第13話


「……お、おお——」

「ああ、イカンです王子その崩れたムンク顔は! 放送禁止っすよ、ハイ作り直して!」


 女の子にしては少し低めの良く通る声、大河内さんだとすぐ分かった。ただしそれは肩越しに振り向いて見た背後の景色までをちゃんと目に捕らえてから。嘘だろ、まさかね、ってそんな脳の拒絶反応が俺の口を「お」の形にしたまま、その先に動かしてくれない。


 だって! だってさ! 大河内さんは一人じゃなかった! 隣に、静々と付き従っているその人は…!


(…うー、聞かれたく、なかったこんなの…)


「…王子?」

「…って、神威のこと?」


 我が通り名(本人非公認)にぴくりと反応すれば、俺と違わず「お」の形から次に続く言葉を大河内さんへ向け始めたトモとナオ。王子、って、そう。俺です。俺のことです。これもまた、あんまり聞かれたくなかったかも。


「神威くん、カフェテリア行くんでしょう? 私達も喉が渇いたなあ、って話してて」

「れ、いちゃん…、」

「いやー偶然すね、あたし、この企画展すっごい観たかったんすよ」


 ちょうど入稿終わったんで。


 涼しげな目元を細め俺へと視線を据える大河内さんは、何もかもお見通しといった風で、知らず喉の奥がきゅーっ、と切なげな音を立てた。



 大河内さんの力強い視線に導かれるように俺は館内への一歩を踏み出す。気もそぞろ、というか。魂が抜け落ちてる、というか。礼ちゃんはそれまでの位置を替え、俺の隣へふわりと寄り添ってくれたんだけど、正直 どんな顔していいのか分からない。

 どうしよう、何から、って落ち着かない気持ちがさらに一歩を繰り出すごとに増していって気ばかりが急く。頬の傷が、痒くなる。


「…あの。れ――」

「あ、そうだ」

「わあっ!」


 突然立ち止まって振り向くもんだから、大河内さんの背中へぶつかりそうになった。ただでさえ意味なく焦って代謝も心拍数も上がってる俺は、一人ぜえぜえと息を荒げる。そんな俺をてんで無視して、大河内さんはトモとナオへ声を向けた。


「わたくし、大河内 真百合と申します。ミコちゃん先輩とは同じ高校で、1コ下なんすよ」

「えっ、今?! 今このタイミングで自己紹介なの?! てか俺とも同じ高校だよね?!」

「王子うるさい。キャンキャン吠えない」

「へえー、神威って“王子”って呼ばれてんだ?」

「そうなんすよ、本人はめっぽう嫌がってますけどねえ」

「知ってたの? なのに呼んでたの? 嫌がらせ?!」

「え、今頃?」


 肩を竦め悪い顔を残しまた先に立つ大河内さんが、それぞれが重ねあぐねていた空気感を上手く解して纏めてくれたことくらい、俺にも分かる。分かるから、悔しい。俺、そんなの器用に出来ないから。

 大河内さんって超インドアな感じがするのにどうしてこう、物事へのフットワークが軽いんだろう。

 ふう、と息を吐く。ほんの少し奇妙に飛び跳ねていた胸の鼓動がおさまった。


「…礼ちゃん」

「なんでしょう?」

「…聞いてた?」

「聞こえなかったわ、何も」


 うん。思ってた通りの答えだ。いや、じゃあわざわざ訊くなよ、って話なんだけど。

 聞かれたくなかった。俺は確かにそう思った。礼ちゃんは機微に敏い人だ。俺の目を見、表情を読んでそんな嘘を選んでくれる。


「…嘘つき」

「聞こえない、何も」


 誰かが嫌な想いをするくらいなら、自分が引き受けて自身の奥底へ仕舞いこんでしまう。それが、礼ちゃん。だから優しい嘘をつく。あんまり綺麗に笑うもんだからもう嘘かどうかも分からなくなる。それは無理と言わないんだろうか。むしろ愛ってやつなんだろうか。

 人前で自分から積極的に手を繋いだりしない礼ちゃんなのに、今、俺の左手を細く白い五指が攫っていく。


「…礼ちゃん、俺ね」

「…はい」

「聞かれたく、は。なかった。でも…見られたい、とは。思ってた、たぶん」


 何事か、自分に胸を張れない理由がうっすらとあるから、俺の口調はどうしても躊躇いがちになる。薄い膜の向こう側にある答えを見つけるように目を凝らして礼ちゃんは俺を見上げてきた。ゆっくりと上がる口角に反比例するようにドクドクと鳴り響いていた俺の鼓動は静かに収まりをみせる。


「そう…うん、そうなのね。大河内さんが、そうじゃないかな、って言ってた」


 大河内さんが?

 俺は瞠目し礼ちゃんを見つめ、それからゆっくりと前を歩く大河内さんの背中へ視線を送った。送った、つもりだったけど、逆に見つめられてた。いつの間に居並んだのかナオとトモを新たな家来のようにつき従えて。

 いつだって強い意志が宿る瞳には、聡明さだけではなく、ぐちゃぐちゃに絡まった糸も笑いながら解きほぐしてくれるような度量の広さも湛えられている。

 やっぱり、俺の浅慮さなんて見透かされてたんだろうな。礼ちゃんのことをお願いします、なんてあんなの、分かりやすすぎる本心の隠し方だった。


「ちょっとこの逆ハーレムが快感すぎて病みつきになりそうな予感」

「…ぶ。よくお似合いです、大河内さん」

「ま、ゆっくりお茶しましょうよ」

「いや俺達レポート…、」


 前ほど嫌われてはないと思うんだけど、それでも言いたいことだけ言って大河内さんは俺の言葉を見事にスルーした。スルーしてコーヒーの香りがほのかに漂うゆったりとした空間へ迷いなく突き進んでいく。五人がゆうに座れそうなコーナー席を素早く確保すると、ぼんやりつっ立ったままの俺達へヒラヒラと掌を振りかざした。


「面白いなあ、あの子。いろいろ」

「だね。でもしっかりしてるよねえ、1コ下とは思えないよ」

「行こ? 神威くん」


 見上げくる礼ちゃんの声に突き動かされるように、俺は放置していた意識を取り戻し苦笑する。


 きっと、聞かれてた。見られてた。柳井と対峙した俺を。ひょっとしたらナオとの一部始終から。

 望み描いたシーンとはちょっと違う、でも今日のどこかに礼ちゃんがいて、俺を見てもらえたらいいのに、とは考えていたんだ。

 俺にとって大河内さんという存在は、俺をいろんな世界へ連れてってくれる大切な接点の一つ。お叱りか、ご指摘か。どんな言葉がそこに待ち受けているんだろう。

 ほんの少し先の未来が何を孕んでいるのか分からないくせに、俺の歩みは軽かった。



 さて、と大河内さんのハリのある声が耳に届く。それぞれの目の前に運ばれてきた飲み物を、各自が一口 啜ったタイミング。

 この企画展観覧のレポートをまとめておこう、とするのは全くもって建前で、俺は申し訳程度にヒンヤリと心地好い大理石のテーブルへ筆記具を並べていた。


「王子」

「不思議、聞き慣れてきた」

「あ、トモも? 俺も。似合ってるよな、神威に」

「王子様っぽいもんね」

「そう、王子様っぽいんですけどね。嫌がっとるんですよ、この人はずっと」


 大河内さんは呆れたような困ったような、それでいてどこかからかいの色が濃い視線を投げてよこす。俺の左隣にちんまり座る礼ちゃんは ふ、と纏う空気を笑みで包む。何となくの流れで大河内さんを両側から挟み込み一隅を飾るトモとナオは、ラリーの行方を見守る主審と副審のようだと思った。


“ずっと”


 そう、ずっと。俺はそれに馴染もうとは思わなかった。生きていくのに他者の目を意識し過ぎることは自惚れじゃないかと。


「…だってね、大河内さん。そのあだ名は、俺が欲しがったわけじゃないよ」

「そっすね。そもそもは勝手なイメージ押しつけた周りが悪いんすよ」


 でもねえ。


 半透明のストローを通って黄金色の液体が大河内さんへ吸い込まれていく。

 ジンジャーエール。その炭酸のきめ細かな泡立ちはまるで何かのコマーシャルのように青春ぽかった。


「みんな悪気ばっかで言いよるんじゃないんですよね、王子ー、なんて」


 大河内さんは言いながら、どこか遠い目をした。思い返してる? 高校生の頃を? でも、俺が“王子”なんて囁かれ始めたのはもっと前だったような。

 気づけばその称号は傍らにあって、俺はそんな血筋も気高さも品格も持ち合わせちゃいないのに、勝手に作り上げられた俺の分身は俺の許可も承認もなく勝手に独り歩きし始めた。認めれば、気持ち悪かった。だから、気づかないふりをしてきた。


「……どういう、」


 絞り出すような声に苦々しさを感じたのか、俺を見上げる礼ちゃんの視線を強く意識する。

 俺がもしも王子なのだとすれば、礼ちゃんはお姫様だ。礼ちゃんと出逢ってからは、内包されるであろう揶揄をそんな風にいなすことは出来てると思う。俺の妙な喉の渇きなんて知ってか知らずか大河内さんは、ストローを指先で弾きながら口の端をゆるりとつり上げる。


「やっぱりそこに相応しさ、とか。そう呼びたいと思わせる何かがある。パッと見の綺麗さだけじゃない味わいがあるんすよ」


 噛めば噛むほど、なんてああまたほら、この悪戯っ子のような、ガキ大将のような、表情。何故だろう、パーツ一つ一つは似ていないと思うんだけど。俺は目の前に、いつかの妹尾さんを思い出す。


「……何それ。俺、スルメイカみたい」

「おお、上手いこと言いますね、王子」

「えええー、もうなんでだろう、馬鹿にされてる感が…」

「良いやないすか、流行りの擬人化ですよ」


 膝を打って茶化してくる大河内さんへ、俺もそれなりに冗談めかして返したけれど、頬を覆った掌へ言いようのない熱が伝わる。何なんだ、噛めば噛むほど、って。ナオとトモは大河内さんの深すぎる真意が伝わってないらしくぽかん、としている。うん、いや。無理もない。俺もよく分かってないよ。


 隣でくつくつと愛らしく笑ってる礼ちゃんは分かってるんだろうか。だとしたら何か、とてつもなく悔しいんだけど。女の子同士なら伝わる何かがあるの? くそう、他人様の前だけど思いっきりギュウギュウして恥ずかしがらせてやろうかな!


「……赤く、なるんすよねアレ。怒ったりすると」

「え? ん?」

「綺麗でしたよ、さっき。王子をぐるんと囲って揺れほとばしる焔が…あたしにはそんな絵が見えました」

「な、んだ…やっぱり…」


 見てたんじゃん。たぶん、きっと、一部始終を。聞いてたんじゃん。俺が柳井を悪し様に詰ってるの。


「やっぱり? あたしは一言も“聞こえなかった”とは言ってないっすよ? その手の嘘はミコちゃん先輩の専売特許やないすか」


 それにね、と大河内さんは滑らかに言葉を繋ぐ。不思議だ、何を言われるのかとハラハラもするけれど、大切に想う人の口から紡ぎ出される“俺”という像は、案外 悪くない。のかもしれない。


「さっきの王子を無かったことにしちゃいかんと思うんですよ、うん。たてがみ逆立てて牙を剥いて大切な人を護ろうとしてる…なんとも綺麗な獣っぽくて」


 良かったと思います。


 いつの間に飲み干したのか、大河内さんの手元のグラスでは氷がカラン、と澄んだ音をたてる。真っ直ぐに向けられた言葉は真っ直ぐに胸の奥まで響きわたった。


 ちょっとだけ、震えた。

 頭のてっぺん、髪の毛の先端から足のつま先、爪の先の白いところまで、身体中を一瞬 ふるりと何かが駆けぬけていった。それを、言葉に表せと言うなら「感動」とか。「感激」とか。きっとそんな類。


「いや王子、ブルブルしすぎでしょ。産まれたての仔鹿ですか」

「だ、って! 褒められたんだよ大河内さんから! 褒め…られたよね? 俺、褒めてもらえたよね?! 今」

「いやうんまあ…はい、褒めましたけどね。何すか、ご褒美 欲しいんすか、犬ですかイカきて鹿きて次はそういうプレイですか」

「プレ…、違違違っ! そんなテクニック持ち合わせてないよ!」

「反論そこすか」


 片方の口の端だけを緩くつり上げた大河内さんは、もしかしてひょっとすると照れていらっしゃるのかもしれない。目の縁が本当に薄っすらと紅いから。ヤバい。俺の頬っぺたはにやりと音立てて崩れ落ちてしまう。



 カフェテリア内は幾ばくか異なる空間色を呈しているとはいえ基本的に静かであることに変わりない。大笑いなんて厳禁だ。声のボリュームに気を配り笑いを押し殺して腹だけ捩る、ナオとトモはそんな器用な真似をやってのけている。


「何がそんなに嬉しいんだか」

「いや、だってさ」


 勢いこんでありのままを口に出そうとして、俺は少し躊躇った。躊躇って良かった、興奮したまま自分の言葉をよく咀嚼もせずに連ねてもあまりよろしくない。大河内さんに対しては特に、というか。もうこんな戸惑いすら見透かされていると思うから、どちらにしても最終的に伝わってしまうことではあるんだけど。


「だって…? 何すか」

「大河内さんは、さ…ほら。もともと礼ちゃんの友達だから」


 最初は、そうだった。遡って聴いた礼ちゃんの話ではセンター試験を間近に控えた頃が最初の出逢い。俺達やゆよがネタのBL漫画をお描きになっていた大河内さん。黙々と言われるがまま手伝った礼ちゃんにとって、現実逃避の息抜きはそれっきりに終わらず、今も続いてる友情の始まりだった。


「んー、まあ。反王子勢力というかね、スタートはそんなんでしたか」

「…マイナスだったでしょ、俺への気持ちって。このヘタレ野郎があたしのミコちゃん先輩をよくも、的な」

「若干 穿った脚色と言えなくもないですがまあそんなとこです」


 続けてどうぞ、と言いたげに大きく頷かれる。礼ちゃんは俺の表情を確認するように、いや、本当についでのようなさり気なさでグラスを手に取りちらりと覗き込んできた。


「…俺、は。誰かに対して一旦 駄目だな、とか苦手だ嫌いだ、って思っちゃうとそこからプラスへ好転することが滅多に…無いんだよね。いやそもそもそんな感情をあんまり持ちたくないから他人に無関心で生きてきたとこあるんだけど」


 長ったらしい一文は、言いたいことがはっきり定まっていない証拠だ。しどろもどろで格好悪い。大河内さんはここにきて何も発せずじっと俺を窺い見ている。ハンパない緊張感。


「だからこう…俺に対してのプラスな発言を貰えたのは、本当にすっごい嬉しかったし。大河内さんは心が広いよね」


 ちょっとお門違いな表現かと悔やまれたけど仕方ない。俺のボキャブラリー的にはかなりの賛辞ですが。大河内さんは薄く笑って んー、と音を出すとグラスの中、ストローの先端で溶けかかった氷をカラカラと弄ぶ。


「王子が自分のことだけを考えてたわけでもなく。ミコちゃん先輩のことだけを護ろうとしたわけでもなく。ちょっとそこが気に入ったんで」


“だけ”が強調されたその深意を、さっきのシーンを思い返しながら噛みしめる。ふ、と目線が俺からずれ、大河内さんが瞬間 盗み見たその先には未だ笑いが顔に貼りついたままのナオとトモがいた。


「え、何?」

「僕達が、どうかした?」


 俺の目線と大河内さんの目線と礼ちゃんの笑顔と、どれもが著しく自分達へ向けられていることに急に気づいたらしい、話の流れを確認するように「何、何だろ」「分かんね、どこまで聴いてた?」なんて慌てて目と手と口を忙しく動かす二人に笑みがこぼれる。


「レプリカなんかじゃ、ないですよ」

「え?」

「心先輩のことも武瑠先輩のことも、複製できる誰かなんていやしませんが同じく、ナオさんとトモさんの代わりも世界中どこ探したっていやしません…今 目の前にいるたった一人のあなたしか」

「…大河内さん…?」

「可哀想、なんかじゃありません絶対に。王子の大切な友達っすよ」


 大河内さんの声は淡々とテーブルに向けて放たれた。けれどそれを届けたかった先はナオなのだろうと誰もが察することはできた。ナオの表情が雄弁に物語ってくれたから。


 あの時、なんだろう。

 ナオと柳井の姿が見えなくなって、トモと二人で館内を探し回ってた、あの時。ナオは柳井の口撃を、独りで受けて立っていた。


 穏やかな笑みをたたえていたのに、レプリカの単語が出た途端、瞠目し頬が強張った。でもその先に続いた静かで力強い大河内さんの言葉は再びナオを和らげる。


「…それ音楽の教科書に載りそうな歌詞みたいだ」

「作詞家かあ…いやでもあたしはやっぱり漫画家一本で」

「え、漫画家なの? 今もうすでに? それとも目指してるとこ?」

「大河内さん、プロの漫画家さんなの」


 空気を、読んでないんだか。いや、読んだ上でのあえて、なのか。すかさず繰り出した礼ちゃんのさっくり他者紹介に、訊ねたトモは へええ、と目を瞠る。眉が上がりくりくり目玉がさらに大きくなって、それこそ漫画的な驚きように俺は思わず噴き出しそうになった。


「凄いねえ、僕 将来のこととかほんと今 手探りしてるとこなんだけど。もう夢叶えてるって、凄いねえ」


 ね、と礼ちゃんへ同意を求め、至極当然に返ってくる頷きに微笑み合う二人がとってもほんわかしてて安心する。さっきまでの鼓動の速さは、まるで俺のものじゃなかったみたいだったから。理性の箍が外れるってのは俺、こと礼ちゃんに関してはしょっちゅうなんだけど。今日みたいな方向へ進撃しちゃったのは初めてだったから。


「そうですねえ、うちのママが無類の漫画好きで家の蔵書数がハンパなかったんすよ。そういう環境には恵まれとったというか」

「へええ、うちの父親は司法書士なんだよね。そういう環境はあったけど司法書士になろうとは僕 思ってないなあ」

「うちはママが漫画家になりたかった人なんで漫画の描き方、みたいなんも身近にあったんすよ。トモさんとこはアレでしょ、司法書士になる方法、みたいなんパパさんから教わったワケやないんでしょ」


 そうだねえ。


 柔らかく応えるトモの目はどこかしら遠くを見ていて、それは幼かった頃の自分を現在まで辿っているのかもしれない。



 場は知らず大河内さんを軸に廻っているようで話の矛が逸れた俺は今更のように手つかずだったアイスコーヒーをストローで混ぜ返した。氷は半ば溶け水っぽい層と色濃い層とに分離している。結露がころころと転げ落ちるグラス表面をどうにかしたくて宙を舞った手に、ナオがさり気なく紙ナプキンを渡してくれる。涼やかな瞳とパチリ焦点が合って、何となく俺達は俯き笑んだ。


「…教えてもらってたら違ってたのかなあ」

「んなことないっすよ。あたしみたいにそれしか出来ない子ちゃんになってしまっとったかもですよ」

「でも、悩んで迷わなくていいよね?」


 トモにしてみれば珍しく食い気味に大河内さんへ話しかける姿。悩んで迷って焦って、いつだって手探りでもがいて足掻いているのは誰しも同じなんだけど、何もかもへ大河内さんが答えをくれるはずはない。そう頭で分かっていても言葉を待ちたくなる凛とした強さが彼女にはあるんだよね。


 いやでもね、と口を開いた大河内さんの息継ぎを待つ。俺達の視線に気づいているのかいないのか、大河内さんは誰と目を合わすでもなく眉を顰め腕を組んだ。


「あたしも漫画大好きだし別に後悔もしてないんすけど。ママがあたしにチラ見せした選択肢って漫画しかなかったんすよ。それって、どうすか?」

「?…どう、って」

「子どもは生まれながらに職業選択なんて出来んでしょ、やっぱそこには親の導きが介在するやないすか」


 思い思いにこくりと頷きながら、その先を聴きたくてたまらない。

 親の導き、か。俺の場合は、と考える。父ちゃんと一緒に設計事務所を、それが俺の夢となるように父ちゃんや母ちゃんが暗躍したとは思えない。

 字は綺麗な方が良いからね、とお習字を。

 身体が丈夫になるように、とスイミングを。

 音感やリズム感が鍛えられる、とピアノを。

 お稽古事は幾つか通った…通わせられた…いや。あれって、姉ちゃんがやってたから俺もやりたい、って駄々こねたんじゃなかったっけ。そういう不純な動機で始めたどれも、本当に俺の好奇心を心底 揺さぶったものじゃなかったはずだ。現に何一つ 長続きしなかった。


 結局 好きだな、と気づいたのは図画工作の時間。いろんな材料を組み合わせ何かを創り上げる時間。それはお稽古事の教室では芽生えなかった気持ちだった。日曜日ごとに父ちゃんと、ホームセンターへ足繁く通った時期もあったような。


「あたし、絵画教室に通ってたんすよ。まあ、デッサン力とか構図の取り方とか、今に役立ってるものなんで無駄やったとは思いませんけど、でもそれもつまりは漫画家になることに通じる訳ですよ。別に家業ってんじゃなくママが叶えられなかった夢、ですよ? どうすか? それって。むしろかの宮崎駿監督は息子さんにアニメのことは何一つ教えなかったそうですよ」


 そうなんだ、ともたらされた有名人ネタに感心しながら、大河内さんの“どうすか? それって”を考える。どうなんだろう、それって。


「…しんどい? 大河内さんだけの夢じゃないから」


 思いついたままを口にしてみたけれど、そうではなかったらしい。にかりと笑われて首と手を振られた。


「あたし能天気なんでそこまで気負ってはないんすよ。漫画家になりたい、漫画家になろう、って決めたんは結局 自分やし、ママに言われたからやないし、漫画が本当に好きやったんで」

「…凄いよね。好き、って気持ちでそこまで動けるんだ、人って」


 大河内さんから目顔を向けられたトモはまた 凄いよねみんな、と口の中で小さく繰り返す。ひょっとしてみんな、の中に俺の杜撰な夢も含まれてるんだろうか。


「環境を与えてくれたママにはすっごい感謝しとるんすけど…それでも。自分の親がこの親じゃなかったら、って考えたことないっすか? いやもう、育ててもらっとる分際で何ぬかしとるんじゃボケ、って話なんですが」

「ふふ、私はあるなあ、何度も」


 俯き顔がテーブルに落とした礼ちゃんの声は低くなかったけれど、短い言葉に隠された礼ちゃんの仄暗い過去を思うと胸がキリッと痛くなる。礼ちゃんに、選択の余地は無かったね。今でこそ大好きなお料理は、小さかった礼ちゃんが生きていくためにせざるを得なかった類のはず。


 僕もあるなあ。


 掌を組み顎を乗せたトモの穏やかな声音に何故だろう、俺はほんの少し胸がどくん、と動いた。将来の話、夢の話、のはずなんだけど。トモが暗に示す領域が、他にもかかってる気がした。


「…僕ね」

「はい、どうぞトモさん」

「…女の子がダメ…なんだ、よね」

「はい」


 一体 大河内さんのどんな反応を想像していたのか、トモは大きな瞳をさらにくるりと見開いて、思うように出てこない声を絞り出そうとするように口を忙しくアウアウと動かす。


 いや流石。大河内さんクオリティ。


 よもやこの人が誰かを何かを蔑視するなんて考えられないんですけどね。もしも柳井とナオの一部始終を目にし耳にしていたとして、その中で事前に得ていた情報なのかもしれないね。そうだったとしてもそうじゃなかったとしても、間違いなくするんとまるごと受け容れてくれる話し易さを本当にこの人は持っている。天賦の才、みたいな。大河内さんの万に一つでも漫画家じゃない姿を想像するならば、カウンセラーとか、良さそう。


「……え?」

「何すか?」

「え…え?」

「どうしました、トモさん」

「……聴いてた…よ、ね?」

「モチのロンですよ、いやむしろ萌え滾る己を戒めるのに必死です」


 モエタギル?


 トモは初めて耳にする新語をたどたどしく棒読みでなぞった。うーん、そうだよね。これはほら、礼ちゃんとかが大河内作品の歴史について語っちゃった方が良いのでは。ああでも、それだと大河内さんが興味本位でトモに食らいついていると思われない? それはなんか嫌だな。


「トモさん、ドン引かないでいただきたいんですが、あたしは所謂、腐女子、ってやつです。そりゃあ商業誌に学園ラヴなんて描かせてもらっとりますが、同人活動もガッツリやってまして。路線は二次創作BLっすね、夏と冬はコミケに大忙しです」

「え…え?」

「ママの期待を裏切ってる親不孝者ですよ」


 そんなことはない、と思う。大河内さんを親不孝者だと評する人なんていやしないと思う。いやその、よく存じ上げないけど大河内ママさんだって。わが子が夢を叶えてくれた訳でしょ、若干 ジャンルが違うからって…ねえ。


 うちならば、という類推は何の参考にもならないだろうけど、それでも父ちゃんは俺と一緒に仕事をしないという選択もそれはそれで諾、としてくれた気がする。何かを創ることがお互いに好きで、俺がレゴとかプラモデルにハマっていた時も、リーやガクへプレゼントする段ボール作品に力を入れていた時も、アクセサリー類の創作をせっせと手がけていた時も、やめなさい、と取り上げられることはなかった。


 反対はされず、また面白そうなことやってるな、とか、そんな風に笑いながら時折 手伝ってくれたり。それでも何か材料を買ってもらいたい時はその理由とか使い途をひどく深掘りされた覚えがあるけど。飽きっぽい子だと心配されてたのかもしれないな。父ちゃん、母ちゃん、これだけは間違いない。礼ちゃんとの幸せづくりには飽きないから!


「そんな…そんなこと、ないでしょ。そんなこと言ったら僕なんかよっぽど…普通じゃ、ないんだから」


 トモの、悲痛とも言える声に逸れていた俺の思考を慌てて戻す。普通じゃない、なんて。俺達はトモをそんな目で見たことはないのに。


「そっすか? じゃああたしも普通じゃないっすよ」

「いいよ、無理してそんな」

「無理とかじゃないです、聴いてトモさん」


 あ、なんか。珍しいな、と思った。いつも大河内さんの言葉には耳を傾けたくなる不思議な力があって、だからこんな風に 聴いて、と請われたことは無かったから。

 隣に座る礼ちゃんもきっと同じ様に感じたに違いない。大河内さん、と名前をなぞる言葉じりが問いたげに囁かれる。


「普通って、何すかね? トモさん。トモさんが考える普通、って、数ですか? 同性愛者の割合は人口の5%くらいだって聞いたことがありますけど、少ないから普通じゃない、ですか?」

「…それも、ある…たぶん」

「“も”? 他にもあるんすね? さっきの理屈になぞらえるならそこのバカップルも普通じゃないっすね、18歳同士で結婚するって5%より少ないかもしれんです」


 バカップル、ってナオが小さく呟き微笑む。その柔らかな音はふっと通り抜けて場を和ませた後、消え去ってまた元の何とも表し難い空気を呼び戻した。胃がキリキリと、或いはこめかみがズキズキと。そんな痛みではないけれど、トモの泣き出しそうな表情は俺の頬に変な皺を作らせる。


「…他の人と、同じじゃない、って。不安だし、心細い…それを、僕の個性だとは。胸張って、言えない感じ」


 言えない感じ、という漠然とした物言いがトモの正直な心情なんだろうと思う。はっとしたようにつけ加えられた言葉はとても優しいものだった。


「神威やミコちゃんがたとえ普通じゃないとしても…それは僕とは、また別だと思う。二人揃って普通じゃない訳だし。とても幸せだから」

「トモさんは、不幸せですか」


 明らかに問いかけるでもなく、きっと認めたわけでもなく。でも大河内さんはトモへ真っすぐ言葉を向けた。トモがたじろぐほどに。


「や……不幸せ、ではないと、思う。けど…幸せかどうか、も分かんない。最近 なんか…先のこと考えると、焦ってばっかりで」


 あれ、何の話 してたんだっけね。


 自身を掌で煽ぎながら、何かを誤魔化すように揺れるトモの瞳が切ない。気配りが出来て空気を読むのが上手で控え目な気遣いと優しさをくれる、そんなトモの普段には見たことが無い顔が現れ消える。


 いつも。いつも、何か。隠してたのかな。これがトモの素の部分なのかな。自分でもそうと気づかないほどに? それとも他に気づかせたくなくて?


「本当にねえ、何の話してたんですっけ」


 トモに合わせようとしてくれてるのか、大河内さんはぐるんと頭を回した。パキッと骨が鳴る乾いた音。ハハッと漏れるトモの乾いた笑い声。

 いいのかな。これで、いいのかな。答えなんて誰も出してくれる訳もなく、そう逡巡してる間にトモはいつものにこやか仮面を被っていく。そう、あれは、とっても分かりづらいけどトモは仮面を被ってる。それを知って、そのままで本当にいいのかな。


 ハイ集合、なんて言って礼ちゃんとナオと大河内さんと円陣組んで作戦会議、とか無理でしょ。どうしたらいいんだろう。目顔で礼ちゃんとナオへ訴えてみる。二人とも何かを言いたげにまずは居ずまいを正した。

 だから、いずれにしても誰かがトモの名を呼んだと思う。結果、一番早かったのは大河内さんだった。流石です。


「うちですね、結構 地元では由緒正しくて。親戚、って括れるおじちゃんおばちゃんらがわんさかおるんですよ」

「ええー…なんか、大変そう」

「お年玉はいっぱい貰えてましたけどね。お正月とかお盆とか、やれ誰ちゃんの七五三だ、入学だ、誰くんが結婚したの家建てたの墓建てたのって、とにかく集まりたがりなんすよね」


 大河内さんは見事に話の行方をくらませた。出鼻をくじかれた格好で息を飲んだ俺達は、思い思いに呼吸を整えじっとトモを見つめる。いつもの笑顔に無理があることを知ってしまった俺達は、その隠れた表情を見透かしたいと心から願った。


「何の集まりの時やったかな。漫画家になりました、ってぽろんと報告したらもう…非難轟々でして。まあ田舎のね、頭の固いお年寄りにしてみれば漫画なんて、っていう」


 大河内家は歴史ある家柄なんだと、確か礼ちゃんから聞いたことがある。地元の神社のお祭りには一家総出で駆り出されたりとか、町内会の役員さんを毎年任されたりとか、住所の番地がすっごくすっきりしてたりとか。当の大河内さんはそういうの、匂わせるのが嫌らしいけど。


「…え、でもお母さんは? 味方してくれないの?」


 トモの疑問は至極尤もだと思う。大河内さんのママの夢、でもあったはずだからね。


「残念ながら。ママも責められるんすよ、お前の育て方が悪かったんだ、だから真っ当な道から外れたんだ、って」

「そんな——」


 俺だけじゃないと思うんだけど、たとえ大切な友達であっても家の事情が何かしら絡むと途端に口が重くなることって、ない? 俺達は完全に個、の単位で大きくなったんじゃない。規模に大小の差こそあれ、生きざまに家族なり関わってくれた人の影を背負っている。否定的な意味合いで物申してしまうと、相手のそれまでの人生までも難癖つけるかのような気がして俺は慎重になってしまう。だから大河内家の皆さんを、酷い、と一言で片づけられなかった。


「ね? 普通じゃないんすよ、あたし。ママを喜ばせとんのかもしれんけど、嫌な想いもさせとんのですよ」

「そんなの、誰だって同じだよ、僕だってそうだよ、きっと…喜ばせても悲しませてもいて、」

「同じ? 良かった」


 大河内さんはにっこりほほ笑むと 良かった、ともう一度繰り返した。同じっすね、と真っ直ぐ立てた人差し指がトモと大河内さんの間を行き来する。


「や、あの、ちょ、なんか…言葉のあやっていうか、口車に乗せられたというか、違うって、大河内さんと僕とじゃ」

「みんなそうですって。この世に生まれてきて、万人に愛される人なんておらんでしょ? どんなに人気のジャニーズだってアンチはおるでしょ? イエスキリストだってマザーテレサだってそう。あたし達は必ず誰かを悲しませたり嫌な想いをさせたりするけど、でも幸せにできる力も持っとるはずですよ。あたしは漫画を描くことで誰かに嫌な想いをさせるけど、漫画を描くことで誰かを幸せにしたいです」


 一気に語られた大河内さんの言葉は決して迸るほどの熱量は含んでなかったけれど、何故かじんわり胸に染み入った。淡々とした口調は館内の澄んだ空気と綺麗に融合していく。トモは何かを言いたげに、けれど言いたいことの欠片を掴めないようで、唇を開いてはまた引き結ぶ。


「プロの漫画家ってね、トモさん。確か…日本人口の1%もいなかったと思います。アマチュアなら20〜30万人おりますけど」

「え…」

「少ないから、普通じゃない。あたしも同じです、仲間です。そんなちっぽけな数の増え方は、トモさんを幸せに、しませんか?」

「…、っ…ううー…するよー…」

「えええっ?! 泣く?!」


 号泣、というのではなく、顔を俯けたトモは声を押し殺し手の甲を目頭に当ててぐすん、と鼻をすする。トモくんこれ、と礼ちゃんはトモの掌にちょうど収まるようにタオルハンカチを差し出した。萌えるけど、可愛いけど、泣かれた、と大河内さんが珍しく焦っている。肩をひくひく震わせていたトモは、さっきの大河内さんと同じ様に人差し指をす、と立てた。


「……友達…? 僕ら」

「モチのロンですよ。あたし相当ゲスいけど大丈夫っすか」

「ぶ。そんなことないでしょ」


 間髪入れずに言い切った俺だけど、いえいえ実は今日もね、なんてあっさり切り返された。聴きましょうか、大河内さんの何をどうもってゲスいと定義するのか。


「ミコちゃん先輩は、本当は来たくなかったんすよ、ここに。あたしがネタ欲しさに無理やり連れて来たんです」


 それならば、と俺はまた即座に言葉を挟む。そういうことなら。俺だって、ゲスいです大河内さん。一体なんて自己申告だと自嘲しそうになるけれど、神威くん? と俺を見上げくる礼ちゃんの小首を傾げた仕草に鼻血が出るかと思った。えーもうなにそれ可愛い。


「…連れて来て、欲しかったんだよ、本当は礼ちゃんのこと。俺がちゃんとしてる、ってとこ、見て欲しかったんだ…だから、変なお願いを」


 一人、家に残すことだって出来たんだ、礼ちゃんのこと。しっかり者だから身の回りのことに何ら心配はない。変な輩から変な目で見られたりしないかという点については不安が常につきまとうけど。それならば護身は、大河内さんに頼むべきところじゃない。


 俺の自己中心的な考えに基づく行動は、ひどく幼稚で浅はかに思える。大河内さんを巻き込んで。礼ちゃんを振り回して。ナオもトモもとばっちり。俺は全然、ちゃんと出来てない。


「…勿論、礼ちゃんが俺のこと信じてくれてない、なんて思ってる訳じゃなくてね」

「うん、分かってるわ。神威くんがそんなに身をすり減らすことないと思うのに」


 礼ちゃんの、俺に対する評価はいつも俺の自己採点よりはるかに高くって、嬉しいんだけど大河内さんやナオトモの手前 何か気恥ずかしくて、左下がりに長い前髪がこの頬の紅を隠してくれないかと思う。


「…そうなんかな、って。思いましたよ。思いながらあたしは乗っかったんです、王子があの唇オバケをどうやっつけるんかな、と期待して」


 あたしの漫画のためですよ、ゲスいでしょ。


 いつだって竹を割ったようにサバサバキッパリの大河内さんに似合わない曖昧な笑みを、トモのふんわりとした笑顔が拾っていった。


「僕のリアルも、ネタにする? ゲスいなら」


 トモが口にしたから何だか柔らかく感じられたけど、なかなか過激な発言だ、しかも“ゲスい”っていうのがトモに似合わなさすぎてたじろいだ(いや、大河内さんには違和感がないとか言うつもりは毛頭ございません)。礼ちゃんやナオもさほど感じ方は変わらないと思う、俺は目の端で二人が瞠目したのをとらえていた。


「…そっすね。するかもしれません」

「うん、でも良いよ。友達だもんね」

「いや、友達だからしちゃいかんでしょ」

「友達だから共有して良いんじゃないの? 別に僕のこと蔑んだり軽んじたりするわけじゃないでしょ?」


 幸せに、してくれるんでしょ?


 トモはれっきとした男で、女の子っぽい顔立ちとか身体つきじゃないんだけど。そういうの欠片も見当たらないんだけど。そう言ってふんわりと笑う姿がなんとも可愛いと思った。そう感じたりすることが失礼じゃなきゃ良いな、と思った。


「幸せにしますよ、全力で…、てかこれ軽く将来を誓い合っとるみたいになってますけど大丈夫すかトモさん」

「トモくん、大河内さんね、照れると饒舌になる人なの」

「何すか、その個人情報のやり取り、止めてくださいプライバシーの侵害です、電話しますよフリーダイヤルに」

「本当だー、可愛いー!」

「いや可愛いのはトモさんだっつの! もう何すかこのキャッキャウフフな会話! 恥ずいわ!」


 恥ずかしい、と声を荒げた割に紅く染まっているのは大河内さんの目の縁辺り。でも短めの髪の毛を両手で梳き何とか頬へ貼りつけようとしている様はやっぱり相当照れているのかもしれない。引き結んだ口元はなんとなくアヒル口になってるし。男前なのか女の子なのか、大河内さんは不思議な人だ。


「もういいっす、ネタは集めました、集まりました、ミコちゃん先輩にも王子にもナオさんにもトモさんにもご協力感謝です、明日からまた頑張ります」

「うん、幸せにしてね」

「じゃあコミック出たら買って下さい。あたしは印税で幸せになります」

「リアリストー」

「悲しいかな、夢と妄想だけじゃお腹いっぱいにならんのですよ」


 そうなんだよね。甘くふわふわした綿菓子のように傷つかない世界で、好きな人達とだけゆるりゆるりと日々を過ごしていければ。そんな風に考えることもある。

 でも、思うんだ。交わりが絶たれた場所で俺は何か新しいものを生み出していけるんだろうか、と。少なくとも、曲がりなりにも、愛しい人達へ向けてゼロから何かを創っていきたいと考えているのに。


「…でも。胸いっぱいには、なるよね」

「…何すか王子そのドヤ顔。あんま上手いこと言ってないっすよ」

「えっ、ない?! 駄目?!」


 場を配慮して誰もが ふふ、とくぐもった笑いに抑える。ナオは飲み干したアイスコーヒーのグラスをテーブルへ置き すらりと伸びた脚を組み替えると、名裁きだなあ、と微笑みを乗せて呟いた。


「…めいさばき?」


 意味解りません、を端的に言い表した反芻とともに大河内さんは声の主を見つめる。俺も、いや俺達もすぐさまなるほどとは頷き返せなくて、ナオの涼やかな、それでいて晴れ晴れしい表情へじっと視線を据え置いた。


「…ん? 伝わんないか。なんかさ、あっただろ? その場にいたみんなが一両ずつ得をした、みたいな話。なんとか越前…何だったっけ」

「わお、大河内越前守だね!」

「桜吹雪舞うやつっすか」

「違うわ、みんな何か違うと思うわ…」

「だよねえミコちゃん。あれ、損したお話じゃなかった?」


 確か時代劇の再放送がテレビで流れていた。幼い頃の曖昧な記憶は思い出そうとすればするほどぼんやりしてしまい、ついにはスマートフォンでググっちゃう始末。結果、「三方一両損」だった訳だけど、間違いを指摘されたところでナオの目元はやはり涼しげな笑みを湛えている。

 なるほど。俺達は三方どころじゃなく大河内さんにほっこりとした温かさをもらって、大河内さんも、ゲットしたものあるんだよね。


「ナオ、センスあるねえ、言い得て妙!」

「新しい発見だよね、僕達の卒業制作の作品名はナオが付けてよ」

「あ、私のお店の名前も」

「なら、あたしの新作のタイトルも」

「いいな。先の話がこんな簡単に出来るのって、悪くない。また幸せに、してもらったな」


 く、と声に笑いをほんのり含ませながらナオの口元が綻ぶ様を見ていた。


「…今日は、確かに嫌なこともあったけど。新しく見つけられたこともあったなあ、とか考えてて。神威のブレない強さとか、トモの新しい友達とか、俺の秘めたるセンスとか」


 なんか、幸せだな。


 なんか、ってもどかしい物言いがナオらしくもあり、それこそまるごとを言い当ててるようでもあり。

 そうだね。明らかに成す形状は人によって違うのだろうけど、俺達をくるりと包むこの優しい温もりを幸せと呼ばないんだとしたら、他の呼び名を教えて欲しいと俺も思うよ。




 山田くん、と控えめな音量で名を呼ばれた。振り返るとカフェテリアの入口に見知ったクラスメイトの顔。休憩時間は終わり、正面玄関脇へ集合だと教えてくれた。


 夢をみていた訳ではなくて、俺達はいつだって両の足できちんと地を踏みしめているはずだけど、何となく楽しかった時間を急に取り上げられた感じ。家に帰りたくないほど夢中で遊んでいたのに、17時のサイレンが無情に鳴り響いた、みたいなね。

 礼ちゃんとも、離れがたい。そんな心理は分かり易く態度に現れ、俺達の誰もが我先にとは立ち上がらなかった。


「王子。何 しよるんすか」

「……うー、ん。ね」

「ね、じゃないっすよ。何を可愛い子ぶりよるんですか、はよ行きませんと」


 場の均衡を破ったのは大河内さんで、しっしっ、と手の甲で払われた。ヒドイ。可愛い子ぶっても、おりません。可愛い礼ちゃんから目が離せないだけなんです。


「神威くん、明日帰ってくるの待ってるね」

「…礼ちゃん。俺、」

「格好良かった。神威くんは優しいだけじゃないって私は知ってたはずなのに…今日、きちんと解った」


 立ち上がりかけていた俺だけじゃなく、ナオもトモも視線すら釘付けというほどに身体の動きを止めてくれちゃって。

 恥ずかしい。礼ちゃんからの真っ直ぐな言葉はいつだって嬉しいけれど、今日の俺は見合わないと思うから。

 あんな、後味の悪くなるような暴言を突きつけるのではなくもっと他の、って、その「他の」は明確に提示出来ないけど、誰かを護る難しさを改めて痛感したんだ。


「褒めすぎです、ミコちゃん先輩」

「そう? 神威くんはね、褒めて伸びるタイプなんだってお義母さんが」

「転がしてますなあ、掌でコロコロと」


 いいよ、もっと転がしてよ。俺はむしろお願いしたい。

 成長とか変化、っていうのは自分だけの力で自分を導いていけるものじゃないと思う。限界を感じちゃうんじゃないかな。

 生きていくからには必ず誰かと何かと関わり合う、能動的であれ受動的であれ。自分の考え一つで取捨選択できることばっかりじゃない中で、それでも前に進んでいくには大切な人の力って必要。差し伸べてくれる手、って必要。

 だからそれは、俺を転がすためのものであってもいいよ。時に俺を抱きしめて愛してくれる手にもなるから。礼ちゃんに対しては俺、とりわけ一際特別だけど、でも大切な人、誰にもに対して。


 支えたい。護りたい。助けたい。


 おこがましいかもしれないけれど、そんな想いは結局巡り巡ってくるよね。



 今日、俺は学べたと思う。どんな経験も無駄にはならない。この、何となく拭いきれない対決の後味は、今晩 寝てスッキリするのかも分からないけど、俺ごときの些事に動いてくれた人がいるということ、その確かなことは忘れたくない。


「待っててね、礼ちゃん。お土産 買って帰る」

「神威くん…」

「ほらそこはミコちゃん先輩、無事なアナタが一番のお土産よ、とか甘い感じで!」

「え? あー…そうなの? 私、お饅頭とか」

「甘いけどね確かに! リアル!」


 席を立ち、俺達はゆるゆると動き出す。礼ちゃんの靴底が奏でるコツコツという澄んだ響きが心地好く感じられた。

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