第14話

 教え子はみんな、可愛い。とするのは、建前なんだろうか。折に触れ、浮かび上がる自問の一つ。


 生徒一人一人の個との関わり方にはやはり濃淡がある。ただ単に等しく機会に恵まれなかっただけ、と締めくくることもできるだろう。例えば育てるのに全く手がかからない子、って世の中には実際いるんだろうし。でもそれは、向ける想いの強さに何ら影響を及ぼさないよ、と声高に主張したかった。

 そう、信じたかった。



 ただ、俺はそれは正直じゃないのかもしれない、と最近とみに考えている。神威達は特段、問題児ではなかったし、むしろ優良児で俺が受け身でいる分には煩わされることなど無かった。繋がりの糸を深く濃くと願って主体的に束ねてきたのは、きっと俺の方。

 教師だって、人間だ。そう開き直っては元も子もないが、つまり、完璧じゃない。自分自身に不出来な部分は必ずあるし、それゆえ未熟な対応しか提供できない場面に遭遇する。無情にも時間は待ってくれないから何とか答えをひねり出して、後悔のたらればが押し寄せるんだ。


「好き」と「嫌い」の感情。教師である自分を意識している間は、そんな幼稚で本能的なものに振り回されないようにと努めている。実践できているかは、分からない。



 ***



「……すっかり夏だなあ」


 廊下の窓越しに見上げる空の青は眩しいほどに澄み渡っていて、浮かぶ雲の白とそのコントラストが爽やかすぎて切なくなる。こういう季節感をきちんと愛でることが出来るようになったのは、大人になった証拠だと言っていいんだろうけど、切なさを感じるあたり、歳くったんだな俺、としみじみ萎えてしまう。もう二度と戻れない青臭さに焦がれてるみたいだ。


 体育の授業か、グラウンドに響く不規則な歓声に歩を後押しされ、職員室までをゆるりと進む。小脇に抱えた教材が地味に重い。片手でカラリと引き戸を開けた瞬間、葛西先生、と神保先生の野太い声に名を呼ばれた。


「お待ちかねですよ、可愛い教え子が」

「……え」


 教え子って、と訝しみながら神保先生へ向け瞬きを一つ。特に誰からも連絡受けてないけどな。椅子に座ったままの神保先生を見下ろし、凛と立つ後姿は糊のきいた白のワイシャツに細身スーツの黒パンツ。

 色素の薄いふわふわの髪の毛にふと過った明るい笑みがあったけれど、振り返ったその顔を確かに認めるまで、どっかの業者の間違いじゃ、と眉を顰めていた。


「あ、葛西センセ!」

「お、…わあ。吉居?! どうしたのお前、何してんの?」


 何って、と目をむかれた。色素の薄い綺麗な茶色の瞳が呆れた、と物語っている。え、俺 何かやらかした?

 焦りは勿論あるんだけど、何と言おうか、呆れ、呆れられている、この関係性にほんの少し愕然としている。数年前は確かに逆の立ち位置だったのに、と。


「葛西センセって、やっぱりお酒入ると記憶飛ぶんだねえ」

「……ナンノハナシデショウ?」

「何そのカタコト。この前、ゴールデンウィークに集まった時! 教育実習のお願いに行くから、って話したのに!」

「……いやー、楽しい夜だったなアレは」


 ひどい、と憤慨する吉居の隣で神保先生が声高らかに笑ってらっしゃる。まだ神保先生の前では醜態をさらした覚えはないんだけど、最近の俺に殊更ストレスがたまりそうな事態はご存知だからなあ、思いやってくれたに違いない。


「吉居ー、葛西先生も大変なんだ。大人になると本音と建前 使い分けるのに神経すり減らすんだよ」

「えー、神保センセ。教職者がそんな処世発言しちゃ駄目でしょう。それにね、オレも成人してます、立派な大人です」


 そうだった、と神保先生は自身の太鼓腹と言うべきかはたまたビール腹と呼ぶべきか、とにかくデンと迫力あるそこをペシペシと叩きながらまた大笑いだ。他の席にまばらに残る先生方が何事か、と顔を上げこちらへ視線を寄越している。悪目立ちはしたくないもんだ、来年また来る吉居にとって下手な先入観を持たれるのは良くない。そう思えば次の行動なんて自ずと導き出された。


「ごめんな、吉居。まずは校長先生のとこ行こうか。それから教頭先生」

「あ、学年主任の先生にも挨拶して来い、って言われてる」

「流石しっかりした学校だな。じゃあ俺にね、丁寧にご挨拶して?」



 当たり前と言えば当たり前。吉居はもう、あの頃の吉居と全くの同一ではなく経年が明らかに成長へ磨きをかけている。校長室へ入る前、スーツのジャケットをすい、と着込んだ瞬間、何とはなしにそう痛感させられた。


 制服のジャケットが暑いだの堅苦しくて嫌だのと、ゴネていたのは誰だった? だからお前は衣替えの週が過ぎてもカーディガンを緩く羽織っていて、学年主任の手柴先生に苦い顔されてたんじゃなかったか。


「どしたの? センセ」

「……いや。スーツ似合ってんな」

「うっそ。心からは千歳飴 持ってくか? って言われたよ」

「ぶ」


 重厚な造りのドアを二回ノック。どうぞ、という声に失礼します、と姿勢を正す。纏う空気をふわりと変えたのは俺だけじゃなく吉居も同じ。

 用件を告げ終わり、校長の柔らかな視線が吉居へ向けられたのを感じると、俺はほんの少し後ろに立って吉居の横顔を眺めていた。



 わりと頻繁に、逢っているのだと思う。他の教え子達と比べものにならないくらい。それでも常と同じでないシチュエーションは新たな一面を連れてくるものだ。「何とぞ、よろしくお願い致します」そんな流麗な言い回しがお前の口から滑り落ちるなんて。


(……今日 帰んのかな、吉居)


 別に愚痴りたい訳じゃないけれど、飲みに行きたい、くらいの欲は胸の内に湧き上がる。そして互いの都合さえ良ければ飲みに行ける年齢なんだよな。そこに例えようもない嬉しさが確かにある。

 失礼しました、と頭を下げながら校長室のドアを閉めた俺と吉居は、ほぼ同時にホッと胸を撫で下ろし深く息を吐いた。


「……いや、センセがオレと同じタイミング、ってどうなの」

「……あのね。人間、長生きしたって苦手なもんは苦手なの」


 ククク、と押し殺した吉居の笑いが静かな廊下へ微かに響く。少し丸めたスーツの背を見つめながら、俺はこんな丁寧なお願いをしに母校へ行ったっけ、と十年ちょい前を思い出そうとした。


 教育実習、というのは受け入れ校の厚意によって成り立つ。教職課程の単位を全うするのは勿論だけれど、教職免許を授かるためには実習も必要。大抵は母校を頼る、もしくは大学の近隣校。しかも実習自体は4年生になってからだ、っていうのにこうして前年度、受け入れてもらう内諾を得ておかなくちゃならない、確かそういうケースがほとんど。


 俺の場合はひどく、驚かれたんじゃなかったかな。高校生活の途中まで、俺の素行はあまりよろしくなかったから。榊さんと出会って、俺はちょっと変わって、教師を目指した訳だけど。


「センセー、オレ今日はこっちに泊まるつもりなんだけど」

「オッケ。どこにする? 飲み放題? 焼き鳥? 創作居酒屋? ワインバー?」

「焼き鳥! スゴイねセンセ、本題言ってないのに。以心伝心?」

「そうだなあ、同じこと考えてればおのずと」


 職員室へと戻りながら、緩む口元とともに気持ちはもう放課後へと飛んでいる。不謹慎だと戒める真面目な自分もいるけれど、滅多にない機会を楽しんでしまえと囁く悪魔な俺もいる。


「今夜は、葛西センセを独り占めー」

「お前ね。そういうのはちょっと誤解招くというかむしろ女の子から言われたいというか」

「言われることないんだ? 女の子から」

「……売られた喧嘩は買うぞ? 吉居」



 ***



(こんな日に限って残業とか)


 内心行儀悪く舌打ちしながらパソコンのディスプレイを睨みつける。

 もうすぐ夏休み。ここは県内でも有数の進学校なので、夏休み中と言えど勉強合宿なるものがある。誘惑の多い世俗から離れ——いや、強制的に引き離し——朝から晩までお勉強に集中させるというワケ。


 二泊三日、山奥の民宿へ大型バスを貸切り、担任・副担任はじめ他学年の先生まで手伝わされて引率。この一連の計画は、例年 学年主任が担当することになっていて、つまり今年は俺仕切り。手柴先生からの秘伝の引継書もあるんだぞ、ぬかりはない。受験生相手だからいろいろと気を遣うし。どれほど気を遣っても毎年、某かの問題は発生するし。全員強制参加、って訳じゃないから予備校の夏期講習を選ぶ生徒だっているし。


(……吉居、待ってんだろうな)


 教師も人間、私的な急用は勿論のこと、私的な諸事情だって発生する。参加予定だった小林先生にご不幸があって急遽 役割分担の見直し中。


(明日でも、いいんだけど…)


 これこそ不謹慎か。次々と浮かびくる“早く帰りたい理由”を頭から追い出すように緩くかぶりを振る。こほん、と一つ咳払い。待ってて吉居、奢るから。




「らっしゃい!」

「こんばんは、大将」


 奥でお待ちだよ、と大将のしゃがれ声に後押しされ、俺は狭い通路を足早に過ぎ小さな個室を目指す。


「ごめんな、吉居。遅くなって」

「お疲れ様でーす」


 襖を開ければ視界にすぐ入る吉居を越え、テーブルの上へ目を遣る。そこには飲みかけのジョッキも無ければ食べかけの串も無い。あるのは中身が烏龍茶と思しきグラスだけ。


「……待ってたの? まだ何も——」

「だって勿体ないじゃん、せっかくセンセと飲めるのに」

「か、可愛いな吉居。なんでモテないんだろう、お前」

「ひっど! ひどいよセンセ! オレだって大学入ってから結構、」

「……結構?」

「……たまに、」

「……たまに?」

「……ちょこっと、くらい」

「……ちょこっと、ね」

「……もういい。センセ、早く座って。飲むよオレ今夜は!」


 あはは、と笑いながら吉居の斜向かいへ胡坐をかく。すぐにお通しが出され、俺は顔なじみの店員へ生ビール二つ、と注文した。


「大将のおすすめ盛り合わせとピリ辛手羽先四本ととろろ麦ご飯もお願いします!」

「食欲旺盛ー」

「センセ大丈夫? ウコンとか飲んどかなくていい?」

「お年寄り扱いすんな! 俺の肝機能はいたって元気だよ!」


 と言いつつ、手渡されたおしぼりで当然 顔は拭くんだけどね。


「学年主任って忙しいんだ? やっぱり」

「んー…まあね」


 お待たせしました、の声とともに店員がジョッキを運んでくる。長く待ってたのは吉居だけなんだけどな。申し訳なさに胸がちくりと痛んで、それでもニコニコと乾杯を求めてくる吉居の笑顔に一人勝手に救われた気分になる。


「じゃあ再会を祝してー」

「インターバル短いけどね」


 少し厚めのガラスを突き合わせればカチンと涼しげな音を立てる。フリーザーでキンキンに冷やしてあるそれは、手を触れるとここまで走って汗ばんでいた俺の火照りを鎮めてくれた。


「みんな元気? 変わりない?」

「元気だよ。みんなついて来たがってたんだけどバイト休めなくて」


 冷えて口当たりの良い滑らかな泡がするすると喉を通っていく。不思議と一口ごとに疲れが溶けていくように感じた。神威に御子柴に弓削。一人ずつの顔を思い浮かべれば、なお自分が軽くなっていくように思える。


「センセは? 婚活は上手くいってんの?」

「ぶ。何だよそれ…上手くも何も今の俺は致命傷を抱えてる」

「えー、M字ハゲ進んじゃったの?」

「進んでねえよ! 時間がないの! 幸せへの一歩を踏み出すには致命的に時間がない!」

「オレはー、高校の時の恩師にー、“時間がないって嘆く前に生み出す努力をしろ”と教えられましたー」

「似てねえよ。良い恩師だな」


 でしょ、と俺を指差す吉居の猫毛をくしゃくしゃと撫で回した。


「そう言えばアレは? 言い寄られてたイケメン問題はどうしたの」

「ああー…アレ?」


 色素の薄い瞳が瞬間 細められ、口元の笑みが苦々しいものに変わる。マズったか、何か地雷踏んだか俺。二の句を次ぐ前にその表情は元のにこやかなものに戻ったけれど、その微かな移ろいを見逃すほど耄碌しちゃいないからな。


「……痛いよ。センセの眼力、ハンパないんだから加減してよ」

「じゃあとっとと話して。焼き切るぞこのまま」

「そんな熱い視線持ってんだったら女の人に使えばいいのにー、イチコロじゃないの? 宝の持ち腐れー」

「イチコロて。古いなお前、これは主に迷える青年仕様なんだよ」


 早く、とジョッキの底辺に残る小麦色を一気に呷りながら吉居を促す。吉居のジョッキも空いたことを確認して店員を呼び寄せまた次の杯を注文した。追加のビールがやってくるまでしばしの沈黙が落ちる。


「……アレはね。解決したの。喜ばしいことだよね」

「……あんまり喜ばしく聴こえないのは俺が歳とったせいなの? 吉居」

「んにゃ。オレ…と、心もね。ちょっと寂しかったせい…かなあ」


 吉居は体育座りの格好で自身の膝を抱え込みながら、視線だけどこか遠くへ投げている。店員が元気よく運んできたジョッキを受け取る際の笑みがひどく貼りついたものに見えた。

 寂しい、という形容詞に俺は反応してジョッキをごとりとテーブルの上へ置く。何を、どうして、と考える。吉居がそれ以上を何も、語ろうとしないから。


「……吉居」

「……いや。うん。ごめんセンセ。ガキなんだよオレが」

「一人で勝手に結論出すな。寂しかったのは弓削もなんだろ?」


 吉居もことん、とジョッキを置いた。冷たいガラスの表面にふっくらと浮いた結露を長い指がつい、と撫でる。下へ、と向かう緩やかな動きとともに吉居の顔も下を向く。穏やかなその仕草が次に運んでくる言葉は何だろう。


「……あのね」


 解決したの、と吉居はもう一度繰り返した。でも、と続いた先を吉居は苦々しい笑いで紡いでいく。


「困ってる神威をね、手伝ってあげられたのは…オレ達じゃなかった。やゆよ、じゃなかったんだよね」


 なるほどそういうことなのか、と安易に与えてもらった答えに俺はく、と喉の奥が詰まる。高2の時から見てきた三人組。きっとそれよりずっと前から強い絆で結ばれていた仲。俺はその深さを知っている。


「……オレだってさ、心だって。やゆよだけが友達のすべて、ってワケじゃない。ゼミにだってサークルにだってバイト先にだって、いるの、友達。そんなの分かってんの。……それなのにさ」


 なんでこんな寂しいかな。


 ずっと顔を俯けていた吉居はそこで初めてゆっくりと、俺を見上げ目を合わせてきた。

 うん、吉居。今度は俺が答えを与えてあげる番だね。ガキだから、なんてありふれた一言では片づけないからな。


「その。やゆよ、じゃない子達のこと。吉居は直接 知ってんの?」

「……うん。知ってる。一緒に飲んだこともある」


 二人ともすっごく良い子だよ、と黒縁眼鏡の奥の目は嘘のない綺麗な三日月を形づくった。“子”って、吉居。先生からするとキミも充分“子”なんですけどね。


 神威と同じゼミなのだという、足立 直生くんに瀬井 友成くん。フルネームを、しかも丁寧に漢字でどのように書くのか、までを俺に伝えてくれる吉居。

 昔からそうだったな。

 大雑把そうに見えて、実は誰よりも気を遣う。大らかそうに見えて、実は誰よりも繊細。吉居の8割はギャップ萌えでできているのだとファンの女子生徒がキャイキャイ言ってたっけ。


 ねえ、吉居。お前が今、抱えてる感情に名前をつけなければならないとしたら、それは果たして「寂しさ」なんだろうか。そうしてそれは誰に向いているんだろう。神威なの? お前自身なの? それとも新たに登場したそのメンズに、なの?


「ゼミ合宿があってね、神威。オレも心もちょうど予定が重なって…ついてってあげられなかった。や、ついてったから、って絶対何かしてあげられたか、っつーとそれはイコールじゃないと思うんだけど」


 一気に捲し立てられた後の沈黙が切ない。絡まった糸を制限時間内に解きほぐせなくて一人焦っているような、吉居の口調は何故かそんなシチュエーションを思い描かせた。


「……同じゼミだったよな、例の問題児は」

「そう…神威、行く前は相当 病んでたんだけど」


 そこに逆説の接続詞が伴わなくとも、行って帰ってきた時の神威はそうじゃなかったのだろうと容易に想像出来た。


「……意外と、ああ見えて。神威って女の子 泣かせてきたんだけどさあ」


 膝を抱え込むように座っていた吉居はふう、と一つため息を吐くと足を伸ばし(くそ、最近の若者は無駄に長いな)両腕を後ろについて天井を仰ぎ見た。いつの頃を思い出しているのか、口元にうっすら笑みまで浮かべて。


「今回もね、泣かせちゃったんだって、問題児ちゃんをね。ついでにこっそりついて来てたミコちゃんにその最悪シーンを見られちゃったんだって」

「えー…それは…」

「でもね…すっきりした顔してた、神威」


 吉居は見上げていた顔をゆっくり水平に戻すと突然かぶりを振り始めた。伸ばしていた足を今度は引き寄せ、甲を意味なく撫でさすっている。その、所在無げで落ち着きのない動きがどこからくるのか俺には心当たりがあるように思えた。


 スーツ、着たままだ、吉居。すっかり皺になってしまうな。俺なんてクールビズのポロシャツなのに。そんな風にほんの少し思考を逸らしながら、俺は吉居の頭へポンポンと掌を落とす。

 ふわふわの猫っ毛は相も変わらず触り心地が好い。羨ましいなんて、これっぽっちも思ってないんだからな。


「……吉居。いいよ、全部吐き出せ」

「……吐くまで飲まないよ、センセ。酒は飲んでも飲まれるなっつったじゃん」

「そうじゃなくて。分かってるくせに」


 吉居が、なんとなく笑いで場を誤魔化そうとしたからのるべきなのかと思ったけれど、やっぱり、違うだろ。吉居の笑顔が本物かどうかくらい、見極められるっつーの。現役教師、なめんなよ。


「“オレだけ”とかって。焦らなくていいんだよ。みんなに平等に時間は流れてるけど刻むリズムは同じじゃないだろ」

「……でもさあー…なんか、オレ…」


 沈む声音を気づかれたくないとでも言うように、吉居は俺の肩口へことん、と頭を埋める。若干のアルコールは吉居をいつも以上の寂しがりで甘えたさんへと変化させているらしい。このくらいで、ちょうど良いのかもしれない。制服を着た高校生じゃないんだから、余計に。


「お前、可愛いことするなあ。女の子だったら言うことなしなんだけど」

「オレもなんでこの目の前の胸は真っ平らなんだろうって残念に思ってる」


 ふふ、と俺のシャツの胸元へかかった息を熱く感じた。ず、と続いた鼻を啜る音には気づかないふりをした。ちっとも笑えてなんかないのに、吉居。


「……よしよし」

「……みんな。同じ21歳やってる、って…オレも、みんなと同じ様にやれてる、って…」


 思い込んでたんだよ。何もできてないのに。


 糊のきいた吉居のシャツがあまりに滑らかで掌が吸い寄せられて。そんな勝手な言い訳を胸に、俺は吉居の背中をずっと撫でていた。


「……何をやれてないと思うの? 吉居は」

「……やれてない、と言うよりは。オレだったら、って考えた」


 それが、たまらなく嫌だった。


 探るようにおずおずと吐き出し始めた吉居には、ネガティブな言葉が恐ろしく似合わない。


 大抵、笑ってるもんな吉居。ニコニコの魔法、だとか神威から言われてたっけ。育ててくれたおばあちゃんの言いつけを幾つになっても律儀に守り続けているお前は、充分やれてる子だと思うのに。


「……誰かの立場に自分を置き換えて、そうやってその誰かの気持ちを深く考える。そういうのが思いやりっていうもんだとオレは思ってて」

「……うん。で?」

「……オレだったら、って考えた」


 吉居の、言わんとするところはまだぼんやりとしていて手が届かない。俺が何らかを与えてあげるにはまだ遠すぎる。

 苦しいね、吉居。でも頑張って。手伝うから。

 胸の中を一旦 巣食った昏い想いは、無理やりにでも言葉にして抉り出すのも一手だと俺は考えている。音にしてどこかへ向かわせてしまえば何かが動き出すのだろうし、時に自分に跳ね返ってくるかもしれない。耳が集めた情報を脳はどう理解するのか客観的に捉えられるとなお良い。


 やれてるとかやれてないとか。寂しかったとかガキだとか。そうやって結論づけるのはまだ先にして? 吉居。俺はお前達のことを、いつだって褒め倒してやりたいと思ってるんだから。


「……オレだったら、神威が暴言吐かなきゃいけないような目に遭わせなかったのに、とか。その女の子にももっと上手いこと言えたのに、とか…そんなんばっかだよ、ナオくんの気持ちなんて全っ然、考えてあげらんなかった」


 ナオくん、というのはさっき吉居が丁寧に説明してくれた足立くん、という子なのだろう。聞き覚えがある名だけれど同姓同名の教え子がいたかもしれない。過去の記憶を探る俺に気づいたのか、吉居がその子の母校を教えてくれた。

 あそこか。


 どうしたって逸れる思考、吉居に申し訳なさを感じつつ、俺は天井を見上げ軽く息を吐いた。初めて赴任した学校だ、それなりに思い入れもあるはずなんだけど、残念ながら過ごした時間と共に在るはずの大切な記憶は真坂一家との因縁に色濃く塗り替えられてるな。近く迫りくる真坂 右京との接見は片時も忘れられない懸念事項だ。


「吉居、神威のこと好きすぎてちょっとヤキモチ妬いてるみたいに聴こえるよ。俺の気のせい?」

「……うー、んにゃ。やっぱりそう聴こえる? よね? なんかさー、何としてもオレのこのモヤモヤを言い表さないといけないとしたら、ジェラシーっぽい。それも女々しくて嫌…、ってイヤイヤばっかり言ってる自分も嫌」

「……ふ。いやいやえんに、行く?」

「……いやいやえん?」


 何だったっけ、と言いながら吉居はふわふわの頭を俺からゆるりと離し、長い足を組み直して胡坐をかいた。指先を意味なくわざとらしく添えている鼻先はほんのり紅く染まっているけれど、勿論 見て見ぬふりをしてあげるよ。


「武蔵がさ、芽生に読んであげてたんだ…絵本なんだけど」


 そうだ絵本だ、と吉居は笑った。幼児教育に関する講義は選択していないと言うが、今も昔も受け継がれゆく名作ってあまり変わりはないらしい。ばあちゃんが読んでくれたと思う、と目を細めながら応える様がどこか幼かった。


「イヤイヤばっか言ってたんだろうなあ、オレ。しげるくんみたいだよ武瑠、ってばあちゃんから言われた覚えがある」

「うん、言われるな。男子は大抵 言われてんだろ」

「ほらあれってさ、いやいやえんにはおばあさん先生が一人 いるだけだったよね? あんな風に編み物しながら黙っててよばあちゃん、とかって口答えしたような」

「そう…な。今 思うと放任と受容の関わり方が絶妙だよね、あのおばあさんは」


 理想とする人物、というのは特にない。強いて影響された、とするならば榊さんの名を挙げるけれど。ただ、像として、イメージとしてはあって、例えば吉居が今夜、俺と話をして過ごした時間を明日からの糧として笑って綺羅綺羅しく一歩を踏み出せるのなら、俺は理想とする行為を果たせたのだと思う。


「嫌だ、って反応はさ、成長の証なんだ、って…そういう見解もあるんだよ?」

「……オレは、成長してますか」

「自分じゃ分からないもんだよね、その真っ只中にあるとさ」


 吉居は胡座をかいたままズリズリと畳の上を移動し、テーブルの上のジョッキをまた手にした。こくり、と嚥下の一口ごとに上下する喉仏が今度は妙に大人を感じさせる。


「吉居は。その、ナオくんに成り代わりたかったんじゃないでしょ」

「……うん。なれないと思う」

「自分だったら、って代替案を持っておくこと、俺は悪いことだと思わないよ。ナオくんを全否定しているのとは違うんだから」

「口だけ番長っぽくない? それって。行動は伴わないんだもん」

「そうかな…理想があるからこそ“自分だったら”って代替案は出てくるのであって、その考えを生み出すって行動を吉居はもう、してるんじゃないの? ひいてはそれって理想に近づこうとするとても高尚な足掻きだと思うよ」


 言葉の途中で口を挟みたそうな素振りを見せた吉居に気づいてはいたけれど、俺はあえて無視を決めこんで最後まで言いたいことを言いきった。案の定、途切れた俺の言葉に次いで吉居は口を開く。けれど結局、出てきたのはため息で、薄茶色の瞳をくるりと一巡りさせると苦々しく笑った。


「……詭弁だ。もう、なんか…否定してよ、センセ。オレのことみみっちくて女々しいダメ人間だ、って叱って」

「マゾっ気あったの? 吉居」

「センセになら何されてもいいー」

「百恵ちゃんの歌か」


 肩先で吉居の二の腕を小突く。本当に叱られたい訳でもないのだろうに。何となく俺は、ああ、求められてるんだなあ、と奇妙な充足感を得ていた。


 こんないい子達に、さ。もう先生の教えなんて必要ないと先を越されてしまうのではなくて(いや、既婚の神威にはそこだけ先を越されてる、それは認める)いつまでも欲してもらえるなんて。教師冥利に尽きるというだけでなく、俺という人間の存在意義が与えてもらえるなんてね。

 自分で見出すのも難しいそれは、なかなか他者からプレゼントしてもらえるものじゃない。俺は、あげちゃうけどね。


「いいじゃない、もがいて足掻いて。自分だけどうして、って嘆いて。取り残されてるんじゃないか、って焦って。そうやって、大人になっていくんじゃない」


 吉居は抑揚のない声で 大人、と吐いた。俺を見、やがて視線は斜め下へと落ちていく。それに伴う言葉は深い息となって畳の目に吸い込まれていった。

 どうにも、調子が狂うな、とは思う。吉居はニコニコがデフォルトだからね。けれどため息というやつは、心と身体が何とかバランスを保とうとして吐き出してしまう類でもあるんだろう。


「……もっと。スマートに、大人になれるんじゃないかと思ってたんだ…スマートな、大人に」

「そんなの俺もなれてないのに。吉居だけ先になろうとすんなよ」


 だけ、にほんのり力を籠めて俺は停滞していた空気をふ、と払い飛ばす。置いていた割り箸に手を伸ばし、突き出しの小鉢を覗き込んだ。ちりめんじゃことほうれん草のおひたし。小魚とカルシウムを結びつけて摂取する自分の考え方は明らかに昔と違っている。子どもの頃は雑魚の小さく虚ろな目が何となく怖かった。だからって果たして今は、大人だと称することが出来るんだろうか? 俺は。


「……吉居?」

「……うん?」

「俺はね。“先生”って。呼んでもらって先生になれてきた気がするな」

「……肩書きが人を育てる、ってやつ?」


 猫っ毛ふわふわの頭をゆるゆると振っていた吉居は、顔の半分をこちらに向けて頼りなく揺れる瞳で俺を見上げた。


「そうだね。すれたところのないつぶらな瞳で“先生”なんて言われるとさ、あー期待に応えなきゃ、俺にはその責任がある、って意気込んでたワケ」


 実のところは選考試験と適性検査に合格しただけの新卒弱冠22歳だったのに。若葉マークなんて言い訳をつけてもらえるはずもないから、とにかくなめられないようにと無駄に顔を強張らせてたっけ。


「……オレはね。センセになりたいんだよね」

「? うん。勉強してんだろ、そのために」

「あー、ちょっと違うよ。葛西センセになりたいの」


 黒縁眼鏡の奥の瞳はいまだ頼りなげだけれどいたって真剣だ。俺は思わず身を乗り出し「は?」とぞんざいに問うてしまった。失礼極まりないな、とは大いに分かっている。


「ちょっ、…待て。待て待て吉居。俺になってどうする」

「うん、勿論M字ハゲは嫌なんだけど」

「う、るっさいよそこ! 俺の青春の勲章だコレは!」

「ふ。コンタクトから眼鏡に変えたのはね、カタチから入ってみたんだ。センセっぽくなれるかなー、って」


 笑顔が悲しい、ってどういうことなんだよ吉居。歳を重ねるごとに身につくスキルは多々あるのだろうと思う。否応無しに馴染ませなければならないものもあるだろうけれど。経年がもたらす変化を目にし複雑な想いがこみ上げた。何だろう、若干の父性めいたものが擽られてるんだろうか。


「……俺のは。伊達だよ」

「うん、知ってた。センセがその銀縁越しに見てる世界をオレも見てみたかった」

「……もう、何か俺。激しく告白されてる気分なんだけど」

「あはは、でも神威も心も同じようなこと考えてると思うよ?」

「そんなに愛されてたのか、俺」


 深刻さの真上を行かないように、きっと吉居は慎重に言葉を選んでいる。だから俺はそれに気づかないふりをし続けている。突き上げる衝動に任せて吐露した方が楽だろうに。酒の席だからとか、せっかくだから楽しく飲みたいとか、話の内容が意図せず暗く深くなってしまったとか、ぐるぐる廻る気遣いが吉居をそうはさせないんだな。


「センセだったらどう思うだろう? センセだったらどう解決するだろう? センセだったら? って。事あるごとに考えてる」


 でも。


 その先を紡ぐ前に吉居はドリンクメニューを片手にとって弄び始めた。視線は何も文字を追ってないからビールから飲み替えるつもりはないらしい。ただ、所在なげな身の置きどころを探しているだけなのか。


「…理想を。ただ、真似てるだけじゃそうなれないんだよね。人間は真似して覚えていくことができるけどさ、それだけじゃ駄目でしょ? そこに“個”が加わらないと葛西センセになりたいオレ、じゃないし」

「……難しいこと、考えてるね」

「神威も心も…みんな、そう。理想の自分があって、でも現実の自分もあって、そこにギャップがあればちゃんとそれを埋めようとしてる。そうやって行動してる。前に進んでるんだよね。なのにオレだけグジグジしてる、停滞してるんだ」

「そんなことない」


 吉居の言葉じりへ被せるように俺は強く言い切る。

 そんなことない。もう一度、重ねた。そうして一旦 逸れた吉居の視線を俺は取り戻した。


「お前が今日、学校へ来たのは? 来年に向けての準備でしょ? 停滞なんかしてない、着実に未来を見据えて行動してるじゃない」

「……それはねー。しなきゃならないことだからだよ」


 自分だけで考えたわけじゃないんだ、と吉居はわざとらしくテヘペロ顔を作る。ああ言えばこう言う、的な応戦は嫌いじゃない。しかもそれを、教え子と繰り広げられるというこの、教師だからこそ持つことが出来る関係性。その機微。感覚をくすぐられる嬉しさ。不謹慎だと思う。それでも吉居に感謝している俺がいる。


「大人には…吉居だけの力でなれると思う?」

「? ならなきゃいけない…よね?」

「俺は、そうは思わないんだ」


 吉居に、本当は少し恥ずかしいけれど俺自身の話をしようと思った。

 俺が、どうして教師になろうと決めたのか。今まで誰にも打ち明けていないそれを今夜、この迷える青年へ伝えたいと思った。

 ほんの少し、身構えて息をのんだ俺をじっと見つめる薄茶色の瞳。微かに揺れ光る虹彩がまたくっきりと美しい色を湛えてくれるといい。


「……榊さん、って刑事。吉居は覚えてる?」

「……えー、っと。あの人…神威の病室に事情聴取に来た刑事さん、だ」


 きゅ、と寄る吉居の眉根が17歳の痛く苦しかった経験を思い出したと伝えてくる。俺自身も瞬間で囚われる、血まみれの神威に御子柴の悲痛な叫び声。悔恨の念はいつまで経っても完全に消え去ることはないし、それは覚えておかなければならないことだと思ってる。


「俺はね。あの人きっかけで教師になろうと思ったんだ」

「え、そうなんだ」

「そう…この話、お前だけに、してもいい?」


 自分「だけ」と今日の吉居から、何度出てきた言葉だろう。やゆよ、という何物にも代えがたい絆からどうして自身を引き下げようとしているんだろう。


 だから俺があげられる特別。お前「だけ」に今からあげるよ。



 ***



 何に不満があったのかと問われても、理路整然と答えることなんて出来ない。十数年を経た未だにそうなんだ、確かに楽しい、という感情でもって単車をぶっ飛ばしてた時間もあったはずなのに。そこに何故そうだったのか、という明確な理由を同時に見つけることが出来ないから、思い返すと俺のあの頃は酷く稚拙で薄っぺらいものに感じられる。


 額に残るM字型の歪な痕を目にするたびに本当は盛大なため息が出る。いや、増毛うんぬんではなくてね(武蔵がプレゼントしてくれた流行りの商品はそれなりに効果を発揮してくれてるし)、違う時間の過ごし方があったんじゃないかと過去をやり直したくなるから。過密なスケジュールに追われ日々を過ごしているけれど、俺の隣には常に「若さ」があるから。触発されるように引き戻される瞬間、ってあるんだ。


 アオハル特有の、蒼き衝動に銘打つ立派なタイトルなんて実は無いのかもしれない。いや、あるのかな。なんかそんな邦題の名画があったよな、主演はジェームス・ディーン。ジェームス・ディーンだから許されるのか。そうかもな、俺はあんなにイケてない。


 近所でも名の知れた老舗呉服店のご長男。俺を知る人達の俺を見る目はみんな血縁者のようだった。オムツを替えたことがある、抱っこしてあやしたことがある、入学式の写真が家にある、そんな風に俺の幼少期を愛しげに語る人々の温もりを。慈しみに満ちた眼差しで俺の将来を語る人々の情を。

 一体、いつからだったろう。俺は、なんて勝手なんだ、と。素直に手の中に収めていられなくなっていた。


 当てつけ、めいた感情は行動の奥底にあったように思う。ほら、おばちゃんやおじちゃん達が目をかけていた近所の子のなれの果てはこんなだよ、と。どれだけ褒めそやしてくれたって所詮 俺はこんなもんだよ、と。

 全くもってひねくれたクソガキ。寄せられる期待を素直に受け止めることなんて出来なかった。ましてやそれに応えるなんて。それは“言いなり”とどう違うんだ、と反発しか芽生えなかった。


 俺の後ろに隠れるように、それでいて伸びやかに健やかに成長する武蔵の姿には確かな存在感があり、俺はよほど理不尽な怒りを向けていたと思う。俺は武蔵みたいにはなれない、って。それを人は八つ当たり、と言うんだよね。出来る限り武蔵と顔を合わせないで済むように俺の帰宅は日に日に遅くなり、家族と過ごすよりもバイク仲間と過ごす時間の方が長くなっていった。


 確かに何かを言いたげな両親の瞳、いくら俺から毒づかれようと笑みを絶やさない武蔵の柔らかさ。人生単位で考えるならばそりゃあ10分の1くらいの時間だけれど。あの頃の自分にどれだけ土下座をさせたって、謝り足りないと今の俺は思っている。


 それでも、誰かが決めつけるように俺の将来像を描く。余計なお世話だしお節介だとしか思えなかった。作り笑いで躱し受け流す器用さなど持ち合わせなかった。とにかく、何もかもに苛立っていた。


 そんな日々の何もかも「青春」を理由にするにはあまりに漠とし過ぎていて、あまりに大人の存在がなかった気がする。それは、そうか。大人達を避けるようにクソガキだけで固まってたんだから。


 榊さんに出逢ったのは、そんな頃だった。




 そこまでを一気に語った俺は、大きく息を吐いてジョッキの底に残っていたビールを飲み干した。じっと身じろぎもせず聴き入ってくれていた吉居だったのに、すかさずおかわりは? と確認してくる。


「焼酎…麦の、ロックで」

「明日も仕事でしょー、水割りにしときなよ、水割りに」


 なんだ、この恋女房、的な。つうと言えばかあ、的な。気心の知れた仲というのはこんなにもこそばゆく気持ちの良いものだったっけ。忘れかけていた大切さを思い出させてくれるタイミングの絶妙さ。それが俺の生きていく傍らにあるという幸福。


「ほんっっとなんてマメさだろう吉居…そのポテンシャルが勿体なさすぎて残念だよ先生は」

「お前意外と甲斐甲斐しいんだな武瑠、って心からも褒められるんだよねオレ」

「いや似てないけどな」


 ほら、こうやって、吐露する時折を襲う息苦しさは、お前のその魔法で解きほぐされていく。救っているのは、救いたいのは、もうどっちなのか分からないほどにね。


「……呆れた? こんな話」

「呆れてるように見えるの? センセ。眼鏡買い換えた方がいいよ? 老眼鏡にしとく?」

「……伊達だっつの」


 ああそうだったね、と分かりきっていることへニコニコと首肯する吉居。


「じゃあ、甘えてた、と…思わない?」

「えー、どうしてもそういう簡単なまとめにしたい?」


 そういう訳ではないけれど、どこかしら気恥ずかしさが手伝って俺はちょっと小休止する。ちょうど運ばれてきた焼酎の水割りをクイ、と一口だけ啜った。


「呆れ、甘え…うーん。そうだなあ、一旦ここでオレの考えを求められるなら」


 余裕、かな。


 表現するの難しいけど、と前置きが付いた上で吉居がこぼした言葉。瞬間の理解が及ばなくて、俺は何度も口の中で余裕、と繰り返した。

 どういう「余裕」なんだろう。時間がたっぷりある、という意味での「余裕」なのか、それとも金銭的な面で? いや、話の流れを察しろよ俺。メンタルの面だろうか。

 俺は知らず目顔で訴えていたのだと思う。吉居はふわりと柔らかく笑うと視線を天井へ向ける。思い出を手繰り寄せているようだった。


「うちはー、ほら。離婚してるから片親で。オレのことはほとんどばあちゃんが世話してくれたんだけどね」

「……うん」


 二年間、担任をしていた。高校ともなれば家庭訪問を行う学校そのものが少ないだろう。少なくともうちはやってない。それでも吉居 武瑠に関する引継事項の中に家庭の事情は明記されていたし、提出された各自の調書に記載があったおばあちゃんの苗字はお母さんの旧姓と違っていたから、そこに何かしら複雑な空気があったことも知っている。


「……なんつーか、ねぇ。ばあちゃんにはすっごい感謝してる…たぶん、小さい子を育てるには歳をとりすぎてたと思うんだ、しんどかっただろうなあ、って今なら解る。ありがとう、って今なら素直に言える」

「……昔、は。違った?」


 高校の二年間、だけなんだなあ、と俺はしみじみ考えていた。少なくともあの間、吉居がおばあちゃんに対して不遜な態度をとっていたとは思えない。思えないんだけれど。知っている、つもりだったんだろうか。やゆよ、のこと、分かっているつもりだったんだろうか。

 21年間のうちの二年を濃密に過ごしたからといって、それは吉居の人生の切り取られた1ピースにすぎないものだった?


「……違って…は、ない、と。思いたい。勿論 今の方が断然気持ちは強いけどね。あの頃はやっぱり恥ずかしさが先にあったし…」


 毎日、ギリギリの感覚だったなあ。


 吉居はピリ辛手羽先へかぶりついた後の指先をおしぼりで拭う。汚れが落ちてもなお、三本の指は緩やかな動きを続けていた。余裕、とは対極に位置するギリギリ、という形容。その吉居の感覚全部をきちんと自分のものにしたくて俺はなおも吉居を凝視する。


「ばあちゃんは…離婚した父ちゃんの母親、だからさ。嫁と姑って根っから仲良いわけじゃないじゃん? 所詮他人だし。父ちゃんもなんでばあちゃん連れて行かなかったんだろう、って不思議に思ったりしたけど」


 半ば曖昧に頷きながら俺が知る限りの嫁と姑を思い出す。


“うちは息子二人だから、娘ができて嬉しい”


 確かうちのお袋はそんな開けっ広げな喜びでもって家族が増える機微を表していたように覚えている。それでもつまるところ上手くいかなかったのだから、そこに何かしらの原因があったはずだ。

 上手くいく関係性の拠り所を血の繋がりだけに求めるのは違うと思うし、何がきっかけで何が決定打で綻び始めた縁を修復する手だては本当に無かったのか。俺は緩く首を振りながら考える。


「……ごめんな、吉居。俺、正しく分かってあげられてないかもしれない」

「ううん、オレはセンセだったら分かってくれると思うよ? ほら、武蔵さんとこの…あれやこれや」

「傍観してただけよ? 俺」

「オレもそうだったの、オレが…ばあちゃんと母ちゃんを繋ぐ弱っちい支点だ、って分かってたんだけど何も出来なくてさ」


 頭の中でイメージ図を描く。高校生の吉居はわりとすぐに思い出せた。その笑顔は今、目の前にあるものよりほんの少し幼い。

 例えば支点、とするならば右手に吉居のお母さん、左手に吉居のおばあちゃん。微妙な力加減の上に成り立つその均衡は、吉居の存在無しにはあり得なかったということか。


「勿論ね、オレ一人が頑張ってたなんて言うつもりはなくて…」

「うん、それは分かってる。でもその…吉居家のバランスは正三角形じゃなかったんだろ?」


 誰もが等しく手を繋いでいたのなら吉居の感覚はギリギリではなかったのだと思う。

 どちらかに引っ張られ過ぎてはいけない。ましてや他の、意味も理由もさして無い馬鹿げた衝動へ手を伸ばすなんて。そんな余裕。


「神威も心もうちのこと気遣ってくれたしね。好きなサッカーは続けてたし、そんなささくれだってはいなかったけど」


 なるほど、言い得て妙。俺はそんな複雑に入り雑じった感情とは縁遠いところで、のほほんと青春とやらを謳歌しているつもりでいたんだ。


「あー、なんか。ほんっと恥ずかしい…」

「なんでよー? センセも人の子だったんだなー、ってオレ すっごい安心出来たのに」


 両の掌で顔を覆っても指の隙間から吉居は俺をのぞき込んでくる。

 余裕に甘えていた俺。ギリギリを支えていた吉居。どちらが鍛えられ、どちらがここぞという時の強さを発揮できる人間か、なんて言わずもがなじゃないか。

 きっとただ強いばかりじゃない。どちらともを、大切に出来るように。崩れ落ちて誰をも傷つけたりしないように。加減できるしなやかさも身につけてきたのだろう。


「ねー。なぁんでモテないんだろう吉居…」

「そこなのっ?! 結局そこに戻るの? 話!」

「勿体ない」


 本当に、勿体ない。こんな良いヤツが俺の教え子だなんて。教えてもらってんのはこっちじゃねえか、と己の不甲斐なさに杯も進む。


「戻ろうよ、センセの話に」

「いやもういいよ、酒の肴にもなんねえよ」

「何 拗ねてんのー? 可愛いだけなんですけどー」

「うるさいよ」





 榊さんには息子がいた。たった、一人。俺と出逢った頃には既に過去形だった。

 仲間と二人乗りで走り回ってたある日の夜、どこで駐車した時だったんだろう、俺は榊さんに呼び止められたんだ。


 刑事だと身を明かされたけれど、見るからに刑事、ではなかった。その第一印象に眉根が寄ったことを覚えている。確かに嫌悪すべき対象だったけれどパリッと糊の効いた制服姿ではなく、ひどく草臥れた私服姿だったから余計に、だろうか。チラリと掲げられた手帳へ、交番のおまわりさんとの違いを明らかに見出すこともできず訝しみ、俺の視線は相当に不躾だったと思う。


『このバイク、君の?』

『……や。ダチの』


 購入資金なら、家の何処かにあったのだろうと思う。けれど俺は煌めくマシンを我がものにしようとはしなかった。結局、俺は周囲をせせら笑い、至極真っ当な道から逸れることで勝手に抱かれた期待を躱し何かを踏み躙りたかったのだろうけれど。せせら笑いされるのは嫌だった。究極的に見放されたくは、なかったんだ。だから毎夜、誰かの後ろに乗せてもらうだけだった。

 16歳になってすぐ、お年玉を貯めてもらってた通帳の残高をゼロにして二輪免許は取ったのに。


 勿論、どうして自分だけの愛車を手に入れないのかと何度も問われた。金なら持ってんだろ、と揶揄された覚えもある。俺は何と応じていたんだろう、誰かと味わう疾走感が良いのだと答えた気もする。それならクルマでもいいじゃん、とさらに返されゴニョゴニョと言い淀んでいたんじゃなかったっけ。


『……うちの息子も同じのに乗ってたなあ』


 榊さんの一人勝手な回想に、俺はへえ、とも相槌を打たず、確か見失ってしまった仲間の背中を探していたのだと思う。その言葉が過去形であることにも気づかなかった。


『免許を取ってから、一年は経ってる?』


 今にして思えばどうしてその場に居続けたのか不思議だ。くたびれたオッサンの戯言なんか聞いてられっかよ、それくらいの悪態を吐いて背中を向けることなんて簡単だったはずだし、現にその頃の俺はそんな刺々しく反抗的な自分を大人達へのデフォルトとしていたのに。あてなく彷徨わせていた視線をしっかりと捕まえられた。その眼光が思いのほか鋭かったから。けれど底に横たわる揺らめきの理由が分からなかったから。立ち去れなかった理由を、俺はそう決め込んでいた。


『……何の話』

『君の友達だよ、君を乗せてくれてる子は免許を取ってから一年経ってる?』


 その“一年”が、二人乗りを許されるボーダーであることくらい知っている。知らね、とだけ短く言い捨てて、俺はすぐにしくじったと覚った。榊さんの眉間に皺が寄り目が細められ、俺を圧する力がぶわりと強まったから。俺達の間を隔てる数歩の距離は変わらないというのに。


『それは、良くないな』


 言われ、見えない力に圧されるように俺は一歩を後ずさりした。こっぴどく叱責されるであろうあと何秒後か、に怯えすくんだのではなく、さながら触れてはいけない箇所に触れた後味の悪さと言うべきか。

 しかもそれは目に明らかで理由が問いやすい類の傷ではない、この人が常日頃は秘めていた部分を俺の考えなしの一言が掠めてしまったんだ。そうピリピリと感じてしまうほどに沈んだ声音が、俺へダイレクトに響いてきた。人の往来も車の行き来も多かった。音は、他にたくさんあったはずなのに。


『君は、責任について考えてみたことはあるかい?』

『……は』

『じゃあ、例えば…考えてみて欲しい。君の友達が免許取得から一年経たないうちに君を後ろに乗せていた時、事故に遭ったとしよう』


 正直、その場から立ち去りたかったのだと思う。うざい、と当時 何に対してもそんな形容を使っていたけれど、確かに鬱陶しさは感じていたから。だって考えることが面倒で、とにかく風を切る感覚に溺れていたかっただけの俺に考えることを強いる大人だったから。

 俺はまたじりじりと後ずさる。けれど榊さんはもう距離を詰めようとはしなかった。


『君も、君を乗せてくれた子も怪我をした。その場合、責任の所在は何処にあると思う?』

『知らね。もういい? 呼ばれてっから』


 ちょうど折り良く、俺の姿を探す仲間が現れた。大和ー、と間延びした声にすかさずついて行く。


『今度会う時までに考えておいて、ヤマトくん』


 いや、もう会わねーだろ、とその時は何故か簡単に決めつけていた。今度なんてない、なのに考えておいて、だなんて軽々しく言いやがって。今の俺が一番したくないことなのに。


 腹立たしく感じたのは、実はもう考える一歩だったのかもしれない。本当にどうでもよかったのなら、感情の欠片も揺り動かされやしなかったはずだから。それでもその時の俺は何かがちりちりと胸の内で燻って、責任、と独り吐き捨てるように呟いていた。





「それで、センセは何て答えたの?」

「……なんで素直に答えてると思うんだよ」

「んんー、目 付けられたから」


 は、と半ば反射のように間の抜けた声が出た。若かりし頃と現在とを行き来していた俺の思考はちょっと頼りなくて、奮い立たせるように手の内のグラスを呷る…いや、余計にCPUを麻痺させているかもしれない。誰が、誰に、目を付けられてたって?


「オレね、時々思うんだけど…いやまだ教壇に立ってもいないうちから何言ってんだお前、って怒られそうだけど」

「何? 怒んないから言ってみ」

「うーん、生徒みんなにさあ、本当に平等に接することなんてオレにできんのかな、って考えることあって」


 何故だろう。ひどくドキリとした。飲み過ぎたせいじゃない。俺もつい最近、同じ様なことを考えやしなかったか。その結論は今、目の前にある訳だけど。


「オレはね、たぶん…目をかけ気をかけ声をかけるのは完璧に均一じゃないと思う。まだ実際にやったことないからね、想像の域を出てないけど」

「いや…分からなくは、ない」


 むしろ、分かってしまっている。そんな俺がいる。そうしてまた昔の記憶がふわりと蘇る。


「その、榊さん…ね。センセのことが気になって気になって仕方なかったんだと思う。目 付けられたってのはあんまり良くない表現だったかもしれないけど、おまわりさんの仕事って視点で考えるとさ、指導すべきはもれなく素行のよろしくない青少年のはずだったりするよね? その場にいたそんな青少年はセンセだけだったの?」


 違うね、と俺は口元を綻ばせながら鼻息荒く語る吉居の言葉を一言一言かみしめた。なるほどね、そういう考え方もあったか。目を付けられていたなどと。図らずも再会したあれは、では偶然ではなかったということか。


 そう、歳を重ねた今だからこそ分かることもある。偶然なんてそう、簡単に起こりやしない。だからこそそこに綿密に練られた計画と誰かの思惑と割かれた時間があるわけだ。そうして対価など期待されるでもなく無償で呈された温もりを、俺は正しく感謝などしてやしなかった。


 榊さんから目を付けられて…いや、目をかけられて。どうしてもどうしてもあの人は「責任」について考えさせたかったのだろう、学校の帰り道で、よく行くコンビニで、俺は何度も榊さんの姿と遭遇したのだ。



「俺はね、榊さんが言う責任っていうのは“誰が一番悪いのか”ってことだと解釈してて」

「うん」

「だから俺だろ、って答えた。それが周りの大人から求められてる答えだと思ってた…お前は悪いことしてる、馬鹿なことしてるんだぞ、早くマトモな道に戻れよ、って声ならざる声がさ、聞こえてくるような気がしてた」

「……違った?」


 俺の口ぶりから推して知ったのか、吉居は俺が頷くのを待っているようだった。ただ、その「違った」というのはまるで見当違いだった訳ではなく、榊さんの意図するところを掠めてはいたんだ。


「吉居は、ティーチングとコーチングの違いは教わった?」

「うん。ああ、榊さんは気づいて欲しかったんだ? センセに」

「そう…俺は、自由ばかりを主張してたから」

「自由…えーと、その。若さゆえの奔放な行動の、ってこと?」

「わー、綺麗な表現するなあ、吉居」


 将来を期待されるのも、店を継ぐことを望まれるのも、自由を奪われそうで反発したかった。勝手気ままな言動こそ、俺自身の権利を主張する手段だと思い込んでいた。刹那を駆ける見せかけの格好良さに酔いしれていた。


「実はさ、自由と責任って表裏一体じゃん。榊さんは俺が出した答えを否定しなかったけど、そう考えるに至った過程を教えて欲しいって言い出して」


 過程、なんて更に問われて狼狽えた。狼狽えたのは当然だ、答えなんてそれ以上、用意してなかったんだから。今 考えると恥ずかしいことに、俺は自分の準備不足を申し訳なく思い詫びるでもなく、かえって怒りとしてぶつけたように記憶している。あんな風に俺の話へ耳を傾けてくれた大人はそういなかったのに。



『んだよ、俺ちゃんと答えたじゃんか! 次があんなら最初から言えよ面倒くせえ!』

『ごめん、そうだね…まだまだ私には反省が足りないな』


 いや、逆にその身近さが感じたことの無い大人との距離で、奇妙なこそばゆさも確かに覚えていた。身に持て余す名のつけようもない感情を「怒り」としてしか体現しようがなかった、そんなところがまったくもってガキなんだよね。


「上手く、答えたかった…そういう気負いめいたものもあったと思うんだ。何かっちゃ武蔵と比べられてデキの悪い兄の烙印捺されてたからね」

「オレ、ひとりっ子だからよく分かんないけど…神威も美琴とよく比べられてたよ、先生とかご近所さんから。残酷だよね…違う、っていうのがそれぞれの個性としてちゃんと認めてもらえない、って」

「今でこそ個を認める考え方は浸透してきてるけどね、昔は…親世代とかその上の世代とか、自分がされてきたようにしか…それしか術を、知らないから」


 榊さんもそうだったのかもしれない。息子には厳しく、こうあるべきだと理想を強く押しつけた。先の姿だけを指し示した、そこには明確な理由も納得の動機づけも時折の進捗管理も温かなサポートも、何もなかった。



 そんな風に、あの人は悔いていた。



「榊さんの息子さんと…似てたんだって、俺」

「……見た目? な訳ないよね」

「そうね。その…責任について考えてなかったところが、ね」


 アルコールが回ってきたせいだろうか、分解酵素の働きが追いついてないんだろうか、目の縁のあたりが奇妙な熱を帯びて俺は瞬きを繰り返す。ただ、話を聴いてくれているだけなのに吉居のしなやかな背中がやけに頼もしく見えた。可笑しいな。俺が頼りがいあるところ、見せたかったんじゃなかったっけ。


「自由に振舞ってもいい…だけどそれはその言動の先に起きたことだけじゃなくて、起こる“かも”しれないことにまできちんと対処し得るのかどうかにかかってる」

「それが…その、榊さんの言う責任?」

「榊さんの息子さんの話を聴いた後で、俺が出した答え」


 ねえ、と吉居は声を喉奥にからませながら問うてくる。俺はなんとなく何を質されるのか分かるような気がしていた。


「榊さんの、息子さん、って…」

「亡くなってる。享年16歳」


 やっぱり、と声にせずとも吐き出された吉居の大きな息はそれを雄弁に物語る。俺は榊さんの過去形を気にも留めなかったけれど、気配りの人 吉居だ。さっきから俺が暗に示していた回想と事実との差異を鋭く嗅ぎ分けていたに違いない。


「……二輪免許取りたての子の後ろに乗ってて。コーナリングをミスったらしい、道路に放り出されて…ノーヘルで」


 全身をアスファルトへ強かに打ちつけられた16歳のその後は容易に想像出来る。榊家の事実にはまだ続きがあるんだけど、眉を顰め押し黙った吉居の姿に俺はしばし息をのんだ。


 痛いね。


 まるでその時を体感しているような、苦しげな吉居の吐露にああ、やっぱり優しい子だな、としみじみ感じ入る。ジョッキの底に残る麦の金色を所在なげにくるくると回しながらきっと次の一言を考えあぐねているのだろう。俺もグラスの中の氷を指先で弄ぶ。口を閉ざした吉居を見つめながら、出来る限りフラットに続く榊家の真実をつなぎ始めた。


「榊さんも奥さんも、それは悲しみに暮れたらしいんだけど…それだけじゃ、なくて」

「……うん」

「その、運転してた子。身体は無事だったんだけど」

「……心の方が、って…こと?」


 もう俺はそれ以上を語らなかった。吉居が伏せた目は言外の想いまで理解したと伝えてくれている。どうしても重くなった空気を変えるべく、俺は声を張り上げ店員を呼んだ。吉居はちらりと俺を見遣ると、また目を伏せ重ね合わせた指と指に顎先をのせる。


「……センセはさあ。どこに…何に? 一番 シンクロしたんだろう? その、何から答えを導き出したのかは分かったけど、そこから教師を目指すに至った繋がりが見えてこない、オレ」

「シンクロ…そうだなあ」


 どこに、何に。改めてそう問われると明確に示すことが出来ないそれも、若さのせいにしてしまって良いものか。とにかくあの頃を振り返ると自分がどうしてそうだったのか、上手く説明出来ないことの方が圧倒的に多い。情けなくあるのだけれど、それも俺だと認めなければ今ここにいる自分を一体誰が可愛がってやれるってんだ、って話。


「やっぱり榊さんの…啓発活動に、かな」


 榊さんの言葉を借りるなら「自分が好きでやっていること」。それは、あの人の本来業務ではなかったんだ。非番の日を充てて、自らの足で歩き、目をかけて声をかけて想いを伝える。大切な息子を失った悲しみ、を広めるためなんかじゃなくてね。


「口で言うほど、簡単じゃなかったと思うんだ。想いが伝わる以前にまず相手にされなかったことの方が断然多かったらしいし」

「そうかもしれないねえ、刑事さんだ、って判った時点で逃げてく子だっているよねきっと」

「そう、そこ。俺は逃げられたくはなかったワケ」


 吉居はただでさえ大きくまあるい瞳をさらに見開いて、それからゆっくりと瞬きをした。それは“なんとなく、分かった”と言っているようなリズム。目は口ほどにモノを言うんだな、と俺はくつくつ笑いを漏らした。


「俺が榊さんから気づかせてもらったことを一人でも多く、伝えたかった…逃げられない、方法で」


 人は、自由に生きる権利を有しているはずだ。子どもだって、そう。親が決めた道を進まなきゃいけない、って法はない。ないんだけど。

 それでも考えなければならないんだ、自分が主張する“自由”は、誰かを傷つける“銃”なのかもしれないということ。得られるものも勿論あるだろう。けれど何かを失うこともある。刹那の快感は、永遠の堕落と表裏一体かもしれない。


「だから…教師?」

「俺は基本、ヘタレだからさ。拒絶されるとへこむもん。先生の言葉って耳傾けてもらいやすいだろう、という目論見もございました」

「“も”? 目論見も、って何? 他にも何か」

「あー、うん。そもそも、人に“教える”のって、嫌いじゃなかったんだ」


 小さい頃に読んだ偉人の伝記。かの天才アインシュタインの言葉は今でも強烈な記憶として残っている。


「『教えるということは、こちらが差し出したものが辛い義務ではなく、貴重な贈り物だと感じられるようなことであるべき』…というのがね、俺の理想」


 なんとなく、語りすぎてしまった感。頭の中で俺の言葉を(いや、正確にはアインシュタイン先生の言葉なんだけど)忠実にくるくると繰り返してくれてるんだろう、天井を見上げている吉居の横顔をぼんやり眺める。

 つまるところ何の話をしてたんだっけ。俺は急に気恥ずかしくなり一人 苦笑した。


 暫く黙り込んでいた吉居は、突然と言えるほどに ふふ、と笑い声を漏らした。面白可笑しいポイントがどこかにあったっけ。首をポキポキと鳴らしながら俺は自分の言葉を省みるけれど、まあ 恥ずかしさしかない。


「センセ。オレ“だけ”に…ありがとね」

「いや、まあ…」


 正直、改まって無駄に良い声で御礼を言ってもらえるほどの話ではない。若気の至りをちょっと気取って語っただけだ。何か、特別なものを吉居へ差し出してあげたかった、と。ただ、それだけ。

 だからどうしろ、って具体的な解決策でも何でもない。けれど男同士の話、って得てしてそんな感じじゃないか、と一般論に逃げたいほどの。


「でもね、でも…やっぱり神威にも心にもミコちゃんにも、聴かせてあげたいと思った」

「吉居、」

「なんか、オレだけが持ってるには…勿体無い」

「そんな高尚なもんじゃないだろ」


 気恥ずかしさはますます募って、俺は持て余した右手の指で伊達眼鏡のブリッジを押さえる。きっと多くの機微を共有しているトリオは、これからもこうやって誰から諭される訳でもなく、ごくごく自然に互いを認め合って高め合っていくんだろうな。


「そんでやっぱりみんな葛西センセのこと、もっと好きになってくんだよ…オレってたぶん、マゾっ気 強いね」

「何なの、どの流れからサドマゾの話にたどり着いたの」

「なんかさあ、寂しかったのってオレだけがみんなのこと好きすぎてるからかなー、とか思って」

「お年寄りには、優しくな? 吉居。分かるように話せ」

「うん、だから。オレ達は仲が良くて、お互いそれなりに想いあってるんだけどお互いのことだけ、いっつも考えてる訳じゃない」

「そら、そうだわな…特にあの御子柴バカの王子なんか」


 そうそう、と首を竦め吉居は良い顔で笑う。いるんだな、お前のすぐ傍にはいつも仲良しがね。


「ベクトルの和、と言うかねー…ま、誰が始点で誰がaで誰がbでも、それがどんなものであってもつまるところ成り立って終点へ向かうんだよね」


 ちょっと、口が開いてしまった。何なの、吉居。お前の頭の中は、思考回路どうなってんの。何がどうなって幾何学的な話にたどり着いたの。あ、の形をとったまま、暫し静止した上下の唇の間へ、吉居は笑いながら豚バラの串を突っ込んでくる。


「っ、お、まえ、ビックリすんだろ、軽くイジメだぞ」

「オレ達、語りすぎでしょー、すっかり冷めちゃったよ」

「バッカ、酒入った時にしか語り合えないこともあるでしょうが」

「そうだけどさ」


 例えば今日みたいに?


 ほんの少し語尾を上げて、吉居はテーブルへ肘をつき掌に乗せた小さな顔を傾げる。誰に問うているのかいないのか、曖昧な響きはそれでもむしろ心地好く場に流れた。


「今夜のセンセの話。オレらの誰が聴いてても、きっと他のみんなに共有してくれたと思う」

「…そんなもん?」

「うん。そう、思った。あのね、なんて言うか」


 串先から白い前歯を使って器用に鶏皮を抜き取ると、吉居はモゴモゴと口ごもった。首をくるりと一回転させ、空を見つめうなじを意味なく掻いている。そんな仕草の一つ一つが言いたいことを総まとめしているのだと訴える。

 俺は大人しく、つくねを頬張って待ちの姿勢。急かすのなんて、それこそ勿体無い。


「相手にね、同じだけを求めるのは我儘だよね…その、オレがこれだけ想ってるんだから同じだけ、同じ想いを返して欲しいとかって」

「うん…でも、あるだろ。往々にしてそういうの」

「かもね…でもオレの、今回のモヤモヤはさ。神威に委ねすぎだったせいかなー、って。オレって存在の意義をさあ、神威の役にどれだけ立ったか、とかで測っちゃ駄目なんだよ」


 駄目、という否定的な言葉が不思議なほど晴れやかな吉居の笑顔とともに落ちる。俺はもう、教え子に対する性なのか。すぐに拾い上げ、そんなことはない、と口にしてしまいたくなったけれど、すうと吸い込んだ吉居の息のその先へもう少し、黙って耳を傾けることにした。


「やっぱり…認められたいでしょ? 自分のこと。自分だけで認めてあげてもいいんだけどさ、それは自己満足だったりするし」


 俺は吉居の不思議な所作をじっと見つめていた。俺と目を合わせないのは敢えて、なのだろうか。まるで先を急ぐかのごとく溢れ出る言葉を何とか順序立てて送り出したいとするように、吉居は喉元に手を当て俺のグラスへ視線を這わせながら一言一言を慎重に紡ぎゆく。


「誰かの“ありがとう”で自分の価値が見出せる。たぶん、そんな瞬間もある。でもそこに押しつけがましさが在ったらさー…自然、じゃないよね」

「自然…?」

「人間だからさ。まったく、これっぽっちも、微塵も欠片も見返りなしの献身とか自己犠牲とかって、難しいと思う。思うんだけど」


 そこでピタリ、とまるで音が鳴ったかのように俺と吉居の目は合った。

 全体的に色素の薄い吉居は、例えば弓削を深く濃い水墨画と、神威を色鮮やかな油絵とするなら、パステル画のような淡い華やかさを持つ。

 それが今、ピタリと。明確な意思が明確な輪郭に宿り、吉居を際立たせている。もしもそれが、俺とこうして話をして、新たな気づきを得たことによる成長ゆえんだと言うのなら、こんなに嬉しいことはない。


「そういうこと、自然とできるようになりたい。息するのとか、朝起きておはよう、って言うのと変わらないくらい、自然に」

「……うん」

「センセだって榊さんだって、そうじゃん。迷える青少年を救って自己満足してる、って訳じゃない。かと言ってこんな素晴らしい活動、無償でやってんですよーなんてアピってる訳でもない。ちゃんと“仕事”ってスタンスで自然にやってる」

「そんな、」


 大層な事をやってきたつもりはない。ただただがむしゃらに、そしてそれは吉居の言葉にあるほど清廉なものでもなかったような。


「高校の時、センセがさあ。“考えてみて”って言うの、オレ好きだったんだよね。なんか凄いこと、考えられるような気がして」

「……考えられてんじゃん。吉居は、ちゃんと」

「気づかせてくれたのは、センセだよ」

「っ、おま、お前はもう…!」


 なんだなんだその目映いばかりのイケメンスマイルは。憑きものが落ちたようにつるりと煌めく微笑みを俺に向けた吉居は、飲み始めた時 確かに背負っていた重苦しさを一人勝手にどこかへ吹き飛ばしたらしい。

 いいけど、まあ。俺の、デキの良い教え子は特に俺の手を借りることも無く易々と躓きを乗り越えていくんだな。それでも、いつまでも。手は差し伸ばされているんだ。それは、俺が救えるようにか、俺が救われるようにか。互い、という漢字がなんとなく頭の中に浮かぶ。


「あれ? 泣きそうなん? センセー、可愛いなあもう」

「三十路に可愛い言うな! なんだよお前こそ無駄にイケメンフェロモンまき散らしてんじゃねえよ! そういうのアレだろ、あざと可愛いとか言うんだろ!」

「無駄、て! 今日はセンセのこと釣り上げられたから無駄じゃありませーん」

「釣られてないし! 泣きそうでもないからな!」

「いいよねえ、そのツン具合。オレMだから心地好いー、もうみんなのこと好きすぎて辛いわー」

「このド変態!」


 悪態の中に笑いが混じればただもうじゃれ合っているようにしか感じられない。ほど好い酩酊感の後押しもあって、俺は相好が崩れるばかりだ。


「あー、オレ。センセみたいな教師になれるかなあ」

「ふふふふふ。百億万年早いわ」

「あ、何? 魔法とか使えないと駄目な感じ? 三十路童貞はちょっとなあ」

「お前は何の話をしてんだオイ」


 なれるよ。吉居なら、もう俺なんてくらべものにならないくらいの良い先生に。

 なれる。誰が教えたと思ってんの。


「次またさー、みんなで飲もうよ」

「次…」

「うん。近々…逢うでしょ? オレら」


 不意に浮遊感から引き戻される。少し先の未来をよほど慎重に見据えているのは、俺よりも吉居達かもしれない。


「……そうだね」

「笑って…楽しく。飲めるよ、うん」


 そのイメージは何ら保障されたものではない。手にしたい安寧を願うように声に出してみたのか、吉居。窺うように表情を盗み見るも、そこにあるのは憂慮ではなく相変わらず優しい笑みだった。


「神威もミコちゃんも…自分で考えられる子だよ、オレが何とかしてあげなくちゃ、って思うのはひどく傲慢なんだ」

「………」

「誰かの役に立つ、って目線がもう上からなのかな。オレは誰かを支えてあげられる器の人間になりたい…そうやって自分は、投影されるから」


 俺は吉居から目を逸らせずにいた。投影、とは。また小難しいことを言う。

 およそ十年前、大学の講義で聞きかじった心理学の内容、吉居が言わんとするところはあれなのだろうかと記憶をなんとか手繰り寄せた。


「……ユング? だったっけ」

「んー、大いなる自己の実現、なんてね? そこまででっかいこと言うつもりはないんだけどさ」


 鶏ササミの梅じそ巻きを器用に平らげた吉居は、竹串を空いた皿にのせながら笑った。いやもう充分、今夜のこの話を酒の肴とするならば壮大なスケールでお送りしているよ。


「オレ達はこの世に独りきりじゃなくて…必ず他者の存在があるわけでしょ?」

「うん」

「人のふり見て我がふり直せ、じゃないけど気づかされることってあると思うんだ。このたびのー、オレみたいにね? ナオくんとトモくんが神威を想ってしてくれたことは、オレにとって新たな気づき。誰かを思い遣る術って自分のそれだけが全てじゃないし、きっといろんなやり方がある」


 そうだね、と頷きながら感心する。こんな短時間でさ、きちんと自分なりにモヤモヤを払うことができるんだな。声に出しながら途中、照れを隠すような吉居の言い回しが印象的だった。大きな瞳を縁取る柔らかな肌に若干 朱がさしているのは酔いのせいではないんだろう。


「そうやって一度まるごと受け容れる。そこからオレはまた大きくなれる…と思わない? 成長、できるんじゃないかなあ」

「思う。つか吉居、もう成長出来てるじゃない」


 えへへえ、と途端にだらしなくなる表情に幼さを感じ安堵する俺って終わってないか。何か、俺は現役教師だから、とか。年上だから、吉居は大切な教え子だから、とか、気負いめいたものが一気に消えてなくなっていく。対等、と表すべきなのかこんな感覚。全てを酒のせいにしてしまうには、あまりにつらつらと感じるままが口をつく。


「世界中の人を、さ。もしも“自分”だと考えられたらさ。人にこうしてあげたいと思うことは人からこうされたいと思うことなんだろな」

「いいね、センセそれ。オレ、ちょっと心のメモに書き記しとく!」

「何? 軽く馬鹿にしてんの?」

「ちっがうよ! 共有共有」


 表には裏がある。それは時に善であり悪であり、自分の見方と他者の見方とでは一体どちらを表とし裏とすべきなのか、決め難い場合が多々あるはずだ。片側だけでは成り立たないのかもしれない。それもまた、投影の一面と言えるのかな。


「なんかこう、面会…接見? 近いからさ、どうしてもちらつくんだよね、右京のこと」

「それは…吉居だけじゃないでしょ」

「今こうして考えるとね…や、考えられるのがわりと奇跡的だけどね? オレ達のそれぞれに必要だったのかもしれない。神威の傷を必然とするのはちょっと酷だけど。それでも世の中に何一つ無駄なことなんてない、って。言ってくれたのはセンセだった」


 例えば、芽生の3年を思い返す。そこにあるのは目に見えて確かな「成長」だ。三十も過ぎてこの歳になると俺には何一つ痛感出来ないけれど。

 何が出来るようになった? むしろ疲れの回復が遅くなったり、長く記憶に留めおくことが難しくなったり、出来なくなることが増えてやしないか。

 それでも時間は流れているんだ。出来なかったことが出来るようになることだけが成長なのか。否、とするならば、出来ていたことが出来なくなった右京にあるのは停滞、あるいは退化だけか。


 教え子、というラインには並ばずとも、全くの無関係ではない彼。ただ、俺はどう在るべきか。どんな立ち位置を貫くべきか。ここのところずっと晴れることのない鬱とした纏わりが俺を捕らえて離さない。


 三年。どんな密度で彼の時間は流れたのだろう。

 目の前の吉居を見、俺は緩やかに頭を抱えた。違うのだろうと思う。やゆよ達や御子柴と、真坂右京が過ごしてきた時間は。密度だけでなく、深度も抱える重みも何もかも。毎日毎日、教え説かれ詰め込まれた某かはあったのだとして、それは強制的なもので自発的なものではなかったはずだ。


 いや、いっそ自ら求めた欲が彼を清らに変えてくれるものであったなら。そう、あって欲しいと願った。


「…センセ?」


 俺の記憶はいつしかあの灰色の無機質な建物へと向かっていた。だからか、吉居を仰ぎ見た表情はあまり穏やかなものではなかったらしい、眉間に皺寄せている自覚はあった。


「……笑って、楽しく。飲めるよな、逢えるだろ? 俺達は」

「……誰に言い聞かせたいの? センセ。プラシーボ効果と言えなくもないけど」

「どうしたって…思い出すから」


 囚われるな、と榊さんからあれほど言い渡されたのに。あの日、あの場所で目にし、触れた神威の血の鮮やかさは俺の肌の奥の奥にまで沁みこんでいる。事の共有、とするにはあまりにこの身が千切られそうに痛いんだ。それは吉居におのずと伝わっているはず。


「……ただ、真坂右京と会う。それだけじゃないのかもしれない。権力に貪欲な人間に振り回されているだけかもしれない」

「…そうだね、そこは…。分かんないね」

「誰にも、傷ついて欲しくないんだ」


 だからそのために、俺が出来ること。ただその場に同席しているだけでは、誰の支えでもないし誰を思い遣れてもいないし。ましてや、ヒーローでもないし。


「……でも、センセ? ずっと、居てくれるんでしょ? オレ達の傍に」


 間髪入れず 勿論、と頷く。髪の毛の揺れを感じるほどだったから少し大げさすぎたか、と思ったけれど、こちらを見つめる吉居の顔には満面の笑みがみるみるうちに広がっていく。三十路過ぎの俺が気恥ずかしくなるほど爽やかで健やかな笑顔に言葉は付随しなくとも、そこに謝意が見て取れる。


“ありがとう”


 ねえ、吉居。その言葉をはなから期待して何か事を成すのは、確かにいただけないのかもしれない。それでも。やっぱりもらえると、嬉しくてたまらなくなる。

 それに、求めてくれたのはお前達でしょ。ともすれば形骸化しそうな俺の信念は、いつだって「生徒」が正してくれるんだ。


「傍にいる…というか、俺にはそれしか出来ない、たぶん」

「ううん、オレ達がそうして欲しいんだよ? センセも忙しいんだろうけどさあ」


 今日、忙しさ垣間見ちゃったし。


 吉居は声を落とし視線も落とし、気遣うように俺を労う。本当に、コイツは。いや、吉居だけがとりわけということではないけれど、優しい子達だな、と改めて感じる。大丈夫だよ、吉居。俺にも良いカッコさせて。


「そうだな、婚活に割く時間を調整すればこの忙しさは何とか」

「なんでそんな悲しい嘘つくの、センセ。1ミリもしてないでしょ婚活なんて」

「バカバカ、そこ事実確認 掘り下げんなよ! むしろもう触れないでください、お願いします」

「もうさ、老後はオレと一緒に老人ホームで過ごそうよ。オレ、センセとだったら楽しいと思うな」

「吉居と10は離れてんだぞ、俺のほうが確実に先にヨボヨボになるだろ、会話もロクに成立しないって」


 そうかなあ、と吉居は笑う。歳とって、お互い変わらないくらいの爺さんになってもまだ続いてる? この心地好いつき合いは。勿論、先生と生徒、なんて関係性はもう何が何だか分からなくなってると思うけど。


「センセがね、始まりの人になってよ」

「…はじまりのひと? はじめてのひと、とかじゃなくて?」

「え?! や、な、なにセンセ、さすがにそこまでわが身を捧げるのはちょっとごめんして欲しかったりして」

「なんの話をしてるのオマエは!」


 真面目な話をしていたはずなのに、腹を抱えて笑い転げる吉居をジト目で睨みながら俺はグラスを傾ける。大きな塊だった氷はすっかり融けてアルコール濃度は随分薄くなってしまった。


「オレ達は、葛西センセからすっごいたくさんの想いをもらってるんだよ。親とかばあちゃんとかとはまた違った想い」

「……そうか?」


 とても久しぶりに、吉居から「葛西センセ」と呼ばれた。ような気がした。笑いは未だ吉居の口の端に含まれているけれど、真っ直ぐな視線が痛いほどに真っ直ぐな言葉が胸に届く。


「そうだよ。生きていくこの世にはさ、血縁者より圧倒的に他人の方が多いじゃん。友達、とか先生、って存在はさ、関わる時間が長い人生初めての他人、じゃないかな」

「幼稚園とか、保育園とかで…そうかな。そうなのかもしれないね」


 ぼんやりと芽生の顔を思い浮かべながら吉居の声に酔い浸る。3歳でも一人前におともだち、とかせんせい、といった概念は持ち合わせてるよなあ。


「センセからもらった想いはさ、オレ達ずっと持ってるよ、忘れてない。そんでさ、それを…誰かに渡してあげられたら、いいかな」

「誰か…」


 誰か、って。もしかして。右京のことを、言ってるの。そんな風につるりと、自分達の人生の連なりにあの存在を入れてあげられるの。ねえ、そんな風に俺は、お前達に伝えてあげられたものがあったんだろうか。

 それでも吉居の輝きが、俺のしてきたことの結果として今ここにあるのならば、俺は少しは自信を持ってもいい?


「だから、センセがさ。始まりでいてよ。ずっと紡ぎ繋げていけたらいいけどさ、オレ達だけじゃ上手くいかない時ってあると思うし。そうしたらまたセンセから始めてよ、大変お手数をおかけいたしますが」

「吉居…」

「ずっと、オレ達のセンセでいてよ。ね?」


 もう、返せる言葉もなくて、俺はグラスの底に残った液体をグイと呷った。それは琥珀色でもなんでもなくて、ただ透明な水分だったけど、そうでもしないと眦から違う透明な水分がこぼれ落ちそうだったから。


「なんで女の子じゃないんだろ、吉居…」

「あはははっ! いやいいよ、センセがその気ならオレ、ゆっくりじっくり勉強していこうか? いろいろ」

「妹尾はどうしたんだよオマエ」

「万葉ちゃんはねえ、もはや何をも超越した男前っぷりで…あ、そうそう今年の夏休みはね、みんなでアメリカに行きたいね、って話してて」

「ふー、いいなあ大学生は。夏休み長くて」

「で、センセの夏休みっていつ? そこ次第で」

「待って。なんで俺“みんな”に含まれてんの」

「含むでしょう、当たり前でしょ?」


 それが近くても遠くても、未来の話をし合える仲って良いもんだな。他人なのにね、俺達。


 こんなこそばゆさを、あの子にも。分けてあげられるんだろうか。

 何となく、本当に何となくだけれど。鬱とした胸の内は澱みが消え、想いが流れていくような気がした。

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