第208話 上手く進み過ぎた故の油断
(よし、いいぞ)
アイザックは、撤退する敵部隊を見ながら満足そうにしていた。
これで圧倒的に有利になる。
元々、ロックウェル王国軍は三万ほどいた。
西と南で半分を倒しても、まだ一万五千ほど残る計算だ。
しかも、戦った相手を全滅させられるわけではない。
撤退して他の部隊と合流する者達もいる。
大雑把に計算しても、まだ二万程度は残っているはずだった。
一方、リード王国軍はウェルロッド侯爵家が一万五千とランカスター伯爵家の五千の計二万。
ファーティル王国軍が三千ほど。
全て合わせても二万三千しかいない。
ソーニクロフト侯爵家が兵を出してくれればいいが、動いてくれるかわからないので援軍を計算できない。
リード&ファーティル王国連合軍 二万三千。
VS
ロックウェル王国軍 二万。
数は互角だが、指揮官の技量と兵の練度に差がある。
アイザックは、数字に現れない
――同数では負けるかもしれない。
そう思ったアイザックは、相手の一部をあえて逃がす事を提案していた。
前後から挟み撃ちにされた時にロックウェル王国軍が取れる選択肢は三つ。
――全滅覚悟で戦う。
――足止めの部隊を残して逃げる。
――なりふり構わず、全力で逃げ出す。
この中で一番取ってほしくなかったのが、全滅覚悟で戦われるという選択だった。
完全に包囲してしまうと、背水の陣を敷いた時のように兵士が死に物狂いで戦う。
それでは勝ったとしても大きな損害を受けてしまう。
アイザックは、必要以上の被害を望まなかった。
だから、包囲する前に一部を逃がす事にした。
数を減らす事によって、安全に包囲するためだ。
三つの選択肢の中で無難な選択は、足止めの部隊を残して逃げる事。
だから、きっとこの選択をしてくれると信じていた。
足止めを残さず逃げれば全員助かりそうだが、実際は酷い事になる。
戦場で一番被害が出るのは撤退時。
無防備に背中を見せて逃げれば一方的に殺されるだけとなってしまう。
戦おうとする意志を見せるからこそ、攻撃側も自分の命を惜しんで攻撃の手が緩む。
足止めをする部隊を残していった方が、結果的に被害は少なくて済む。
(問題は、誰がその
誰だって
降伏を認められるかもわからないので、死ぬ危険性が高い。
だからこそ、優秀な指揮官が残った部隊を統率して撤退を支援するとアイザックは信じていた。
なぜなら、相手が
頭の良い者が、初戦から全滅覚悟の戦いなどするはずがない。
兵力の温存を考えるはずだ。
――だから、包囲しきれない余分な敵兵には去ってもらう。
――そして優秀な指揮官を捕虜とする。
こうする事でソーニクロフト攻防戦において勝利を確定し、今後の戦いを有利に進められるようにする。
相手が「優秀で常識的な人間」だからこそ予想できた事だ。
優秀な人間であればこそ、今後起こり得る王都での戦いなどにも気を配る。
目の前の戦いだけしか目に入らないという事はないはずだ。
敵の半数を逃がした事について後日批判されるかもしれないが、それについては一言言い返せば終わる。
――「元々三万ほどいた相手に、二万ちょっとで勝ったのに何か文句があるのか?」と。
ウェルロッド侯爵家とランカスター伯爵家の連合軍で、フォード元帥の部隊を打ち破った。
それだけでも快挙と言える。
これ以上のものを望むのなら、それは贅沢というものだ。
(これが終わったら、一晩休憩。王都アスキスへ向かうか。それとも、二泊くらいして休むか。難しいところだな)
アイザックは包囲されつつある足止め部隊を見ながら、この戦いのあとにどうするかを考えていた。
「休まずに王都に向かう」という強行軍などしない。
さすがにアイザックも
疲れが極限にまで達すると、つまらないミスを犯す事がある。
飲食店なら命の危険は少ないが、戦場で戦う兵士達には致命的だろう。
ちゃんと休ませてやらねばならない。
(捕虜もどうするかだよなぁ。ソーニクロフトの兵に任せるのがいいんだろうけど、親父は何か考えているんだろうか?)
アイザックは隣で「かかれ、かかれー。一気に包み込めー」と、馬上で槍を振り回して叫んでいるランドルフを見る。
(……指揮に集中させてあげよう)
どうやら、今は目の前の戦局を見るので精一杯のようだ。
「戦闘が終わったら、どうしますか?」と聞くのはやめておいた方がいいだろう。
勝ち戦に興奮しているとはいえ、こんな父の姿を初めて見た。
アイザックは「今はそっとしておこう」と思った。
(まぁ、いいか。ランカスター伯爵が背後に回り込んだ時点で俺の役割は終わった。あとは親父の秘書官とかに任せよう)
アイザックは、このあとに関して考えるのをやめた。
「マット、今日はご苦労だった。もう休んでいいよ」
代わりに、昨夜から頑張ってくれたマットを気遣う。
彼も昨夜の暗殺と、先ほどのトムとの戦いで疲れているはずだ。
戦況が安定している今のうちに休ませておきたかった。
「いえ、アイザック様のおそばにいます」
「父上のそばにいれば大丈夫だって」
「ですが……」
アイザックの気遣いを、マットが渋る。
彼は戦場でアイザックから離れたくはなかった。
「それじゃあ、捕虜を引見する時に呼ぶよ。それまではちょっと休憩って事で、後方に行って休んでおいてよ。一人で休むのが気が引けるというのなら、トミーも一緒に連れていってさ。トミーも昨夜から頑張ってくれているしね」
「いえ、私まで離れるわけにはいきません」
トミーは硬い表情でアイザックの申し入れを断った。
「だから大丈夫だって。こんな真っ昼間に侵入してくる敵なんていない。敵はみんな、あの包囲網の中。危険なのは捕虜を引見する時くらいさ。それまでは安全だよ」
アイザックは「さぁ、行った行った」と、二人を強引に休ませる。
彼らには仕事で必要な時に100%のパフォーマンスを期待したい。
忠誠心があるのはいいが「休む時に休むという事を覚えてもらわなくてはならないな」と、アイザックは考えていた。
しばらくすると、包囲の輪が縮まっていった。
指揮官と兵士の強さに差があっても、さすがに倍以上の数に囲まれるとどうしようもないらしい。
包囲されると戦闘している部隊の交代すらままならない。
自由に移動できる場所を確保できないからだ。
前後から挟み撃ちにしたのは、ロックウェル王国軍が取れる陣形の自由度を狭めるためでもある。
どんな指揮官でも、兵士の移動を制限されればその力を発揮できない。
――状況にあった陣形を指示して味方を強くするのではなく、敵の取れる行動を制限して弱体化させる。
それがアイザックなりに考えた戦い方だった。
当初の予定通りに一か月間の演習を終えたあとだったら、味方の戦力を見定める事もできたかもしれない。
だが、そんな予想外の開戦のせいで、味方の強さを確認できなかった。
そのため、味方の力を引き上げる戦い方ではなく、敵の足を引っ張る戦い方を選んでいた。
アイザックの目論見は成功。
ソーニクロフトを包囲していた部隊に対し、勝利しつつある。
あとは、いつ降伏勧告をするかといったくらいだろう。
「いつ降伏勧告するのだろう?」と考えていると、一人の騎士がランドルフに報告をしに来た。
その後ろには、生首を持った兵士が付いてきている。
頭まで血を被っているので、よほどの激戦をくぐり抜けたのだろうと思われる。
「閣下、手柄首を取ったという兵士がいるので確認していただきたく存じます」
「なにっ、まだ戦闘中だというのにか! 原隊離脱の罪で処罰する!」
先ほどまでの勝ち戦で浮かれていた姿とは違い、ランドルフは険しい表情を見せる。
その姿を見て、アイザックは「これはまずい!」と思い、父を押さえようとする。
「父上、落ち着いてください。いいじゃないですか、手柄を立てたんですから」
「アイザック、それではダメだ。軍には軍規というものがある。それをおろそかにすると大変な事になるんだぞ」
アイザックとランドルフが言い合いをしているから、首を持った兵士は落ち着きがない。
周囲をキョロキョロと見回していた。
アイザックは彼を庇おうとする。
「わかっています。ですが、思い出してください。今回は勝っていますが、ウェルロッド侯爵家の軍は弱いと言われているという事を。たまに勝っている時くらいは大目にみてあげましょうよ」
庇う理由は――
ウェルロッド侯爵家の軍は代々弱い。
――その一点だった。
普段からそれなりに勝っていれば、ランドルフの言うように処罰してもかまわない。
しかし「弱い」という噂が定着するほど強くないのであれば、本当に戦争で勝っていないのだろう。
それなのに、勝った時に浮かれてしまう事を許さないのは厳し過ぎる。
手柄を立てた兵士を委縮させてしまっては、これから先のためにはならない。
「しかしな、アイザック……」
「今後は戦闘中に手柄を立てても報告に来てはいけない。この戦いが終わったら、そのような布告を出しましょう。今回くらいは許してやってもいいじゃないですか」
アイザックも勝ち戦に浮かれている。
だから気が大きくなり、寛容な心を持つようになっていた。
「それで、相手はどんな人だったの?」
アイザックは、首を持っている兵士に声を掛ける。
その首の価値次第で、ランドルフも考えを変えやすくなるかもしれない。
兵士は生首をアイザック達に見やすいよう前に差し出した。
「エドワード・テスラ将軍の首です」
「なんだって!」
アイザックとランドルフの驚きの声が重なる。
予想以上の大物だ。
これでランドルフも処罰するなど言えなくなったはずだ。
「父上。ランカスター伯爵のもとへ伝令を出して、テスラ将軍の顔を知っている人をこちらに送ってもらいましょう」
「噂に聞く通りの風貌だ。きっと本人だろう」
二人は自然と馬を歩かせ、顔をよく見ようとする。
その時、兵士は首を手放して剣を抜き、抜剣と同時に騎士を切り殺したあとアイザックに向かって走り出した。
「あわわわ」
アイザックは身の危険を感じて剣を抜こうとする。
しかし、一緒に差しておいていた元帥杖を掴んでしまう。
(これじゃない!)
慌てて剣を掴み直すが、その時にはすでに目の前まで来ていた。
----------
トムとエドワードは、フェリクスが率いる部隊が戦場を離れていくのを見ていた。
リード王国軍は、彼らを追い掛けようとしない。
残った部隊を完全に包囲しようとしていた。
「これは狙ってやってるのか?」
「どうだろうな。兵士の数ではリード王国の方が多いはずだ。……そうか、しまったな」
エドワードは天を仰ぐ。
「リード王国の援軍が早かった。だから、他の軍も早くに到着すると思っていたが……。ファーティル王国まで来られたのは目の前の部隊だけのようだ。理由はわからんが、ウェルロッド侯爵家とランカスター伯爵家の軍だけが素早く行動できたんだろう。今ここにいる兵がリード王国軍の全てで、初戦での損耗を嫌ったのかもしれん」
「マジかよ。どうすんだよ」
苦々しく話すエドワードを、トムは非難がましい目で見た。
「今更どうにもならん。アイザックが、あのジュードと同じなら『本隊に恐怖を撒き散らすために見逃した』という可能性もありえるな」
「どっちにしても、とんでもねぇ奴だな」
「ああ、そうだ。だから、お前の案に乗ったんだ」
エドワードは自嘲気味な笑みを浮かべる。
まさか、最後の最後でトムの提案を採用する事になるとは思わなかったからだ。
馬鹿げているが、トムならきっとやり遂げてくれるという思いもある。
「
「もう、もたないんだろう? 有効に使ってやるさ」
トムはエドワードの腹の傷を見る。
戦場の経験が少ないフェリクスは気付かなかったようだが、どう見ても致命傷だ。
「捕虜になって治療を受ける」なんて悠長な事を言っている時間はなさそうだった。
「お前達、部隊の指揮を任せる。トムが仕事をやり切るまで粘るだけでいい。トムがアイザックを殺せば敵陣に衝撃が走るはずだ。その反応を見たあとに降伏しろ」
エドワードは「無責任な事を言っている」と思った。
トムが本当にアイザックを殺せば、リード王国軍は降伏を認めてくれない可能性が高い。
最後の一兵まで残らず殺されるかもしれないと思っていた。
だが、この場に残った一万の兵を犠牲にしてでも、アイザックを殺しておかなければならないと思っていた。
アイザックを生かしておけば、アスキスを攻める本隊も危険な事になる。
それはロックウェル王国の国王であるギャレットの命も危うくなるという事。
いかなる犠牲を払ってでも、ここでアイザックを討ち取っておかねばならなかった。
「さぁ、やってくれ。正直なところ、痛くてたまらん」
「ああ、わかった。地獄でアイザックって野郎を可愛がってやろうぜ」
「それはお前に任せる。俺は天国で高みの見物といこう」
「ふざけた事を言いやがって」
トムがエドワードの首を切り落とす。
彼もまさか仲間の首を自分の手で切る事になるとは思いもしなかった。
それだけに、アイザックへの憎悪も募っていった。
(お前の死は無駄にしない。かならず、アイザックを討ち取ってやる)
トムはリード王国軍の兵士用の鎧に着替え始める。
そして、エドワードの血を使い、顔や鎧に血を塗った。
おそらく、アイザックの近くにはマットがいる。
一目で見破られないための変装だった。
「西にウェルロッド侯爵家の将旗が見えます。そちらに向かって攻撃を仕掛けますので、上手く紛れ込んでください」
「トム様……、お願い致します」
「フォード元帥とテスラ将軍の仇を」
「わかった、行ってくる」
エドワードの部下達がトムを見送る。
すでに周囲は完全に包囲されてしまっている。
あとはトムの結果を待って降伏するだけだ。
トムの作戦は、彼が考えたにしては複雑なものだった。
――リード王国軍の兵士に変装し、エドワードの首を持ってアイザックに会いにいく。
――そこで、アイザックに切り掛かって殺す。
自分の命と引き換えに、アイザックの命を奪う。
生きて戻る気のない、覚悟が必要な作戦だ。
しかし、自分の命とアイザックの命を天秤に掛け、アイザックの命の方が重いと判断したので実行する。
エドワードが死にかけていたので思いついた事だった。
ロックウェル王国軍は、一度西側に攻撃を仕掛ける。
混戦が起きている最中に、トムはリード王国軍の隊列に紛れ込んだ。
そのまま本陣のある方へ向かう。
彼の事を怪しむ者もいたが――
「血塗れで首を持っているし、前線で必死で戦ってたんだな」
――としか思わなかった。
怪我をしたのなら後方に下がるのもわかるし、手柄を立てて下がっているのならライバルが減ったという事。
これから自分が手柄を立てるためには、優秀な兵士には後方に行ってもらう方がよかった。
皆がそんな事を考えている中、一人の騎士がトムに近付く。
「おい、その首はなんだ?」
「敵の指揮官らしき者を討ち取りました。これから閣下に見せに行くところです」
「ふーん……」
トムも話そうと思えば、丁寧な話し方くらいはできる。
仲間内だけならともかく、フォード元帥がギャレットと話す時に同席する場合もある。
その時に失礼のないよう、最低限の話くらいはできる。
騎士はトムの事を見る。
だが、その視線はもっぱら生首に集中していた。
「よくやった。私から閣下に報告しておこう」
騎士は生首を渡すように手を伸ばす。
手柄を横取りしようというのだろう。
トムは慌ててエドワードの首を隠した。
「おい」
首を隠された騎士が不機嫌になる。
トムは昔を思い出し、へりくだった笑みを浮かべる。
「私にとって、この手柄首は大切なものです。騎士様に褒美の半分をお渡しする事をお約束するので、勘弁してください」
「……七割だ。嘘を吐くなよ。俺も一緒に行くからな」
「はい、わかりました。お約束します」
トムは案内役を手に入れた。
褒美なんてもらうつもりはないので「全部やる」と言ってもよかったくらいだ。
兵士の手柄を横取りしようとする騎士は、実のところ結構な数がいる。
トムも一兵卒時代に、手柄を奪う騎士を見かけていた。
こういう者がいるからこそ「手柄を立てた」とわかりやすいように生首を持ち歩いていたのだ。
一人で本陣にまで向かっていると怪しまれるが、騎士が同行していれば怪しまれにくい。
欲深い馬鹿は利用される運命なのだ。
わざわざ騎士が案内してくれたので、ウェルロッド侯爵家の将旗が立つところまでスムーズに行く事ができた。
あとは最後の難関を乗り越えなければならない。
――マットに気付かれるかどうかだ。
マットはアイザックにフォード元帥の暗殺を任されるほどの男。
きっとそばにいるに違いない。
一騎打ちをした相手なので、顔を覚えられているかもしれない。
血まみれになっているので一目ではわからないだろうが、じっくり見られると危ない。
「閣下、手柄首を取ったという兵士がいるので確認していただきたく存じます」
騎乗した者達のところに着くと、騎士が報告する。
すると、司令官らしき者が怒り出した。
その時、隣にいた者が彼を宥める。
そのやりとりで、トムは一目で誰がアイザックなのかを見破った。
――成人前の子供。
――時代遅れながらも、由緒正しそうな鎧。
――そして、フォード元帥の持っていた元帥杖をこれ見よがしに差している。
この若者がアイザックだと、トムは確信を持った。
(親っさん、ありがとうな。俺にもわかりやすい)
アイザックが手柄を誇示するように元帥杖を差してくれている。
それはまるで、フォード元帥が「こいつを狙え」と標的として教えてくれているようにトムは感じていた。
(マットとかいう奴もいない。これはやれって言われているようなもんだろう)
周囲を見回してもマットがいない。
何もかもが自分に味方しているように思える。
「それで、相手はどんな人だったの?」
トムはアイザックに質問された。
声を聞く限りでは、普通の子供のようだ。
「エドワード・テスラ将軍の首です」
「なんだって!」
アイザック達の驚きの声が重なる。
エドワードの首だ。
これできっと食いついてくれるはずだった
二人は何かを話したあと、馬を歩かせてゆっくりと近付いてくる。
首を近くで見ようとしているのだろう。
(今だ)
――馬の方向を変えて逃げるまでに近付ける。
そう思った時、トムは首を手放して抜剣と同時に騎士を切り殺したあとアイザックに向かって走り出した。
「危ない、アイザック!」
父親のランドルフらしき者が槍を突く。
その槍は、一直線に進んでいたトムの胸を貫いた。
しかし、心臓が血流を止めて意識を失わせるまでのわずかな間。
剣を振りぬくだけの時間があればトムには十分だった。
(手ごたえあり)
槍に刺されたせいで、最後まで確認できなかった。
それでも、致命傷を負わせた自信がある。
トムはその場に倒れ込んだ。
(親っさん、エド、レオ、……シャーリーン。俺はやったぞ。フェリクス、邪魔者は排除した。あとは任せたぞ)
大仕事をやり遂げたトムの死に顔は、とても安らかなものだった。
----------
(痛い……)
アイザックは空を見上げながら、体中に感じる激しい痛みに耐えていた。
(落馬したのか。くそっ、声が出ない。これが脊椎損傷ってやつか)
激しい痛みで叫び声を上げたいところだが、何も声に出す事ができない。
首も動かす事ができず、ただ死体のように寝転がっているだけしかできなかった。
(油断した。まさか兵士に化けてくるなんて。俺の馬鹿!)
ここは敵軍の兵士に変装する事を禁止するハーグ陸戦条約などない世界である。
そんな基本的な事を忘れ、戦勝に浮かれていた自分を責めた。
「アイザック!」
父の叫ぶ声が聞こえる。
馬から降りたのかアイザックの傍らに座り込み、体を抱きかかえる。
(えっ!)
抱き起こされたアイザックが最初に見たのは、馬上に残された誰かの下半身だ。
(まさか……)
アイザックは目を動かして、自分の下半身を見る。
――そこには、本来あるはずの下半身がなかった。
(えぇ、なんで。なんでだよ!)
剣を抜こうとしていた時に一緒に切られたのか、右手首まで失われていた。
医学には詳しくなくても「もうダメだ」という事がアイザックにも理解できた。
(嫌だ、こんなの嫌だ。誰か――)
「誰か、助けてくれ!」
話せないアイザックの代わりに、ランドルフが叫ぶ。
その言葉は、見事なまでにアイザックの言葉を代弁していた。
――ランドルフ、ルシア、ケンドラ、モーガン、マーガレット、ティファニー、リサ、アデラ、クロード、ブリジット。
――そして、パメラ。
家族とパメラの記憶が走馬灯のように、アイザックの脳裏に浮かび上がる。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ。俺はまだ何もしていない。まだ何者にもなれていないんだ。こんなところで死にたくない!)
前世の死とは違い、今回は出血と共に死が徐々に近づいてきている事を実感させられている。
死というものに対して、アイザックは初めて恐怖を感じた。
しかし、体を動かせないので、助かるために何もできる事はない。
今アイザックにできる事は、己の油断と慢心を悔いて涙を流す事だけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます