけじゃなくて、アイデア料としてお金を払ってくれた。そのおかげでアルバイトしなくても、いいドレスが買えたんだもん。感謝してもしきれないよ」

「じゃあ、何を言いたいんだ?」

「……アイザックくんは公爵の方が似合ってるもん。パメラさんへの想いがバレると、さすがに立場がまずいよね? 恩人のアイザックくんに嫌がらせはしたくないから、誰にも話すつもりはないよ」

「そうですか」


 ニコルの言葉は鵜呑みにはできない。

 都合が悪くなれば、いつでもバラす事ができる。

 もちろん、しらばっくれてしまえばそれまでだ。


 ――問題は、アイザックが行動を起こした時。


 パメラを手に入れるための戦い。

 私利私欲の戦いだと知られると、周囲がアイザックについてきてくれなくなる可能性が高くなってしまう。

 致命傷にはならなかったとしても、かなりの痛手にはなる。

 ニコルに知られてしまったのは失態だった。


「本当、アイザックくんって抜けてるところがあるんだね。ダメだよ、大切な話をする時は場所を選ばないと」


 クスクスと笑い続けるニコルにアイザックは殺意を覚える。

 しかし、ニコルにはジェイソン攻略を頑張ってもらわなくてはならない。


 ――パメラを取るか、安全を取るか。


 その選択を迫られていた。


「何か笑うようなおかしい事でも?」

「ううん、これはこっちの事。さっきも言ったように、アイザックくんをどうこうしようっていう考えは本当にないんだよ。ただ、ちょっと嫉妬深い人は困るんだよね。困る? ううん、怖いかな?」

「……ダミアンの事を見逃せ。何もするなと?」

「さすがに話が早いね。私はみんなと仲良くなりたいだけなの。もちろん、その中にアイザックくんも入っているから安心してね」


(できるか!)


 そう言い捨ててしまいそうになるが、今の主導権はニコルにある。

 衝動的な行動は避けるべきだった。

 そのせいで、ニコルに付け込まれる隙を作ってしまったのだから。


「では、こちらからも一つ条件が」

「なにかな?」

「親しくなる早さを、もう少しでもゆっくりにしてください。いきなりでは驚きますしね」


 今のアイザックにできる、せめてもの要求だった。

 一年の一学期からチャールズを攻略された。

 二学期にダミアン、三学期にマイケルと続けて攻略されていけば、二年の二学期にはジェイソンが攻略されてしまうかもしれない。

 さすがにそこまでのハイスピードにはついていけそうになかった。

 ペースダウンさえしてくれれば、いつかは追いつく事ができる。

 アイザックの提案に、ニコルは首をかしげる。


「うーん、そうだねぇ……。私もチャールズくんがいきなり告白してきたのはビックリしちゃったし、仲良くなる早さを落とすのはいいかもね。でも、みんなが私の事を好きになってくるんだから、私だけじゃあどうしようもない時もあるよ」

「ええ、わかっています。特定の男子と接触する頻度を減らしてくれれば、僕からは言う事はありません」

「オッケー、なら決まりね。本当はチャールズくんとも話したいんだけど……」


 ニコルが上目遣いをしながらアイザックをじっと見る。

 アイザックは首を横に振る。


「僕にはどうしようもないですね。アダムズ伯が決めた事です。表立って話しかけるのが無理なら、こっそり会えばいいのでは?」

「それもそうかぁ」


 ニコルは、うんうんとうなずく。

 単純な方法だが、思いつかなかったらしい。

「ダメだ」と言われて、素直に従うところもあるようだ。


「アイザックくんも、ゆっくりお話をする時間を作ってくれると嬉しいな。それじゃあ、ジェイソンくん達にまだ挨拶してないからいってくるね」

「ええ、どうぞ」


 アイザックには、ニコルを引き止める理由が今のところはない。

 そのまま彼女を見送る。


(しまったな。こうなったのも俺のせいだ……)


 ニコルの背中を見ながら、アイザックは自分の行動を反省する。

 こうなったそもそもの原因は、チョコレートのアイデア料を支払った事だ。

 もし、ネトルホールズ男爵家に経済的な余裕がなければ、入学までにステータスマックス状態にはなっていなかっただろう。

 ニコルは勉強やアルバイトに時間を取られて余裕がなかったはずだ。


 ――だが、違った。


 ニコルはジェイソンやチャールズと同じクラスになるなど、入学時点で攻略するのに必要な学力や魅力を身に付けていた。

 しかも、経済的な不安がないのでアルバイトをする必要がない。

 余裕のある環境が攻略スピードを底上げし、パメラに注意されるほどの段階にまで発展した。

 そのせいで、先日の出来事に遭遇してしまったのだ。


 ニコルの生活が苦しければ、今頃はアルバイトに明け暮れていたところだろう。

 パメラも彼女に危機感を持たず、注意もしていなかったはずだ。

「ジェイソンを攻略しやすくするために」と、軽々しくニコルを支援してしまったばっかりに、今の窮地を自分で招いてしまう事になった。


(でも、感謝しているのは俺の方もだぞ。ニコル)


 アイザックは、今回の出来事をプラスにも考えていた。

 ネイサンの一件以来、アイザックは「ニコル達を問答無用で殺すのはどうか?」と思っていた。


 ――ジェイソンやフレッド、チャールズと共に、どこかの田舎に放り込んで不自由のない隠遁生活をさせてやってもいい。


 そういう案もあったのだ。

 アイザックに不満を持つ者が、ジェイソンを担ぎ上げて反乱を起こす可能性もあった。

 だがそれでも「利用するだけでは心苦しいので、殺さずに生かしておいてやってもいい。ゴメンズと一緒に暮らさせてやろう」という温情を与える事も考えていた。

 パメラが嫌がるだろうが、なんとか説得してやろうと思っていたのだ。


 ――だが、そのルートはニコル自身の手で絶たれた。


(「パメラへの想いを知っているぞ」と脅しかけてきたのはまずかったな。ニコルに知られて・・・・・・・・しまったと知った以上・・・・・・・・・・、対策を立てる余裕ができた。ギリギリの段階まで黙っておけばいいものを……。きっと、重大な秘密を知って話したくなったんだろう。……でも、なんで俺に? チャールズとの交際を妨害したのは、俺じゃなくてアダムズ伯爵がやった事なのに?)


 ――ダミアンの攻略をチャールズのように邪魔されたくない。

 ――もっと気分よく好きになってもらいたい。


 そう思ったから、アイザックに釘を刺しにきたのだろう。

 だが、アイザックはチャールズを廃嫡になどするなと言っただけだ。

 ニコルの考えがさっぱりわからなかった。


(まぁいい。ニコル、お前は自分の手で死刑執行書にサインしたんだ。卒業式が終わったら覚悟しろよ)


 アイザックは、ニコルを見逃す優しさを見せる必要をもう感じなかった。

 生かしておけば、いらぬことを吹聴してアイザックの評判を落とすだけの存在になる。

 ジェイソンを攻略し、卒業式を迎えたところで彼女の役割は終わる。

 それから先は、早めに退場してもらおうと考え始めていた。


 ――表舞台からだけではなく、この世界からも。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る