第15話


 大丈夫なんだろう、と思う。思う、なんて未確定要素たっぷりの言い方しかできないのは、偏に俺の未熟さゆえん。ここは悲しいかな、断言できる。とは言え、俺の成長を待って欲しいです、なんて理由で面会の日時を延ばしてもらう訳にはいかないからね。


 人間は、否応なく成長させられる。悩み、考え、苦しみ、相応の行動を求められる。そんな局面に出くわすことがある。自ら望むと望むまいと。俺達はそれを嫌と言うほど思い知っているし、いつか柔らかな微笑みとともに振り返ることができる過去のワンシーンとなりえるかどうかは、少し先の未来になってみないと分からないんだ。その人にとって本当に必要な出来事だったのかどうかも、どう検証すれば正しいのかなんて分からないしね。


 戦国時代の智将のように、相手方の出方が分からなくたって微に入り細を穿ち策を練る器用さは俺にはないけれど。ただ、ぶれない軸があれば、大丈夫なんじゃないかって思うんだ。


 ねえ、礼ちゃん。礼ちゃんと出逢って俺はこの世の「絶対」を信じることが出来たよ。俺には礼ちゃんが必要で、礼ちゃんには俺が必要。そして大切に想う人達といつまでも一緒にいたい。勿論、ただ願い祈るばかりじゃなくて、ちゃんと考えながら前へ進んでいくつもり。少しずつでいい、俺達をつなぐ縁がゆっくり広がって、いつか誰をも包み込む幸せな円になればいい。


 なんて、綺麗ごとだと。右京は笑うのかな。




 次年度の教育実習受け入れのお願いに、俺達の母校へと出向いた武瑠は、やっぱりと言うべきか、至極当然と言うべきか、葛西先生と飲んだんだって。心も礼ちゃんも俺も、どうしてもバイトの予定を変えられなくて、いいな羨ましい、独り占めじゃないか、と言いながら武瑠の背を送り出したものだった。

 だから、さ。二人で飲んだ時間は二人だけのものじゃん。いくら葛西先生大好き俺達でも、先生の全てを知ることも理解することも、ましてや真似ることなど到底無理だと分かっては、いる。

 なのに。


『ちょっとみんなにさ。共有しときたい話があるんだけど』


 地元から戻ってくるなり武瑠はそう言って、俺達の膝を突き合わせさせた。

 共有、って確かに良い側面ばかりじゃない。でもそれは見方ひとつで、俺達は今からとても心地好いものを分かち合えるのだと、武瑠のニコニコから容易に覚った。きっと、武瑠だけがもらった特別な時間だったんでしょ? 俺達へ、なんてことない風に差し出してくれるんだね。

 ありがと武瑠、って。笑顔に籠めたつもりだった。常ならば発泡酒の缶とグラスが並ぶのであろうテーブルへ美味しいコーヒーが置かれたのは、さすが礼ちゃんの勘の良さだよね。



 若かりし日の葛西先生は、その境遇が俺達のうちの誰とも遠くかけ離れていて、だから正しく理解し、気持ちに寄り添えてはいないかもしれない。けれど、その後に続く先生の、今日に至るまでの凛とした姿勢は身を以て知ってる。

 大人だから、教師だから、って抗いがたい立場を笠に着て上から物を言うでもなく、上から抑えつけるでもなく。自分が子どもだった頃、を忘れずにいてくれた人。俺達に考えさせ、気づかせ、そう出来たのはきっと先生のおかげなのに、恩に着せることなく手を伸ばし続け、温かく背を押してくれる人。


 親、とはまた違う大人。礼ちゃんへの愛しさとはまた違う情。血の繋がりだけではない絆って、赤の他人とも生まれるんだと俺は知った。そんな人と、出逢えて良かった。傍にいてくれて、良かった。これから先もずっと一緒に、いてくれる未来をもらえて良かった。


 だから、そんな人と出逢えなかった右京を、ただ憐れむのではなく、チャンスに恵まれなかったんだね、とどうしようもない采配に委ねるのではなく、俺達がしてあげられること、って何だろう。ずっとずっと考えている。ずっとずっと考えてきた。

 礼ちゃんの心中を慮ると、この先ずっと右京をいないものとして未来図を描くのなんて無理なんだよ。俺だって人の子、決して美しい心根だけで構成されてるわけではない。ならば関わり方は、って。


 なんとなく、本当になんとなくなんだけど。答えはすぐそこまで、近づいてきているような気がしている。“その日”が迫ってきているのはちゃんと分かっていた。ただ俺は礼ちゃんをせっつくような真似だけはするまいと決めていたんだ。



 礼ちゃんは、基本のんびり屋さん。その言動には礼ちゃんなりの筋道や理論や回路がある。そうして今回のことを考えると、礼ちゃんと俺とでは持っているものがかなり違っているんだ。


 右京と交わした言葉の数々。向けている情。向けられていた情。

 俺には物理的な傷が残って、礼ちゃんの心には見えない傷が残った。

 右京との関係性だけでなく成長の過程にまで言及するならなおのこと。結論へたどり着くまでにはきっと、時間がかかることだろう。

 いや、そもそも結論なんてあるのかな。ここのところ、それこそ礼ちゃんとだけじゃなく、心や武瑠、葛西先生も交えて考えたり論じたり、何度かしてきた。敢えて考えないように蓋をしてきた時間は過ぎて、むしろ積極的に取り組まなければと焦りにも似た勢いに駆られるようになったのは、面会の日が具体的に決まったからなんだろうか。


 たぶん分かってたんだよね、みんな。ずっと、何もなかったフリなど出来ないってこと。何もなかったように暮らし続けていくことなど出来ないってこと。俺の頬に視線を這わせれば、おのずと誰もがあの頃の感情に引きずり込まれそうになるはず。囚われすぎてはいけない、けれど風化させてもいけないことなんだ。だから結論として、判断をまとめるんじゃなくて、俺達は今からまた考えたり論じたりし始めなければならないのかも。


 どうしたいのか、どうするつもりなのか。右京への一言目には何を口にしたいんだろう。礼ちゃんへ確かめたい気持ちは日ごとに膨らむし、あれもこれもと訊きたい項目も増えていく。それでもグッと堪えた。


「神威くん」


 礼ちゃんの声が背中越し、静かに俺の名前を呼ぶ。俺はテレビを消して振り向くや、礼ちゃんの澄んだ漆黒の瞳に射竦められる。笑みにも似た柔らかな輝きがそこには宿っていて、ああせっつかなくて正解だったんだろうな、と不思議と安堵した。


 スカートの裾が可憐にふわりと舞って礼ちゃんが俺の斜向かいに座る。うん、今夜はこの位置関係が良いかもしれない。たぶん礼ちゃんは時々目を逸らしたくなるだろうし、でも痛いほどに確かな視線が欲しい時はしっかりと絡めてくれるんだろう。


「……明日、ね」

「そうだね。緊張してる?」


 なんとか、といった風に切り出された礼ちゃんの一言目に、俺はすかさず当たり障りのないところから会話を始めてみた。疑問形で応じたからね。礼ちゃんのことだから全力スルーの方向とかないでしょ、何か返してくれるでしょ。


「独りじゃないから…みんな、いてくれるから。大丈夫」


 礼ちゃんの頬に浮かぶ微かな笑みは強張りもなく、特に自身を偽ったものではないのだろうと信じられた。


「そうだね。葛西先生なんて迎えに来て、そっから連れてってくれるしね、もう過保護なお父さんかという」


 良かった、礼ちゃんの表情がさらに緩んだ。思わず引き合いに出してしまった葛西先生にはごめんなさい、だけど。その調子で口周りがもっと緩むと良いね。言いにくいこともさらりと話してくれていいのに。


「……怖くない? 神威くん」

「怖く…は。あ、あのー、トラウマ的な、って意味で?」


 今度は礼ちゃんからの返答を意図した疑問形ではなかった。本当に分からなくて本当にただ訊き返した。微笑みが曖昧なものに変わった礼ちゃんからは正解を導き出せそうにない。なんというか、トラウマ、という括りで語るなら礼ちゃんや葛西先生のがよほどだと思う。


 右京の、俺に対する行為はかなり照明の落とされた暗い室内での蛮行だったせいか、視覚にくっきりと訴えられた像って、実はそんなに残っていない。右京の整った、それでいておよそ感情の籠らない冷たい顔や、俺を傷つけた刃先の銀色を時々ぼんやりと思い出すことはあっても、それが酷く胸を締めつけるようなことはなかった。ひょっとすると心のどこかが“覚えていない方がよいもの”と分類してしまった時間なのかもしれない。あるいは俺の英雄きどりの短絡思考が俺自身を救ってきたのかもしれない。


 いずれにしても俺は、俺の頬を伝う血液や痛みを感じはしたものの、それを客観視していないんだ。あの現場で俺に駆け寄り抱きかかえてくれた葛西先生や、気を失った俺へ泣きじゃくりながら縋っていたという礼ちゃんの方が、よほど。


「……どうなんだろう。私は、だからこんなに、震える感じなのかな」

「……震えてるの?」


 礼ちゃんへそうっと手を伸ばしかけたところで、ううん、と首を横に振られた。あ、喩えだったのね。そうだね、感じ、って言ってたね。早とちりだったと分かっても今さら引っ込めることも出来ず、俺は礼ちゃんの頬へ触れ、そのまま膝の上へ置かれていた小さな手を取った。

 繋がることで伝わる確かな熱はある。それでも想いの隅々までが互いに完全に通じ合うわけではない。地球はそうやって俺達を明日へ運んではくれない。だから、話をするんだ。稚拙でも、みっともなくても。


「知らないから怖い。知るのが怖い。私がこの三年で少し変わったのと同じ様に、きっと右京くんも、変わってる」

「……うん」

「性善説を、信じたい。だけど明日、私は本当に真っ新な気持ちで右京くんと向き合えるのか、分からない。何を言い出すのか分からない自分が…一番、怖い」

「そっか」


 繋いだ指先に力を籠める。よしよし、と撫でているイメージを礼ちゃんへ勝手に送りつけた。


「……右京へ伝えたいこと。ぼんやりしてるの?」

「ううん。決まってるの。結局のところ、言い方ひとつなんだと思う」


 あ、決まってるんだ。

 途端にホッとしたようなそれでいてヤキモチめいた複雑な感情の蠢きに囚われる。いや、あと何時間か待てばいいだけの話なんだけどね、面会室へは入れるんだからさ、俺も。


「……ただただ優しく、待ってる、なんて。言わない。私はひどく厳しいことを、右京くんへ求めるんだと、思うわ」


 礼ちゃんの言う“厳しい”なんて主観はたかが知れてると思うけれど。俺は否定も肯定もせず、ただ、そっか、と受け容れた。

 くるん、と目を回して考える。厳しいこと。それは右京をなにがしか、傷つける類のものなのだろうか。とっても、似合わないのに。


 礼ちゃんは俺にとっての超絶天使なのでね、そんな汚れ役的な仕事は俺がやっとくから礼ちゃんは離れたところで見ててー、なんて言いたくもなる。言いそうになる。間違ったことだと、分かってはいる。


「……何か、言いたげよ? 神威くん」

「……そうだね。でもこれは俺から訊き出しちゃ意味が無いと思ってる」

「そっか…聴いてくれるんだ? 私の、どんな言葉でも」

「そう、どんな…あ、他に好きな人ができちゃった、なんてのはナシね? そういうの突然聞こえなくなるから」

「ふ、あり得ないのに」


 礼ちゃんの細い指先に力が籠る。そりゃあね? 礼ちゃんのことはこれでもかと信じてるんだけど、嫉妬深くて独占欲にまみれている俺としては、たとえ何度目だって言質を取りたい。そういう常々の束縛は自覚の上で、でもほら、あまりに積もり積もると礼ちゃんが可哀想がられてしまうので。出来る限りの譲歩はしなきゃと思ってもいる。


 世界にたった二人ではない。俺達を取り巻く環境にさまざまな存在感があることは認めているし、生かされていることも分かっている。だからね、いつも剥き出しの感情を晒し自分のままに生きていくのを、権利として在る自由だと勘違いしては駄目だと思うんだ。バランス感覚は、大切なのだと思う。


「話す、道筋は。正直決めてないの…と言うか、決められないの。右京くんが何を話してくれるのか分からないし。そもそも、私と話をしてくれるのかも、分からないよね」

「うーん…流石に面会の日が明日だ、って知らされているとは思うけど」

「そうね。でもこのセッティングは右京くんが心の底から望んだものじゃないかもしれない」


 そうだねえ、と相槌を打ちながら、それでも右京が望んだものなら良いのに、とも願う。

 大人の(いや、俺達だってもう成人してるんだけど)勝手な都合で仕組まれた感が強い顔合わせだから。底辺に流れるものが黒いと、その上に清らで素直な想いが上手く乗っかって通い合うのか、ってちょっと疑問に思ってしまうんだよね。


「挨拶と…これまでの返信の御礼と。これはきちんと伝えようと思ってる」

「うん」

「それから…これまで、と。今、と。これからのこと。右京くんがどう考えてるか、訊きたいと思ってる」

「過去と現在と未来、か。報告連絡相談の基本だねえ…うん、すごく良いと思うよ」


 こんがらがって縺れてしまった人生の糸はどこまで遡ればきちんと解けるのだろう。礼ちゃんは、きちんと解くことが出来たのか。遡る道程にはおそらく右京との共鳴があるはず、似たような境遇がもたらす相互理解と思い込んでしまいそうな心の震え。シンパシー。消して欲しいとは、言えないんだ。それもまるごと、礼ちゃんだから。


「……生まれてくる必要のなかった命なんてないと思うの」


 礼ちゃんは、私達は、と続ける。逸らされない瞳に映り込む自分が穏やかな笑みを浮かべられているようにと祈った。


「肉体も、その健康も。親も国も時代も環境も家柄も何一つ選べずに与えられたものだけ纏って生まれてくる。その与えられたものすら不完全な場合があって他者との比較が許されない」


 一言一言を、深く確かめるように。礼ちゃんは想いを紡いでいく。もしかするともう何度も、脳内でシミュレーションした言葉たちなのかもしれない。

 俺は、そんな礼ちゃんを目の当たりにして、すごくお門違いなんだろうし、ややもすると不真面目だと怒られてしまいそうだけれど、この子を早々に独り占めしておいて良かったとつくづく思った。


 苦手なはずなんだ、礼ちゃん。自分の胸の内に抱えている形のないものを言葉に出す作業って、そりゃあ誰だって骨が折れる。それでも声として某かに対し訴えることが出来るのは、認められ育まれてきた自己がそれなりにあるからで。恐らくは自分の根幹が吹けば飛ぶような、手引かれればすぐ傾きそうな頼りなさで生きてきた礼ちゃんにとって、それはいつも脳内でぐるぐると一人会議をしては結論も出ないまま、やり過ごしてきた類のはず。


 少しずつ、変わりゆく礼ちゃんをすぐ傍で感じ確かめられる至福。その変化に俺はいくばくか絡むことができているはずで、そんな快感にちょっと震えがきそうなくらい。他の関係諸氏と同系列でこれ、聞かされてる自分なんて想像したくないもん。


「……人生、って生きる意味を探す旅みたいなものだ、って。誰かの言葉だったと思うんだけど」

「うん」

「神威くんと出逢って私は意味を得たのね。はい正解、ってピンポン鳴ってはいないけど。これは自分の中で疑いようも無いの、本当に」

「……ありがと、礼ちゃん」


 あれ、これ盛大な愛の告白に聴こえちゃうんだけど。明日を迎えるにあたって、を至極真面目に語り合う会のはずだったのにね。

 そういえばいつだって手放しで広がる礼ちゃんの笑顔もあどけない愛らしさだけじゃなくどこか大人っぽい艶が増してきたよねえ、なんてどこまでも俺ってば緊張感に欠けるらしい。


「だからね。私のこれから先に…もう、何も要らないな、って思う」

「子どもは欲しいけどなあ、俺」

「あ、うん勿論…それは。私達二人に授かると、良いよね」


 そっか。礼ちゃんが言いたいのは、俺達二人に授けられるものならば喜んで手を伸ばすけれど、一人自らが何かを強く欲したりしない、ってこと。なんたる無欲なの、それ。俺なんてもっともっと、っていろんなものを欲しがってばかりなのに。


 そう考えてみるとふわりと甘く広がる礼ちゃんの笑みがひどく至高のものに感じられる。

 本当はもっともっと欲しがってくれたらいいのにと思う。俺の足りなさが礼ちゃんに無理させて遠慮させてるのかな、とも危惧してる。礼ちゃんの成長過程を鑑みると欲張ることなんてほぼほぼ許されていなかっただろう、知らないということが悲しい諦めをもたらしていなければいいなと願う。


「ただ、努力をね。忘れずに続けていかなくちゃ、って」

「…うー、ん。それは、無理してる、わけじゃない?」

「無理、じゃないわ。努力」


 礼ちゃんがそうまできっぱり言い切るならば、もう俺の反論なんて出番はない。ただ、繋いだ手を離さないように。ただ、力強く想いを熱に籠めて伝えるだけ。解ったよ、って。


「嫌われないように、って意識して怯えることとも違うと思うのね。神威くんの瞳に映る私が神威くんの顔色ばかり窺っていないか、背筋はちゃんと伸びているのか、顔は上がっているか。私を見つけて唯一人に選んでくれた人が、後悔なんてする隙を与えないくらい、努力していかなくちゃ」


 そうすることで私は今とこれからを選べるし、自分に意味を見つけていける。右京くんにもどうか、そうあって欲しい。


 右京の名を声とするたび、礼ちゃんの口元が微かに震える。どうか、と祈りにも似たその言葉には、きっと右京を不要に苦しめる期待などではなく、ただ真っ直ぐに幸せを想う願いがかけられているんだろうね。



 ***



 とても、すっきりとした、と形容しがたい目覚めだったけれど。それでも毎日のように礼ちゃんが「朝だよー」と声をかけてくれる前に、俺はベッドでぼんやりと上体を起こした。


 まあ、いくら俺が能天気だとは言え、気持ちのどこかが昂ぶっているんだろう、それほど深くは眠れなかったし。俺の隣で、俺への気遣いをありありと感じる静かな寝返りを何度も打っていた礼ちゃんに至っては、言わずもがな。


 ひょっとすると枕元に置いていたスマートフォンがぶるりと鳴動したせいかもしれない。アラームと勘違いしたのかもな。いまだ冴えきっていない頭でそんなことを思いながら、俺は受信を知らせているディスプレイをタップした。


「ん? 葛西先生…」


《おはよう、朝早くからごめん。今日のお迎え、一時間早めても良い? 

 面会の時間、当初の予定からずらしてもらったんだ。何となく、心配でね》


 先生が抱える“何となくの心配”は先生だけのものじゃなくて、俺達の誰もが今日まで漠然と持ち越してきたものだと思うのに、まるで先生だけの杞憂、みたいな言い方をする。そうしてその払拭のためにあの人は一体、一人でどれだけ動いてくれたのだろう。面会の時間、ってそんな簡単に変更できたんだろうか。


「……ほんと。カッコいいったら」


 分かりました、お待ちしてます、と返信を入力しながら廊下を進む。ぺたりぺたりと鳴る素足の一歩ごとがどこかしら張りつめていた身体の強張りを削いでいく。

 何だろう、鮭かな。焼き魚の匂いとお味噌汁の匂いに食欲をそそられた正直なお腹がくう、とマヌケな音を立てた。


「礼ちゃーん、おはよう」


 二人暮らしの家の廊下なんてたいした距離ではなくて、本当にすぐ礼ちゃんの小さな背中をとらえることが出来る。常ならざる朝、だけど俺はあえていつものように、寝癖の付いた後頭部をワシワシと掻きながらあくび混じりの挨拶をした。


「………」

「腹減ったあ、ねえ葛西先生、一時間早く来る、って。父ちゃんにも連絡しとかなきゃ、ね?」

「………」

「…礼ちゃん?」


 定まらない礼ちゃんの視線がぼんやりと揺れている先では、ティファールの電気ケトルがぼこぼこと派手な沸騰音を立てている。立ち上る湯気が礼ちゃんを掠め、そこだけ空間をふわりと柔らかく歪めていた。

 家の中に二人きりなので、会話が一方通行で終わってしまうと壮絶な虚無感が押し寄せるんですけどね。俺は苦笑をこぼし、一歩を大きくとって礼ちゃんへ近づく。触れた細い肩がびくりと震え、反射で俺までびくびくしてしまった。


「…今の、聞いて」

「聞いて、なかった…ごめんね神威くん」


 礼ちゃんの美しい柳眉が歪められ、眉の動きだけじゃないその表情の全体が申し訳ない、を表す。緩慢ながらも動き始めた礼ちゃんを見つめながら、俺は葛西先生のメールの内容を繰り返した。


 礼ちゃんは、うちの父ちゃんのことが好きだ。いや、別に変な意味ではなくて。うちの母ちゃんのことも好きらしいし。


 響きとしては同じ“おとうさん”。でも礼ちゃんがその言葉に籠めている気持ちは「お義父さん」ではなく「お父さん」なんだろうと思う。

 お母さん、はね。礼ちゃん、幸さんとうちの母ちゃんを並べようとしない。なんだか違いすぎるから、とたまに苦笑し呟いている。


 そんな理由もあって、父ちゃんへの連絡は礼ちゃんへお任せした。遠慮しいの礼ちゃんにとって理由も無く電話する、ってやっぱり難しいと思うから。美しい敬語に加え、会話の中に時折混じる「そうなんだ」とか「ああ、良かった」とか若干だけれど砕けた物言い。そういうの、もっと増えていくといいなと願う。願っていいだけの潜在的な関係性はもうそこにあると思う。

 俺は礼ちゃんが途中まで準備してくれていたお箸や小皿をテーブルへ並べながらそんなことを考えていた。


「お義母さん、やっぱり今日は無理なんだって」


 じゃあ待ってます、と切られた通話のすぐ後で律儀に報告してくれる。

 うちの親は物凄く過干渉、ではないと思うし、むしろ俺や姉ちゃんの意志を尊重して、したい様にさせてくれた柔軟性があると思うけれど。流石に今日はとりわけ気がかりが増すのか、居ても立ってもいられないから、と同行してくれる予定だった。


「病院の定期検査、別の日にずらせなかった、って。あ、美琴お姉さんが付いていくから」

「姉ちゃんも無理ってことね、了解。まあ、あんまり大人数でもなんか物々しいしね」


 そうね、と頷き返してくれた礼ちゃんは、茶碗を左手に炊飯器の蓋を開け炊きたてご飯をよそう。日常の範囲内をはるかに超えた出来事が今日はこれから控えている。一日の終わりをどう迎えるのかまだ微かな想像すら出来ないけれど、せめて始まりはいつもと変わりない普通を用意したいと思った。




 おはよう、と先に我が家の玄関へのっそりと姿を現したのはうちの父ちゃんだった。決して広いとは言い難い部屋をさらに狭く見せているのは、武瑠も心も早々にうちへ集合しているから。みんな揃って朝の挨拶を交わす。


 この面会の段取りを打ち合わせする中で、父ちゃんは常々、葛西先生には一度きちんと御礼を申し上げなければ、と堅苦しい決意表明を耳タコリピートしてきた。そんな心意気が父ちゃんの行動を速めさせたんだろう、われらが葛西先生をお待ちしたくてたまらなかったらしい。

 そう言えば、と思い返すと、それこそうちの母ちゃんは俺達の卒業式で袴姿の葛西先生を囲んでミーハー根性丸出ししたらしいけど(そんなんでちゃんと御礼できたのかは謎だ)、父ちゃんにはついぞそんな機会が訪れなかったんだよね。

 うちは両親のどっちが学校行事により多く関わったか、を振り返ると、まあ、母ちゃん側に天秤は傾くんだろうなと思う。でもいずれのご家庭も父親の存在感ってそう濃くはなかったような。


「ミコちゃんも神威も、葛西先生の車に乗って行く。父さんは武瑠くんと心くんを乗せて時間差で向かえば良かったよな?」


 礼ちゃんがすかさずローテーブルの傍へ座った父ちゃん分のお茶を用意する。いまだ言葉にしているだけの今日の行動が、もう間もなくリアルなものになるのだと思うとなんとなく全身が粟立って仕方ない。


「おじさん、今日はよろしくお願いします」

「杞憂かもしれないんですが念には念を、ということで…あっちにマスコミやら真坂側の人間が待ち構えていないとも限らないですよね」

「……選挙が、近いからね。ああいう世界の人にとってイメージ戦略ってのは、重要なんだろう」


 父ちゃんの表情が含んでいる感情は、息子夫婦に対する純粋な心配だけなのか、平穏だったはずの日々が思いがけず非日常の沙汰へ巻き込まれてしまった理不尽な想いも含むのか、なかなかに複雑なものが入り混じっていて、正しく読み取ることは出来ない。

 三年前のあの事件の折、真坂家の第一秘書とやらに“大人の事情”を考慮した対応を迫られたのは他ならぬ父ちゃんだ。その瞬間、父ちゃんが抱えたであろう怒りたるや誰も定かに出来ないし、正しく理解に及ばない。今日はとりわけ、鮮やかに蘇っては苦々しい想いを噛みしめているのかもしれない。


 親に、そんな風に胸を締めつけるような苦しみを味わわせてしまうのは、本当に申し訳ないと思ってる。そんな事態を招いたことは本意じゃないし、どうしようもなかったことだとしても。子どもだから、って血縁をここで声高に主張するのは開き直りのような気もする。

 それでもいつだってうちの親は、こんな風に言ってくれるから。


『私達はねえ、神威。美琴お姉ちゃんからも神威からも一生分の幸せを無事に生まれてきてくれた時に前払いしてもらってるのよ』


『子どもの頃の可愛さなんてもう、天使だからねえ天使。まあ多少、ひねくれていきはするけど、あの頃の可愛さを思い出すだけで大抵のことは受け容れられるかな』


 そんな温かな懐にいつまでも甘え続けちゃいけないと分かっているんだけどね、今日、ばかりは。


(……でも、みんなそうかも。俺だって、礼ちゃんだって)


 今日、何をするのか分かっている。今からどこへ向かうのかも、分かっている。でもだからと言ってきちんと心を定めきっているか、というとそれはまた別の話。揺れて波打つ胸の内は、多分俺の瞳にも声にも表れているはず。

 似たようなざわめき、覚えのある落ち着かなさを礼ちゃんにも武瑠にも心にも認め、どこかしら安堵してしまう俺は、こんなところがガキっぽいんだろうな、と思った。




 そうこうしているうちに、真打ち葛西先生の登場。俺達の誰もがどこかしら改まった心持ちでいるせいか、今日はいつものようなラフな格好ではない。勿論、ジーンズ姿でもない。前もって打ち合わせ、なんてしていなかったのに葛西先生は程よいフォーマル感を纏って颯爽と現れた。

 いやもういっそ嫌味なほど、分別だとか空気読みだとかTPOだとかにオシャレさを伴わせることが出来る上級者だよね、この人。ノーネクタイの濃紺ジャケットは細身でオーダーメイドみたく葛西先生の体躯にフィットしている。ほんの少し短めの袖だってミリ単位で計算し尽くされてんじゃないかと思うほど。

 お願いだから礼ちゃん、そんな目むいて、激しい瞬き繰り返さないで。出発前に俺の眉間には深い皺が刻まれてしまう。


「……うちの息子がこれほど身の程知らずだったとは」

「……どういう意味よ? 父ちゃん」

「まだだねえ、まだ同じ土俵に立つのは早いんじゃないの」

「あ、神威くんのお父さんですね」


 あらためまして、から始まる葛西先生の口上には実にソツがない。


「一度病院でお姿をお見かけしたのですが結局きちんとご挨拶を申し上げないまま今日を迎えてしまいまして」


 立て板に水とはまさにこれなんですね、と納得の淀みなさを体験させられる。ADさんのカンペかプロンプターでも用意されてるんだろか、と俺は思わず自身の背後を振り返りたくなった。

 だからか。いえいえこちらこそ、と腰を折り頭を下げながら応える父ちゃんがなんだか普通すぎて見える。ごめんなさい。

 本来これくらいの丁寧さがわざとらしさもなく、練り上げられた周到さも感じさせず、程よい社交性と言えるのかもしれないけれどね。


 大体、じゃあ神威、お前この立場に立ってごらんよ、と双方に言われたところで、俺に返せる言葉は欠片もないもん。ほんと、こういう…臨機応変さ? って。みんなどうやって身につけるんだろう。

 素直さを忘れなければ大抵の局面は切り抜けられるんじゃないの、と思ってきた俺を今すぐここへ正座させたい。


「家内に任せたきり場を改めて設けることもしませんで…本来であればこう、諸々を兼ねた御礼とお詫びをすべきではないかとずっと気がかりだったのですが」

「いえ、そんな」

「ただ、この子達のおめでたい席で必ずお目にかかれるでしょうから…まあ、そんな風に事を先送りし続けてきたんですよね」


 大人の悪い癖です。


 恥じ入るような苦々しい笑みとともにそう締めくくった父ちゃんの言葉の中に、さすがの俺も未来を示唆する嬉しい響きがあることに気がついた。

 例えば誰かの思わぬフライングがあるかもしれないけれど、一番近いであろう“おめでたい席”は、それに係る“この子達”は。卒業してから、と言い続けている(主に俺だけ)礼ちゃんと俺の結婚式なんじゃないかと。


 そういうものなんだと当たり前に認めてもらえている事実は改めて幸せなことで、知らずみんなの目を細めさせる。狭いここじゃ何ですから、と言い出したのは父ちゃんで、俺達は駐車場へと向かうことにした。


 玄関の鍵を閉める常の所作。なんとなく、丁寧に時間をかけてドアノブから手を離した。




 葛西先生の愛車は今も変わらずハイブリッドカー。三年前と同じような、それでいてどこかしら違うような車内の空気をほう、と堪能していると神威、と静かに名を呼ばれた。

 振動をさほど感じさせないエンジン音と負けないくらい静かに。すかさず はい、と姿勢を正す。


「……えー、そんな緊張されると言い出しにくい」

「…何ですか? 何か悪い知らせとか?」

「いや、俺にとってきまりが悪いこと」


 俺の左隣へ座る礼ちゃんと思わず顔を見合わせる。

 するすると走り出した車は、ルームミラー越しに先生の表情は見せてくれない。背後をちらりと見遣ると、ひらひらと手を振る武瑠にじっと腕を組む心、気遣わしげに口元へ拳を遣る父ちゃんの姿が目に入った。行ってきます、と動かした俺の唇は三人へ見えただろうか。


「…御子柴にも、ね。お願いなんだけど」

「…はい。何でしょう?」

「…今日、真坂 右京と何を話したのか…教えて欲しいな、と思って」

「ああ、なんだ。そんなこと」


 俺は若干 座る位置を変え、運転席の先生を覗きこむように身を乗り出し 良いですよ、と告げた。全然 問題ありません、と。

 礼ちゃんも当然のごとくこくこくと頷いてくれる。


「えええー、ちょ、俺から言いだしといて何だけどもうちょっと深慮しませんか神威!」

「え、だって。他ならぬ葛西先生からのお願いですもん、断る選択肢なんて俺、持ってません」


 きっと礼ちゃんも、ね。

 礼ちゃんの笑顔をしかと確認し、また視線を先生へ戻すと左の耳たぶがうっすらと朱に染まっているのが見てとれた。


「…ありがとう。は、可笑しいのかもしれないけど…でも」


 ありがとう。


 運転中でなければきっと、先生の深く静かな優しさを湛えた瞳に真っ直ぐ射抜かれていたと思う。礼ちゃんの頬を桜色に染めそうなほどに。ルームミラー越し、無機物を透過して幾分和らいだ魅力くらいでちょうどいいんじゃないかな。


「今日の面会は…礼ちゃんと俺だけのものじゃないと思ってます。むしろ、そうしちゃいけないし、だから言葉ひとつも残さずみんなのものなんです」

「葛西先生の…御尽力、というか。弁護士さんを通じていろいろお手配いただきましたし。そういうのが無ければ、私は結局 右京くんに会うことはなかったんじゃないかと思います」

「いや、…うん。御尽力、なんて神々しい言葉を頂戴すると物凄く恐縮しちゃうくらい、そこに俺のエゴが含まれてるけどねえ」


 表情はまるで見えないけれど、葛西先生の声にほんの少し苦々しいものが混じっている。エゴだなんて、と即座に否定する礼ちゃんの反応も いやいや、といなされた。


「神威の言葉は神威のものだし、御子柴のだってそう。そう、なんだけど…もう、ね。気になって仕方ない。ただ一心に、それだけ。お前達を本当に思いやるんだったらもっと他に言えることがあるかもしれないのに」

「充分、思いやってもらってると思います」


 例えば、と俺は切り出す。予定されていた面会時間を一時間早める。その手続き方法を俺は知らない。よく考えれば右京が今 いる場所の電話番号も知らない。三年前に対応してくれたあの刑務官さんはまだいるんだろうか、そんなことも俺は知らない。もっと言えば真坂家の顧問弁護士が誰かということも知らない。


「知らない、っていうのは事実で…その。事の始まりの時は確かに俺達は未成年で。たぶん周りも気遣って、誰も知らせようとはしなかったんだと思います…そういう思いやりもあるんだろうと思います、けど」


 今となってはもう、成人した俺達。“申し分の無い大人”と分類してもらうにはまだまだ中途半端な部分が多いだろう、とはいえずっと知らないままできたことは、とても真摯とは言えない態度だったと思うんだ。


「知らずに今日まで来てしまった俺は…知ろうとする努力を、ね? 先生。ずっと怠ってきたんですよ」

「神威…」

「忙しかった、っていうのは俺の狡い言い訳であって正当な理由じゃない。そんなの先生の方がよっぽど忙しかったはずだし、万国万人共通で一日が24時間ってのは三年前も今も変わらない」

「…どうした? そんな、焦るみたいに」


 実際、焦ってるんだと思う。朝から不思議だと感じるほどに凪いでいた胸の内は、ここにきてざわざわと漣をたて始めた。

 車が、動き始めたから。物理的に俺の身体が、右京へ近づき始めたから。

 ああこれすらも、自発的じゃないな、と思う。先生の車に運んでもらってるんだから。


「……子どものまま、大人になってしまったのかもしれません、俺」

「そんなの…誰だってそうでしょ。成人式迎えたからハイ大人、ってチケットもらえる訳でもないんだし」

「うん…でも。俺は、礼ちゃんに…」

「…私、に?」


 俯き加減で俺の話に耳を傾けてくれていた礼ちゃんの顔がパッと跳ねるように上がって、真っ直ぐ俺を見据えてくる。この世で何が正しいのか、なんて。時に、何が間違っているのか、と同じくらい分からなくなるよ。


「…ただ。届いた白い封筒を、黙って…礼ちゃんに差し出すことが、それが、優しさなんだと思ってた」


 その先の行動は、何ら伴わなかった。俺はきっとずっと、優しさの意味をはき違えてきたんだ。


「でも…私は。ありがたいと思ってたわ、ずっと。神威くんの優しさに、救われてきたのよ?」

「…ありがと、礼ちゃん。そう言ってもらえるのはすごく嬉しい」


 でも、と俺はついさっきの礼ちゃんと同じ様に反意を示した。

 思えばずいぶんと難しいことに向き合わなくちゃならなかった。この三年間。巻き込まれた忌まわしい出来事は望まずとも俺達を非日常へと引きずり込んだ。


「何が礼ちゃんにとって優しい、ってことかなんて…俺が決めつけて解釈しちゃいけなかったのに。俺は、そうしてきた。突き詰めて考えたくなくて、逃げてきたんだよずっと」


 例えば、花に水をあげるのは「優しさ」だろう。親切とも言えるし、思いやりある行動だ。少なくともそう教えられてきたはずだ。

 でもね、と思うようになった俺は、それを成長の一面と喜ぶべきなのか。むしろ憂うべきなのか。


 花は、本当に水を欲しがっているのか、なんて訊いてもいないのに、誰が正しく分かるんだろう。だから、分かったつもりになってるだけじゃないのか、って。それは一見、歪んだ捉え方に思われがちだけどあながちそうと断じえないんじゃないか、って。自分の優しさに、親切に、思いやりある行動に、酔いしれて、決めつけてるだけなんじゃないのかな。


「礼ちゃんは、花じゃない…や、勿論 花以上に可憐で可愛いけどね? 訊けば良かったんだよね、俺は」


 それは、って小さく低く落ちる礼ちゃんの声に俺は胸が締めつけられてしまう。その切なさを紛らわせたくて礼ちゃんの直接的な熱に肌すり寄せてしまいそうになるけど、ここが二人きりの空間じゃない、って認識はきちんとあるからね、俺。

 ご心配なく、葛西先生。


「…礼ちゃんに。そんな顔させたくないし、そんな切ない気持ちになって欲しくもないのね? 俺は」

「……うん」

「かといって、じゃあこんな風になってる全部 右京のせいだよね、なんて馬鹿みたいに考えなしの原因探しとか絶対したくない」


 ゆっくりと頷く礼ちゃんをとらえた俺の目は数回 瞬きを繰り返す。赤信号で停まった車内へしん、と静けさが落ちた。ウインカーがたてるカチンカチンという電子的な音さえ大きく響いて耳の中に残る。

 ああ、俺は、“絶対”というものを安易に信じたりしてなくて、でも、礼ちゃんとの間にだけは確実にあると信じられて。ここにきてまた使ってるじゃないか、と頭の片隅でどこか静かに考えていた。


「これが与えられた試練なら、見事に乗り越えて成長、っていう結果をきちんと出したいと思ってきて。もがいて足掻いて、みた…つもり。なん、だけど」

「…だけど?」


 俺の語尾をなぞったのは礼ちゃんではなく葛西先生だった。後部座席の俺達二人もきちんとシートベルトをしているから、そんなに身じろぎも出来ないんだけど。俺は気持ち、身体の向きを葛西先生寄りに近づけコクリと喉を鳴らす。


「いつまでも終わらないんです、もがくのも足掻くのも…格好悪いけど、こうありたい俺にいつまで経ってもぴったり合致しない」


 理想像すら時にブレてしまうことが正直あって、例えば柳井との関係性においてすら俺はもっと上手く立ち回れると思っていたんだ。

 それは、駄目なの? と取り巻く静けさに負けないほど静かに問うてきたのは礼ちゃんだった。嬉しくもある。苦笑も混じるけど。

 礼ちゃんは決して俺のことを否定しない。軽んじることもなければ、お叱りをうけることもまず無いからね。

 神威くんを真似てるだけよー、なんてふわりと笑いながら礼ちゃんは言ってのけるけど、立ててもらって、良い気分にさせてもらって、そうして少ない俺の伸びしろをグンと引き伸ばしてくれる。俺、という存在の確かさを無償で認めてもらえてる。だからこそ俺はもっと頑張らなくちゃいけないのに。


「…駄目、ではないのかもしれないね。ただ、俺はまだそれを“アリ”だと思えないだけ」

「…そう、」

「答えが出ないこととか…ゴールが見えないこととか。世の中には沢山あるんだな、って思い知らされて。でもまだ、そこまでなんだ。わあ、それって面白そう、楽しもうー、なんて余裕はまだ」

「……神威が言いたい、余裕ってのは」


 そんな風に言葉じりをさらわれ、俺は漠たる考えを言葉にしていく。経済的なそれは勿論、精神的にも、時間の面でも、社会的地位においても、ワークライフバランスにしても、と。


 ハングリー精神とか反骨精神とか反発の気概とか、そんな心の向きが新たな何かを生み出す。聞いたことがある話だ。

 でも俺はね、多くの余裕を手にした人が見出せる新たな気づきもあると思うわけ。今の俺には、辿り着きようもない境地なのだけど。


「…ちゃんと、どこかにたどり着いて。たぶん、その後で、俺は右京に会いたかったんだ」


 狡いよね、とつけ加えたけれど、果たして「狡い」という表現が適しているのか謎だ。浅はか、だとか、傲慢、だとか、言い様は他にもあると思う。

 この場で決して、礼ちゃんからも葛西先生からもそんな言葉は浴びせられないだろうけど。


「…自分に、自信を持って。そうして右京くんと面会したかったんでしょう? そんなの、私も同じよ?」

「礼ちゃん…」

「上に立ちたい、とか。そんなつもりはなかったわ。でも私だって、右京くんが、未だに何の光も、一筋も見出せてなかったなら、導いてあげなきゃ、って思い込んでたところはあったもの」

「…うん。そう…」


 ああ、もしかすると俺達は、ただ寄り添って慎ましく毎日を生きていくことを、右京への償いのように感じていたのかもしれない。社会的な善悪は法が裁いてくれたけれど、単純明快に収められない生き様の背景が人それぞれにある、と知ってしまった今、18歳の俺のように自分達だけが被害者側だと、すんなりそちらへ立っていいのかと躊躇いが生まれてしまった。


 だからこんな、面会なんてきっかけが訪れるまで、俺達はあまりにも一連の事件を口にしなさ過ぎたのかもしれない。傷口に触れないことが最高の療法だと信じこもうとしていたのかもしれない。オブラートにくるんだような曖昧さは、本当に俺達の誰しもへ優しかったのだろうか。


「……ねえ。それで、良くない? お前達だけが、21歳になった訳じゃないでしょ?」


 そうだ、と思う。俺達だけが、時を重ねたわけではなくそれは右京だって同じこと。なのに、こうも焦りを抑えられないのは何故だろう。何もかもを解った気でいないと不安に駆られて仕方ないのは俺が弱くて臆病者だから?


「確かに、見事にお膳立てされた面会だよ、今日のは。でもだからって何かをひどく期待されてる訳じゃない、結果を出さなきゃ、って前のめりになる必要もない。いいんだよ、面会の間じゅう、お互いに黙ってたっていいんだから」

「ぶ、先生…それは、」


 もはや先生が言いたいことの範疇を超えているでしょう、と苦い笑いを添えながら言った。気を遣われているのだと知る。窓外の景色は経年の彩りもあるけれど見覚えのあるそれへと変わりつつあった。


「俺がね、もしもその場に居られるんなら、正直、真坂に念押ししたい、ってことくらいだよ、ハッキリしてるのは」

「念押し?」

「もう二度と悪事に手を出すなよ、って」

「それは…」

「でもそれって勝手だと思わない?」


 うん、と頷くに足る思考が俺はきちんと出来てなくて、けれどそれは礼ちゃんも同じだったらしい。二人して顔を見合わせて、先生が紡ぐ次の言葉を待つ。


「大人として、教職者として、言わなければと思うことだから。勝手だよ、真坂がそれをどう感じるかは考慮してない。うぜえ、って拒否されるかもしれないね、それでも俺は伝え続けていこうと思う。あの子の周りにそう言ってあげる大人が誰一人いないのなら、俺は何度でも何度でも繰り返し、当たり前のことを言ってあげたいと思う」


 コンクリートの鈍色が目の端から徐々に視界を覆い尽くしてきた。葛西先生の言葉はいつだって俺達のどこかを抉る。痛みはない、でもどこかが痛くなる。新たな細胞が懸命に生まれ、俺を再生成しようとする時に、どこかが。それは成長痛なのだと信じたい。


「あの子の…兄貴の時。俺は、諦めてしまったからね」


 先生が口にする“あの子”という響きが、まるで芽生ちゃんを指すような柔らかさと優しさがあって、俺は少し反応が遅れた。

 ピリ、と。琴線に触れた一言。


「そっ、か! そうだ、先生! 俺、」

「え、何? 道は間違ってな…」

「諦めたくないんです、右京のこと!」

「…神威くん、告白みたいになってるわ」


 くふふ、と礼ちゃんが可愛く茶化すから勢いこんでた俺は一拍 おくことが出来た。それって計算なの? 天然なの? どちらにせよありがとう奥様。


「救えるとは思えない、奢ってそう思ってもいけない、救わなくちゃって義務感を抱くとみんな潰れてしまうかもしれない」

「…神威?」

「でも、何ひとつやってみないうちから未来は語れない。右京のこと、どうにもならなかったね、って諦めてしまうほどに俺達はアイツのことを知らないし…そう、まともに話をするのも俺は今日が初めてなんです」


 簡素な造りだけれど人を容易に寄せつけない、そんな鉄の門扉に出迎えられる。一切の無駄を省いた整然たる外観は変わらない、寒色が醸し出す威圧に俺はひとつ、瞬きをした。

 限られた駐車スペースに他の車はなく、先生は建物の入口にほど近い白線の枠内へするすると愛車を滑りこませる。


「俺達、さとり世代とか言われるけど…世の中 嘆いて勝手に諦めてこれから先は無駄な努力だ、って悟っちゃうことが美徳じゃないですよね? やってみる価値なんてやる前から解るわけないですよね? もがいて足掻いてジタバタしてみっともなくても、」


 それはもう。いいんだよ、って言ってもらえることを前提とした確信犯だった。



 ***



「では、こちらへ」


 受付票へそれぞれ名前を書き入れ、本人確認のために運転免許証を提示した。面会における当然の流れなのだろうけれど知らず緊張感がまとわりつく。ひと息をついたところで、礼ちゃんと俺は刑務官の人の声に思わず居住まいを正す。


 こちらへ。


 俺達は少しずつ、右京へと近づいていく。

 実感は、まだまだ。けれどここからの一歩ごとに、胸にこみ上げる得も言われぬ想いは確かに深まるのだと分かっている。今、抱えているこれらは本当に表しようがなくて、それでもなんとか言葉にしなければ、右京へ伝わるはずがないものだ。


「…行っておいで。ここで、待たせてもらうから」


 葛西先生の声があんまり優しくて、じわりと目の縁が熱くなった。涙を流したりはしないけど、常ならざる感情の昂りが自身の内側に渦巻いているからこそ、だろう。頷いて、礼ちゃんの細い肩に手を添える。俺は、それなりに笑えてたかな。


 同じ敷地内だろうに、ずっとずっと遠くの方から笛の音や何かの機械音、生ける人々の息づきを感じさせる空気の揺れが伝わってくる。遠すぎて、どこか頼りない。


『面会室』


 導かれる無機質な廊下の先に現れた。やや薄くなった黒地にところどころ掠れた白の楷書体、さほど大きくもないプレートが俺達を迎え入れる。迷いも装飾も無く、ただすっきりとそこにあるドア、くぐり抜けると目の前にテレビドラマで見覚えのあるアクリル板が広がった。


「時間は、30分。会話は記録に残します」


 刑務官の人の説明が俺の表面をつるりと滑りゆくばかりで、少しも飲み込めないでいる。ぼんやり、と受け止められても仕方ない所業だったかも。

 その形容はいつもなら礼ちゃんの専売特許みたいなものなのに、俺は気遣わしげな表情の礼ちゃんからシャツの裾を引っ張られ、強く見つめられた。


「…ごめん、礼ちゃん。聞いてるよ? ちゃんと」

「…緊張すると、こんなに手が冷たくなるのね」


 ほら。


 小さな声でそう呟きながら、礼ちゃんは俺の左手をゆっくり取って、掌を上へと向かせる。重ねられた礼ちゃんの小さな掌は、夏を間近に感じる外気とはうって変わった冷たさだった。


「緊張も、するだろう。こんな経験、しないまま人生を終える人間の方が圧倒的に多い」


 凛とした立ち姿や、目に見えないまでも発せられる威圧感は警察機関に関わる人達に共通している雰囲気なのかもしれない。それでも三年前と変わらない、鋭い双眸の中に宿る確かな温もりに、俺はちょっと苦笑を返し眼差しを合わせる。

 この人の名前を、ちゃんと覚えておこう。そうして、御礼の手紙を出すんだ。きっと、尽力してくださったことに対して、きちんと。


「……結局、今日が最初で最後になってしまいました、面会。何度も来て欲しい、と…仰っていただいてたのに」

「いや。君達の場合、難しい大人の事情が複雑に絡んでいたね。悪かった、変なプレッシャーを与えるつもりじゃなかったんだが」


 微かに緩む表情筋を目にし、俺達の身体の強ばりもほんの少し緩んだ。腕時計を確認する刑務官さんの仕草を何となく目で追う。パイプ椅子へ座るよう促され、もうすぐだよ、の声に二人して頷いた。


「今日の面会の予定は昨日のうちに真坂くんへ伝えてあって」

「…はい」

「いつもの…第一秘書や弁護士ではない、ということも伝えてもらったんだが」


 顔が、綻んでいたらしいよ。


 俺の目の高さにある「小鳥遊」という名札を記憶へ焼き付けながら、く、と眦へこみ上げた熱さを何処かへ逸らそうとした。


“小鳥の天敵の『タカ』が『いない』と安心して遊んでいられる…だから『たかなし』”


 その、一見 難解な苗字の読み方を俺へ教えてくれたのは誰だったか。母ちゃん? 父ちゃん? いや、姉ちゃんだったのかな。

 知っていて、良かった。そうやって、生きてきた自分を肯定できる些細なきっかけはきっとどれだけでもある。

 俺はより鮮明に何度でも思い出すことが出来るはずだ。今日のこの、一瞬一瞬の全てを。

 廊下を進む一歩ごとに、きっと右京が履いているシューズの底がキュッと鳴らす、どこか懐かしい摩擦音すらも。


 互いの一言目なんて、全く考えていなかった。礼ちゃんと打ち合わせもしていない。


 ガチャリ、とひどく機械的な音を立てて灰色のドアが開く。小鳥遊さんと入れ替わるように姿を現した名も知らぬ刑務官さんが、その背に別の影を従えて入って来た。


「かけなさい」


 刑務官さんが身をかわし、俺はようやく右京の姿をきちんと認めることが出来た。礼ちゃんと合わせたままになっていた掌。俺の膝の上で一度、力を籠め握り合うと、どちらからともなくそれぞれが落ち着く位置へ組み置く。右京が着ている白のシャツが目に鮮やかに映った。


「では、時間はこれより30分とします」


 パイプ椅子の金属音が、礼ちゃんと俺の身を小さく震わせる。ただ、右京の一挙手一投足へ深く見入っていたから。

 さあ、とスタートの合図は鳴った。

 さあ。一体、何から。


「……お久しぶり、ミコちゃん」


 ああ、こんな声だったのか。いや、こんな声だったっけ。もっと低くておよそ感情の籠らない、でも耳に残るトーンで高笑いもしてたような。

 俺はやっぱりあの頃の右京に囚われていて、勝手に抱いていた勝手なイメージが目の前に現れるとでも思っていた?


「……と。山田くん…」


 もともと、綺麗な顔立ちをしていたんだ。そうだった、と思い出す。削ぎ落とされて無駄な厚みがないシャープな顎と続く頬のラインに、年齢を重ねた右京の時間を知る。伏せた瞳は切れ長で涼しげといおうか、すっと通った鼻筋は高くバランスが良い。短く刈り込まれた髪型だけを見るならば学生のようでもあるけれど、不思議と違和が無い。


 瞬きごとに、俺は記憶とリアルを行き来する。

 蔑みの言葉、掴まれた胸倉、向けられる刃、その奥底で何も捕らえていない暗い瞳。

 左の頬がチクチクと痛む。あれは、誰だったんだろう。目の前の人物と、同一なのか。


「……来てくれて、ありがたい」


 ありがたい、という言葉がひどく耳に残った。とても畏まった、それでいて他人行儀な響き。いや、他人には違いない。けれど、俺達の関係性は他人よりももっと遠いんだ。例えば道行くすれ違った人とは、振り向いたその先の未来で仲良くなれる可能性が容易に転がっているのだろう。


 右京と、仲良く。友達になることを切望してきた訳ではない。そもそもどうなりたいのか、すら、ここに来る道すがら、ようやく光を見出せたようなものなのに。

 でもそんな、あり得る選択肢の一つを迷いなく拾い上げるには、俺達の間に横たわる様々な思惑があまりに多い。それを悲しく思う自分がいるのも、確か。


「……ありがたい、だなんて、そんな」


 不意に口をついて出た俺の一言目はそんな、中途半端なものだった。

 もっと他にあっただろうに、とやや前のめりになった俺を戒める分身が何処かにいる。身じろいだ俺に合わせるようにパイプ椅子がカタン、と床を鳴らし、ピクリと肩を震わせた右京の視線がゆっくりと上がった。


(……あ)


 その瞬間の、感情のざわめきをどう表したら良いんだろう。確かに何かがドクドクと脈打っているのに、けれど包まれる静けさの中に、俺達はいた。

 驚いたように目を瞠る右京が、あまりにも“普通”で、俺は一体、何を見つけたかったんだろうと数旬 愕然としていた。


 悪、の匂い? つきまとう翳り? 満たされることのない渇望?


 何の線引きをしたかったんだろう。俺達は、同じ人間なのに。右京の目に映る俺もどうか、普通であるようにと願った。


「……面会、出来るように…早いうちからお願いしてたんだけど」

「なかなか、難しかったみたいで。やっと、今日…なの」


 掠れ、詰まりながらの俺の言葉を、礼ちゃんが引き取ってくれる。それでも滑らかさに欠けるのは、声が多少 上擦っているのは、俺と同じく深呼吸が足りないせいかもしれない。右京は瞬きの後、礼ちゃんへチラリと視線を寄越すと小さく頷き、またすぐに俺を見定めた。

 明らかな隔たりがあるけれど、良く分かる。右京の瞳がただただ捉えているもの。いや、正しくは、箇所。あるいは、部位?


 俺の、左頬の、傷跡だ。


「……この、アクリル板の、せいなのか?」


 それは、誰への問いなのだろう。先程から、さほど広くない空間へ想いが言の葉となり響くに合わせペンを走らせている刑務官の人は、一体何と記録したのだろう。

 自問、だろうか。自答、するのだろうか。右京は。


「……あんまり、深く…残ってないんだな」


 傷。


 その単語に触れた途端、右京の視線は確かに下を向く。俺が、トラウマとは言わないまでも「あの日されたこと」を思い出せば背筋がぞわりと粟立つように、右京にも何かしら、蘇る感覚があるのだろうか。そうして巡らせている思考の間に、しかして右京の視線はまた戻って来ていた。


「……もっと…残ってるんだと、思ってた。今日、オレは…そこから目を、逸らしちゃ駄目なんだ、って。言い聞かせながら、ここへ来た」


 俺は息をのんで、けれど咄嗟に何も口に出来なかった。

 俺の頬の傷から目を逸らさないこと。

 それは右京にとってどれほど重い枷だったのだろう。どれほど辛い責苦だったのだろう。そう考えると胸の内の眠れる何処かがちくりちくりと痛む。

 俺を主体に置けば、右京をそんな目に遭わせたのは、誰あろう俺だから。


 でも一方で、それは当然だと考える自分も確かにいるんだ。何様だと思うけれど、否定出来ないし、目を瞑ることも出来ない。

 ここで、日常から隔絶されたこんな灰色の世界で、右京にどうあって欲しかったのか、ってやっぱり。たった今、右京が苦しげに吐き出してくれた具体的行動を一つでも多く目にしたかったんじゃないか。

 分かり易い悔恨。分かり易い猛省。分かり易い更生。


(……違う、それだけじゃなくて)


 せめぎ合う想いはどれも引き下がってはくれなくて、だからか上手く言葉に出来ない。だけど右京へ、ここから先へ独り進むのを待って欲しくて、俺はひとまずかぶりを振った。俺の像がたとえブレようと、しっかり見定めたままの右京と視線を合わせる。


「……どうして、そう…思った? ここで、何をどう、考えたのか…教えて欲しい」


 喉元がひくついて、口の中がカラカラに渇いて、声がうわずって、情けないし恥ずかしい。右京の方がよほど落ち着いて見えるけれど、声に出す前、喉仏がくっきりと上下し、唇を舐める仕草だけを見てとるなら、俺達と同じだろうか。


「……山田くんがそれを知ることに、意味がある?」


 距離がある物言いだな、と思った。いや、それは至極真っ当な返答なのかもしれない。俺だって今日、右京と無二の親友になることが出来ると思ってノコノコやって来た訳ではない。それでも俺の問いは全面ウェルカムで受け容れられたのではないからへこたれそうになる。諦めたくない、なんてどの口が言ったんだ。


「……意味は、あるの、右京くん。届いた手紙じゃ、分からなかったの」

「……何、が…」

「右京くんの目を通して、ここでの四季の移り変わりや、生活の様子を…見ることは出来たわ。でも、分からなかった、右京くんが何を感じてどう思ったのか、ずっと何を、考えてきたのか」

「……だから、どうして、」

「知りたいからよ」


 礼ちゃんのその声は、澄み切った空気中を凛と伝わりゆく鐘の音のように、限られた空間へ響いた。それまでまるで気配を消していた刑務官の人ですら、ちらりと視線を上げるほどに強く、とても強く響いた。

 右京は、と見れば瞬間 瞠目し、それからすぐに表情を歪める。堪えているようで溢れくる激情の波をどうすれば躱せるのかと懸命に抗っているような。噛みしめた唇から漏れ聞こえたのは、駄目だろ、という短い言葉。駄目だよ、だったのかもしれない。


「……オレが何を感じてどう思ったのか、なんて…ずっと、何を考えてきたのか、なんて…ミコちゃん達は、知る必要、ないと思う」

「どうして?」

「そんなの…知って欲しい、理解して欲しい、なんて…オレには、そんな権利は、無い…そんなの、」


 赦しを乞うているのと同じじゃないか。


 至って、平坦だった。強弱も抑揚も無かった。それでも泣いているように、叫んでいるように、聴こえて仕方なかった。


「……オレは、それまで、見たことがなかったんだ」


 赦しを乞うことの、何が悪いんだろう。俺の思考はそこで一旦 停止してしまって、だから右京が指す“それまで”を正しく理解しないまま、話が少し先へ進んでしまう。


 悪いことをしてしまった、という罪の認識。置かれた環境だとか、自分自身ではどうしようもない、どうにもし難い要素に全て責任を擦り付けるのではなく、自責を問い、それと真摯に向き合うことで悔恨も猛省も生じるんじゃないか。柳井との一件に於ける自身を振り返る。比較対象になんてならないのかもしれないけれど。


 俺は正直、どこか安堵していた。酷く上からの言い様だ、けれどほっとしていた。右京はここで何も感じず何も考えず、ただ日々を惰性に任せ過ごしてきたんじゃない。礼ちゃんの心配は杞憂だったんだ、きっと右京は俺達が想像する以上に思考を巡らせ続けてきたのだろう、どっぷりと身を浸す時間もあったのだろうし。


 むしろ、俺達へそれをチラとも垣間見せず、思う通りを貫き通した頑強な姿勢を、俺はどこか称賛すべきなのではないかとさえ考えていた。同情を誘うことだって出来たはずだ。でも右京は、そうしなかった。


「オレがしでかしたいわゆる“悪いこと”は…全部、親父がどうにかしてくれた。自分が誰かをどんな風に傷つけたか、誰かの人生をどう狂わせたか、なんて…」


 目にしたことも、考えたことも、なかった。


 なおも苦しげに吐露する右京の瞳は、やっぱり俺の左頬へきちんと据え置かれたままで、だから俺も精一杯、受け止めた。もがいて足掻いてみっともないのは、恥ずかしいことじゃない。


「……捕まらなければ悪いことじゃない、公にならなければ悪いことじゃない。うちの親の倫理観なんてそんなもんだよ、そんな親に育てられたオレは…兄貴もだけど。到底、マトモじゃないんだ」

「……でも、右京くんが…早く、出てこられるのは。親御さんのサポートがあるからこそ、じゃないのかな」

「あいつらは、一度も面会に来てないよミコちゃん」


 あいつら、ってその表現が指しているのは明らかに右京のご両親で、それは乱暴な言葉遣いなんだけど、沈んだ声音が何より悲しかった。瞬きと共に落ちていく視線が切なかった。

 好きこのんでそんな風に言い表したい訳じゃないんだよな。抱く悪感情は、飢えてやまない右京の渇望を裏返しに表したものかもしれない。そうじゃない、なんて誰にも言い切ることはできないと思う。

 憧れる家族の風景は、あったんだろう。与えられる現実との乖離は、少しずつ少しずつ右京を蝕んでいったのかもしれない。


「秘書か弁護士だよ、ここに来てくれたのは」

「右京くん…」

「……でも。そうだね、それでも面会の回数にはカウントされるし。差し入れなんかも、あったし…この中ではね、そういう外との関わりが多いかどうかってわりと大事なんだ」


 虐められないポジション確保のためにね。


 右京の口の端に浮かぶ諦めにも似た自嘲が、俺のこめかみ辺りをキリキリと締めつけた。

 中と外。確かに俺達を分かち違えてきたその隔たりを、どうしたいと思ってここへ来たんだ? 俺は、何の為に、何をしに、ここへ来たんだ?

 大丈夫。そんな呪縛のような自問からは、すぐ抜け出せる。大切なことはいつも、わりとシンプルだから。


「右京は…あの日から、動けずに、いる?」


 ああ、俺ってば。脳内でずっとそう呼び続けてきた通りを口に出してしまった。もう、取り返しつかないけど、右京、って馴れ馴れしすぎないか。上手く言えやしない、でもその時の俺は「真坂くん」なんて後戻りする方がよほど取り返しがつかないような焦れったさを感じていた。


 所詮、俺達の関係性をどんなフィールドへも綺麗に乗っけることなんて出来ない。どんな名称もつけ難い。歯がゆい。だからってそこで立ち止まったままでいる気はさらさら無いんだけど。


「? …山田くん…」

「否応なしに時間は過ぎる、俺の傷だって、治る。生きてる、って…そういうことだ」

「……そう、」

「でも、それじゃこの先を“生きてく”ってことには、ならないんだよ」


 どこかで俯瞰している俺が告げている。この時間は有限であるということ。

 そこでまるで気配を消しペン先だけを僅かに滑らせていた刑務官が、チラリと壁の時計を見上げた視線を俺は見逃していない。


「三年、いろいろ考えたよ。それを今ここで一つ一つ、右京とすり合わせる時間は、ないけど」

「……うん。それは、そうだ」

「見つかった? 見つけられたのか? お前は…どうだった?」


 そうだ、お前、って。あの日、俺は右京の名前なんて呼んでないんじゃないか。お前、って。でも今日の俺は明らかに、このたった三文字にだって籠める想いがある。


「……、っ…何、を——」

「本物の光。忘れたことなんて、ないだろ?」


 礼ちゃんが俺の隣でゆっくり、大きく頷く。それはきっと、礼ちゃんも訊きたかったこと。いや、礼ちゃん“が”、一番 訊きたかったことだろう。横取りしちゃったな、俺。ごめんね、礼ちゃん。


 でもこの右京を纏う諦観の空気が、どうにも俺を急き立てる。答えを得られないままに今日、もしも別れてしまったら、もう二度とチャンスは巡ってこないような。ずっと一生、解らないままでいるしかないような、そんな焦りが胸を叩く。


「……それは、」

「礼ちゃんが、差し入れしたあの手紙。持ってるよね? 勿論」

「勿論、でも——」


 頼りなく揺れていた右京の視線が再び俺へと戻ってくる。そこに嘘偽りを感じないのは、別に俺がお人好しだから、とかじゃないと思うんだ。


「……それも…そういうのも。オレが求めちゃ、駄目だろう? 酷いことを、したんだよオレは。それこそ、何だってごめんで済むなら――」

「した理由が、あったよね?」


 右京の言葉じりへやや被せるように問いかける。前のめりの姿勢そのままに、この気持ちの勢いが右京に伝わると良いのに。


「いや、少し違うな…酷いことを、して良い理由には何一つならないから。飢えた想いを自分の内側に溜めこむことしか出来なくてずっと独りで泣いてたのが礼ちゃんだとしたら。何かにぶつける術しか知らなかったのが、右京なんだと思う」


 俺は確かにあの時、根拠も理由も無い悪意は存在するのだと知ったし、嫌と言うほどそれをぶつけられたのだけれど、世の中の罪をおしなべて論じるつもりはないんだ。

 だとしても、右京の「理由」を。「根拠」を「背景」を。斟酌せずには、いられない。


 分岐点なんて、分からない。それでも右京を遡ったその何処かに、礼ちゃんとよく似た背中を俺は見つけてしまうんじゃないだろうか。礼ちゃんの変化の兆しを、俺との出逢いに紐づけるのは甚だ傲慢だと知っている。だから右京に対しても、俺は甚だ傲慢なんだ。


「右京のことを、可哀想、とか言うんじゃなくて…同情、なんてありきたりなものでは、ないんだ。だって今ここにいる自分は結局、自分でそう選んで生きてきたからこそ、だよね?」

「……あぁ」

「勿論 選べない境遇はあったと思う。親兄弟とかお前ん家が無駄に金持ちで権力者だったこととか…頭 良すぎたとかイケメンすぎたとか。プラマイひっくるめてもともと“あった”ものだもんね?」


 俺の口調はもはや崩れてきていて、こんな場所だからと一応は張っていたはずの肩肘から力が抜け大きめのジェスチャーへと変わる。それは僅かばかり、右京の驚きと戸惑いを買ったらしい。見開かれた瞳の奥の光は、まったく死していないんだ。


 伝えたいこと、あるんだろう? 言葉に出してくれなきゃ、分からないんだ。だから頼む、と目で訴える。俺ばかりが息せき切ってるのかもしれないけれど、時間が気になって仕方ない。


 でもね。たとえこの場で全てを伝え終えられなくても、もう俺は放置したりしないよ。行動しなければ掴み取れないその先は、必ずある。それは想像ばかりをしてたって、絶対に何も知り得ないことを知ったから。棚からぼた餅なんて、そうそう落ちてこないんだよ。


「……山田くん」

「な、うん、何?」

「……だから、さ。オレの境遇は、変わらない…変えられないから。身元引受人は、親なんだよ。世間的には立派な親だ…変わりたい、とオレがどれだけ願ったとしても、変わらない場所に帰って、それでも変われる自信が…」


 ない、と否定的な言葉で締め括られるのだろうと容易に感じとれた。よく分からないけれど、微々たるものでも抱える負の要素って、右京の早期社会復帰を妨げることにならないのか、と刑務官の手元が常に視界の隅に在るから、そんな考えがちらりと掠める。だから俺は慌てて遮った。あのさ、と。


「俺は、右京のことを、諦めないから。だからお前にも、簡単に諦めないで欲しいんだ」


 ああ、これは戸惑いの色が勝ってるな。あまりにも分かり易い右京の表情に、俺は不謹慎極まりないけどほんの少し噴き出してしまった。

 急いで口元を掌で覆い刑務官さんを盗み見る。なんて記録されてるんだろう。


「告白みたいだ、って礼ちゃんから言われたんだけど…ほんと、今、本当にそう思ってて」

「……それ、って……どういう、」

「あぁ、分かんないよね意味。いろいろすっ飛ばしすぎだよね俺」


 口元を覆っていた掌が宙をさ迷っていて、所在なげなそれを俺はパイプ椅子の位置を整えるという無意味な動作にあてる。

 ちょっと、仕切り直し。時間、まだ大丈夫かな。礼ちゃんだって言いたいこと、たくさんあるはずなのに。


 ごめんね礼ちゃん、と心中でこれでもかと詫びながら、集中しろ、とも自身へ言い聞かせる。どんな瞬間より凝縮された一秒ごとに、直感が厳選する言の葉を紡ぎださなくては。


「俺達…だけじゃなくて誰にも、なんだろうけど。どうにも出来ないことってあるよね? どうにも、手伝えないこと。それこそ右京の親父さんを他の誰かととっ替えてあげることなんて出来ないし、過去を無かったことにも出来ない。何かしら手を差し延べることが出来てたら、結果としての今は違うものになってたのかなあ、と思うけど」

「でも、それだとこれまでの右京くんを否定することになりかねないわ」


 緩くかぶりを振りながら、礼ちゃんがやや俯く。そうじゃないんだよね、礼ちゃん。そんなことをしたいんじゃない。俺だって、同じだよ。

 どうにも出来ない“今まで”を、嘆き憂い見て見ぬふりをするのではなく、一旦まるっと受け容れて、諦めたくないのは。


「だから、そうじゃなくてね、言葉は悪いけど、そこは置いといてね。俺達は、これから先の右京のことを、どうにも出来ないねー、なんて簡単に諦めたくないってこと。求めちゃ駄目だ、ってお前、頑なに戒めてるっぽいけど…そんなの、いいんだよ。目の前に剛速球 投げられたら咄嗟に手 出るよね? 受けとめるだろ? そういうことだよ」

「違っ、…そんなの、」

「違わないよ、今まで無かったものだから手にしても扱いが分からない、ってんなら必死に掴んでろよ、離さないように」

「そう、いいのよ右京くん」


 気持ちの昂りは言葉の合間に継ぐ息を絶え絶えにする。30分間、なんて体感で把握しづらいけど、礼ちゃんもきっと終わりが近いと嗅ぎとってる。


「でも…でもね、お願いがあるの」

「な、…」


 右京は、忙しく瞬きを繰り返しながら、俺に礼ちゃんに、視線を合わせることに追われている。脳内の処理も追いつかないのか。一気に流れ込んだ俺達の言葉をきちんと書き留めようとするかの如く、大きく筋張った右手をこめかみに這わせていた。

 それはかつて、暗闇の中で銀色に光る刃を俺へと向けていたもの。不思議と、同じものだと思えなかった。


「与えてもらえる幸せって、あるのよ。優しさだって温もりだって、いろんな人達がいろんな示し方や伝え方で与えてくれる。分かり易いものも、分かりづらくって、でも後からじんわりくるものもあるわ…私達に圧倒的に欠けてた“両親からの愛情”だけじゃなくて、愛は世界に意外と溢れてた」


 右京と自分とを“私達”と括る礼ちゃん。横顔に浮かぶ綺麗な笑みを俺は静かに見つめていた。微かな嫉妬、なんて、そりゃあ、あるけど。それすらも俺がまるっといただいた礼ちゃんの一部で、紛れもない真実。


「求めても、叶わないと諦めてた…でも、ある日突然、降ってきたの、私の、この手の中に。あの日から私は、じたばた努力してる。二度と、手離したくないから」


 だから、と息をのみ言葉を継ぐ礼ちゃんの身じろぎと同時、刑務官さんがまた壁の時計を見上げた。俺の視界の隅で確実に認めたその動きの先を止めたくてたまらなくて、効果なんて無いだろうけれど、とにかく眼に力を籠めて祈る。


 もう少し、あと少しだけ。お願いです、時間をください。


「ここを出て、戻らなくちゃいけない場所がお家だったとしても、私達のところへも、ちゃんと来て?」

「ミコちゃん…」

「甘やかす訳じゃないわ、私は右京くんが神威くんへしたことを忘れない、忘れられない、でもそれは、赦さないってことじゃない。右京くんも、そうでしょう? 忘れないでしょう? 忘れられないでしょう? でもだからってそれは、ずっと赦されないってことじゃないわ」


 こんなにも自分自身を研ぎ澄まし、集中した30分間なんて、きっと後にも先にも無いだろう。稀有な局面、って俺のしがない21年間にもいくつかあったと思う。思うけど。

 冷静さとは真逆の興奮とがせめぎ合い、俯瞰しているのだけれど迸る熱さに焦がれ、自分自身がちぐはぐな感覚に置かれている。きっと名も知らぬホルモンが身体中を駆け巡っているんだ。深呼吸をしてみたところで、一言のたびに肺から何かがこみ上げてきそうになって、まるで、そう。今にも、泣き出してしまいそうな。叫び出してしまいたいような、ギリギリの激情に支配されている。それはただ、場の雰囲気だけに呑まれている自身の幼い緊張感とは似て非なるもの。


「掴めるわ、掌を…拳を固く、いつまでも、血が滲みそうなほど握りしめたままでいるんじゃなくて、広げてくれれば良いのよ、たった、それだけ。でもその先で、努力を、して欲しいの…二度と、手離さない努力」

「……っ、コちゃ――」


 俺達が口にしてきた内容を文字にしたならきっと、いつもよりずっと読点が多いのだろう。そんなことを、考えた。

 検証なんて出来やしないけど、果たして右京にちゃんと伝わったのかどうか心配だった胸中は、俺達を隔てるアクリル板の向こう、顔を、いや頭を抱え込むようにしてしゃくり上げる右京の姿を認めた途端、穏やかに、凪いだ。


 俺の隣で泣き虫の奥様も、静かに静かに、涙していた。


「ごめんね、厳しいこと言って」


 礼ちゃんの謝罪の言葉が至極澄んだ響きとともに空間へ染み入る。ひどく心が揺さぶられるのは、礼ちゃんの声が震えているせいじゃないんだろう。


 厳しいことを言うかもしれない。昨夜、礼ちゃんはそうこぼしていた。でもこういうの、って言われる側だけが一方的に辛いんじゃないよね。伝える側だって、相当にしんどい。根っから優しい礼ちゃんにとってかなりの苦行だろう。


 でもね、礼ちゃん。その厳しさは、何のためで、誰のためで、どんな未来に繋がっているのか解るから。理解し難い厳しさに押しつぶされてきた右京のこれまでとは違うから。


「……変わらない理由を探すのは、きっと。簡単なんだと思う。変わらなくていい、って言い訳になるから」

「……っ、わか、…っ、」


 わかる、なのか。わかってる、なのか、わかった、なのか。

 涙混じりの右京の声は掠れすぎてもはや音と化している。窺うこちらの気配を察したのか、白いシャツの袖口で顔を乱暴に拭うと、右京は深呼吸を数回 繰り返した。

 この“間”すらも、俺達には必要なもの。どうか過ぎゆく時間にカウントしないで欲しいと願った。


「……今日、」

「……うん」

「……罵られるか、と…思ってて」

「礼ちゃんから? まさかね、主に俺からでしょ、それ」

「……ごめん、……でも。その方が、楽だと思った」


 ふう、とまた大きく息を吐く右京を、ただじっと見つめた。急き立てたい、でも。きちんと待ってあげたい。俺は無理やり、刑務官さんの姿を視界から追い出す。


「……ここに、入ってるのって。なんか…パフォーマンスにすぎないんじゃないか、って…途中で、何度も、思った。悔い改めました、ってどれだけ言っても…そういうの、形が無い。見せたいと思っても、見せられない…」

「だからいっこも書いてこなかった? 自分の気持ち」


 手紙に、と慌てて追加したけれど。みなまで言わずとも右京自身がよくよく分かっていることだろう、目を伏せながら頷く姿と、刑務官さんが背を正し何か言いたげな視線を右京へ向けた姿が同時に目に入る。


「書いてよ、今度からちゃんと書いて? 目に見えないものこそ、信じるしかないと思うんだけど俺は。でもほら、俺は無償で盲目的に右京のこと信じてあげられるほど人間できてないから、やっぱ裏づけは欲しいかな」

「……人間、できてるだろ」


 そろそろ、という無情な言葉が俺達の間を分かつ。伝えたいことに心残りはないか。急ぎ30分間を巻き戻して検証するけれど、ああそうか、と途中で気づいた。


 大丈夫。

 これから先、話をする機会なんてきっと、どれだけでもある。


「……今日、は。ほんとに…ありがとう。ミコちゃんも、山田くんも」


 立ち上がるように促されながら、右京は最後をそんな風に締めくくった。この空間へ足を踏み入れた瞬間よりも、表情が随分と柔らかい。目に見えて、分かり易い。単純だけれど、信じられる。

 うん、と幼く頷くことしか出来なくて、こんな時しなやかにスマートに立ち振る舞えない自身の男子力を思いっきり呪う。

 いつの間にか、俺達の後ろには小鳥遊さんが穏やかな空気を携えただ、待ってくれていた。




 一つ、何かをやり遂げた爽快感で満たされる、というよりは、礼ちゃんも俺も、たぶん内側から出し尽くした何か、の方が大きいのだろう。漲るオーラとか迸る気力は残念ながらもう残ってなさそうだ。小鳥遊さんが導くままを連れられて歩む。

 途中、安堵からのため息を漏らしたそのタイミングが見事に礼ちゃんと重なって、場も弁えず不謹慎かな、と思うより先に苦笑してしまった。


 顔を見合わせる。互いの目を見つめる。あの部屋を出た時は言いたいことがたくさんあるような気がしていたけれど、不思議と今、霧散した。

 もう一度、面会を最初からやり直したい、なんて歯がみするような悔いは、礼ちゃんにも無さそうだね。


「……泣いてしまった」

「まあ。礼ちゃんの泣き虫はプリインですから」

「成長の証を見せたかったのに」

「変わらないでいてくれる幸せと安心感、ってあるでしょ」


 ほらあの人みたいに、と裏口へと通じる廊下の端で、佇み腕組みする葛西先生の横顔を見遣る。

 ただ、求めてやまないあの視線が俺達へは向いておらず、俯き加減。たったそれだけの、普通に有り得ることなのに、ひどく違和感を覚えた。


(……電話中?)


 声に出さない俺の疑問へ、思いがけず小鳥遊さんが答えをくれた。


「……駐車場に。真坂くんの父親と秘書が来てるんだ、どうやら記者らしき人間もいるようでね」


 そうか。そうだった。今日はまだ、すべてが終わった訳じゃない。

 俺は ありがとうございます、と小鳥遊さんへ告げ、葛西先生へと一歩踏み出した。先生、と小さく声に出しながら近づくと、顔を上げた先生が軽く右手を上げる。思わず立ち止まりその仕草の意味を深慮するより先に、すっと立った人差し指の滑らかな動きが俺の目を釘付けにした。

 見慣れたスマートフォンのディスプレイへと視線が導かれる。背景が黒の画面へ浮かび上がる白の文字は、心と通話中であることを示していた。


「……すみません、ここで…少し待たせていただいてもよろしいでしょうか」


 ごくりとひと息を呑み、刻一刻と重なる通話中の秒数を見つめてしまっていた。左手でスマホを傾けてみせながら、葛西先生は俺の後ろの小鳥遊さんへそう断りを入れる。視覚だけをそこへ寄せていた礼ちゃんと俺だったけど、言葉を発する前に顔を見合わせた。

 この通話、スピーカーから丸聞こえじゃない?


 ご迷惑をおかけするような事態にはならないと思います、とは葛西先生の言。

 息子に会うつもりははなから無さそうですね、とは小鳥遊さんの言。

 状況が掴めず思考が停止する俺へ、礼ちゃんがそっと囁く。


「……この声…お義父さんだ」

「弓削がね、神威のお父さんのすぐ傍にいて…さっきから会話を拾ってる」


 誰と、誰の、会話なのか。うっすら想像はつく。それは扉を持たない出入口から駐車場を覗きこめば、簡単に紐解ける。どんな構図がそこに展開されているのか、例えば一体、武瑠はどこにいるのか、それも一目瞭然のはず。

 俺は電子機器を通じて聞こえる声をきちんと理解することより、まず目で確認する安心感に頼ろうとした。葛西先生に、止められたけど。


「……先生?」

「神威。ここは…神威のお父さんに、任せてみない?」


 半ば無意識にふるふると、俺はかぶりを振っていた。よくよく考えて葛西先生の言葉に異を唱えた覚えなんて、ほぼほぼ無い。だからもうこれは、あれだ、脊髄反射の域だ。


「嫌?」

「……嫌、というか…そんなつもり、無かったので」


 先生は穏やかに、端的な言葉で俺の気持ちを大事にしてくれる。そっか、と落ちた静かな確認の後で、だから「でもね」が続くとは思いもしなかった。


「……神威は今日、一人でここに来てるの?」


 勿論、答えは否、だ。体現する反応がさっきと同じで、ひどく自分を幼く感じる。


《この三年、》


 不意に父ちゃんの声が耳に入る。よく聴こえるように、との配慮からだろう、伸ばされた葛西先生の左腕。俺達との距離をさらに詰めるべく踏み出された一歩。間近で分かる瞳に籠められた力の強さ。

 そのどれもが、なんとなく。なんとなくなんだけど。駐車場へ向かおうとする俺を阻むような向きなんだ。


《……ずっと、考えてきました。なぜ、うちの子達がこんな目に、と。なぜ、うちの子達が傷を負わなければならなかったのか、と》


 どんな想いで、どんな表情で、今。父ちゃんはこれを口にしているんだろう。そう考えると胸がしめつけられるように苦しい、喉の奥がぐ、と無様な音を鳴らす。親不孝なことはもう、したくないのに。

 父ちゃんはあまり、激しい感情の起伏を表に出すような人じゃない。顔は母ちゃん似だとよく言われる俺だけど、中身は父ちゃん寄りなんだ。だからこそ解るようでいて、でも、遠い。俺はまだ、父親じゃないからか。


 それでもここで“達”と。“うちの子達”と。不自然さの欠片もなく、当たり前に言いきってくれたことに、目の縁がじわりと熱くなった。


 具体的に何を仰っているのでしょうか、と直に耳にした覚えのない声が聞こえた。一瞬 息をのんで、でもテレビやラジオといった電子機器を通じても触れたことが無さそうだと記憶を元に答えを出す。

 だからこれは、秘書、という人の声なのだろう。そこにある想いにまるで気づかないふりをして、直截に答えだけを求めようとする姿勢がやけに俺を苛立たせる。


《こちらとしましては謝罪のかたちをきちんとお示ししたはずですが》

《……いえ、そういうことを言いたいのではありません》


 静かに応える父ちゃんとは乖離し、俺は一人 あの頃の腹立たしさを抉り出された気分になる。

 何の感情も伴わずただ、我が家の玄関口へ積まれた札束。俺は直接、それを目にしていないけれど、この人達が指す“お詫びのカタチ”ってそういうことだ。

 ゴソリ、とスマートフォンからより近く動きを伴う音がした。ひどく自分勝手な捉え方だけど、心が心なりの怒りを表してくれているような気がする。


《……子どもは、何もないところから独りで勝手に産まれ、育ち、大人になっていくのではありません》

《貴方と子育て論を交わしている時間はないのですよ、山田さん》


 先生はお忙しいので、とその先を阻むように繰り出される言葉。努めて平坦を維持しようとする人間をわざわざささくれ立たせるような、その物言いに俺は下唇を噛みしめる。


 あえての、作戦なのか。いや、何の作戦だよ。ごめん、父ちゃん。


 さっきから一言も発していない“先生”とやらは本当にそこにいるのだろうか。綯い交ぜになっていく胸の内は俺に地団駄を踏ませる。そっと、礼ちゃんに握りこまれる右の拳。先生の温もりが近くなる身体。

 二人の目に俺は今、どんな風に映っているんだろう。


《お時間がないのならなおのこと…息子さんに、会われてはいかがですか。うちの息子に、ではなく》


 しん、と静けさが落ちる。俺へと向けられるスマートフォンのディスプレイが一秒ごとの時の経過を教えてくれる。


《……ここで、何時間お待ちいただこうと。私は息子を真坂さんに会わせるつもりはありません》

《神威くんは成人されたのではなかったかな? 親御さんのお許しは特に》

《そうですよ、》


 ああ、“先生”とやらはちゃんといたのか、と。同じ“先生”という単語でカテゴライズするには、あまりに俺の傍近くで支えてくれている存在と隔たりが大きいな、と。真坂市議の声を拾った。


 元、市議 と呼ぶべきなのか。いやそれよりも、そもそも、右京のお父さん、なんだ。真坂 右京という「個」をきちんと認めた今、それが正しい関係性なのだろうし、しっくりきてもおかしくない筈なのに。

 どうしてだろう、口の中に苦いものが広がる感覚。神威くん、と気安く呼ばれたことにも俺は、ひどく醜い感情を抱いている。

 恐らくこの会話において初めて、父ちゃんは相手の言葉じりへ強い語気を被せた。


《息子も娘も、二十歳を超えました…あれから三年が経ったんですよ。お忘れですか真坂さん、貴方の息子さんも、二十歳を超えたんですよ…この場所で。ご家族の元ではない、この場所で》


 二度、繰り返された、強調の一言。父ちゃんの視線なり右手なりはきっと、背後にただ聳える灰色の建物を指しただろう。目にしなくてもそうだと分かった。


《……抽象的すぎて理解に苦しみますな》

《子どもは環境に左右される、時に支配されることもある、真似て成長していくものですから抗う術を身につける前に飲み込まれていく子もいるでしょう。右京くんという人間の基盤も価値観も、何も無いところから勝手に出来上がった訳ではない。貴方達の言動は、彼に少なからず影響を及ぼしてきたんですよ》


 沈黙が、痛い。俺がその場に相対してる訳でもないのに、苦しい渇きを覚える。

 父ちゃんに任せようと、はっきり心決めてもいないのに、もはや止められない流れに、自分の力無さを改めて痛感する。

 それならば。今この、泣き出しそうに押し寄せる激情を上手くいなすことも出来ないのならせめて、震えながらでも父ちゃんの一言一句すら聞き漏らしちゃ駄目だ。


 右手をしっかりと繋ぎ直す。礼ちゃん。俺は、独りじゃない。礼ちゃんも、独りじゃない。

 左手で、先生の右腕を掴む。俺は本当に、沢山の人に育ててもらってきた。知らず与えてもらった温もりを当然とやり過ごさず、甘えない努力が必要なんだ。


《真坂の子育ては間違っていた、と。そのように仰りたいのでしょうな、山田さんは》

《そうではありません、子育てに正解なんてきっとありません…大切なわが子が犯罪に巻き込まれた、それは守りきれなかったお前の誤ちだと詰られれば、私は子育てを間違ったのだとしか言いようがない…》


 おじさん、と。たぶん、心の声だろうな。ふるふるとかぶりを振る俺の動きと重なったその一言をひどく嬉しくありがたく感じた。

 ただ、呼んでくれただけだ。けれど、そこにきちんと否定の音を含んでくれた。


《……それでも、ここに。公人として来られた貴方を、私は受け容れることができません》


 それならば山田さんも、と続いた反論へ、勿論、と父ちゃんは応じる。


《私も公務員ですが…今日は、神威の父親としてここにいます。あの日、ちゃんと守ってやれなかったわが子を、今度こそ、守ってやりたくてここに来ています。秘書を連れ、記者を従え、先生と呼ばれ、スケジュールに追われ…ここまで来られているのに、右京くんと会うおつもりはなかったんですか》

《……その件につきましては、私が一任されておりますので》


 口を挟んだ秘書の人から、当初のような勢いは消えている。それは父ちゃんの穏やかな口調に合わせて、というわけではなさそうだ。


《私は真坂さんに訊いているんです》

《お応えになる必要はないかと》

《でしたらこちらも、何ら応じる必要はないかと》


 流石に周囲の音まで細かく拾えるほどの性能をスマートフォンのマイクに求めるのは無理。それでも十二分に、瞬時にささくれだつ空気感を伝えてくれた。まさか、暴力沙汰なんてことにはならないだろうけど、父ちゃんが理不尽な力に曝される事態は居た堪れない。


 俺はゴクリと喉を鳴らし顔を上げ、出入口の向こうを窺い見た。視界に確実に捕らえることは出来ないけれど、今。俺達のために、生身で事に当たってくれている人がいる。


 独りでここへ来たわけじゃない。俺はその本当の意味を分かっていなかった。

 三年、俺 独りが足掻いてもがいてきたんじゃない。それぞれがみんな抱えてきた、消し去れない燻りが未だ熱を持っているんだ。


(……父ちゃん、)


 ごめん、と胸の内が声になっていたのか、葛西先生が確かに言ったんだ。「神威。ごめん、じゃなくてね」と。


「ありがとう、じゃない?…神威のお父さんはきっと、その方が喜んでくださる。夫婦、ってそんなとこまで似てくるんだな」


 再びの沈黙が続くスマートフォンの向こう、俺は凝視していたディスプレイからゆっくりと視線を上げ、葛西先生の端整な顔を見つめた。


「……御子柴に、何度も言ったなあ 俺。かけたのは迷惑じゃなくて心配だよ、ってさ。御子柴、ありがとうよりごめんなさいが多いタイプだったよね」

「……少しは、変われてるんじゃないかと…私は、思ってるんですけど」

「じゃあ、ダンナ様も。ほら、それこそ“ふしょうふずい”でしょ」


 この場合、夫と婦の字が入れ替わってるような気もしますが。

 ディスプレイを透過して突き刺さりそうな、向こう側の見えない静けさを、柔らかく解してくれる葛西先生の声だった。


 蘇る記憶がある。時を遡ってなお手に取るように思い出される場面がある。言葉がある。声が、音が、景色がある。三年がぐるぐると俺の周りを巡る。

 何だろう、瞬間。ぶわりと熱いものが内側からこみ上げた。


 あーあ、もう。そろそろ、限界かも。泣いても、いいかなこれ。大の男がいい歳して、って自分で思うよ。解ってるよ。それでも。どう自制していいのか分からない。誰か、涙を流してもいい理由を俺にくれないかな。


《……平行線をたどるばかりですな、このままでは》

《……交われる余地は、充分あったんじゃないでしょうか。貴方が政治家としてのご自分を、父親としてのご自分より優先させなければ》

《結局、批難なさりたいわけですな》

《違いますよ、物事はそんな単純明快な答に収まるものばかりじゃない。子ども達と同じように、貴方も真に苦しんだのかと問いたいんです。貴方が打ち出す政策は、抉られた傷の、血だらけの中から拾い上げたものなんですか》


 父ちゃんの吐く息までもは感じられない。それが酷くもどかしかった。父ちゃんは、解ってくれてるのに。


 いくつくらいからか。日常のひとコマひとコマをつぶさに話すことはしなくなった。比較的、山田家は円満な家庭だったと思うけれどそれでも。

 病院のベッドの上で顔も、頭までも、真白の包帯でグルグル巻きにされた俺を目にした時の父ちゃんや母ちゃんの心中は、どれほど複雑な想いが渦巻いていたんだろう。きっと正しい情報も背景も少なく、相関図も無くて。あからさまに分かり易く、恨み辛みをぶつけられる先が無ければそれは、自身への責めとなって跳ね返ったに違いない。


 四六時中、ともに居る子育ての時期は過ぎ、残酷なほどに時折しか触れる機会がなくなって。けれどその中から、拾い上げてくれてるんだ。

 もがきながら、大人になっていく俺達を。


《ここで山田さんと論戦を繰り広げるつもりはありませんがね。私も辛かったんですよ、一度は政治生命を絶たれましたからな》

《私“も”、と言われますが…右京くんと共に辛さを分かち合われているようには思えませんね》

《……プライベートな問題ですな。あまり立ち入らないでいただきたい》


 強ばる声音は真坂さんの苛立ちを伝えてくる。先生、そろそろ。と控えめながらも引かない図々しさを併せ持った秘書の人の声が割って入った。


《神威達には、ありませんでしたよ…あの件におけるプライベートな領域なんて。被害者の方がより、晒されますね、プライバシーを。情報化社会の恐ろしさを痛感したものです。この子達もただ神威の友達だというだけで、本当に可哀想な目に遭わせてしまった》


 またゴソゴソと、衣ずれのような音がした。きっと父ちゃんが隣に居並ぶ心へ触れたのだろう。


《ですからその点についてはお詫びを、と》

《お金で、無かったことになんて出来ないんです》

《……別の何かをお望みでしたか?》

《私はただ、きちんと向き合っていただきたいだけです。ご家族の皆さんで右京くんの帰りを温かく迎え受け容れていただきたい、それだけです》

《山田さんにわざわざ念押しいただかずともそこは》


 バタン、と。車のドアだろうか、重く分厚いものへ勢い任せの力がぶつけられた音がした。


《…、先生も、お考えになっておられます、》


 矢庭に慌しさが場を覆う。真坂先生のお時間が、いよいよこれ以上を許さない状況なんだろう。

 あの人は結局、右京に会うつもりはこれっぽっちも無かったのか。父ちゃんと対峙しているこの時間、例え前からの約束が取り付けてなかったとしても、あの人なら許してもらえたんじゃないかと思った。そんなの、なんて言うんだろう? 政治的権力? その誇示や振りかざし方にマニュアルは無いだろうけれど。よほどそんな風に使ってくれたらよかったのに、と考えた俺は、もうどこか麻痺しているのかもしれない。


《真坂さん》

《まだ、何か》

《もう一度…いや、何度でも。お考えになってください。起きてしまった事は、無かった事に出来ないんです。事を起こさないために過去へ戻ることも、事が起きないであろう未来を選び直すことも出来ないんです。それでも子ども達は、まるごと引き受けて生きていこうとしています》

《………》

《この子達はきっと、経験がない子より解ってあげられる人間になるはずです。傷つけた子の痛みも傷つけられた側の痛みも、世界が優しさだけで満ち溢れているわけではないことも、誰のせいに出来るでもない理不尽さはそこかしこにあることも。知って、理解して、どうすればいいかを行動に変えられるはずです》

《……何を、仰りたいのか、》

《変わろうとする人間の傍に、相変わらずの人間が寄生する悪をお考えになっていただきたい》



 神威、と俺を呼び止める葛西先生の声がした。それを認めたものの、動き出した自分を止められなかった。喉元につかえたままの衝動を、もうこれ以上、気づかないふりをして抑え込むのは、無理だと思ったから。


 ごめんね、先生。俺は狡い。

 声に——それが叫び声だったとしても——出すことが叶わないのならもう。事実、動き出すことでしか、ここにいる自分の意味を見つけられない。

 俺は狡いし弱い。誰もが「せーの」で一斉にスタートラインをきることなんてないのに。焦ってばかりで、負けてばかりで、置いていかれてばかりのような。そんな自分を置いていきたくて今、走り出している。


「……っ、父ちゃん…っ!」


 呼びかけた背中の向こう、静かに走り去る黒塗りの車。その艶の深さばかりが浮き立って見えた。

 父ちゃんの隣に並び立つ。俺の目線がほんの少し、上であったことに驚いた。


 あれは、何をのせて、何処へ行こうとしているんだろう。過剰に肩で息吐きながら、小さくなる黒が点になり消えるまで目を逸らせなかった。もう二度と、交わることはないように思うせいだろうか。


「……神威」

「……なに?」

「お前、あの人に直接言いたいことあったか? お父さん、そこだけ確認し忘れてたなと思って」

「ないよ。何も無い。父ちゃんが全部、言ってくれた」


 何のことだと言いたげに、父ちゃんがゆっくりと顔を向けてくる。すみませんおじさん、と反対側から申し訳なさそうな心の声が割って入った。ポロシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出しながら。


「これを通話中にしてて…葛西先生とつながってたんで」

「あっちで、聞いてた。聞こえてた、ほとんど」


 父ちゃんは瞬時 表情を固めたものの、まぁいいかそうか仕方ないなスマホってそんな使い方するんだな、と呟きながら苦々しく笑い、結局あの人は、ともはや見えることのない黒塗りの車が走り去ったその先に視線を定めたまま、声を落とした。


「……右京くんと会うつもりは…、無かったんだろうな。お前に会いに来たんだ。新聞記者まで連れて」

「……そうなんだろうね。政治家さんの考えてることは、理解できないよ」

「被害者家族との和解、みたいな記事がでっち上げられたのかもしれないなあ…いや、」


 父ちゃんは短く言葉を切り、それでもいいのかと少し考えたんだ、と言う。真坂さんのこれまでに右京くんとの関わりがきちんと感じられたのなら。そう、ため息まじりで続けられた深いところには、同じ“父親”として求めてやまない切実な想いがあるのかもしれない。


「……影響力がある人の言動は拡散しやすい。たとえ政策がらみだとしても良い方向に働くならと思ったんだけど…世の中の情報すべてに必ず真実が介在するとは限らないね? 勝手にひとり歩きを始めることもあるし。つまるところ、この世に完璧な伝言ゲームは成り立たないのかもしれない。またお前達が無いこと無いこと書きたてられるのはどうしても避けたかった」

「……うん。ありがとう」


 父ちゃんの車の後部ドアが派手な音をたてる。のそりと姿を現した武瑠が大きく背伸びをしながら心の隣りへ歩を進めた。

 図らずも「やゆよ」の並び。ざわざわと俺の内側で蠢いていた昏く非日常の部分が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していくのを感じる。


「あー、神威のふりすんの、大変だった! 身動き一つ出来なかったし!」

「いや武瑠。見事な座りっぷりだったぞ、ちょっと猫背のとこなんか神威そっくりで」

「あ、分かっちゃった? 心には伝わると思ったんだよねー、オレは神威オレは神威、って必死で言い聞かせてさあ」

「ただ、」

「ただ?」

「真坂側には伝わらなかっただろうな、遮光フィルム越しのこの距離じゃ」

「うっわ。なんだよー、オレの30分、無駄働き?」


 無駄なことなんて、何ひとつ無い。

 ただ、座っていてくれたことも。

 ただ、立っていてくれたことも。

 ただ、待っていてくれたことも。

 ただ、傍にいてくれたことも。


 俺はゆるゆるとかぶりを振る。そうしてそのまま、ゆっくりと腰を折った。


「……ありがとう。みんな本当に今日は…ありがとう、ございました」


 ああこのままじゃ、目から何かが落ちてしまいそうだ。そう思って息を吐きながら、またゆっくりと顔を上げる。誤魔化すようにすん、と鼻を啜り、一度大きく瞬きをする。上下の瞼が広げていく視界へ、大好きで大切な人たちが収まっていく。それぞれの表情は一様ではないけれど、どこかしら澄みきった晴れやかさがあった。


 やや距離を置いて俺達を見守ってくれていた小鳥遊さんの姿も認める。その瞬間、なんとなく、ぼんやりと、道筋がそこにあるような気がした。


 善と悪。俺達と右京を隔てる線は確かにそれで、俺の頬にも残っているのだけれど。過ごした時間が優しく撫でてくれたおかげか、俺を拒絶や否定へ向かわせるのではなく、理解へと向けてくれた。アイツはあの灰色の内側で一切の言い訳をすることなく、甘えることもなく、ただ、懸命に償っていた。自身を厳しく律し変わろうとしていた。そんな右京の三年余りを支えたものが、もしもここを出た後の未来を思い描くわずかな時間にあったとしたら、嬉しく思わないわけないんだ。


 理解できた、ってことだろうか。ゆるせた、ってことだろうか。


 それでも世の中はそんなに美しいことばかりではなくて。例えば俺は、柳井の言動へと向かわせる理解に力を割けないでいるし、この先 割ける気もしない。


「……それでは、私はこれで」


 小鳥遊さんの凛とした立ち姿は最後まで変わることなく、軽く会釈を残すと建物の中へと戻って行く。誰もがその背中へ深く頭を下げた。真っ直ぐで厳しい、けれど優しくて穏やか。あの眼力が吸い込まれた先。いろんな人間が、抱え込む感情が、生き様が、綯い交ぜになった、あの場所。

 やけに、象徴的だと感じた。


「……だから、灰色なのかな」

「え?」

「白と黒、だけに…分けられないから」


 俺は分厚い壁の向こう側へ右京の姿を見通せたらと願った。笑っても、いなかったかもしれない。今日からは、また逢える日を楽しみに、それが微かでも笑みをもたらすといい。

 その日まで、また俺も。


「……かえろう、か」


 口に出してから、思った。

 帰ろう。還ろう。返ろう。孵ろう…は、無理があるかな。


 貫いたり、続けたりすることが難しいこの世界で、俺達は原色だけの分かり易い領域に生きているわけじゃないから。いろんなことにぶつかったり、間違ったり、足掻いたりもがいたり、するのだけど。そうして本物の光を見つけたいと、苛立ったり、傷つけたり、傷ついたり。するのだけど。

 不器用なら不器用なりに、またかえっていけばいいんだ。

 大切な人達が、いる場所へ。


 そんなの、自分には無いと思ってる誰かには、かえりたい場所になれればいい。

 さあ、明日からも。いや、今からもまだ日々は続いていく。時間をなんとなく過ごさぬように。男子力、上げていけるように。


「……頑張ろ、俺」

「……そうね、私も」

「え? なになに? じゃあオレもー」

「分からないまま乗るなよ流れに」

「乗らなきゃついていけないじゃん! だいたいさ、ちゃんと報告してよ右京のこともそのオヤジさんの話も! オレだけじゃない? どっちもダイレクトに聞いてないの」

「そうだなあ、じゃあ茶でもしばきに行きますか。お父さんも、よろしいですか?」

「ああ、葛西先生こそ、大丈夫なんですか? せっかくのお休みなんでしょうし、一日子ども達につき合っていただくのは何とも」

「いや、おじさん。葛西に予定はありませんから」

「そうそう! どうせ家 帰ってもたまった洗濯物片づけなきゃー、とかだから!」

「なっ! お、お前達が答えんな! 当たってるけど口に出すな!」


 あはは、と控え目に笑いながらそれぞれを運んできた車へとまた乗り込む。チリチリと昂っていた神経は未だ完全に鎮まらないのか、いつまでも口の端に笑みをかたどったままだ。


「……神威くん?」

「ん? なあに、礼ちゃん」

「……泣いても、いいのよ?」


 突然向けられた温かな言葉に、俺は大きく目を見開いた。思わず後部座席のシートへ沈めていた背を伸ばし、正したほど。礼ちゃんとぴったり視線が合った瞬間、ふわりと何かが押し寄せてくる。


「……子どもの頃みたいに成長ホルモンが出てるわけじゃないから、一晩寝て昨日と明らかに違う自分を感じることなんて、ないけど」


 でも、と一旦、礼ちゃんは息を継ぐ。見計らったように、葛西先生は車をゆっくりと走らせ始める。


「……今日までの私と、今日からの私は、違うと思うわ。違っていたいと、思ったわ。誰のために、とかじゃないけれど、後から私の年表を振り返った時に、今日は私の歴史に刻まれてる、きちんと意味がある日にしたいと、思った」

「……礼ちゃん」

「神威くんが、一番辛かったはずよ。比べようなんてないけれど一番、大変だったはずよ。いろんなことと直接、逃げずに、向き合ってきたんだもの」


 だから、泣いてもいいのよ?


 甘く、いざなうような声に涙腺は決壊寸前。

 これは、アレだ。張りつめていた胸の内が緩んで、だから俺のいろいろなところまで緩んでしまって、目元まで緩んでしまって。一度 緩んでしまった見えないものをまた引き締め直すのは難しくて。

 だから、なんて。ああもう、陳腐な言い訳。俺は、思わず左手で顔の下半分を覆うと礼ちゃんへ背を向けた。出来ることならバックミラーへも映りこまないよう、身を縮めて。泣き顔なんて、見せたくないんだ。


「……カッコ悪い…俺」

「何言ってんだ、俺の教え子にカッコ悪いヤツなんか一人もいないよ」

「私は、神威くんがカッコ悪く見えたことなんか一度もないわ」

「ぶ…二人とも、何のホメ殺し?」


 笑い泣きながら、はああ、と大きく息を吐く。掌を湿らせている水分が乾くまで少しだけ、俺は肩を震わせる。

 窓外を流れる長閑な風景は滲んで見えるけれど、それでも日常のひとコマとして無意識へ捨て置くのではなく、きちんと覚えておこうと思った。

 だってこれは、右京へ続いている。右京はきっと、ここを辿って俺達へ行き着いてくれる。


 またな、右京。きっと、来いよ。俺達のところへ。

 人が完璧に独りで生きていけるはずはなく、欲しいものは努力なしに手に入るはずもない。俺達は友達にこそなれないだろうけど、プラスの作用を意識しながら、もがきながら大人になっていけるだろう。

 二度と交わるまいと、かえってそればかりを強く意識しながら、嫌悪にも似た曖昧な感情を持て余し生きていくのは。あまりにも何をも、生まないだろう?


 そうでありたいと、強く願った。


 俺の背に添えられた礼ちゃんの小さな手。その温もりはいつだって俺に気づきを与えてくれる。

 ありがとう、は。有難う、だ。

 本当は俺を取り巻くそこかしこ、有り難いことだらけなんだよ。当たり前だなんて、思っちゃいけないんだ。


 こうして確かに息づいている今へ。

 永遠と絶対をくれた人へ。

 まだ見ぬ未来をともに楽しみに待てる友達へ。

 この世で最初の愛情を惜しみなく注いでくれた家族へ。

 揺るぎない尊敬と憧れを抱かせてくれた師へ。

 それはきっと、連なる奇跡。

 ありがとう。

 もう一度、自分にだけ聞こえるくらいの小さな声で、俺は呟いた。礼ちゃんの掌が小さくトン、と応えてくれた。

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