3曲目『Spring Rain』

 相変わらず渇きは続く。

 まるで砂漠を歩いている中、明らかに見えているオアシスに辿り着けないかのように。

それとも既に着いているのに、どこに水があることすら感じられなくなってしまっているのだろうか?

 恋は盲目とは言うが、まさかここまで灯台下暗しになっているとは我ながら思っていなかった。


 昨晩は以前から聴こうとしていた彼女の配信しているウェブラジオ…月700円は5000円に満たないようななけなしの小遣いからするとをかなり痛いが、背に腹は代えられないと思いながらそれを費やし、有料会員に加入して聞いた。その声は甘ったるく、だからとして甲高い感じでもなく、形容するなら「かわいい」…その4文字以上の表現が見当たらなかった。


 もしかしたら最近あった出来事の一つとして僕に出会ったことの一つでも言及しているかもしれない、そんな期待と、僕のことなんかに気を止めてほしくない、それはいくら何でも解釈違いだ、という二つの相反する衝動が僕の心の中に共存しており、

 しかし、その大半が新アルバム「古ーしょん」の解説に費やされているラジオ…普段であるならばこの部分についても知識として喉から手が出るほど欲しい小ネタが満載だ…たとえばリトっちが使用している単語帳の種類なんかとか…の内容の一節に、聞き捨てならない部分があった。


「あ、そうそう、最近は「春雨」がマイブームで…」


えっ…流石に自分でも気づく。それはでんぷんが原料の食品であると同時に、僕の下の名前でもある言葉だからだ。

(「春雨」…そんな名前に僕がなったのはこんな理由だ…両親ともに本当はかっこよさそうな名前として「時雨」を付けようとしていたのだが、当日に役所に出願父親が名前を度忘れして間違って思い出した「春雨」のまま名前と読みを書いてしまい、正式に僕の名前になった。これが原因で父親の家庭内での立場は未だにないらしい。因みに読みだけはべつに「しぐれ」としても法律上の問題はないらしいが、それではあまりにも締まらないという理由で結局「はるさめ」で通されることになったらしい。)


そして、春雨マイブーム発言が導き出す結論は


”この声の主、『雛市リト』は、自分、三田春雨のことをあの日、出会う前から知っている”。

 

 つまり普段顔を合わせている、なんとも思っていなかったような人間に対して僕は以前から好意と共感、そして少しの性欲を覚え、缶コーヒーを舐められ、耳元で囁かれ、そしてそれに対し性的な恍惚を覚えてしまった自分がいた事になる。なんか、途轍もないじらしプレイの最中にいるような気分だ。水流に飲み込まれて、その中に溺れれば渇きは絶対に満たせるだろうに、それでは息が詰まってしまうような、あるいは飲んでしまったら何か体に得体のしれないことでも起きてしまうのではないかというような。


 いや、だがこれも単なる勘違い、単に食べ物としての春雨好き、あるいは春雨製造業者のファンからの手紙なんかがあって、それに対するサービスの一環でしかないのかもしれない。あるいは春雨は訳してしまえば「Spring Rain」…電気グルーヴが「Shangri-la」でサンプリングしたBebu Silvettiの名曲の話をしているのかもしれない…あるいはそれに感銘を受けた詩を今後作る予定ということを伝えようとしているのかもしれない…それはそれでなんでそんな略し方になっているのかが謎過ぎるが…そもそも雛市リトは、そこまで大きな規模でないにしろパブリックに向けて商売をやっている人であって、一ファンにここまで媚びることがあり得るとは思えない…だけども僕が駅で雛市リトに突然”あんな事”をされたのは事実であるわけで…

「ああああああ分からないよぉぉぉぉ」と夜中自室で叫んでいたら母親にその後「夜中に叫ぶお前の神経の方が分からない」と説教された。それはそうです。反省します。


 次の日の学校。今日も「誰が雛市リトなのか」を一秒でも多く考えたいと思い、朝7時40分には学校に着いていた。本当は母親と顔を合わせるのが凄く気まずいということが大きかったが。弁当は渡してくれたけど。


 とはいえ、学校にいるだけで雛市リトらしき人物の見つかる気配があったりするのかというと、そんなことは一向にない。明らかに、明らかに全ての状況証拠は同じ息を吸ったり吐いたりしている、そんな密接な関係だという事を示しているというのに、だ。何故、と思うことはあるけれども、考えてみれば元々ずっと同じだったのに気づいてなかったわけであり、今更一部分だけ事実を知っても簡単に真実へたどり着けるかと言われると、そうは問屋が卸さないというのも当然の話ではあった。


「そもそも、インターネット上で身バレとか起きてんのかな」


 あまりそういうウェブサイトを見るのは(時間も精神も浪費するので)趣味ではないのだが、雛市リトに関するインターネット掲示板を開いてみた。しかしガチ恋勢の謎の妄想ノートだのアンチと信者の間での歌のうまさがどうのだの誰のパクリだのと言った不毛な論争だけが続いており、身バレに繋がりそうなものについてはまだ手が伸びていないような状況であった。

 思えばアイドルやミュージシャンについてそういうのを普通リークするのこそ、身内(と勝手に思っている人間)が自分を差し置いて活躍することを快く思っていない同級生なわけで、そう考えると同級生を先手打って籠絡してしまおうという彼女の考え(?)についてはインターネットを生き抜く上で得た生存戦略なのかもしれない。だとすると自分がこうやって彼女の身元を特定しようとすること自体、既に彼女の術中にハマっている可能性が高い。


ああ、まな板の上の恋とはこういう事を言うのだろうか………


 でも、彼女のことをもっと知りたいという気持ちは、明らかに心の中に溜めていても精神状況としてよろしいものではない。何しろ、もうすぐ受験だし。

「…気が進まないけど、考えてみるか」彼女を探す方法について足りない四角いアタマを働かせようとする。


 一つ、方法として考えられるのは、雛市リトの声と同じ声の人間を同期から探し当てることだ。

 しかし人間の声帯というのは思ったより幅広いもので、例えば親の、特にPTAで来る時なんかに教員と話してる時のそれ(例えば「よろしくお願いしま~す」とか)は予想の二段階くらい上の音階で来る。つまり雛市リトとして世に出ている間、常に学校で話しているような喋り方をしていないとするのなら、この方法は成立しない。

 だとすれば予測できる音域について全てコンピュータ側で予想を示せるようにすれば…いやだが録音をどうする。教室各所に盗聴器を仕込んでバレないように録音するか?しかし誰が誰だかを特定できなければ意味がないのだとすると、なるべくデータの参照がしやすい方が望ましい。

「総合の発表会…」

 そこであれば恐らくこの突飛な「同級生録音計画」も実行可能である。各研究内容ごとに教室で別れて発表を行う。発表時間中は基本的に発表者以外の声は混ざることがなく、そして順番も明白、更に絶対「ご清聴ありがとうございました」という同じ言葉を言う(はず)。全員の集中力が発表に向いている以上、教室に見慣れないものがあるとしてもそこまで気が向くやつはほとんどいないはず、そしてそもそも発表海中に余計なものが気になりだすような奴は最初から真面目ではないので、むしろ協力者として助力を仰ぎやすい…と思う。

 まあ、こんな非倫理的な事をやりたいとは思わないのが実情だ。特にこの学校では年一で盗撮事件が発生していることは有名であり、内心「今年度は誰だ」と警戒しているという話は聞く。第一、こんな方法で特定を進めたとしても結論として出た生徒が雛市リトと違ったらどうする。あくまで推論に過ぎず、盗聴器はそもそも「違います」と言われた時に示せる証拠ではない。明らかに分析に準備や手間がかかることも含めて遺憾ながら没案だ…我ながら名案だと思わない部分もなくはなかったので、名残惜しさがあるが…


 しかし相手側がもし、仮に、万にひとつの可能性としてこちら側に最初から好意を向けている女子である可能性があったならば…

だが自分のこの挙動不審加減、人が寄ってくる筈もないのではと推論される。


「お、三田、相変わらず音楽聞いてるんだな」午前8時ちょうど、そうやって机から右前より話しかけてきたのは、僕の数少ない友人である楠蓮人(くすのきれんと)。いわゆるスポーツ刈りだが本人は別に何のスポーツを部活でやっている訳でもなく中学時代は眼鏡だったが、高校に上がるにあたってコンタクトになったことを、4月から2か月くらい誰一人言ってくれなかったことを未だに引きずっていると、修学旅行の帰りに聞いた。


「何で分かった」純粋に疑問だった。


「いや、割と結構音漏れしてるよ、そのイヤホン。で、何聞いてたん?」そういえばこの前の出会いのきっかけもイヤホンの音漏れだったような気がする。しかし周りに迷惑をかけながら自分のときめきを優先しようとするのは道徳的にヨロシクないのでは、と自分の心でも考えるところだ。


「ごめん、買い替える。ああ、雛市リト」


「雛市リトって、お前が推してたアーティストだっけ、確か」楠には何回かリトっちの曲をお勧めしてはいるのだが、中々ファンになってくれそうではない。


「うん、前にも紹介した気がする」イヤホンを外し、音楽を止めてから自分は楠の顔を見て言う。


「いや、お勧めされた曲は確かに好みだったよ?ただアーティスト全体を肯定できるほど自分はああいうタイプは好きではないというか」楠の曲に対する指向は極端…もとい曲単位らしく、そのため特に推しのアーティストとかを特に作らず、ライブなんかはフェスとかそう言うのに結構行くらしい。


「まあ確かに…人選びそうだよね」僕はこの前の『恋する、古典的な』の扇情的なMVを思い出す。確かにあれは万人受けできるものじゃないというか、うん。


「だから曲単位で教えてくれるんなら今後とも聞くよ」このタイミングで自分の好きな曲は何か、とかを押し付けないそういう優しさがあるのが楠という男である、と思う。


「おはよう。雛市リトの話してた?お前が恋愛系の曲好きだとはね」と話に割り込んできたのは川上俊(かわかみしゅん)。「川上さん」のあだ名(と言っていいのだろうか)でよくみんなの相談役になっている姿を見かける、恰幅の良い信頼できる人、といった感じで、僕に対しても優しく接してくれる男友達のうちの一人だ。


「どういうこと」僕だって普通の男子高校生であるわけだし、なぜ恋愛曲を聞いていることにそこまで物珍しい顔をされなければいけないのだろうか。


「てっきり三田君は色恋沙汰に興味が全くないもんかと思っておりましてね」川上さんがそう言う。僕ってそう見られてたのか。割と惚れっぽいので、顔に出るとセクハラになるかと思って人と距離を取るようにしてた節はあったけど。


「何しろお前は俺たちと違ってモテるのにそれを意ともしてなさそうな人間だからさ」楠が言うのだが… 



 えっ、そっち?僕ってモテるの?

 というか僕に対して何らかの好意なんて寄せれていた記憶は特になかったため、これは二人に結託して嵌められているのではないかという疑念だけが高まっていく。他の人に自分がモテるかどうかなんてことを聞くのも気持ち悪さしかないし…



 男子高校生が欲しくても手に入らないものの一つ、他人の色恋沙汰や人間関係の話。だいたい知る段階では既に孫引きになってしまっていて信憑性にかける上、それ以上他人に話すことも躊躇われるものになっているのはよくあることだ。しかし自分の色恋沙汰についてもそんなことになってたなんて思わなかった。


「俺もよく相談受けるんだよ、お前のことが好きなんだけどどうすればいいかわからないって」困ったような顔で川上さんが言う。


「それが事実ならさ、その女の子にも言っといてよ、そちらから好意を寄せていることを言ってもらわなきゃ分からないってさあ」自分でそんな甘酸っぱい青春の一端について体験した記憶すらないので、全て嘘であっても困るわけで、こちらとしては信用に足るような証拠が欲しいというのが正直な気持ちだ。


「あーあ…」そう返答すると川上さんから何故かめちゃくちゃガッカリされた表情をされるのだが、理由を言わない。そういうところなんだが、僕が知りたいのは。


「別にその発言でお前への見方や評価が変わるわけではないけれども、それでももう少し手心が欲しかったな」楠まで川上さんに同調する。


「だから何がさ。相手の方からはアピールしているから僕に気づいてほしいって言うのは分からなくないけど、この流れ自体がお前らが嘘言ってるんだとしたらその僕のこと好きだって子からすれば突然意中でもない奴にそいつを自分が好きって思い込んでる状態でセクハラされることになる訳でしょ?それは僕にとってもその子にとっても不幸だよ」と自分としてはもっともらしい論で反撃してみたのだが…


「こりゃあ…ダメだな」

「ダメだ」

「やれやれ」みたいな身振り手振りをしながら呆れたような顔で川上さんと楠に見つめられる。その後も色々反論はしてみたが、彼らが納得する様子を見せることは遂に見ることがないまま、ホームルームの時間になってしまった。


 心の砂漠化が激しい。水はあるらしいので環境問題よりもまずこちらが国際会議で議題に上がるべきかと思う。



湿気委員会の放課後は長い。


 人間の成長環境として湿度が重要であるという、研究論文で時折触れられつつも科学的な実証がされていない仮説を実証するために、保健委員会から分離する形で特例的に設立された委員会の一つである。スローガンは「いつも心にオアシスを」。


 更に現状、追加プランとして考案されつつも知覚過敏や機器の性能などへの配慮から、授業時間中に許可が降りていない、水以外の液体をあるいは香料を混ぜ合わせた加湿についての実験が行えるのは放課後だけなので、幹部連中はよく部活をサボって自主休業してこちらでの実験にいそしむ。組み合わせによっては色がいかがわしい感じになってよく実験に使っている教室で着替える男子運動部の生徒から苦情が多い。


「何しろ、今日も桃色だ…」委員の一人である草賀谷が提案してきた組み合わせの結果であって、今いる委員長の俺と副委員長に責任はない…はずだ。


「しかし本当にお前といちごオレは似合わないな…」委員長の俺、亜末日向に向かって副委員長は嫌味を言ってくる。


「購買でカフェオレが売り切れてたからな」個人的にはカフェインが入っていないこと以外はいちごオレも大好きな部類なので、かなり不服気味に返答した。


「自販機のコーヒーを買えばよかったんではないか?」昼に行われる購買は、元は玄関だった広間に構える。広間には自販機が常設されておりそこでも缶コーヒーは販売されている。どちらにせよこの学校で水以外の飲料を入手するためには、生徒の身分では広間以外には存在しない。


「金欠でな。なるべく容量の多いものが欲しい」本当はあの時だってアメリカンコーヒーを買うつもりだった。のだが音漏れしていた自分の曲が気になってしまいあんなことを…


「じゃあスーパーのボトルコーヒーでも飲んでいればいいではないか。あれは意外とコスパがいいと思うぞ」正論を言われるが、しかし900mlとなると高校生が1日持って歩くにはバッグの容量をわりかし圧迫してくる。


しばらく間をおいて。

「過剰にからかってしまったような気はする」と雛市リトとしての自分の言動について反省する。


「反省して済むものなのか、あれ?」こんなことを他人にいえるのは話し相手が湿気委員会の副委員長にして共犯者、汐留蛍(しおどめほたる)であるからだろう。弱冠17歳にして経営の才に溢れて、合成音声を活用した学習塾を経営する、雛市リトの最初期からのスポンサーである。目下の課題は合成音声ではなく声優を使用した授業配信を行うために、声優を予備校講師並みの授業力にするかあるいは予備校講師に声優並みの発声をしてもらうかどちらの路線を執るか、ということらしい。


「加減が分からなくてな」人によって性癖は千差万別だ。自分がされてうれしいと感じるギリギリまで攻めても意外と人の琴線に触れるものじゃないのでは、という懸念があった。それに雛市リトと言うキャラクターを演じるにあたって、どこかエキセントリックな要素も必要なのではないかと判断した結果だった。


「あれじゃあまるでこっちの方がみはるちゃんにガチ恋してるみたいじゃないのか」三田春雨はクラスメイトの間では「みはるちゃん」というあだ名がついているのは有名な話だ。しかし当人はその事実を知らないのか女っぽいあだ名を嫌っているのか知らないが、絶対にその呼び名に反応したことがない。


「たしかに、スキンシップが過剰すぎた気はする」うむ、それは言われなくても分かっていたつもりだ。


「…なんだそれ?しらん。てっきりラジオの春雨宣言の話だと思っていたんだが」どうやら駅での一件はまだ汐留の耳目には入っていなかったことらしい。


「あっ」

「あっじゃない早よ吐け」彼女の情報収集能力をもってすればこれを調べる事は造作もないはずだが…彼女は俺に喋らせようと暫く学ランを引っ張った末に諦めて「まあいい、どうせ後にわかることだ」とクール口調を再び始める。キャラでやってんのかなぁ…俺が言えたようなことでもないけれども。


「まあ、陰キャオタクを金づるにするためならそのくらいはやるさ」吐いた息が煙のように見えるので格好としては水タバコを吸っているように見えなくもないと個人的には思っているが、実際にストローの先にあるのはいちごオレだ。色的には似合うだろうがそれ以外のすべてが微妙な感じである。


「身内から金を集めても正直な…それにみはるちゃんをそこまで陰キャオタク扱いする人間もそこまで見ない気がするが」

「でも本人の自己認識としては、あれは陰キャオタクだよ、恐らく」

「同性の友人としての感想か?」


「同性としてはあいにく知人でしかなくてな。これは間接キスの感想だよ」そう、三田と俺は同じクラスではあるのだが、席が離れているからなのか今年に入っても数回しか会話を重ねたこともなく、修学旅行でも別々の班だった。


「おま…一体何したんだみはるちゃんに」缶コーヒーを舐めたという説明をしたところでも大して変わらないだろうなぁというレベルで引かれた。


「悪いか?」取り敢えず悪びれないことにする。個人的には雛市リトのキャラは”そこまでやる”。


「アイドルも名乗って営業してる以上、名前に傷がつくのはスポンサーとしてはだな」偶に出る経営者目線としての汐留の言葉。資金援助を受けている以上、ある程度はそれに従わなければならない。


 ただ俺が返した「フライデーされて傷つくと思うか?みはるちゃんと…」その反論に蛍は返す言葉に詰まっているようだった。確かに”事情”を知るものでなければそれは難しいだろう…


「しかし、放課後になるとあいつの姿を見られなくなるのが残念だな…三田という男は基本直帰するからな」そう、三田は部活動もないのに徒然に居残りなどをしたことが見たことがない変わった人間だった。彼の友人である楠もそのプライベートについては「謎が多い」と話す。


「収録のたびにそうしてるお前が言えたことかよ」俺の地元駅に近い雑居ビルの一室。そこを汐留が買い上げ、”雛市リト”用の撮影スタジオとしている。撮影は放課後が中心で、偶によ動詞撮影しそこから次の日の学校に向かうこともある。因みに家族には「女の子スポンサー買い上げたビルに泊まり」と言っている。が、道徳的な話とか一切触れてこない家族も家族である。


「という事は帰り際の電車で会う事が無くもないはずか…」雛市リトであるために最寄りとは別の駅を使うなどというひねりのあることを自分はしているわけでもないのだから。


「あるかもしれないが、だとしたら今まで会わなかった事について説明がつかなくないか」確かにそれは謎だ。何故4年半以上も同じ駅から同じ学校に通っているのに通学路で会うことすら無かったのだろうか?

「うーん」俺はこの時割と悩んだが、今になって考えてみれば割と安直な答えだった。



 時は戻りその日の昼休み。

 この学校に屋上なんていう情緒的なものなどないので、僕…三田春雨は教室の端…に座っているわけでもなくだいたい真ん中でお昼を食べる。これは前回のくじ引きに席替えでそう決まったものに過ぎず、別に固定というわけでもない。


 彼方優(かなたゆう)さん、割と長めのロングテールで色白メガネっ子の彼女は、確か吹奏楽部でクラリネットを担当していたはずだ。


「いや、朝話してた事を盗み聞きしてたら気になってさ~三田君も雛市リト好きなんだって?」


いいよなぁ、女子は。そういう盗み聞きとかからでもだれとでも会話を始められて。それはさておき雛市リト好きがこの学校にいるというのは意外だった。


「え、うん、結構…」そんなにあいさつを交わした仲でもないからか、やはり言葉にどもってしまう。そう考えると毎日あいさつはしてくれる桐原さんとは、あれでも話しやすい方なのだなぁと実感する。


「三田もリトちー好きなんだ」と言うのは同じく吹部でクラリネットをやっている箕輪天音(みのわあまね)さん。いったいいつの間に会話の輪に入ってきたんだ。コミュ力強いな。


 彼方さんについては何故かクラスの男友達は「かなさんなら信用できる」と川上さん以上に口を揃える。僕は高校に入った段階で初めて彼女にあったが、正直そこまで話のノリとかが合うわけでもないので、未だにそう考える彼らの心理について疑問がある。


 その後雛市リトの好きな曲何かについて他愛のない話を続けていたが、僕の中にはここで雛市リトが「この学校にいる」という話をしなければ

「ありがとう、じゃまた今度話そうね」と帰っていきそうになったのを

「あの、ちょっと待って」と引き留めた。それに対して「何?」と言いつつも振り返ってくれるあたりがかなさんの優しさってことなのかな…?


「ちょっと大きな声では言えないんだけど」僕はジェスチャーで頭だけ近づけるようにしてもらい、ひそひそ声で”雛市リトがこの学校の生徒で同級生の可能性が高い”旨を伝える。


「え、それってマジ!?」僕が話を振った相手出なければこんな大声を昼食中に出されていたら大きめの舌打ちをしたであろうが、発端は僕なので仕方がない。


「え、どうしたかなさん、三田お前何言ったの」かなさんと違い自分の席にそそくさと戻ろうとしていた箕輪さんも戻って聞いてくる。


「マジかそれ…」イメージに反して、事実を伝えられた反応としては意外と静かだった。



その後二人に詳細な事情や経緯を説明する。


「へー、それでコーヒーんだ、役得じゃん」箕輪さんがからかうように僕に言う。


「いい、三田くん。そういうセクハラやパワハラにあった時はカメラや録音で証拠を残すのが定石だよ」かなさんはいくら雛市リトでもセクハラは許さない、という姿勢らしい。


「そんなこと聞いちゃうと、昨日のラジオの春雨マイブーム発言も結構気になるな」箕輪さんについて僕はあんまり知らないのだが、ファンなら有料コンテンツも聞いていて当然と言わんばかりのその姿勢を見るに、割と裕福な家庭で育っているのだろうか。


「普通の男子高校生はパワハラはともかくセクハラには会わないと思います…」

「うーん、セクハラさえ立証できれば相手の本名なんて簡単に特定できると思ったんだけどなー」あ、心配っていうかそう言う発想から出た言葉だったんだ。思考が怖いなこの人は…


「でも、脅すような方法で特定して引退されても嫌だしなぁ…」


 今回問題なのは、単なる刑事事件なら相手を特定して逮捕されてしまえば終わりなのだが、僕も含めてファンなので、引退とかそういうことにはなってほしくないという部分だ。それで個人情報だけ知りたいというのも都合のいい話だが、リトっちからこちらに喧嘩を吹っかけてきた、というのも事実ではあるし。


「うーん」しばらく悩んだ末、最初に声を出したのは


「脅さないような方法か…あ!」箕輪さんだった。


「どうしたの、天音?」かなさんが聞く。


「呼ぶんだよ呼ぶ呼ぶ!雛市リトをこの学校に呼べば、この学校にいるはずの同級生が一人居なくなるはず!その人が雛市リトって事にならない?」


 文化祭実行委員会所属の彼女の視点だから見えてきた(ような)発想である。確かにこの方法であれば特定は確実だ。ただこの方法には結構大きな穴がある気がする。


「ただ、それは警戒されてそもそも依頼自体断られる気がしますが…」と僕。


 相手がオファーをOKしなければならないというハードルがある。断られてしまうこと自体がこの学校にいることの補強にはなるかもしれないが、結局誰かが分からないのでは現状と変わりない。しかも今は11月。来年の9月まで期を待つのは僕の方が持たない。


「確かに…」特に箕輪さんも反論が思い浮かばなかったらしく、再び三人で考え込んでしまう。


「そもそもさ、雛市リトって誰かに似てるってわけでもなくない?私そういう目線で見たことあんまないけど。」


「僕は強いて言えば彼方さんに似てることはなくもないと思うんですけど」

 僕の「似てる」「似てない」の感覚ははいつも外れてばかりなのであまり自信が持てないが一応言う。


「えっ!優、もしかして雛市リトなの?」

 箕輪さんがそう聞く。僕も確かにさっきまではこの二人がリトっちであるという疑念を外せていなかったわけではないけれど…


「違うってば。だいたいあなたとはライブ連番したし…」

 そもそも同じ人間は二人その場にはいられない話をさっきしたばっかだろうに…と言ったような顔でかなさんが箕輪さんを見る。その案に対して特に反対していないのは、恐らく本人ではないからなのだ。


「あっ、そうだったわ」と、自分の言った事に気づいたという風な箕輪さんの声。


「冷静になりなさいな」


 そういったかなさんのツッコミから、あんまり進展のないままその昼休みは終わった。



 彼方優は帰宅後、自室にて、突如先行配信された雛市リトの新曲「Spring Rain」を聴きながらひたすら考え込んでいた。昼休みの件だ。本当は放課後も話し込みたかったが、部活動の合奏があったことやそもそもみはるちゃんがすぐ家に帰ってしまったために誰とも話せなかった。LINEとかを天音に送ろうかとも思ったが、どうせならみはるちゃんも入れたかったのでやめた。そしてそのときみはるちゃんのLINEを友達登録していないことに気づいて、「同級生は全員友達」という性善説を唱えている自分が少し嫌いになった。


 「私に似ているという事は…」

 あまり偏見のような思考はしたくない、しかしみはるちゃんのあの目に狂いがあるとも思えない。

 優は所謂「高校デビュー」組であった。それ以前、中学1年の時は通っていたのだが、2・3年の時は諸事情で教室への登校が難しい状況が続いていた。

 教室のどこにもいないけど、私たちの顔写真を含めた情報としては認知している、それが今日もたらされた雛市リトの情報である。

 それはつまり…

「リトっちも保健室登校…?」

 経験に裏打ちされた結論だった。しかし残念ながら、あるいは当然というべきか、彼女の推論は大外れであった。

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