第132話 蒸留器
翌日、アイザックはケンドラに自作の絵本を読み聞かせていた。
タイトルは「三匹のオークとワーウルフ」という、明らかにとある作品からパク――インスパイアを受けて、リスペクトしてオマージュした内容だった。
ケンドラはまだ言葉を話せないが、赤ちゃんでも読み聞かせは良い教育になるとどこかで聞いた覚えがある。
だから、アイザックはオリジナル(?)の話を妹に読み聞かせていた。
話を聞いているうちにケンドラは眠ってしまった。
そこで、アイザックは乳母のマーサに話しかけた。
「そういえば、パトリックを会わせるのはまだ早いかな?」
「パトリック? あぁ、あの犬ですか。大人しい犬なのかもしれませんが、ケンドラ様はまだ一歳にもならないので近づけない方が良いでしょう。もし、噛まれたりしたら命に係わりますので」
マーサは、ルシアの兄嫁であるカレンの従姉妹だ。
カレンより年上で、すでに子供は成人している。
夫はウィンザー侯爵家傘下の貴族だが、王都で働いている。
ケンドラが馬車での移動が可能になるまでルシア共々王都に滞在するので、彼女が乳母を頼まれていた。
「確かにそうだね。今年はやめておくよ」
アイザックはマーサの意見を大人しく受け入れた。
前世の事故で、おそらく昌美は死んだだろう。
今世でも自分のせいで妹を殺すような真似はしたくない。
(来年以降の楽しみにしておこう)
だが、アイザックはケンドラにパトリックを見せたかったし、パトリックにもケンドラを見せてやりたいと思っていた。
今はまだ時期じゃないというだけで、いつかは対面させるつもりだった。
「アイザック様はケンドラ様の事がお好きなのですね」
「うん。今度は兄妹揃って年老いて死ぬまで仲良くするんだ。時には喧嘩したりもするだろうけどね」
(ケンドラを昌美みたいに、若くして死なせるような事はしたくない)
アイザックはベビーベッドで眠るケンドラを見ながら「今度は妹を守ってみせる」と決意する。
(そう、兄のネイサン様を殺さないといけなかった事を悔いているのね……)
しかし、その決意をマーサは別の意味で受け取ってしまう。
アイザックは前世の事を考えての発言だったが、マーサは前世の事など知らない。
ネイサンとの間にあった事を、アイザックが後悔しているのだと思ってしまっていた。
「ケンドラの事、よろしくね」
「お任せください」
眠っている妹を起こそうとは思わない。
アイザックはケンドラが目を覚まさないよう、静かに部屋を出ていった。
その時、ちょうど部屋の前にいた祖父と出くわした。
「お爺様、ケンドラは今寝ていますよ」
「それは残念だな。せっかくだし、寝顔だけでも見ておくか」
――ケンドラの寝顔を見に行く。
そう言ったのに、モーガンは部屋に入ろうとしない。
アイザックに何か言いたげな顔をして立っている。
「なんでしょう?」
廊下で見つめ合ったままも気まずいのでアイザックが質問する。
少し躊躇ったあと、モーガンが口を開く。
「アイザック、お前は賢い子だ。そしてそれは早熟な子だとも言える。だから、酒に興味を持ち始めるのも仕方がないのだと思う。私も子供の頃は興味があった。だから――」
「ちょ、ちょっと待ってください。お酒を飲むために買ってくるように命じたわけではありません。ドワーフのために新しいお酒を作ろうとしているだけです」
モーガンが誤解をしているので、アイザックは慌てて否定する。
だが、それはそれでモーガンが顔をしかめる。
「酒造りというが、ワインを混ぜたりしても新しい酒はできんぞ。酒は素材から作らないといけないんだぞ」
「それはわかっています。だからこそ、常識を覆す作り方をするんです」
「常識を覆す……か」
アイザックは常識外れの行動をする。
まさか酒造りまで常識とは違うやり方をするとは思いもしなかった。
「わかった。酒を飲まなければいい。好きにさせる代わりに、勉強も頑張るんだぞ」
――止めるよりも自由にさせた方がいい。
そう思ったモーガンは、貴族としての教育を頑張って受けるように条件を付けた。
せっかくアイザックが早めに王都に来たのだ。
他の貴族が王都に来て忙しくなる前に、アイザックに色々と教えておこうとモーガンは考えていた。
「はい、もちろんです」
アイザックにも異論はない。
普通の子供と違って勉強を嫌がるつもりもない。
むしろ「教えてくれてありがとう」と感謝して、しっかり学ぶつもりだった。
(まぁ、今更な気もするけどさ)
そう思うが「貴族の考え方」を詳しく理解できるのが嬉しかった。
貴族の一般的な行動パターンがわかれば、穏便な解決ができる。
今更だとは思っても、学んだ事はこれからの人生で役に立つ。
決して無駄にはならない。
アイザックにとって、勉強をする事は罰ではなかった。
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三週間ほど経った頃、蒸留器が到着した。
ワインや炭も一緒だ。
ついでにワインを持ってきたケネスと、この件には関係のないジェイコブまでいた。
「土台も一緒に用意してくれていたんだ」
「温めるとおっしゃっていたので、火をくべるための場所も必要だと思いましたので」
「そういう気遣いは助かるよ」
蒸留器の下には、フラスコに使う三脚の架台を大きくしたような物が用意されていた。
アイザックの設計図の不備を補助してくれたようだ。
ラルフか作った職人の誰かが考えたのかまではわからないが、細やかな気遣いが嬉しい。
「それじゃあ、庭の端っこに運んでよ」
「かしこまりました」
ラルフが部下に命じて、蒸留器を載せた荷車を指定された場所まで運ばせる。
アイザックが指定した場所は庭の隅。
騎士達が訓練する場所の近くだった。
これは庭のど真ん中でやって、木などに火が燃え移ったりしたら大変だからだ。
だが、場所が場所だけに、休憩中の騎士達が見学に集まり始めた。
「これを使って何するの?」
念の為に付いてきたお目付け役のマーガレットがアイザックに質問する。
興味本位で見学に来たブリジットも、同じ事を聞きたそうだった。
「新しいお酒を作るんです」
アイザックは近くにいるメイドから二つのコップを受け取る。
中にはワインと水が入っている。
「お水は何もしなくても、コップに入れて何日もおいておけば勝手に減っていきますよね?」
「そうね」
「これはきっと見えない湯気になってどこかに行ってしまうからだと思います」
「そうなのかもしれないわね」
マーガレットは不思議そうにしているが、ここまでの話は理解できた。
他の者達もアイザックの言葉を真剣に聞いている。
「お酒は子供が匂いで酔うから近づくなと言われています。これはお酒が見えない湯気になりやすいからだと思いました。もし、お酒が水よりも早く空気中に漂うというのなら、温めて湯気にしてお酒と水の部分を分けようというのが今回の試みです」
「そう……」
返事はするが、マーガレットはまったく理解できなかった。
アルコールや水といった物が混ざってできているなど考えた事もないし、気体という概念も知らない。
――お酒はお酒。
それ以上でも以下でもなかった。
他の者達も同様の反応を示している。
アイザックが話していなければ「馬鹿げた事を言っている」と、解散していただろう。
「まぁ、とりあえずやってみよう。そうすればわかるからさ」
実際に見せればわかってもらえると思い、アイザックは先に進める。
ラルフが連れてきた者達が地面に設置し、用意し始める。
冷やす水槽部分は、大量の水が必要なのでブリジットに頼んで魔法で水を注いでもらった。
本体にワインを注ぎ、鉄製の火鉢のような入れ物に入った炭に火を付ける。
あとは温まるのを待つだけだ。
「それじゃあ、ブリジットさんもこれを顔に巻いて」
アイザックはタオルを口を鼻を塞ぐように巻く。
ガスマスクほど効果はないが、ないよりマシだ。
「何のためによ?」
「湯気になったお酒を吸い込まないようにするためだよ。酔っぱらって怒られるのは嫌でしょ?」
「そりゃぁねぇ……」
ブリジットは「変な事をするな」と思ったが、とりあえずは従った。
口と鼻を覆うようにしてタオルを巻く。
それから、ワインが温まるまで地味な時間が続く。
「あっ」
チョロチョロと出てきた液体が、受け皿にしている容器の中に垂れ落ちる。
「やった!」
まずは第一段階が成功した事を喜ぶ。
そして、時間が経つにつれて湯気が噴きだし始めた。
「お酒の匂いね」
マーガレットが周囲に漂う匂いを嗅ぎ、そう呟いた。
「あそこに垂れ落ちているのがお酒の素みたいなもので……。あれ? あっ、そうか!」
最初の頃に比べて垂れ落ちるアルコールの量が減っている。
その理由は一目瞭然。
吹き上がる煙の量が多い。
それは気化したアルコールの冷却が間に合っていない事を示しているという事に、アイザックは気付いた。
「ブリジットさん、水槽に氷を入れて!」
「えっ、氷? いいけど、あとで説明してね」
ブリジットはアイザックに言われるがまま、魔法で作り出した氷を水槽に入れる。
そのお陰か、少しは液体の量が増えた。
しかし、まだまだ気体になってしまっている分量の方が多く思える。
「あちゃー、失敗か……。水槽を大きくして、冷やす距離を稼がないとダメかな」
「あのぉ、いいっすか?」
ラルフが連れてきた者の一人がアイザックに話しかける。
手に切り傷やヤケドのあとがかなりあるので、もしかしたら作った職人かもしれない。
「なに?」
誰も彼の口調を咎めない。
教育を受けられない者にまで礼儀作法を求めるのは、求める方が常識知らずと馬鹿にされるからだ。
「冷やすんなら水槽を縦長にして、パイプ部分を上から下にこうグルグルっとするんじゃダメっすかね? そうすりゃあの水も下に溜まると思うんすけど」
男は地面に指で螺旋状の絵を描く。
「……そうか! パイプを真っ直ぐ作るんじゃなくて、そうすれば良かったんだ!」
螺旋状のパイプにする事で、気化したアルコールが水中を長く移動する。
自然と冷やせる時間も長くなるだろう。
気体となって空気中にどこかへ行ってしまう量が減らせる。
蒸留の効率が今よりも飛躍的に向上するだろうと、素人のアイザックでも理解できた。
(授業で成功したのは少量だったからか。そうだよな、フラスコでこんなにたくさん作ったりしなかった。サイズを大きくしたからって、そのまま大丈夫なわけじゃないんだ)
一度に多くの酒を蒸留しようというのなら、増大した熱量を奪う事ができる冷却装置を用意しなくてはならない。
大きさが倍なら、冷却部分も倍の大きさでいいというわけではないのだ。
この男がいなければ、その事に気付くまで何度か失敗を繰り返していただろう。
「スコット、問題点がわかっていたんだったら教えてくれても良かったんじゃないか?」
「会長、そう言われても……。何に使うのかわからなかったんだから、しょうがないじゃないっすか」
「ちなみに、この方法に思いついたのって何か理由があるんですか?」
アイザックはスコットと呼ばれた男に話しかける。
ただのひらめきであれば、それはそれでいい。
今後、何かを作る時に彼に相談するようになるだけだ。
「前にも学校の教師に似たような物を頼まれた事があるんすよ。あん時は泥水を湯気にしてから冷やして、飲める水になるか確かめるためって言ってましたぜ」
「へぇ、飲める水にねぇ」
スコットは「不思議な事をするもんだ」というような態度を取る。
アイザックは笑顔のままだが、心中は穏やかではなかった。
(そいつって多分、学院の変わり者教師だよな。名前忘れたけど。俺も同類に見られるのか……)
おそらく彼は、剣と魔法の世界で科学を探究するというサブ攻略キャラ。
プレイヤーからは「教師と生徒という立場があるのに、ニコルに告白されたらあっさり付き合い始めるヤベー奴」という評価を受けていた気がする。
そんなキャラと同じような事をしていると気付き、アイザックは精神的ダメージを受ける。
「アイザック様、酒の匂いが薄くなった気がします」
いつの間にか近づいていた騎士の一人が、アイザックに変化を教える。
彼はかつてアイザックに剣を教えた事もあるアーヴィンだ。
顔が紅潮しており、気化したアルコールで酔っているように見えた。
「それじゃあ、一回止めよう」
アイザックが合図を出すと、火かき棒のような物で炭の入った箱を蒸留器の下から移動させる。
別の者が受け皿にしていた容器をアイザックの前に持ってくる。
「コップに移してみて」
使用人が蒸留されたアルコールをコップに移す。
その量は思ったよりも少なかった。
「ワイン十本分使って、コップ一杯だけか……」
(これってアルコール何%なんだろう……)
授業で習った限りでは、いきなり100%の物ができるわけではない。
蒸留した物をさらに蒸留して純度を高めていったはずだ。
アルコール濃度を調べる方法がないので、実際にどの程度アルコールが強いのか飲むしかない。
だが、アイザックは子供なので飲めない。
「えーっと、とりあえずは蒸留器に残っている方のワインを誰か飲んでくれない? 多分お酒が抜けているはずなんだけど」
「私にお任せを!」
ここでケネスが名乗り出た。
食料品を扱う商会の長として、真っ先に確かめたいのだろう。
「元々ワインだから毒ではないけど、念の為に飲み過ぎないようにね。あと、まだ熱いから気を付けて」
「わかりました」
ケネスはコップに入れられた、残っていたワインを息でフーフーと冷ましてから一口飲んだ。
「マズッ……。元々が安酒という事を考えても、ここまでまずいホットワインは初めて飲みました。できそこないのぶどうジュースともいえない何かです。ですが、確かに酒は抜けているようですね」
「じゃあ、蒸留の終わったやつを飲んでみて。ちょっとだけね」
「ええ、お任せを。おおっ、これは……」
一口飲み、何かを感じたケネスはもう一口飲む。
「酒精が強い! 明らかにワインよりも強くなっています!」
「おぉ!」
ケネスの言葉に、周囲から感嘆の声が上がる。
「それじゃあ、美味しくなっているんだね!」
「いえ、それは全然です」
「えっ……」
あまりにもケネスがハッキリと答えるので、アイザックは一瞬フリーズする。
「飲んだ時のインパクトはありますが、それだけです。ワインとしての味わいなどがかなり失われていますね」
「そんな……」
「ワイン樽などに詰めて、数年寝かせれば立派な商品となるとは思いますよ」
ケネスは食料品を扱う商会の長として、正直な感想を言ってくれた。
商品としての価値があるとも言ってくれた。
だが、それではダメなのだ。
「ドワーフのために使うから、春に必要なんだけど……」
「そうでしたね……。あっ、そうです。ワインを一本使いますよ」
何か思いついたのか未使用のワインを一本取り出し、新しいコップに中身を注ぐ。
そして、蒸留酒を追加した。
「おっ、これならイケる! ワインだけどワインじゃない、新しい味わいだ!」
二口、三口とケネスは飲み続ける。
彼の手からラルフがコップを奪い取った。
「一人で飲むなよ。俺にも飲ませろ」
「こちらにも回してください」
ジェイコブも興味津々のようだ。
もちろん、アイザックも飲んでみたいが、ダメだと言われるのがわかりきっているので言わなかった。
代わりに、混ぜて美味しくなった理由を考える。
(そうか、カクテルみたいなもんか。あれも酒と酒を混ぜたりするし。ワインに蒸留酒を加えた事でカクテルみたいになっているんだ。ワインで味わいを補い、アルコール度数が高くなっているから新鮮な飲み口になっているんだろう)
実際に飲めないので、アイザックはそのように推測する。
こういう時、飲んで確かめられない子供の体が恨めしい。
「私にも用意なさい」
マーガレットも興味を持ったようだ。
だが、侯爵夫人だけあってさすがに回し飲みをするつもりはないらしい。
新しいコップに注がせる。
「……今まで飲んだ中で最低のワインね。でも、確かに不思議な感じがするわ」
平民向けの安酒を飲み、顔をしかめる。
しかし、新しい感覚だという事だけは認めた。
「あなた達、もう一度作りなさい。今晩にでも主人に試飲してもらいます」
「かしこまりました!」
酒を回し飲みしていたラルフ達が姿勢を正して答える。
「そうだ。もう一度作るといえば、新しい蒸留器でのお酒作りはグレイ商会とワイト商会で試してくれる?」
「もちろん構いませんが、屋敷で作らなくてもいいのですか?」
「うん。タオルを顔に巻いていても、なんだか体が火照ってきてるような感じがするんだ。やっぱりこれじゃあお酒の湯気を防げないんだと思う。それに、屋敷で一杯作っていたらケンドラの部屋にまでお酒の匂いが行くかもしれないしね。住宅地以外で場所を探してほしいんだ。あと、お酒を飲み過ぎて体を壊す人もいるから、お酒が濃くなった蒸留酒を試飲で飲み過ぎないようにね」
「かしこまりました」
本格的にアルコールを蒸留させ始めるのなら、住宅地でやるのはよろしくない。
広いとはいえ、屋敷の庭でやるなど無理だろう。
とりあえず、上手く蒸留できるようにするための工夫は専門家達に任せて、アイザックは結果を待つ事にした。
「ねぇ、アイザック」
「なんでしょう? お婆様」
チビリチビリとコップに入った酒を飲みつつも、マーガレットは真剣な表情をしている。
「これは凄い事よ。お酒の中からお酒を取り出すなんて誰も考えた事がないでしょう。陛下にもご報告しなくちゃいけないわよ」
「はい、ある程度目途が着いたら報告するつもりです」
言われずとも、ドワーフ用に用意したものなので報告はするつもりだった。
だが「成分」という概念はなんとなくあるものの、実証された事のない世界。
そんな世界で、ワインからアルコールを抽出するという方法で成分という概念を実証した。
それが学問の世界にどのような影響を与えるかなど、目の前の事に必死なアイザックは考えた事すらなかった。
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